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僕が誰かを助ける、そんなラブコメ  作者: ぽぽぽぽーん
1/2

1、前半

1.亞流斗と書いて、あるとと読む。


夜明けなのか、夕暮れなのか、それとも雨でも降っているのか。

あたりはどんよりして薄暗く、なんだか物悲しくて、胸がきゅーうっと締め付けられた。

俺の目の前には、真っ黒なランドセルを背負った男の子が、ひとり俯きながら泣いていた。

ぐすん、ぐすん。ぐすん、ぐすん。

すぐにこれは夢だと分かった。

夢の中で夢だと気づく夢のことを、確か明晰夢と言ったかな。

なにもかもがぼんやりしていて、目の前の光景を煩わしく感じてしまう。それでもなぜだか、もう少しこの夢から覚めないようにしようと思った。

目の前の男の子は、たぶん、いや確実に昔の俺だ。髪は今と違って真っ黒でも、小さい頃の写真を1枚も持っていなくても、つらい過去を全て消し去りたくてもそれはわかった。弱いだけ、弱いだけの、小さくて大嫌いな昔の自分だった。

小さな俺は泣き続ける。飽きもせず、体を震わせ、わざとらしくすすり泣きしながら。声をかける気にはどうしてもなれなかった。

ぐすん、ぐすん。ぐすん、ぐすん。

しばらく小さな俺を呆然としながら見ていると、どこからか女の子が現れていた。

女の子は、真っ白なワンピースを着て、真っ黄色の長靴を履いて、真っピンクの傘をさしながら歩いてくる。夢のせいか女の子の顔はモヤがかかって見えなかった。

「どうしたの? なにかあったの?」

 女の子は、小さな俺の前に立つと、コテンと首をひねりながら優しい音色で尋ねた。

しばらく待っても小さな俺は何も答えずに、俯いたまま泣き続ける。

女の子を無視するなんて、ダメだなこいつ。

ますます昔の自分が嫌いになる。

「迷子になったの?」

 女の子はめげずにまた質問してくれた。

小さな俺は今度はそれに、無言で俯いたまま、小さく頭を横に振って答えた。

「何で泣いてるの?」

「言いたくないっ」

女の子の質問に、かすれた声で強がったように小さな俺はそう返す。

「そっか。じゃあ、君のお名前はなーに?」

女の子の顔は見えないが、微笑んだようにしてまた尋ねた。

「・・・あると」

「そう。素敵な名前ね」

「どこがっ! こんな名前おかしなだけだ‼」

微笑んでいる女の子に対して、泣き顔を上げて目一杯に怒気を込めながら小さな俺はそう言った。

「うんん、おかしくないよ。素敵で綺麗な響き。私は好きだよ」

 女の子は微笑んだようにしてそう返し、無邪気に傘をくるんと回した。

「ふんっ」

小さな俺は照れくさそうに鼻を鳴らして、再び俯き黙り込む。耳を真っ赤にさせながら。

女の子はそんな小さな俺を見て、ふふふっと声を漏らして笑っていた。

このシーンは見たことがあるような・・・なんだか懐かしい気もする。でも記憶にはない。これがデジャヴってやつか。

目の前の光景を見ながら、ぼんやりした頭でそんなことを考える。

しばらくの沈黙が流れると、ゆっくりと女の子が口を開いた。

「もうそろそろ行かないと。はいこれ、傘あげるね。雨に当たったら、心まで濡れちゃうよ」

 女の子はそう言うと、俯いたままの小さな俺に傘を渡して、元気よく走り出した。

「「ま、待って‼」」

 小さな俺は立ち上がり、女の子の背中に大きな声でそう叫んだ。

そして、なぜか傍観していた俺も同じように叫んでしまっていた。

——パカッ

 頭に衝撃が走り、俺はバッと頭を上げた。どうやら夢から目が覚めたらしい。

 机に突っ伏して寝ていたせいか顔が痛い。とりあえず眼をこすり、ぼんやりした目の焦点をなんとか合わせる。

 はっきりしていく視界には、クールで綺麗な顔が映った。

「おはよう、白井。いい夢は見れたか?」

清潔感のあるきちっとしたスーツを着た若い女性、現文担当教師の姫乃かぐやが、俺の前で教科書を片手にそう尋ねた。

 そういえば、今は3限の授業中だった。いやはや、夢を見るくらいにぐっすり寝てしまっていたらしい。これは反省。

 だんだん眉間のしわが深くなっていく先生に、早く言葉を返さなければと思い、とりあえず俺は口を開いた。

「おはようかぐやちゃん~、残念ながらいい夢ではなかったよぉ」

 俺は教科書で叩かれたであろう頭をさすりながら、笑顔で挨拶と質問の答えを返した。

 おはようと言われたら、おはようと返す。質問されたら、それに答える。コミュニケーションの基本中の基本。くもんに行っていなくてもそれくらいは小さい頃から知っている。

「かぐやちゃんと呼ぶな」

 かぐやちゃんはそう言って、俺の頭を再度教科書で小突いた。

「いてててぇーい」

クラスからは、高笑いと失笑が起こる。

 痛くなくとも、大袈裟にリアクションはとっておいた。これはたぶんくもんでは教えてくれないだろうコミュニケーションの応用。

「これで授業中、お前が寝ているのを叱るのは5月に入って2度目だ。いいか白井、お前はもう高校2年だ。来年には大学入試を控えている。あまり腑抜けたようでは——」

——キィンコーン・カーンコーン・キィンコーンカーンコーン♪

 ここで試合終了のゴングのように、授業終了のチャイムがスピーカから響き渡る。

「ほらっ、かぐやちゃん、チャイム鳴ったよ! 俺ら次、体育だから着替えないと」

 俺がそう言うと、かぐやちゃんは悔しそうにちっと舌打ちしてから、強い口調で「号令っ」と言って、教卓の方へ戻っていった。

教卓に戻るかぐやちゃんの後姿を見ながら俺は思った、スーツ姿の女性の後姿はなんかエロイな、と。

まだ寝ぼけているのか、それとも思春期だからか。俺の脳内はそんなことを考えていた。

 かぐやちゃんに怒られるのは嫌いじゃない。でも、怒られたらきちんと反省はする。次は寝ないと決意しておこう。眠くなるその時まで。

 私立花森学園高等学校。

校訓が「友情・勝利・努力」ではもちろんなく、ギャンブルによって学校内での階級が決まることも、クラスの順位を賭けて競い合うことも、荒くれものが集まり天下を狙う抗争が起こることももちろんない。

「感謝・健康・自主」とどこにでもありそうで、尚且つ、なんかゆるい校訓を掲げ、偏差値も、部活動の成績も中の上。

福岡県の文教地区に設置された、ありふれた高校。

そんなありふれた高校の生徒のひとりである、俺、白井亞流斗。2年7組、出席番号15番の16歳。

みなさんお気づきの通り、名前はDQNな親に名付けられた。

ヤンキー以外で使っているところを見たことがない『亞』という漢字に、流れ星の『流』、一斗缶の『斗』で、『あると』と読む。小回りが利きそうなスズキの軽自動車みたいな名前。

身長は178センチで、体重は67キロ。髪色はホワイトアッシュ。

漫画やアニメで出てくる、ヒロインをナンパして主人公に追い払われる、咬ませ犬的なチャラい男だと思ってくれれば相違ない。

自己紹介はほどほどに、物語に戻るとしよう。

場所は教室から移動して、男子ロッカーへ。

 4限目の授業は体育でサッカー。

 先週で体力テストも終わり、今週から選択種目になっていた。選択種目はいろいろあり、迷った結果、なんだかんだでサッカーを選んだ。

女の子が多いバトミントンやテニスを選んで、きゃぴきゃぴするのも悪くないが、体育はなるべく本気ではしゃぎたかった。

「よくお前は姫乃の授業で寝てられんな~」

自分のロッカーを開けて着替え始めたところで、横から坊主頭の男がそう言ってきた。

 こいつは、住吉大吉。そこそこ中堅のうちの野球部で、1年からショートでレギュラーを張っている、同じクラスの野球少年。

「別にかぐやちゃんに限らず、俺は誰の授業でも寝るときは寝る」

 俺はブレザーをハンガーにかけながら、大吉にそう返した。

 別に俺は先生をなめてるわけではない。むしろ、膨大な時間と多大な労力・・・そして、愛や情熱やらなんやらで、全くの赤の他人の子供たちを教育していく先生という職業を、大いにリスペクトしている。

 俺がこんな感じで生意気なのは、思春期特有のあれと、あれが、こうなったものなので察してほしい。

「ほんとお前はすげぇなー。姫乃って美人だけど、おっかねぇ~じゃん。まあ、そこがいいって一部の男子からは人気あるけど」

 大吉は肩をすくめながらそう続けた。

「俺はその一部の男子の一人だからな。それにかぐやちゃんには、お茶目で可愛らしいところもあんだよ」

「はあ、そうなんか。姫乃ほどお茶目って言葉が似合わないやつも珍しいと思うけどな。俺はああいうプライドが高そうな女は苦手だ」

 なんでこいつはこんなに偉そうなのだろうか。じゃがいも頭のくせにめっちゃ上から言うじゃん。

 俺は大好きなかぐやちゃんが馬鹿にされたのがムカついたので、じゃがいものマウントをとることにした。

「そうやって本質を知らずに外面だけで判断するからお前はモテないんだよ。それじゃあいつまで経っても、じゃがいも童貞のまんまだな」

まあ、俺も童貞なのだが。

大吉は不満そうにして、俺の言葉に対してイキリ散らかしてくる。

「うるせぇな。俺は今野球に集中してるだけで、本気出せばいつでも彼女作れんだよ!」

「もうその言葉がダサいし、イカ臭い」

俺の経験上、本気出せば彼女作れると言ってくる奴と、今は彼女いないの『今は』を強調してくる奴は、だいたいモテないし、童貞。

 もし童貞人狼ってゲームがあったら、俺はそっこーでこいつを吊るな。

「い、いか臭くはないだろっ! なあっ⁉」

「じゃあ俺着替え終わったから、先、行くぞ」

 なぜか自分の右手の匂いを嗅ぐ大吉の言葉を聞き流し、俺はそう言った。

「にしても相変わらず着替えるの早いな。どんだけ体育楽しみなんだよ」

「そんなんじゃねーよ。体育があるときは、制服の下に体操服着て来るから着替えが早いだけだ」

「いや、そんなんじゃなくないじゃんっ! 体操服を下に着てくるって、小学生かよっ!体育めっちゃ楽しみにしてんじゃん」

 こいつのツッコミは、長いし、くどい。やっぱり坊主は、ダウンタウンしかり、千鳥しかり、ボケじゃないとだめだな。

俺はそう思いながら、女性用の小さな革ベルトの腕時計を外した。

そして、バタンと強くロッカーを閉め、ナンバーロックの鍵を回して、大吉を待たずに自分のロッカーから移動した。

 あ、そうだ。トレシュー借りなきゃ。

 今日は体育が外であるのに、ローファーで来てしまった。

 俺はそのことを思い出したので、グラウンドに行く前に隣のクラスのロッカーに向かい、今もなお着替えている、イケメンに声をかける。

「健吾、トレシュー貸して」

 こいつは中村健吾。クール系イケメンのサッカー少年。

 ちなみにうちの学校は2クラス合同で体育が行われるため、隣のクラスの健吾も、一緒に授業を受ける。

 こいつは部活でもサッカーしてるくせに、体育でもサッカーを選ぶほどのサッカー好き。もう、翼くんと言っても過言ではなかった。

「ほらっ、大事に使えよ」

 健吾から年季の入ったナイキのサッカー用のトレーニングシューズを受け取る。

 たぶんサブのシューズだが、しっかり手入れされていた。

「サンキュー」

「ちゃんと予習してきたか?」

 俺が礼を言うと、健吾が笑いながら尋ねてきた。

 予習というのは、たぶんサッカーの予習。

 そういえば前回の種目選択のときに、俺がサッカーを選ぶと、嬉しそうに健吾がサッカーについてうざいくらい饒舌に語ってきたので、「ちゃんと家で勉強してくるから、もう勘弁してぇ~」とテキトーに言って強制的に話しを終わらせたのを思い出した。

