追放王子と引きこもり令嬢
「レイカ、いい加減出て行ってくれ。お前は追放だ。婚約も破棄させてもらう」
ある日の夕方。引きこもってばかりの公爵令嬢に痺れを切らしたシャノン殿下が、彼女の部屋の前に来ていた。
「嫌ですわ! わたくしは絶対に出ていきませんわ! 石にかじりついてでもここから動きませんからね!」
「なら早く部屋から出てこい! ずっと部屋に籠って怠けてばかりで、少しは公務に励んだらどうなんだ!」
「嫌ですわ! わたくしがどれだけ努力して、この快適空間を作り上げたと思っているのですか? これを手放せなんて、殿下は人の心がないのですか?」
「貴様……!」
殿下は拳をぎゅっと握り締め、怒りを堪えながら大きく息を吐き出した。
「レイカ。お前に最後のチャンスをやる。この城を出て、新しい生活を始めるなら、それなりの支援はしてやるつもりだ。それを拒むなら……」
「拒みますわ! わたくしに城を出ろと言うなんて、無礼も甚だしいですわ! そもそも、わたくしを追放する理由は何ですの?」
殿下は額を押さえ、苛立ちを隠せない様子で続けた。
「理由だと? お前が仕事を放棄して、贅沢三昧を繰り返しているからだ! 国民の目もあるんだぞ! 少しは責任を感じたらどうだ!」
「ふん、責任? わたくしの責任はこの城を快適にし、日々を楽しむことですわ! それに、民のことなら殿下が勝手にやればいいのです。王子様の仕事ですもの」
殿下のこめかみに青筋が浮かんだ。
「……いい加減にしろ。今から部屋の扉を破壊する。覚悟しておけ!」
「まぁ! 扉を壊すですって!? 殿下、なんて野蛮なのかしら!」
扉の向こうからがたがたと大きな音が響き始めた。それは殿下が本気で扉を壊そうとしている証拠だった。レイカは慌ててベッドから飛び起き、扉に向かって叫んだ。
「待ってくださいまし! 話し合いの余地があるではありませんの!?」
「もう遅い! 覚悟しろ、レイカ!」
ついに扉が殿下の力によって破壊された。立ち込める埃の中、そこに立っていたのは、怒りに燃える殿下と、意外にもその背後に控える城の兵士たちだった。
「さあ、レイカ。これで逃げ場はないぞ」
レイカは唇を尖らせながら、心の中で言い訳を組み立てる。
「……殿下、ひとつだけ聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「本当に、わたくしがここを出ていかないと困る理由って何ですの? ただの感情論ではなく、ちゃんと理論的にお答えいただきたいのですけれど」
殿下は一瞬言葉に詰まり、まわりの兵士たちも困惑した表情を浮かべた。その沈黙を見計らって、レイカは続ける。
「つまり、わたくしがこの場にいるだけで、国が滅ぶとでもおっしゃるのですか? もしそうなら、わたくしも少しは考えますわ」
この状況でまさかの冷静な返しに、殿下はさらに苛立ちながらも反論を考え始めた――。
「なに馬鹿なことを言っている! お前が引きこもっているだけで国が滅ぶわけがないだろう! 屁理屈をこねるのもいい加減にしろ!」
「あら、そんなことを言ってよろしいのかしら? あまりわたくしを責め立てると、“あのこと”を言いふらしてしまいますわよ?」
「……“あのこと”? なんだそれは? またわけのわからないことを言っているのか?」
殿下の眉間にしわが寄る。対して、レイカは優雅な笑みを浮かべながら椅子に腰掛けた。その表情は余裕そのものである。
「お忘れになりましたの? 殿下が幼いころ、わたくしと二人で秘密の場所に忍び込んだあの夜のことを――」
殿下の顔色がみるみる変わる。普段は冷静沈着な彼が、この話をされると弱いことをレイカは知っていた。
「……お前、まさか、本気でそれを……?」
「ええ、本気ですわ。だって、殿下があまりにもわたくしにひどいことをおっしゃるから。幼馴染として、これ以上、放っておけませんもの」
殿下はしばし言葉を失い、次に視線を鋭くしながら問い返した。
「……言ってみろ、レイカ。何を企んでいる?」
「企むだなんて、人聞きの悪い。わたくしはただ、あの夜のことを皆様に知っていただきたいだけですわ」
レイカはゆっくり立ち上がり、部屋の窓際へ歩み寄る。そして外を見下ろしながら、どこか懐かしそうな声で続けた。
「覚えています? 殿下。わたくしたちがまだ10歳くらいだったころ、夜中に城を抜け出して、森の中の泉へ行ったことを」
「……ああ、覚えているさ。でも、あれがどうした?」
「泉の前で、殿下がおっしゃったんです。『お前が困っているときは必ず助ける』って」
殿下は黙り込んだ。その約束のことは確かに覚えている。しかし、目の前のレイカが今の状況を“困っている”と言えるかどうかは微妙なところだった。