「キャプつば見てきたからばっちりよ」

 俺はとりあえずテキトーにそう返した。

「なにお前、ドライブシュートする気なの?」

 なに、ドライブシュートって。俺キャプつば、歯医者さんで飛ばし飛ばしでしか読んでないんだよな。あそこの歯医者、美味しんぼしか全巻揃ってないし。

まあ、とりあえず誤魔化すか。

「ボールはト・モ・ダ・チ。サッカーボールの声が聞こえるっ!」

 俺はこれ以上追及される前にと、グラウンドに駆け出した。

 外に出ると、それはもう見事な五月晴れで絶好の体育日和だった。

ちなみにこの五月晴れは、元々は旧暦の5月、今でいう6月の梅雨の時期に使われる言葉で、梅雨の合間の晴天を意味するものらしい。だが、時が経つにつれ変化していき、新暦の5月のよく晴れた日という意味でも使われるようになったとのこと。まあ、今日の朝の情報番組で学んだ知識で、心底どうでもいいけど。

 福岡は5月に入ると、朝晩でも20度前後で冷え込む日もなくなる。

 特に今日は暖かくて、ジャージを持ってこなくて正解だった。

 俺は健吾に借りた、青のトレシューの靴ひもを固くぎゅっと結ぶ。グラウンドにはもう既に、数人がストレッチや、ゲームの準備を始めていた。

「お~い、うっち~!」

 グラウンドの端の方に、体育倉庫からボールをひとりで運ぶ、気弱そうなぽっちゃりした男の子を見つけたので声をかける。

彼は同じクラスの、内山勇気。

うっちーは懸命に4つのボールを、2つは手に持ち、残りは交互に蹴りながらゆっくり、ゆっくり運んでいた。

「あっ、亞流斗くん!」

 うっちーは俺に気づくと立ち止まって、ぺこりと軽く頭を下げた。

「ボール運ぶの手伝うよ」

 俺はダッシュでうっちーのところまで駆け寄る。

「だいじょうぶだよ、亞流斗くん。僕、体育委員だから」

 うっちーは俺の言葉を、申し訳なさそうにしながら断った。

「いいから貸しな。ちゃちゃっと準備済まそう」

 それでも俺は、強引にサッカーボールを受け取る。

「あ、ありがとう」

 土のついたサッカーボールを2個ずつ持って、ふたりで並んで歩いていく。

 明らかに地味目な内山勇気も、俺の大事な友人のひとりである。

 陰キャと陽キャ。俺は自分でも、陰キャと陽キャで分けるなら、陽キャという自覚があったし、たぶんうっちーも陰キャという自覚がある。側から見れば、お前ら2人は住む世界が違うと区別されるだろ。それでも、俺らは友達だった。

 陰キャと陽キャ、美人とブス、高学歴と低学歴、体育会系と文化系。もっと言えばジェンダーや、宗教、国籍、地域など、何事も区別し、大きな壁に憚れてしまうこの世界。学校という小さな限られた世界でも、漏れなくそれは変わらない。

 そんな世界の中でも俺は『みんなと友達、みんなと仲良く』という小学校1年生で教わり、小学校高学年のころには、ほとんどみんなが忘れ去るであろう、甘ったるくて、あほみたいな信念を持ち続けて生きている。

・・・まあ、こんなにクドクドと結局なにが言いたいかというと・・・翼くんの言う、サッカーボールは友達ってことも、おかしくないってことだ。みなさんっ、翼くんは正気なんですっ!

「てか、うっちーはサッカーにしてたんだ」

 俺はサッカーボールを優しくなでながらそう尋ねた。

「うん。テニスやバトミントン、バレーは女子が多いし、バスケは試合に出る人数が少ないから下手さが目立つし、サッカーは陽キャの人が多い。・・・だから、ほんとは卓球がよかったんだけど、定員オーバーであぶれちゃって」

 うっちーは、苦笑いしながらそう言った。

 体育なんて俺からしたら授業中でも遊べるご褒美タイムなんだけど、そうじゃない人からしたら苦痛なんだろうな。

「でも、サッカーは嫌いじゃないだろ?」

「うん! サッカーやるのは苦手だけど、サッカー自体は好きだよ。漫画とかも面白いの多いしね」

「へぇー、そうなんだ。また今度教えてよ」

「もちろん! 亞流斗くんになら大歓迎だよ、亞流斗くんは僕たちオタクを馬鹿にしない陽キャだしね」

「オタクを馬鹿にしないって、俺も十分オタクだと思うが」

「亞流斗くんはオタクにはなれないよ、陽キャだし」

「オタクの世界も厳しいみたいだな」

 どうやら陽キャとオタクは両立できないらしい、世知辛い。

 ボールを運び終わり、ぞろぞろと大吉や健吾が俺のもとにやってきたので、うっちーは空気のように俺の近くから離れていった。

「はーい、授業始めるぞ~い。いったん並べぇ~」

 授業開始のチャイムが鳴り、先生が来たので、整列して授業開始の挨拶をする。

そしてグラウンドを2周して軽くストレッチを済ますと、適当に2チームに分かれた。

 キックオフ前に、整列してゼッケンが配られる。俺はオレンジ色のゼッケンだった。もちろんゼッケンの番号は28、翼くんの背番号。ボールは友達。

「なんかそっちに動けるやつら固まってね?」

青色のゼッケンをつけた大吉が、いちゃもんをつけてきた。

「グ・パーで決めたから文句言わないでよ。そんなことより正々堂々、みんなでたのしくサッカーしようよ、住吉くん」

「え? だれこいつ。なんでこんなさわやかなの?」

 大吉は心底困惑した様子で俺に言ってきた。

「こいつキャプつば読んできてるから、もう翼くんになりきってんだよ」

オレンジ色のゼッケンをつけた健吾が、呆れた顔で言った。

「相変わらずアホだな。てか、健吾もそっちかよ。ほんとこっち陰キャばっかじゃん」

 大吉は、青色のゼッケンをつけたうっちーたちを見ながら言う。

 陽キャからの陰キャというカーストを示す言葉は重い。現に、うっちーたちは委縮したように体を小さく縮こまらせていた。

「お前はそうやってすぐ陰キャ言うな。お前も土に埋もれてた陰のものだろうが、ジャガイモ野郎っ!」

「だれがジャガイモ野郎だっ! やっぱぜんぜんさわやかじゃなかった!」

 俺は大吉からツッコミを受けて、わざとらしくごっほんと咳払いし佇まいを直す。

「はやくサッカーしようよ、マッシュポテトくん」

「つぶすな、つぶすなっ! お前、顔と声をさわやかにしても言ってることひどいからな」

「もう漫才いいから、まじで早くやろうぜ」

 健吾が頭をかきながらそう言って、各々が適当にポジションについていった。

 先生がピィーと笛を吹き、俺が健吾にボールを蹴ると試合は始まった。

 ゲームは、試合開始から15分。すでに2―0で、オレンジ組の勝利中。

 大吉の指摘通りで、こっちには運動部が多かった。

「へい、よこせいっ」

 現在2ゴールの亞流斗くんは、ハットトリック目指して健闘中だ。

「ほらよっ! あ、わりぃ、大きいわ」

 健吾から大きな声とともに、少し高いロングパスが飛んできた。

「へたくそっ!」

俺は軽くジャンプして胸でなんとかトラップする。

 ボールは綺麗に勢いを吸収して胸に収まり、ふわりと足元に落ちてきた。やばい。まぐれにしてもいまのはめっちゃ綺麗に決まった。

「ナイス亞流斗!」

「いいぞ~、さすが亞流斗!」

 健吾をはじめ、サッカー部連中からもお褒めの言葉をいただいた。

エリア内には、うっちーを入れてディフェンスは残り3人。

3人は明らかにみんな地味目で、邪魔にならないように、目立たぬようにと、空気になっていた。

ここで変にやる気を出せば目をつけられてしまうため、本音を言えば傍観者でいたい。だが何もしなければ、周りに、陽キャに文句を言われてしまう。そのため彼らは、出来ないなりにも、ゲームに参加していますというポーズをとらなければならなかった。

 まあ、あくまで俺の勝手な想像だが。

明らかに楽しくなさそうなオーラを纏った3人は、ゆっくりとだが俺に向かって走り寄ってくる。

 そんな彼らに俺ができることはひとつだけ。周りからあれは止められなくても仕方ないと思われる状況を作ること。

 そうと決まれば、俺は気合を入れてドリブルを開始する。 

まず右足を軸にボールと一緒に体を回転させる。いわゆるマルセイユルーレットで一人を抜いた。

そして次に、右足でポンとボールを弾き一気にスピードを上げて中央に切り込み、残り2人を置き去りにした。

あとはキーパー1人だけ。ドリブルの勢いのまま、ゴールに向かってボールをトーキックでおもいきり振りぬいた。

 ボールは真っすぐに、キーパーに触れられることなくゴールネットに突き刺さった。

「おっしゃー! これでハットトリック達成‼ Wooーhoo‼」

 俺は爆上がりのテンションのまま両手を掲げ、人差し指を突き出した。

「いい働きだ、亞流斗」

クールな表情を崩さずに、なぜか上から目線で健吾が言ってきた。

「今のカットインからのシュートめっちゃよくなかった?」

「ああ。だが、その前のルーレットは雑すぎ。なんかドタバタしてたし」

「人がせっかく気持ちよくなってるところにそういうこと言うかね」

「お前は褒めたら調子に乗るタイプだからな」

「草」

こいつは俺のことを全く分かっていない。俺は褒められたら伸びるし、叱られたら興奮する。もちろん、女子限定で。

健吾と俺がそんな会話をしていると、前方から大きな怒声が聞こえてきた。

「おいっ、お前らいい加減にしろよっ! やる気あんのかっ‼」

熱くなっている大吉が、ディフェンス陣3人に怒っていた。

 どうやら先ほどの俺のドリブルでは、仕方ないとはならなかったらしい。

 3人のうちのひとりはますます不機嫌な顔をして、ひとりは空気のように縮こまり、うっちーはわなわなと身を震わせていた。

「何回抜かれれば気が済むんだ、もっと亞流斗を止めようと努力しろよ! 別に下手でもいいけど、みんなでやってんだから、もっと本気でやれっ!」

「ご、ごめん・・・」

 3人を代表してうっちーが弱弱しく謝る。

あらあら、まあまあ。

 大吉は熱血少年なのですぐ熱くなる。まあ、悪いことではないんだけどね。

 俺は、急いで彼らのもとに走った。

「まるで俺のドリブルが努力したら止めれそうな言い草だな」

「あ?」

 俺が、大吉とうっちーたちの間に入ってそう言うと、大吉が眉間にしわを寄せて俺を睨みつける。

 しかし、じゃがいもに睨まれても怖くないので、俺は全く気にせず続ける。

「うっちーたちのことはいくらでも言っていい、でもな俺のドリブルのことは悪く言うな」

「逆だとカッコいいんだけどな」

 健吾が呆れた声で茶々を入れてきたが、これも全く気にしない。

「で、結局お前は何が言いたいんだよ? ああん?」

 まだ怒りが収まらない大吉は、俺に向かって凄みを利かせる。

「人に偉そうに言ってないで、お前が止めてみろや。まあ、雑魚、いや雑芋のお前じゃ無理だろけどなあ~。ばーか、ばーか」

「なんだとこらっ! 言ってくれんじゃねーか! 止めてやるよお前のなんちゃってドリブルなんてなっ!」

 俺は思わず呆れてしまう。

 大吉は煽り耐性ゼロ過ぎて心配になるなあ・・・まあ、ヘイトは俺に向いたからいいけど。

 そして、相手ボールから試合は再開。

「おーい、がんばれー」

俺は敵陣から動かずに傍観しながら、大きな声で檄を送った。

「お前も守備しろっ! お前はメッシかっ!」 

健吾は大声でそう叫びながら、あっさりと敵からボールを奪った。

こいつの本職はセンターバック、さすがに素人じゃ相手にならない。

それでは、はりきってカウンター。

 ちょちょいのちょいで、じゃがいもくんをコテンパンにしてあげますか。

「へいっ、王にボールを献上せよっ」

俺は、右手を前に出しクイクイと指を動かしながら偉そうにボールを呼ぶ。

「ほら、王様」

少し強めの今度はグラウンダーのパスが、健吾から送られてきた。

なんとかボールは足で止めたが、トラップは大きく、足元にピタッと収まりはしなかった。

それでも、軽いタッチでドリブルしていく。

「ほらっ、こいよっ! おまえのなんちゃってドリブルなんてすぐに止めてやるよっ‼」

 今まではずっと前にいた大吉だが、今回は自陣でずっと俺に貼りついていた。

「はいはい、止めれるもんなら止めてみーろ、ばーか」

「ちっ。調子乗んなやっ‼」

 大吉は舌打ちしてから、俺に向かって突っ込んでくる。

 調子乗りにお灸を据えてやるためにも、ここは屈辱を味わわせてあげましょう。

 よし、大吉が絶妙な位置に来た、いい感じに1対1。

俺は静止したボールを足で擦り上げて、浮き上がったら軸足のかかとでそれを蹴り上げる。すると、ボールはぽーんと高く上がって、大吉の頭を超えていった。

「なっ」

「ヒールリフトで抜かれてやんの。ざまあ、草生えるわっ‼」

 驚いた声を上げる大吉に、俺は満面の笑みで、その捨て台詞を残してドリブルを続ける。

 そしてまた、残りのディフェンスはさっきの3人。

その3人は、さっき大吉に怒られたこともあり、あきらかに顔がこわばっていた。

 どうしよう、どうしようという焦りが、ピリピリと俺まで伝わってくる。

「とめろっ! 内山‼」

 追い打ちのプレッシャーをかけるかのように、大吉が大声で叫んだ。

 うっちーはオドオドしながらも先ほどより少し早く、俺に駆け寄ってきて、ボールに向かって足を出した。

 チャンス。俺はそう思ってにやりと笑う。

 そして俺は、うっちーの出してきた足に引っ掛かったようにして、大袈裟に転び倒れた。するとピィーっと、先生からファールの笛が鳴る。

オフサイドや、ファールなどのルールがガバガバのこのサッカー。この体育教師は適当なので、大袈裟に倒れればファールになるのだ。

「はあ⁉ 今のノーファールだろっ! 亞流斗が勝手にこけただけだ! 内山が足かけたりなんかするかよっ!」

 大吉が倒れた俺のもとに来て声を荒げる。

 ほんとコイツは素直だな。ほんと思い通りに行動して、発言してくれるなあ。

 俺は思わずにやけながら大吉に言う。

「残念ながら笛が鳴ったら、ファールなんだよ」

「ふざけんな! 体育の授業は遊びみたいなもんだろ、その遊びでマリーシアなんかすんなよっ!」

「お前こそ、その遊びでそんなに熱くなんなよ」

 俺の言葉を受けて、冷静になったのか大吉は押し黙った。

「うっちーたちは頑張ってるよ。熱くなれるのはお前の長所だが、熱くなり過ぎて周りが見えなくなるのはお前の短所だよ。冷静になったか、ビシソワーズ」

「なんだよ、ビシソワーズって」

「じゃがいもの冷製スープのことだね」

 大吉の言葉に、うっちーが答えてあげる。

 俺はぱんぱんとケツをはたいて、立ち上がる。

「ほら、さっさとお前ら仲良く壁作れ。亞流斗様のフリーキックのお時間だ」

「ほんとお前は・・・すごいな」

「そうだね」

 俺の言葉を受けて、大吉が呆れたようにそう言って、それにうっちーが同調した。

そして彼らは隙間を開けずに横に並んで壁を作る。

壁の枚数は4人。うっちーを入れたさっきのディフェンス3人と、大吉。

俺が蹴りだすのを待ってる間に、大吉が口を開いた。

「その・・・さっきは悪かったな。熱くなり過ぎた。すまん」

 大吉はそう言って、3人に頭を下げて謝った。

「いやいや、気にしないでっ」

 3人を代表してうっちーが慌てたように言った。

大吉は基本いいやつだから、ああやって素直に謝れる人間なのだ。

「ありがとう、ごめんな」

「うん」

 うっちーから許しを得た大吉は、急に思い出したように吹き出した。

「ぷっ、はははっ。それにしてもさっきのイキったチャラ男が倒れたところはめっちゃウケたな」

「ふふふっ、そうだね。わざとらしくて吹き出しそうだったよ」

「ああ、まじで大根役者だったな」

「うん、ちょっとカッコ悪かった」

「ほんと、あいつって、カッコつけのくせして、妙にダサいところあるよな」

「うん、アニメキャラみたいな髪色とかね」

「ああ、あの髪は恥ずかしくて、真似できないわ」

「確かに。亞流斗くん以外、似合わないよね」

 壁になってるやつらは、俺の悪口で盛り上がる。

 仲良くなるのに1番手っ取り早いのは、共通の敵を作るってか。ムカつくけど、いがみ合うよりは、まあ、ましか。

 俺がそんなことを考えていると、健吾が来て尋ねる。

「おいネイマールもどき、お前が蹴るつもりなの?」

「あたりまえじゃん」

「ここまでずっとお前においしいとこ決めさせてやってきたんだ、フリーキックぐらいやらせろよ」

 ここまで裏方のように立ち回っていたが、はしゃぎたくなったのか、なかなか健吾は引き下がらない。

 それじゃあしょうがないなあ・・・とは、ならないんですよー。

 こうゆうときは駄々をこねるように言うに限る。

「いいだろぉ、お前は毎日サッカーしてんだから。俺は体育か、たまにやるフットサルぐらいでしかサッカーやらないんだから」

「もうそんなにサッカー好きなら、うちのサッカー部入れよ。亞流斗なら今からでもスタメンなれるから」

「うちのサッカー部はそんなあまくねぇーよ、サッカーなめんなっ‼」

「お、おう。そっか、ありがとな」

 健吾は自分のサッカー部をよく言われたことが嬉しかったのか、口元を緩ませる。

 こいつチョロいな。まじ心配になるレベル。

「まあ、でも本音は、部活やるより女の子と遊んでたいっ!」

「おまえはサッカーじゃなくて、そもそも人生なめてたな」

 健吾はあきらめたようにそう言った。

 それでは、はりきってフリーキックと参りましょう。

 体育の授業であるためここまで本格的にやらなくても良いのだが、俺らは雰囲気をだすためフリーキックがあるときは、壁を作る。

 もちろんフリーキックで直接入れるなんて素人には厳しいし、そもそも壁を超えるのだって簡単ではない。それでも、やりたいのが高校生の性なのだ。

「で、健吾、どうやってカーブって蹴るの?」

「なに直接狙う気なの? しかも曲げて?」

 健吾はコイツ何言ってんの? みたいな顔で俺を見ながら言った。

 こいつのこの顔、まじでむかつくな。なんかイケメンだし。

「いいから、さっさと教えんかいっ! 顔に油性ペンで落書きすんぞ、肉って」

「お前は小学生か。なんだその幼稚な嫌がらせ」

 健吾はため息を吐くように言って、カーブの蹴り方の説明を始める。

「————ってな感じだ、分かったか?」

「おっけー、まかせんしゃい」

「まあ、そんな簡単に蹴れたら俺らは苦労しないけどな」

「俺を誰だと思ってんの? ・・・亞流斗さんだぞっ。かっこいいとこ見せてやんよ」

 先生がピィーっと笛を吹いてから、3歩助走をとって走り出す。

 とんとんとんと歩幅を合わせて、さっき健吾に習ったように、足を振りかぶってボールの右下をインフロントで思い切り振り切る。

 ボールは壁の右端である、大吉の上。彼の頭上を、綺麗な軌道で巻くように超えていく。壁のせいか、キーパーは全く反応できずに、ボールはゴールネットを強く揺らした。

それは自画自賛できるほどの、見事なゴラッソだった。

「えぐないぃいい⁉」

 俺がそう言うと、周りからは歓喜が起こった。

「すげぇええええ!」

「やばああああ!」

「えっぐぅうう‼」

「亞流斗えぐすぎだろっ‼」

 おバカな高校生たちが、おバカな語彙力で歓喜していく。

 それでも俺は嬉しくて、走り出した。

 みんなも俺を追って走り出す、わあああとはしゃぎながら。

 そして俺はワールドカップでゴールを決めた選手のように、両膝で滑り、ゴールパフォーマンスをした。

 小石が多く、土が固いグラウンドで。

「「「「「WAAAAAAAAA‼」」」」 

 全員が一体化したように盛り上がりの声を上げ、はしゃぎあう。

「タ、タイム!」

 そんな中、俺は思わずそう叫んだ。

「どうした?」

 珍しく興奮していた健吾が尋ねる。

「めっちゃ膝擦りむいたわ」

 俺の両膝は、はしゃぎ過ぎた小学生のように血だらけで擦りむいていた。

「お前ってやっぱ馬鹿だな、はしゃぎすぎ」

「いかさましたバチが当たったんだよ、おバカ!」

 冷静に健吾が言って、大吉が笑いながら続ける。

楽しくなさそうにしていた地味メンツや、先生も、ここにいる全員から割れんばかりの笑いが起こる。

 俺は馬鹿して、笑われていることにどこか満足して、

「保健室行ってきます!」

 と、みんなに告げ、ひとり保健室に向かって行った。















2.パンティーストッキングって、なんかエロい。

 