「だから今、わたくしは困っているんですのよ、殿下。こんな快適空間から出て行けと言われて、どうしたらいいかわからない。ねえ、助けてくださるのでしょう?」
「……それとこれとは話が別だ!」
殿下の声は一層強くなる。しかしその裏側には、微妙に焦りと動揺が滲んでいた。レイカはその様子を見逃さず、さらに追い打ちをかける。
「まあ、そうやって簡単に約束を反故にするのですね。やっぱり子どものころから何も変わっていませんわ、殿下は」
「レイカ……! お前、昔からそうやって人を困らせるのが得意だったな!」
殿下は苛立ちながらも、一瞬、昔の幼馴染だったころの情景が脳裏に浮かんだ。天真爛漫でいつも彼を引っ張り回すレイカ。それが今や、この国の“問題児”として扱われているのだから、何とも言えない気持ちになる。
「……いいだろう。お前がそこまで言うなら、一度だけ話を聞いてやる。だが、条件がある」
「条件、ですの?」
「そうだ。お前がこの城に留まる理由を理屈で説明しろ。納得できる理由があるなら、考えてやらなくもない」
「まあ、理屈ですって? つまらないことを……でも、いいですわ。とびきり素晴らしい理由をお話しして差し上げます!」
そう言ってレイカは微笑みながら、椅子に座り直した。その笑顔は、まるで小さな勝利を確信しているかのようだった。
「でも、いいですわ。とびきり素晴らしい理由をお話しして差し上げます!」
レイカは微笑みながら、ゆっくりと座り直した。殿下はその言葉に少し警戒心を抱きつつ、彼女が何を言い出すのかを待った。
「実は、わたくしがここにいる理由はただひとつ――」
レイカはそこで一度言葉を切り、ゆっくりと殿下を見つめた。その目には、これまでのやり取りの中では見せなかった、深い感情が宿っていた。
「殿下と一緒にいたいからですわ」
その言葉が空気を震わせるように響いた。殿下の心に一瞬、何かが突き刺さったような感覚が走る。
「な……?」
「だって、殿下。あなたがどれだけ遠くに行こうと、どれだけ公務に忙しくても、わたくしはあなたと一緒にいたいのです。たとえこの城を出たとしても、それが叶わないのであれば、わたくしは何の意味もありません」
レイカは冷静に、しかしその中に隠しきれない切実な気持ちを込めて言った。
殿下は驚きのあまり言葉を失った。彼女の目に見える感情は、今までのあのふざけた態度とはまるで違う、本当の想いが込められていることに気づき始める。
「……お前、今さらそんなことを言うな。お前がこんなに真剣だとは思わなかった」
「そうですか? でも、殿下。あなたも分かっているのでしょう? わたくしがどんなに冷たく振る舞っても、心の奥ではずっとあなたを思い続けていたということを」
殿下は目を伏せ、心の中で何かが揺れ動くのを感じた。レイカの言葉は彼の心に深く突き刺さり、長年抑えていた感情が少しずつ形を取って現れてきたような気がした――
「――ってだまされるか! 貴様、いい加減にしろ!」
「ちっ」
「くそっ、もういい! 無理やり部屋から出してやる!」
「い~や~で~す~わ~!」
「ええい、ベッドからその手を放せ! 往生際が悪いぞ! 観念しろ!」
「絶対、絶対に放しませんわ! 国が滅びることになろうとも絶対に放しませんわ~!」
「こいつ――」
殿下は思わず叫びそうになったが、そのとき、レイカが一瞬、顔を上げて彼を見つめた。顔にはいつもの冷ややかな笑みが浮かんでいるが、その目には少しの涙が滲んでいるのを殿下は見逃さなかった。
「……お前、泣いているのか?」
その問いに、レイカは一瞬驚いたように目を大きく開き、すぐに顔をそむけた。
「泣いてなんかいませんわ。……ただ、少しばかりお腹が空いただけです」
「お腹が……?」
「そうですわ! それに、あの――今、殿下があまりに強引に出ようとするので、ちょっと動揺してしまっただけですから」
「動揺? お前が……動揺?」
殿下は目を細め、少し考え込んだ。レイカが見せた感情の揺れは、まるで幼少期のように純粋で、懐かしさすら感じさせる。
その瞬間、ふとレイカが小さな声で言った。
「……本当は、こんなこと言いたくなかったんですけれど。殿下、わたくし、あなたを失いたくない……だから……」
その一言は、殿下の胸に深く突き刺さった。いつもふざけている彼女が、こんなにも真剣で、切実に思いを伝えてきていることに、胸の奥で何かが爆発するような感覚を覚えた。
「……レイカ」
「後生だから許してくださいまし~!」
レイカはひざまずき、顔を床につけて土下座をする。普段の彼女からは想像もできない姿に、殿下は一瞬、呆気に取られた。これまでの彼女なら、決してこんな姿を見せることはなかった。