擦りむいた膝から血を出しながら、グラウンドから保健室に向かって、てくてくとひとり歩く。

ああー、めっちゃピリピリする。はしゃぎすぎた。反省、反省。

「もーう、どこ打ってんの~!」

「あはははは‼」

 グラウンドを出てしばらく歩くと、姦しい女の子たちの声が聞こえてきた。

なんか姦しいっていやらしいよな。そんなことを考えてしまう俺は思春期真っ只中だった。

・・・そうだテニスコート、行こう。

 俺は導かれて行くように、保健室から方向転換、テニスコートに向かって歩いた。

 テニスをしている女子たちから少し離れて、フェンスにつかまりながら、女の子たちを観察する。

 パーン、パーンとソフトテニスボールを打ち合いながら、きゃはきゃはと笑いあっていた。完全にきゃぴきゃぴしている。

てか、俺、側から見ると今完全にやばいやつだな。

「ちょっと、お兄さん。当店は見学でも有料ですよぉ~」

 女の子たちを見ていると、視界を防ぐように茶髪のギャルが現れた。

 明るく染めてふわふわさせた髪に、天真爛漫で可愛い容姿、すらりと長い脚。悪くない。

 こいつは、同じクラスの友人、七草せりかだ。

「あらっ、あんたもバリ可愛いかねぇ~」

 俺はテキトーな博多弁で、せりかを褒めた。

 それに気をよくしたのかニヤッと笑ったせりかは、足を内股にして、両膝に両手をおいて前かがみになり、グラビアポーズをとってくれた。

 今日は暖かいので、もちろん彼女も半袖、短パン。すらりと長い生足は傷ひとつなく真っ白で、体操服の隙間からは水色のブラジャーがちらりと見えた。

「せりかは~、看板娘なんで可愛いのは当然ですよぉ~」

 甘ったるい声でせりかが上目遣いをしながら言ってくる。

 あざとうざいな。しょうがないから、こいつのこのノリにのってやるか。

 とりあえず俺は昨日見た深夜アニメに出てきた、悪徳領主のような顔をしながら、両手をエアーでもみもみしてみせた。

「げへへへへ。姉ちゃんええ脚と乳しとるな~。おいくら払えばええんや~」

「きゃーあ~。亞流斗きもいぃ~」

「でへへへ。きもいは俺にとっては誉め言葉だぜぇ~い」

「ウケる~」

「揉んで、さすって、なめちゃうぞ~」

「きゃーあ~‼」

 せりかは自分の腕を抱きゆらゆらと体を揺らしながら、満面の笑みで甲高い声を上げた。

「あんたらなにしてん?」 

 せりかと俺で茶番劇を繰り広げていると、、顔を顰めた女の子が歩いてきた。

 その子は、艶やかな栗毛色のミディアムボブの髪に、純真無垢な真ん丸な瞳。快活そうで可愛らしく、太陽みたいな女の子だった。

 彼女は同じクラスの友人、雨野千晴。ちなみに千晴とは、同じ中学でもある。

「変態おじさんがいたからかまってあげてたぁ~」

 顔を顰めた千晴に、いたずらな顔をしたせりかがそう答えた。

 こいつはなにを言っているのか。俺がこいつの変なノリにのってやってたのに。

「全くなにを言っているのか。俺がかまってやってたんだよ」

 俺がそう言うと、せりかは納得いかないような表情で興奮したように言う。

「なにいってんのぉっ⁉ せりかのセクシーポーズにくぎ付けだったじゃん!」

「おまえの水色のブラちらなんてみてねぇーよ」

「見てんじゃん! しっかり色まで確認してんじゃん!」

「はあ。あんたらの喧嘩なんて猫も食わんよ」

 俺たちのやりとりをジト目で傍観していた千晴が、ため息をついてから言った。

「それを言うなら、犬も食わないだろ?」

 微妙に違うんだよな。猫はなんでも食わなさそうだし。

「いや、うち犬より猫派だし」

「そういう問題じゃねーよ。俺もどっちかと言うと、猫派だけど・・・好き嫌いでことわざかえんなよ」

「それであんたはこんなとこでなにしとるん? まだ授業終わってへんやろ?」

 あっさりスルーされた。自由かよこいつ。

俺は足を出して、血が出ている膝を2人に見せた。

「うわぁっ! やばっ、いたそぉ~。血い出てんじゃん、大丈夫ぅ?」

「どうしたん? 転んだん?」

 2人は俺の傷を見て、一瞬で心配したように表情を変えた。

「シュート決めた後に、両膝で滑ってゴールパフォーマンスしてたら、めっちゃ血でた。ウケるだろ?」

「え? プレイ中でケガしたんやなくて、そのあとにはしゃいでケガしたってこと?」

「あはははは‼ 亞流斗、めっちゃアホじゃ~ん!」

「はーい、あほでぇーす。でも、お前の方がアホだと思いまーす」

 俺はあごを突き出し、あいーんをしてせりかに言う。

 こんな明らかにアホそうな茶髪ギャルに、アホだと言われるのは心外でしかない。

「銀髪チャラ男にアホって言われる方が心外でぇーす」

 せりかも俺をまねしたようにあごを突き出し、あいーんをして言い返して来た。

 おおっと、と、ブーメランが返ってきたぞぉ。これは痛いぜ。

「どっちも、どっちやわ」

 俺とせりかに向かって、千晴が天を仰ぎながら締めくくるようにそう言った。

「「「あはははは」」」

 冷静になったら恥ずかしいやりとりに、俺らは3人で笑いあった。

 まあ、こうゆうのが楽しい。

「んじゃ、保健室に行ってくる」

 しばらく談笑して、会話がいったん途切れてから俺は2人にそう告げた。

「今からいくならお昼遅れるやろ? パン買っとこうか?」

「ああ、じゃあ頼むわ」

「いつもの、焼きそばパンと、コロッケパン、そんで甘いパンに、カフェラテでええ?」

「うん、それでお願い」

 千晴は笑顔でさりげなくそう言ってくれたので、俺はそれに甘えることにした。

 庇護欲を掻き立てられる容姿と雰囲気がある千晴だが、彼女はよく気が利くし、よく周りを見ている。

いわば千晴は、妹系の外見で、姉系の内面を兼ね備えているのだ。

そのため男子内でよく行われる、付き合うならだれ? って話になったら、結局、千晴じゃね? ってなるほどに彼女はよくモテた。

「なにぃ、そのやりとり? 私、あなたがいつも食べているもの把握していまーす、みたいな。2人、夫婦みたぁ~い」

「ちょっ。ちゃ、ちゃうわ! こいつと夫婦とかまじでありえへんからっ!」

 せりかのいじりに、千晴が慌てたように否定した。

 さすがに、そんなに慌てて否定されるのは悲しい。

「そんなに否定せんでもええやん。ほんま悲しいわぁ~」

 俺はエセ関西弁でそう言って、あざとく両手で出てない涙を拭った。

 千晴はそれが癇に障ったのか、顔を真っ赤にさせながら辛辣に吐き捨てる。

「亞流斗、ほんまきっしょいっ!」

「照れんな、照れんな。じゃあ、たのむよちーちゃん」

「亞流斗って、恋人とか奥さんには、あだ名で呼びたいタイプでしょ~?」

「そうだな。せりかのことは、せりにゃんって呼びたい」

「ほんまきしょい。さっさと保健室行ってこい」

 さっきまで顔を赤くさせていた千晴だったが、ここにきて今までで一番冷たい声と表情で、しっしっと手を振りながら言ってきた。

 あ、この冷たい表情はガチのやつだ。

「わかったよ。じゃあ、パン頼むな」

 俺はそう言って、2人と別れ保健室に向かって歩いた。

 校舎に入る前に、玄関近くの洗い場で傷を洗う。

傷口を洗って、土を落としておかなければならない。

 今から行く保健室の先生は基本ゆるい人だが、ケガや病気にはうるさいので、そこらへんしっかりしなくてはならない。

 水を出そうと蛇口を回すが、あまり使われていないからだろうか、蛇口は固くて回らない。

今度はもっと力を込めて蛇口を回すと、きゅっきゅっ、とさびれた耳障りな音が鳴って、勢いよく水が出始めた。

俺は靴下と、健吾に借りたトレシューを脱ぐ。そして、右膝を上げて水近くまで持ってくると、手でジャバジャバと汚れを落とす。擦りむいた場所は、血は止まっているが、爛れたようになって醜かった。

 ある程度の汚れを落とすと、今度は左膝。こちらも血は止まっているが、右膝より傷の範囲が広かった。あらためてほんとにはしゃぎ過ぎたと反省する。

 両方の膝を洗い終わると、びちゃびちゃになった足からは、ぽたぽたと水がしたたり落ちていた。

しかし、なにも拭くものを持っていない。完全に忘れていた。

 まあ、どうせ着替えるからいいやと思い、短パンを少し引っ張り、水を拭ってから、校舎に入った。

 健吾から借りたトレシューをあいつの靴箱に無理やり詰め込んで、自分の靴箱から上履を取り出して履き替える。

そして、1階の端まで歩くと、目的地の保健室にたどり着いた。

コンコン、コンッ

 3回強くノックして、勝手知ったる他人の家のごとく、ノックの返事がある前にガラガラッと扉を開けた。

 そこは、薬品の匂いか、消毒液の匂いかわからないが、ツーンと鼻に広がる独特の匂いがして、理科室や、音楽室と似たような、どこか孤立した雰囲気があった。

俺は保健室が嫌いじゃない。

「また来たの、亞流斗。ここは喫茶店じゃないのよ」

 中に入ると、パソコンに向かいカタカタと作業をしている女性が、一瞬顔だけこちらに向けてそう言った。

 保健室の先生、朝倉まこ。年齢は聞いたこともないが、おそらく20代半ば。バサッと肩まで下ろした長い髪、綺麗な容姿、細身な体型。

白衣は似合うが、気だるそうでどこかアウトローな雰囲気が彼女にはあった。まあ、実際、元ヤンなのだが。

「残念だがマスター、今日は紅茶を飲みに来たんじゃなくて、ケガを見せに来たんだ」

 俺はそう言ってから、いつものように小さい黒の回転する丸椅子に座った。

 この場所にはよく来ている、週1回くらいには。

だからといって、別にケガが多いわけでもないし、病気になりやすいわけでもないし、悩み相談のためでもない。ただ単純にお話しをしに。

「はいはい。じゃあ、さっさと傷見せて」

 まこちゃんは俺の言葉を軽くいなすようにそう言った。

 まこちゃんの塩対応にがっかりしながらも、傷が見えるように少しだけ短パンをめくる。

さっき水道でバシャバシャ洗って、ごしごしズボンで拭いたせいか、ズボンは全体的にまだ濡れていて、きもち悪かった。

 まこちゃんは棚から救急箱を取り出して、俺の前の椅子に腰かけ、傷を見る。

「うわぁ、これはやってるね。でもちゃんと水道水で洗ってるのはえらい」

 そして微笑みながら優しくそう言って、救急箱から消毒液とピンセット、ガーゼを取り出した。

「やったー、褒められた~」

「でもズボンで拭いたのバレバレ。びしょびしょだし」

 やはりばれた。おのれズボン、早く乾けよ。

「じゃあ、しみるけど我慢してね」

 まこちゃんはそう言って、消毒液をかけたガーゼをピンセットでつかみ、膝の傷口にあてる。

「ぎゃあー。めっちゃ痛い、泣きそう」

 まこちゃんは俺が痛みに耐えながら百面相していると、あっという間に消毒を済ませ、拳サイズの大きな絆創膏をして治療を終えた。

「はい、おしまい。絆創膏はこまめに取り換えなさいよ。あと、ひどくなったら病院に行くこと」

「はーい」

 絆創膏をこまめにとりかえる、ひどくなったら病院に行く、この2つを頭にメモしておく。傷の跡が残ったら悲惨だからな。

「で、このケガは体育ではしゃぎすぎたの?」

 まこちゃんは絆創膏のごみやガーゼを処分しながら尋ねた。

「まあ、そんなとこ。俺って、はしゃぎたがり調子乗りたがりだから」

「はいはい。そんなに元気なら部活にでも入ればいいじゃない? あんた運動神経いいんだし」

 まこちゃんは救急箱を棚に戻して、また俺の前に腰かける。

 運動神経は、良いか悪いかで言ったら多分良い方だが、俺は生まれてこの方、部活というものに入ったことがない。

「うちの学校の校則がゆるいと言っても、この髪の長さに、この髪色じゃ、さすがに運動部は入れてもらえないって」

 うちの学校は校訓もそうだが、校則も基本ゆるい。そのため、俺のこの派手な髪色も、とやかく言われることはない。だが、やはりそれでも運動部では、派手な髪色や髪型が禁止という暗黙のルールがあった。せりかが入っているダンス部という例外はあるが。

 まあ普通に、髪色や髪型を変えれば、どの部活にも入れるけど、べつにそこまでして運動部に入りたいとは思わない。俺は確かにスポーツするのは好きだが、そこまで熱くなれる人間ではなかった。せいぜいスポーツは娯楽、はしゃぐまでが限界だ。

「それもそうね。その白髪あたまじゃ無理か」

「白髪じゃなくて、これはホワイトアッシュだよ、おばさん」

「だーれーがー、おばさんだってぇ~?」

まこちゃんはどこか楽しそうに、ふふふと鼻で笑いながら、俺の髪をわしゃわしゃと雑に撫でた。

 俺はまこちゃんの手を軽く弾いて髪を整える。

セットした髪に触れるなんて、まったく男心を分かっていない。こちとら体育があるから、ガチガチにスプレーで固めてんのに。

「髪が命なのは女だけじゃないから」

 俺が眉間にしわを寄せ真剣にそう言うと、まこちゃんは軽く肩をすくめた。

「でも、ほんとあんたって髪色、毎回綺麗よね。月にどんくらいカラーしてるの?」

「2、3週間に1回くらいの頻度で美容室でやってもらってる」

「1回いくら?」

「カラーだけで1万2千、カットとか込々入れたら全部で2万」

「はあ? あんた髪に月4万って、まじで言ってんの?」

「まじで言ってる」

まこちゃんが再度俺の髪に触れてくる。今度は触れられる前にパッと手で弾いた。

正直この値段は、一般の男子高校生からしたら少々お高いとは自分でも思う。それでも、これは俺の中では必要経費。やめられない理由がいろいろとあった。

「はあ。亞流斗のくせに生意気ね」

まこちゃんは道端に唾をペッと吐き捨てるようにそう言った。

まさか養護教諭に、スネ夫とジャイアンがのび太によく言うセリフを言われるとは思わなかった。

「ちゃんと自分で稼いだ金で賄ってるから、別にいいだろ」

 そう、俺はちゃんとバイトをやって稼いだ金でそこらへんやってる。かじれる脛もないしね。

「あんた、まさか・・・いかがわしいバイトとかしてないでしょうね?」

「なんだよ、いかがわしいバイトって」

「ほら、ママ活とか、姉活とか」

「そんなのフィクションだけの話でしょ? もし現実にあったとしても、上手くいかないって」

 まこちゃんが訝しげに言ってくるので、俺は冷静に返す。

 ちなみに、ママ活、姉活とは、俺らとか大学生とかそこらへんの若いやつらが、奥様やお姉さま方に食事や、買い物、そしてそれ以上の行為をしてお金をもらう活動のこと。

さすがに、ママ活、姉活をしてるやつは聞いたことがない。いや、やはりそうゆう行為は隠すだろうし、俺が知らないだけだろうか。   

「そう? あんたは年上にモテるし、意外とうまくいくかもよ」

「なにそれってママ活勧誘? 俺に息子になってほしいってこと? 俺のムスコを使いたいってこと?」

「ばーか」

 まこちゃんは呆れた顔でそう言って、白衣のポケットに手を入れ、なにかごそごそと取り出す。

「一応聞くけど、吸っていい?」

「保健室で吸うの? べつにいいけど」

 まこちゃんは俺の許可を得ると、手のひらサイズの小さな加熱式たばこを取り出した。

本体に小さなたばこのようなスティックをはめ、本体のボタンを長押しする。そして、しばらく待ったら、カチッとなにかを噛んでから、すぅーと微かに音をたてながらゆっくりとたばこを吸って、ふぅーと薄い煙を吐いた。

 その姿は大人っぽくて、なんか雰囲気があった。

「てか、前は紙じゃなかった? 替えたの?」

 よくよく考えれば加熱式たばこを吸っているのは初めて見る。あと、保健室で吸っているのも。

以前、たばこを吸っている姿を見たときは、えらく細い紙のたばこを吸っていた記憶がある。

「唯一の喫煙OKだった屋上も、とうとう禁煙になってね。だから保健室で隠れて吸うなら、こっちがいいかなと思って、最近替えたのよ」

 まこちゃんはそう説明すると、再びたばこに口をつけた。

 たしか加熱式たばこは、紙たばこに比べると匂いが残りにくく、副流煙の心配も少ないはずだ。

 この人なりの生徒を思っての配慮だろうか。まあ、生徒といっても俺の前でしか、たばこは吸わない気もするけれども。

意外にもまこちゃんは、規律に厳しく、真面目な先生で通っている。仮病といったずる休みは絶対許さないし、逆に体調が悪い人はなにがなんでも休ませる。

そのため、たまり場になりやすそうなこの保健室に、意味もなく訪れるのは俺だけだった。

「はあ。ほんと喫煙者には厳しい世界になっていくわ」

 まこちゃんはたばこの煙と一緒に、嘆くような言葉も吐いた。

「そこまでたばこって大事なの? やめればいいじゃん?」

 俺は率直に思ったことを口にした。

 飲食店や、娯楽施設、学校などで全面禁煙という文字はよく目にするし、たばこの値上りのニュースもよく耳にする。

自己にも他者にも悪影響があるのがたばこ。今の健康志向の世の中では、まさに煙たがられる存在。全くたばこに興味も、好意もない俺からしたら、吸い続けるのが全く理解できなかった。