「……レイカ、お前……」
「どうか、どうかこの通り、殿下……」
その様子を見て、殿下の心に微かな変化が生まれた。冷徹で理知的な自分が、幼馴染であり、今ではこんなにも不安定で必死なレイカに対して、どう接するべきなのか分からなくなってきた。
「……立て、レイカ。そんなことをするな」
「でも、わたくし、どうしても、どうしてもあなたを失いたくないのです」
レイカは顔を上げ、その目に涙を浮かべた。普段は冷静で計算高い彼女が、今は自分の気持ちを隠さずにさらけ出している。その素直さに、殿下はしばらく言葉を失った。
「……そんなに、俺を失いたくないのか?」
「はい。どんなに無理をしても、殿下がわたくしの隣にいてくれるだけで、わたくしはそれだけで幸せでした。ずっと――ずっと、あなたのそばで、あなたのことを支えていたかったのです」
レイカはうつむき、目を閉じてしばらく沈黙した。殿下の心の中で、何かが揺れ動くのを感じていた。長い間、彼女のことをどうしても踏み込めない存在だと感じていた。しかし、今、目の前で彼女が見せる純粋な感情に、彼の心は少しずつ溶かされていくようだった。
「……お前、俺がどうしても追い出したくなるような存在だと思っていたが、こんなに本気だとはな」
「本気ですわ。わたくし、あなたを信じているからこそ、こんなにも強くなれるのです」
その言葉に、殿下は少し驚き、そしてふっと笑みを漏らす。
「信じている……か」
レイカが自分を信じている、その言葉が胸に響いた。彼は目を伏せ、静かに息をついた。
「よしっ、荷物をまとめろ」
「殿下は本当に人の心がないのですか!?」
「それとこれとは話は別だ。いいから片付けろ」
「嫌ですわ! 絶対に片付けませんからね!」
レイカは床に座り込んで、再びベッドの上でぐずぐずと寝転がった。まるで子供のようにふてくされた顔をしているが、その瞳の奥にはまだ、殿下を失いたくないという必死な想いが宿っている。
殿下はしばらくレイカを見つめ、彼女の態度に思わず苦笑してしまう。
「お前、まったく……。本当に、どうしてこんなに頑固なんだ」
「わたくしは頑固ですわよ。でも、だからこそわかることもありますの」
レイカは少しだけ顔を上げて、視線を殿下に向ける。その目には、いつもの冷ややかな笑みではなく、少しの不安と、それ以上に強い意志が込められていた。
「どうしても、あなたを失いたくないんですもの。殿下」
殿下はその言葉に心を揺さぶられた。かつては冗談ばかり言っていた彼女が、こんなにも真剣に自分を想ってくれている――その事実が、胸の中でゆっくりと温かく広がっていった。
「……お前、そんなに俺を信じているのか?」
「信じていますわ。だからこそ、こんなことを言うんですもの。わたくし、もう黙っていられません」
その言葉に、殿下はしばらく黙り込んだ。何か言葉をかけようとしても、それが何なのかがわからない。いつもなら軽く流せるはずの言葉や態度が、今は彼の心に深く響いている。
しばらくの沈黙の後、殿下は深いため息をつき、腰を下ろした。
「……わかった。お前がそこまで言うなら、少しは考えてやる。でもな、お前が出て行く理由が本当にそれだけだと思うか?」
レイカは目を瞬かせ、一瞬戸惑った後、ゆっくりと答える。
「……それだけではありません。でも、それが一番大きな理由ですわ」
「他にもあるのか?」
「ええ、あります。……わたくし、あなたを守りたかったのです」
その言葉に、殿下は一瞬目を見開き、そしてまた静かに口を閉じた。
「守りたかった?」
「はい。殿下が抱える重圧を、少しでも軽くしてあげたかった。それが、わたくしができる唯一のことだと思っていましたから」
その言葉を聞いて、殿下は胸の中で一つの決意を固めた。彼女が自分をどれほど思ってくれているのか、今まで見えなかった部分が少しずつ明らかになってきた。
「……わかった。お前がここにいる理由、少しだけ理解できた気がする」
レイカは驚きながらも、少しだけ安堵の表情を浮かべる。
「本当に?」
「本当だ。でも、これからどうするつもりなんだ?」
「……それは、あなたが決めることですわ」
殿下はしばらく黙り込み、窓の外を見つめた。長い間、自分が背負ってきたものや、周囲の期待に押しつぶされそうになっていた。だが、目の前のレイカが少しずつその固くなった心を溶かしていくのを感じていた。
「……なら、俺が決める。荷物をまとめろ。ここから出て行ってもらう」
「わたくしの話、聞いてました!?」
このやりとりは二人が結婚するまで続いた。
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