 しかし、まこちゃんは俺の言葉に、

「そんなに簡単にやめれるなら苦労しないわよ」

と、あっさり返した。

「このストレスだらけの仕事で、息抜きというたばこのチルタイムがなければ、私は消滅して灰になるわ」

「たばこだけにってか・・・」

 俺は呆れながら言った。この人もいろいろと抱えて大変なのかもしれないな。

「まあ、これは灰でないけどね」

「いや知らんよ」

 まこちゃんは小さく笑い、ふぅーと白い煙を吐いた。

 するとそれに反応したように保健室の隅にある、ぶどうのマークがついた空気清浄機がゴォオオオと音をたてる。

「でも、あんたみたいなアンポンタンと頭を使わずにしゃべるのも、私にとってはいいチルタイムになってるわよ。あんたは私にとって第二のたばこね」

「なんかいろいろツッコみたいところはあるけど、どういたしましてと言っとくよ」

 俺のその言葉に、まこちゃんは優しい笑みでふふっと笑った。

「なに、保健室の先生ってそんなに大変なの?」

「たいへんよ。ちょー大変」

「へぇー、そうなんだー」

「なんか軽いわね」

 まこちゃんは、俺の相槌が気に入らなかったようで、眉間にしわを寄せながらそう言った。でも、実際保健室の先生の仕事なんて全く知らないからな。

「あんたの保健室の先生はどんなイメージ?」

 まこちゃんは加熱式たばこの本体から吸い殻を取り外して、何気なく尋ねた。

 保健室の先生か・・・それは、ねえ。

 男子高校生が無条件で反応してしまう学校のスポットといえば、放課後の教室、体育倉庫、保健室。うん、これは常識だ。

その3大聖域の1つの主、保健室の先生。

「白衣、巨乳、エロいっ‼」

 俺は迷いなくそう答えた。

 「早い、安い、うまい」牛丼屋さんと、「白衣、巨乳、エロい」セクシー女優さんには、どちらも男子高校生は大変お世話になっている。

「あんたはエッチな本の読み過ぎね」

 まこちゃんは苦笑いして、呆れたように言ってきた。

 たしかに、まこちゃんは白衣は着てるけど、おっぱいはあんまないし、エロいかどうかと尋ねられたら、AVとかエロ漫画に出てくる保健室の先生の圧勝だしなあ。

 やっぱり、フィクションはあくまでフィクションってか。

「残念ながらまこちゃんには、白衣、巨乳、エロいは、白衣しか当てはまらないね」

 俺はうんうんと頷き、ひとり納得しながら言った。

「ごめんね、白衣を着ているだけの、貧乳で清楚な保健室の先生で」

 それに対してまこちゃんは、なぜかしたり顔でそう返す。

 なるほど。エロいの反対は、清楚か。

「別にまこちゃんのこと、貧乳とは思ってるけど、清楚だとは思ってないよ」

 俺がアルカイックスマイルでそう言うと、思いっきり頭をしばかれた。

 今日は、先生によく叩かれる日だ。まあ、悪くない。

「あんたには、デリカシーってものをじっくりと教えなければならないようね」

 まこちゃんはそう言いながら、ゆっくりと足を組みなおした。

 俺はその隙を逃すわけもなく、ボクサーがパンチを避けるくらいの俊敏さで、一瞬で体を倒し、足を組みなおす瞬間を狙って、パンツを拝もうとする。

 くっ、だめか。

黒いストッキングに包まれた長い脚は妖艶だったが、残念ながらパンツは拝めなかった。

そう思ったのは束の間・・・組みなおした足は再度高く上がった。

 おぉ、サービスタイム。・・・し、しろっ⁉

すると、スケベ頭に天罰が下るように、高く上がった黒ストッキングの長い脚が俺の頭に落ちてきた。

「痛あああぁぁぁ!」

 俺は頭を押さえて、うめき声を思わず上げる。

「あんたにデリカシーを教えるのはもう手遅れね」

 まこちゃんはそんな俺を見ながら、もうだめだと言わんばかりにゆっくりと頭を振った。

「さすが元ヤン教師。いい蹴りだったよ」

「元ヤンじゃないわよ。私は、現役の清楚女教師よ」

「なんだよ、現役の清楚女教師って、AVのタイトルみたいだな。どこで見れるんだよ」

「はあ」

まこちゃんは何回目かわからないため息をつくと、ノールックで背にある流し台を、親指でくいくいと指さした。

 これはいつもの合図、紅茶を淹れろというものだ。

 この人は俺が保健室に入るときに「ここは喫茶店じゃないのよ」というくせに、いつも俺に紅茶を淹れさせる。

 俺は椅子から立ち上がり、流し台から白の電気ケトルをとった。

 電気ケトルの中には、少しだけお湯が入っている。これは2人分もないな。

 俺はシンプルなティーカップを2つとり、残りのお湯をそれに注ぐ。

 そしてウォーターサーバーのチャイルドロックのボタンを3秒間押してから、冷水のボタンを押して、電気ケトルに水を入れる。

 ちなみに紅茶には軟水の水が適しているらしい。軟水の方が、紅茶本来の味わいや香りを十分に引き出すとのこと。バイト先のオーナーが言っていた。

 このくらいかな。ちょうどいいくらいの分量で水を入れたら、パタンとケトルのふたを閉めた。電気ケトルを電源プレートに設置して、取っ手上部の電源スイッチをオンにする。

 たぶんお湯が沸けるまで2分か、3分くらい。この電気ケトルはお湯が沸けるまで結構早い。

「まこちゃん、もうあと2つしか残りないよ」

 棚にあった黄色の袋をパカッと開けると、ティーバックは2杯分しか残っていなかった。

「あー、そうだった。最近お客さんに出してたからね。また買ってくる」

「俺以外に、ここで紅茶飲む人いたんだ」

「姫乃先生が最近よく来てるから」

「かぐやちゃん? かぐやちゃんと仲良いの?」

 まこちゃんと、かぐやちゃん。先生同士ではあるが意外な組み合わせ。

 ふたりが話している姿は見たこともないし、全く想像もつかなかった。

「最近、ちょっと生徒のことでね・・・まあ、いろいろとあるのよ」

 まこちゃんはそう言ってから、2本目のたばこを口につけた。

 その姿は、哀愁を感じさせる。先ほどのストレスだらけの発言といい、どうやらまこちゃんは相当疲れているみたいだ。そんなに保健室の先生って大変なのだろうか。

 そんなことを考えていると、カチッという電気ケトルのスイッチが切れる音が聞こえてきた。

 カップを温めるために入れていたお湯を流しに捨てて、新しく沸かしたお湯を注ぐ。そしてティーバックを1個ずつカップに入れたら、受け皿でフタをして茶葉を蒸らす。

この蒸らす行為をするかしないかで、香りや風味は全く違ってくる。だいたい紅茶で、「匂いはいいのに味うっす!」ってときや、「めちゃめちゃ色濃いのに風味ないっ!」ってときは、蒸らすことをしていないか、蒸らす時間が紅茶とあっていないからだ。

「で、保健室の先生ってなにしてんの?」

 スマホのタイマーをセットしてから、話を戻してまこちゃんに尋ねた。

 まこちゃんは、回転いすをくるくると自分ごと回しながら口を開く。

「朝の職員会議に参加して、各クラスの欠席者や健康状態の管理、保健だよりなんかの掲示物とかその他もろもろの書類作成、ケガ人や病人の手当とかいろいろ」

 スラスラと仕事内容を垂れ流したまこちゃんは、どこか遠い目をしていた。

 思ったより大変そうだ。保健室の先生も楽じゃないな。

「それに不登校の生徒の対応とかも」

「へぇー、そんなんもまこちゃんがしてんの?」

「そうよ」

 もしかしたら、かぐやちゃんとの話しは、不登校の子のことかもしれないな。

 かぐやちゃんは、2年5組のクラス担任。

・・・5組には不登校の生徒がいた。

たしか名前は、アウロラちゃんだったかな。

その子は2年生になって転校してきたハーフの女の子で海外から来たらしい。

しかし学校には1回しか来ていない。残念ながら俺は顔を見ていないが、5組の友達曰く、めっちゃ可愛かったとのこと。

 まだ1回しか学校に来ていないから、いじめということはないだろう。うぅーん、なにが理由かは分からないが、不登校ってのも色々大変そうだな。

 まあ、でも、今はスマホ一つで多くのことが学べる時代。学校だけが学びの全てではないし、学校に行こうが行くまいが決めるのは本人次第だからな。・・・少し勿体無い気もするけどね。

 俺が人ごとのようにそんなことを考えていると、テロテロテンとセットしていたタイマーが鳴った。

 ティーバックを軽く振って取り出し、ごみ箱にそれを捨てる。

 カップを受け皿に乗せて、ハーブの香りがふわりと香る熱々の紅茶を、まこちゃんに渡した。

「はい」

「ありがとう」

 そうして俺は紅茶を飲み終わるまでまこちゃんと雑談して、保健室を出た。

まこちゃんと別れてから、俺は誰もいないロッカーで一人寂しく着替える。

 保健室でまこちゃんと話している頃に、4限目授業の終了を告げるチャイムが鳴っていたので、今はもうすでに昼休みだった。

千晴たちが待っているだろうから、急がなければ。

一度きょろきょろと周りを確認してから、体操服をさっと脱いで、エイソスのナイロン製のリュックから黒のインナーを取り出し、それに着替える。

 乾いてはいるが念のためにと制汗シートで体を拭って、ドラックストアで安く買ったボディーミストを体につけた。

 俺ら男子高校生は、匂いやニキビに敏感で、いじられるとめっちゃキレる。これは思春期の性だった。

 そして、革ベルトの腕時計をつけて、ズボンを穿いて、ネクタイを一番シンプルなプレーンノットで結び、ブレザーと、リュックを軽く肩にかけてから、俺は早歩きで教室へと戻った。

「あ、やっときたわ」

「おっっそぉ~い」

 2年7組の教室に入ると、千晴とせりかが俺に気づいて声をかけてきた。

 もうすでに千晴、せりか、大吉の3人で俺の席周辺で机を固め、昼食を食べ始めていた。

 今、時間は13時ちょうど。昼休みは12時20分から13時20分なので、だいぶ保健室でまこちゃんと駄弁ってしまっていた。あまりゆっくりする時間はなさそうだ。

「わるい、わるい」

 俺は3人にそう謝ると、自分の机の横のフックにリュックをかけて、長財布を出した。

 机の上には、千晴が買ってきてくれたであろう焼きそばパンに、コロッケパン、紙パックのカフェオレ、チョココロネが置かれていた。

「千晴ありがと。いくらだった?」

「500円やけど、べつにええよ」

 俺が財布を片手に尋ねると、千晴は手を振ってお金をもらおうとすることを拒んできた。

「よくないって。金の切れ目は、縁の切れ目って言うだろう。俺はずっと千晴と友達でいたいからな、こうゆうのはしっかりしようぜ」

 俺がそう言うと、千晴は、

「ずっと友達・・・」

 と、ぎりぎり聞こえるかどうかの声量で呟いた。

 俺はそれがどうゆう意味か分からず、思わず首をかしげてしまう。

 ずっと友達は嫌なのかな・・・普通にショック。

「はあ。ほんと亞流斗って女心がわかってないよぉっ!」

 そんなことを考えていると、せりかが紙パックジュースのストローで俺をピッピッとさしながらぼやくように言ってきた。

・・・意味が分からん。

「は? なんで俺が女心が分かってないんだよ。そんなずっと友達発言が気に食わなかったのか、なんで?」

「はあ~。そんなのぉ、——」

「もうええからっ! さっさとお金ちょうだいっ!」

 ため息を吐いてから話すせりかを遮って、千晴が慌てたように言った。

千晴の慌てた表情は鬼気迫るものがあり、この話しをこれ以上追求するのは野暮だろうと思った。それくらいはわかる。俺は女心がわかるので、女心がわかるので。

 俺は千晴にお金を返すためにと財布を開き、ちょうど100円玉が5枚あったので、それを千晴に渡した。

「あんがと、まいど」

「こっちこそ、パンありがとな」

 俺はそう千晴にお礼を言ってから、自分の席に着いた。

「なんか臭くね?」

 席に着くと、魚クサイにおいが鼻についた。

 俺は弁当臭が苦手で、いろんなおかずが混ざったあの匂いにオエッとなることが時々あるが、いつもはそんなことは口には出さない。しかし、今日の異臭にはツッコまずにはいられなかった。

「「あはははは‼」」

 それにせりかと千晴は手を叩きながら大笑いする。

「なにどうしたの?」

「せりかのストーリー見てみぃ」

 俺はそう千晴に促されたので、自分のズボンのポケットからスマホを取り出して、インスタのアプリを開く。上部のストーリーを押して、パッパとスキップしながらいろんな人の日常を見ていたら、4つ目でせりかのストーリーを見つけた。

 そこには『さんま弁当ww』と手書き文字に、大きなタッパーの弁当が写っている。

 弁当は、白ご飯と、その上に丸まる1匹の焼いたさんまが置かれていた。

「これ大吉の弁当?」

 もうすでに弁当を食べ終え、スマホをいじりながら、知らんぷりを決め込んでいた大吉に尋ねた。

「・・・・・・」

 大吉は黙り込んで耳を真っ赤にさせていた。

「なに、お前のおかあさんスギちゃんなの? ワイルドだなぁ~」

「「あははははっ‼」」

 俺のモノマネにせりかと千晴が腹筋をおさえながら大笑いする。

 はあ。とため息を吐いてから、恥ずかしそうにしている大吉は口を開く。

「お前にだけはいじられたくないと思って、さっさと弁当食ったのに・・・まじあのクソババア」

「おいおい、自分のかあちゃんにそんなこと言うなよ。面白くていいかあちゃんじゃんか」

「そうだよぉ~、ちゃんと気が利くし」

「ほんまやで、大根おろしもつけてくれてたからなあ。ええお母さんや」

「大根丸まる1本と、すりおろし器付けてんのが、気が利いてるって言えるかよっ!」

 大吉はますます顔を真っ赤にしながら憤慨する。

「あのババア、ちょっと文句言ったらこの仕打ちだぜ」

 すり下ろさずに大根丸まるを入れたのは、食中毒を気にしてだろうか、それともお茶目な意地悪なのだろうか。

 それでもババア呼びはひどい。全く大吉は、いつまで反抗期をやっているのだろうか。

 絶対こいつ、いまだに自分の部屋にお母さんが勝手に入ったらブチギレするタイプだな。

 ここは大吉のお母さんのことを思って、息子を怒ってあげることにしよう。

「あんまババア、ババアってひどい呼び方すんなよ。弁当作ってもらってるだけ感謝しろよ、じゃがいも野郎。コロッケパンにすんぞっ!」

 俺はコロッケパンの包装を破りながら言った。

「いや、お前のじゃがいも呼びの方がひどいだろっ!」

 大吉は憤りながらツッコんで、自分を落ち着かせるようにため息を吐き、話しを変える。

「はあぁ。それでお前はこんな時間までなにしてたの?」

「いや、まあ。・・・ちょっとな」

 俺はわざと含みを持たせて言った。

「なんだよもったいぶって。まさか、朝倉とヤったわけじゃあるまいな?」

 すると、大吉は俺の想像通りに、下卑た笑みを浮かべながらそう言ってきた。

 その笑みはキモ過ぎて、千晴とせりかが汚物を見るような嫌悪した表情をする。

 ここで大吉を陥れるのも悪くないが、しょうがないからこのノリにのってやろう。

「保健室でな・・・まこちゃんに、その、あんまし言いにくいんだが」

「な、なんだよもったいぶって」

 俺がなにかあったかのように言ったら、大吉は前のめりになった。

童貞ボーイが一匹連れた。

ちなみに千晴とせりかは俺らの猥談に巻き込まれないようにと、2人でなにか動画を見ながら盛り上がっている。

「まこちゃんにゆっくりとな、いれてやってた」

 もちろん淹れてやってたのは紅茶のことだが・・・。

「イれて、ヤッてた⁉ ま、まじかついに手出しやがったのかよっ! そ、それでどんな感じでヤッたんだ⁉」

 この童貞ボーイはこんな風に解釈してくれる。

「どんな感じでやったのかってか。まあ、工程はいろいろあるが。大事なのはしっかりつけて、時間をかけて蒸らすことだ」

 もちろんティーバックをお湯につけて、茶葉を蒸らすことを言っているのだが・・・。

「付けるって、やっぱり避妊は大事なんだな。そんで、む、む、蒸らすってのは、な、なに、パンティーのことかっ⁉ 蒸らしパンティーって、めっちゃエロイな。で、その朝倉のパンティーはどうしたんだよっ⁉」

 この自家発電カピカピティッシュ製造工場はこんな風に解釈してくれる。

「蒸らしたティーバックは捨ててやった」

「パンティーって、ティーバックだったのかよ。朝倉意外とそうなんだな。そんでそれ捨てたのか。もったいねぇ~」

 このじゃがいもは、どこまで童貞なのだろうか。

 こいつの童貞力には、ナッパも、ベジータも、フリーザもびっくりだろうな。たぶん53万をゆうに超えていると思う。

 だめだなコイツは。と俺が大吉に思っていると、心底辟易した様子の千晴が口を開いた。

「どうせ紅茶かなんか淹れてやったって話しやろ? もう、ええねん。あと、住吉の反応いちいちキモイわ」

「ほんとだよぉ~。亞流斗に朝倉先生をどうこうする度胸があるわけないじゃ~ん」

 千晴の言葉に大吉は本当に傷ついたように肩を落とし、続けて言ったせりかの言葉に俺がへこんだ。

 ・・・俺って、女の子から度胸ない童貞だと思われていたんだ。恥ずかしい。もっとイキっていこ。

 俺は食べ終わったパンの包装たちと飲み終わった紙パックをそっと綺麗にたたんだ。

「それでもやっぱり朝倉先生って、亞流斗には優しいよなあ」

「うんうん、せりかにはぜんぜん保健室で休ませてくれないし、紅茶も出してくれないよぉ~」

 千晴が頬杖をつき唇を尖らせながらそう言って、それにせりかが同意した。

 まあ、俺がまこちゃんに紅茶を淹れてるんだがな。

「ほんま亞流斗って年上キラーやな」

「ほんとそれな! だって、せりかのダンス部の先輩たちも、ちょくちょく亞流斗くんって可愛くて面白いって言ってるよぉ~。あっ、それにこないだ、えりか先輩たちと一緒にティックトックとってなかったぁ~?」

「ああ、男手が欲しいって言われて、えっちゃん達と一緒に踊った」

「まぢですごいよぉ~」

「なんですごいんだよ。あの人達おもろいし、優しいじゃん」

「いやふつうに怖いからぁ~。せりかたち怖くてあんま話さないしぃ~」

「へぇ~、そうなんだ」

 意外にもダンス部も上下関係がしっかりあるらしい。

 ダンス部の先輩えっちゃん、江夏えりかはダンス部の主将で派手系ギャルの頂点みたいな人。

「こいつうちの先輩たちとも仲いいんだぜ」

「野球部の?」

 大吉が俺を指さしながらそう言って、千晴が首を傾げた。

「そうそう、だって部内連絡たまに亞流斗からくるし」

「それはお前があっくんのライン返さないからだぞ」

 野球部のあっくん、大森篤紀は野球部主将で体育会系ゴリラの頂点みたいな人。

「うちのキャプテンをあっくんって呼ぶなって」

 大吉が呆れた顔で言って、千晴が続ける。

「ほんまこいつの交友関係えぐいよな。さすがリアルで友達1000人行く男」

「でも、いくら友達多くても、俺の周りで、こんなコテコテの関西弁を使うのは千晴だけだぜ」

「コテコテて、これがうちにとっては普通やから」

「そうは言っても、なんだかんだでこっちに来て結構立つけどな」

 千晴は、中学2年のときに大阪から福岡に転校してきて、もう彼此3年近く経つのだが、彼女の言葉遣いは出会った頃から変わらない。普通の人は、恥ずかしがって地元の方言を隠したり、こちらの方言を無理やり使ったりすると思うのだが。

「まあ、可愛いからいいけど」

「か、可愛いって・・・別に、う、うちは可愛いと思うて関西弁使ってへんわっ!」

 顔を赤らめた千晴が、語気を強めて言葉を続ける。

「うちはどんなに時間が経っても、地元のことを忘れへんだけやからっ!」

「ふ~ん、そーなんだあ~」

 せりかは意地悪そうに、にやにやしながら千晴を見ていた。

「あ、でも眠い時とかは、こっちの方言つかうよな」

「うそやん、つかってへんよお~」

「いやいや、こないだ千晴んち泊まったとき、めっちゃ使ってたからな」

 そう、こないだ千晴の家に泊まってたとき、「よかやんね」とか、「もう限界ちゃけど」とか、めっちゃ言ってた。あれはおもろかったし、可愛いかったな。

 俺がパジャマ姿で寝ぼけた千晴を思い出していると、狼狽した様子の大吉が口を開く。

「ちょっ、ちょっと待って。なにお前、雨野んち泊まったの?」

「ああ、泊まったけど?」

「なんだよその反応! 澄ました顔で『ああ、泊まったけど?』じゃねーよ! ま、ま、ま、まさか、同じ部屋で寝たとか言わないだろうなっ!」

 大吉はうるさいくらいに鼻息を荒くし、大声を出した。

「逆になんで泊まりに行って、別々の部屋で寝るんだよ」

「まじかよこいつ。そんで、そ、そのエロいことしたの?」

 まじでこいつの童貞力半端ないな。

 別に男女が一夜ともにしたからといって、必ず間違いが起こるわけではない。

 この世には、男女の友というものも存在するのだ。

世の中には、男女に友人関係は成立しないとほざいているやつもいるが、やつらはだいたい童貞で、四六時中スケベなことを考えている・・・いや、それなら俺も当てはまるか。

 とにかく男女の友は成立するのだ。

 俺は大吉の誤解を解く。

「なに勘違いしてるか知らないけど、普通にせりかもいたからな」

「そぉーだよぉーん。せりかもいたよぉーん」

「いやいやいやいや、いたよぉーんじゃないって。もしかして女2に、男1?」

「ああ」

「やばっ! おまえ、やばいなっ‼ なんで俺誘わねんだよ! 誘えよっ‼」

 大吉は本気で悔しそうに恨めしそうにそう言う。

 その顔と必死さはドン引きものだった。

「ふつうに住吉は家入れたくない」

「せりかもすみよっしーにパジャマ姿とか見られたくなぁーい。そもそもお泊まり会するほど仲良くないしぃ~」

 千晴が辛辣にそう言って、せりかは冗談交じりにそう続けた。

「・・・゛ええっ?」

 大吉は鶏が絞殺されるような声を出す。

「ぷっ」

 その声は間抜けすぎて俺は思わず吹き出した。

「ひ、ひでぇーよ。なんでだよ~」

「おまえがいつも下心丸出しだからだよ。歩くキンタマ」

「おれの淡い下心より、こいつの下ネタの方がひどい気がするけど」

「どんまい」

 さすがにかわいそうだったので一応優しい言葉をかけておいた。










3.公爵令嬢に転生したので、クール執事とイチャイチャします。


 昼飯を食べた後、いつも通りに5、6限目の授業を受けて、真面目な担任によるお堅いSHRが終わると、俺のいつもの学校の1日は終わった。

 これからは、各々が部活やバイト、そして、遊びに行ったり、家に帰ったりと自由に過ごす時間。

 もうすでに大吉はグラウンド、せりかは空き教室に部活のために向かって行った。

「亞流斗、今日バイトやろ? 一緒に帰ろっ」

 だらだらと俺が帰りの準備をしていると、じゃらじゃらと謎のストラップのついたスクールバックを肩にかけた千晴が、俺のもとに来た。

「おっけー、帰ろうか」

 俺は席を立つと、机の横にかけていたエイソスのリュックを背にかけて、千晴と並んで教室を出た。

 ざわざわと放課後の喧騒が広がる。野球部のランニングの掛け声や、吹奏楽部の楽器の音、演劇部の発声練習の声。いろんな音が聞こえてきた。

 俺は靴箱から学校指定の黒のローファーを取り出して、踵をつぶさないように丁寧にそれを履いた。

 時間は16時を過ぎたくらい。まだ太陽はあいかわらず元気に働いていた。

 俺たちは駐輪所に向かって並んで歩く。

 俺は自転車通学で、千晴は電車通学。帰り道は全く違うところではあるが、俺はバイトには、七隈駅まで自転車で行き、そこから地下鉄に乗ってバイト先に向かう。そのためバイトがあるときは大抵、千晴と一緒に帰っていた。

 南口近くにある、おんぼろのトタン屋根の駐輪所。紺色のジャイアントのクロスバイクを見つけると、かけておいたダイヤル式のチェーンロックを外す。そしてカンッとスタンドを蹴って、カタカタと自転車を押しながら、千晴の歩幅に合わせて歩き始める。

「結局、亞流斗はなんのバイトしてるん?」

千晴が綺麗な瞳でこちらを見つめながら尋ねてきた。

「だから内緒だって」

「なんでや、教えてよお」

「やだよ。教えたら邪魔しに来るじゃん」

「いかへんよお~」

 千晴はぶうぶうと口をとがらせる。

 もちろん、邪魔しに来るとは言ったが、千晴がうちのバイト先に来て迷惑になるような行為をするとは思っていない。

だが、俺のバイトは少し特殊で、あまり人には教えたくないものだった。

俺のバイト先を知っているのは学校では1人だけ。その人も、たまたま俺のバイト先を訪れただけで、俺からは誰にも言っていなかった。

「も、もしかしてママ活とかしてへんやろうなっ⁉」

 なにを想像したのかは知らないが、顔を真っ赤にした千晴は俺の自転車のサドルをつかんで歩みを止める。

 まこちゃんといい、千晴といい、なんで俺がママ活していると思うのか。俺はそんなに奥様に買われていそうなのか。

「やってないから。お金持ってる奥様方に俺が相手されるわけないだろう」

「ほ、ほんまやろうな?」

 まだ信じていないのか、千晴はサドルを離さない。

「俺が体だけの関係なんてもんを望むとでも思うか?」

「・・・思わへん。そうやな、亞流斗はまじめだもん」

 俺が真剣な顔をして千晴を見つめながらそう言うと、千晴は目をそらさずに俺の顔をじぃーっと、下から真っすぐ見つめ返してきた。

 真面目と、面と向かって言われるのは、少々こそばゆい。

 そんなむずがゆさを感じながら、千晴を見つめる。・・・てか、こいつの顔ってほんと小さくて、可愛いな。

千晴の瞳は純真な宝石のようで、頬は夕日のように赤くなっていた。

 自然と俺らは無言で見つめあう。

なんだが先に目を離したら負けなような気がして、俺も千晴も顔を逸らさない。どんどん千晴の顔は赤くなっていって、俺も自分の顔の体温が上がっていくのがわかった。

「ぷっ」

 1分近く経っても千晴が目をそらさないので、俺はベロを出して鼻を膨らませ目をかっぴらいた。

「あははははっ! なんやねん、その顔!」

 俺の変顔で千晴はツボにはいったように笑い出した。

 俺は少し恥ずかしくなって、ふっと鼻を鳴らしてから変顔を止めた。

「ふふふっ。へんなかお~」

「いまはもう真顔だわ」

「うそやん。変わってへんよお~」

「おいっ、ふざけんな」

俺がツッコむと、千晴はふふふっと鼻で笑ってサドルを離した。

「・・・うちもなんかバイトか、部活かしようかなあ~」

「ん? どして、急に?」

「いやなあ、なんかこのまま過ごしてて、ええんかな思うて」

千晴は苦笑いして話を続ける。

「せりかはダンス部でちゃんと青春しとるし、亞流斗もバイトで社会経験しとる。ほかのみんなもいろんな事やっとるから、うちもなんかやらへんといけん気がして」

「べつにみんながやってるから、自分もやらないといけないってことはないと思うぞ。それに目的もなくやっても続かんだろうしな」

「そうやな・・・でも、さ、なんか部活とかって青春って感じあるやん。そんなんあると、やっぱり高校生活がもっと楽しくなりそうな気がする」

「まあな」

 たしかに漫画やドラマの高校生たちはおおかた部活に入っているし、高校生の熱いイベントといったら甲子園やインターハイな気もするし、青春=部活っていっても過言じゃないかもな。

「でも、2年のこの時期に部活入っても邪魔かあ~」

「そうだな。新チームになってまとまり始めた時期だろうしな」

今はもう5月半ば。新入生が4月に入り、ゴールデンウイークを過ぎて、チームがまとまりだした時期。しかも、もうそろそろインハイ予選も始まるだろうから、今から入っても邪魔だろう。それに、俺らはもう2年生だった。

「もう、テニスはやらないのか?」

「うぅーん。うん、もうやらへんかなあ~」

俺は疑問に思っていることを尋ねると、千晴は歯切れ悪く答えた。

千晴は中学のときは硬式テニスをやっていた。しかも3年のときは、キャプテンを務めて、県大会の団体で準優勝し、九州大会に出るくらいの実力があった。

もちろん、うちの高校にもテニス部はあったが、なぜか千晴はテニス部に入らなかった。

まあ、ここでそのことを深堀するのは野暮なので、ほかのことを提案する。

「じゃあ、新しく部活を作るなんてどうだ?」

「部活を作る? それって大変やないの?」

「大変っていえば、大変だけど。やってやれないこともないぞ。申請して許可が出れば、生徒会もいろいろ手伝ってくれるしね」

「そうなんや~」

なぜ俺がこんなことを知っているかというと、以前、部活を作る手伝いをしたことがあったからだ。

それは去年の冬のこと。当時の担任の依頼で、eスポーツ部を作る手伝いをした。ちなみに、そのeスポーツ部を作りたいと言ったのは、うっちーだったりもする。

俺はもうそのときには既に、生徒会長とも知り合いだったので、eスポーツ部を作りたがっていたうっちーと、知り合いの生徒会長を繋げ、両方の立場に立って、部活の顧問を探してお願いしたり、部活場所を確保したりと、まあまあ色々頑張って部活を作った経験があった。

「部活を作るってのは、考えたこともなかったわ。でも、それなら上下関係とか、部内派閥とかも気にせんでええやろうし、自分たちで作るってのも楽しそうやわ」

「まあな。でもちゃんとした活動内容がないと申請は通らないぞ」

「ふふふっ。さすがにアニメで、でてくるような変な部活は作られへんか」

「もし変な部活でも作れるってなったら、何部作る?」

「うーん。い、イニシアティ部とか・・・?」

俺の大喜利のような質問に、千晴はしばらく考えて恥ずかしそうにしながらそう答えた。

「ふっ。なんだその意識高そうな部活」

俺が鼻で笑うと、千晴がますます恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながら言う。

「そ、それなら、亞流斗はなんにするんやっ?」

「・・・オッパ部」

「しょうもなっ!」

俺の渾身の下ネタに、間髪入れずに千晴が辛辣に言った。

しばらく歩いた俺たちは七隈駅にたどり着いた。

今この時間は、学生の帰宅時間。周辺には九州一の規模の大学、福岡大学があり、大学生たちは大体この七隈駅か、一つ前の福大前駅で地下鉄に乗るため、いつもこの時間は大学生でごった返す。

特に俺が今から乗る、七隈線の天神南行きは人が多い。

「あ、やばい後3分で電車くるわっ」

慌てたように、千晴がスマホで時間を確認しながら言ったので、俺も同じように腕時計で時間を確認する。

今現在、時間は16時19分。

確かに、あと3分で千晴が乗る、七隈線橋本行きが出発する時刻だ。

「じゃあ、ここでな! バイバイ!」

千晴はスクールバックから定期の『はやかけん』を取り出して、慌ただしく走り出した。

それはまるで落ち着きのない子供のようでどこか危なっかしい。

「気をつけてけよっ!」

俺が千晴の背中にそう声をかけると、千晴は駅に入る階段前で急ブレーキするように立ち止まり、こちらを振り返った。

「うんっ! 亞流斗もバイトがんばってな~‼」

千晴は無垢な笑みを浮かべ、ぶんぶんと犬の尻尾のように手を振る。

俺も釣られて笑いながら、手を振り返した。

それに満足したのか、千晴はニコッと満面の笑みを見せてから、階段を降りて行った。

千晴を見送ってから、俺は自転車を有料駐輪場に止める。

駐輪場の警備員のおじさんには、いつものように「いってらっしゃい」と言われて、俺は軽く頭を下げた。

時間は16時27分。俺の乗る電車は16時31分なので少しだけ余裕がある。

駅の階段を降りて、電車を待ちながら、Bluetoothのイヤホンを立ち上げて、今日の気分にあった音楽を探す。

なんとなくだが、ふと今日、現文の授業中にみた夢のことを思い出したので、『きのこ帝国の傘』を流した。

16時31分。予定時刻ぴったりに、グリーンのラインカラーの入った電車が来た。

案の定、大学生で車内はパンパン、ギュウギュウで、中には無理やり入り込んだ。

もちろん座席に座ることなど出来ず立ちっぱなしの中、ガタンゴトンと電車に揺られる。

真っ暗な地下を走る電車の窓ガラスには、自分の姿が映し出される。耳元で流れる音楽を聴きながら、昔の自分との大きな変化に心底安堵した。

七隈駅から15分、終点の天神南駅にたどり着いた。そこから、駅地下街を歩く集団の波に、乗るようにして進んでいく。

移り変わりの激しいお菓子の専門店、珈琲の美味しいパン屋さん、狭くて店内を行き来しにくい本屋さん、綺麗なお姉さんが営むアパレルショップ、甘い匂いのバスボムの店など、多くの店を素通りして、1番奥の昭和通りに出る階段を登って、地上に出た。

ここは九州最大の繁華街である天神。

まだ時間は17時前だか、ちらほらとラーメン屋や、おでん屋などの屋台の準備がなされており、居酒屋やキャバクラのキャッチ達がぞろぞろと辺りを彷徨っていた。

もうじきすると、この街は成熟し、色気を出して輝き出す。

そんな天神の中でも、今歩いているこの辺の北天神と呼ばれる地域は、アニメショップやメイド喫茶、カルチャー特化型の雑貨屋などが集い、福岡のオタク街とも呼ばれている。

そんな通い慣れた道のりを、いつものように進み歩く。

こんなシルバーといった派手髪でも、この街ではありふれているので恥ずかしくはない。

騒がしい喧騒な道をしばらく歩いて、チェーン店の牛丼屋とパチンコ店の間にある、入り組んだ路地に入り込む。

その路地を抜けると、そこは雰囲気を変えて、静寂で落ち着きのある場所が現れる。

俺はその場所にある4階建ての低層ビルに向かって歩く。ビルの外壁にはシルバーのテナントサインが掲げられていた。

テナントサインの頭にはインフォメーションの文字があり、その下には上から順に、5F ミリタリーショップⅯ14、4F 執事喫茶メアリー、3F ラウンジLILLY、2FBARはがくれ、1F レストラン96と書かれていた。

俺はエントランスに入り、エレベーターでなく、階段を使って上へと登っていく。店のルールで、めちゃくちゃめんどくさいことに、従業員はエレベーターが使用禁止となっていた。

時間を確認すると、17時ちょうど。出勤時間は17時半からだが、出勤前にはいろいろと準備があり、それには時間がかかるため、あまり時間に余裕はない。

出勤前に疲れるのは嫌だが、しょうがないので、一段飛ばしで4階まで駆け上がる。

俺はここの4階、執事喫茶メアリーで働いている。もちろん、執事として。

だからといって、俺は別にコスプレ好きでも、執事好きでもない。ただ、時給が高いからここで働いている。

時給は1500円。この時給は、高校生を雇ってくれる店でここ以外には福岡市内では、まずないと思う。しかもここには指名制度というシステムがあり、指名数で1番になればボーナスが与えられるし、俺は持っていないが、紅茶コーディネーターなどの資格を取れば資格手当も貰えるのだ。

 高校生という限られた時間しか働けないものにとっては、とても有難いし、モチベーションも上がる職場。

 まあ、広告求人は出されていないし、厳しいオーナーの御眼鏡にかなわないと採用されないので、俺以外で働いている高校生はいないけど。

正面のお客様用入り口の重々しい扉ではなく、奥のstaff onlyの扉を開く。

中に入ると、事務所では、店長の本郷さんがパソコン前でなにか作業をしていた。

「おざまーす」

「あっ、おはよう、レオン君。今日もよろしくね」

もちろん店長も執事なので、執事服を着ている。

「はい、これ今日のリスト」

 店長はそう言って、俺に今日の予約リストの紙を渡してきた。

「ありがとうございます」

俺はそれにさっと目を通して、頭に入れた。

 うちの店は完全予約制なので、訪れるお客さんは、必ず予約してから店に訪れる。

予約の多さや、指名の有無で、行う仕事内容も変わってくるので、その日の予約は出勤前に必ず確認しなければならない。

「今日はあまりお嬢様のご帰宅はないけど、レオン君には指名入ってるから頑張ってね」

「はい、頑張りますっ!」

 俺は返事をしてから奥の更衣室に入っていく。

 ちなみに、レオンとはここでの俺の源氏名。この店では、俺はレオンと呼ばれている。

 名前の由来は、「公爵令嬢に転生したので、クール執事とイチャイチャします」という一昨年くらいに流行った、異世界転生系のアニメに出てくる執事の名前から頂いたもの。

 その執事は銀髪で、俺と雰囲気がなんとなく似ているらしい。

あ、ちなみに非公式で、この店のオーナー曰く、そのアニメとの権利関係なんて知ったこっちゃないらしい。

 更衣室に入り、レオンのネームプレートが入ったロッカーを開ける。

ゆっくりする時間もないので、さっさと学校の制服から執事服に着替えなければ。

 やはり偽物でも、一応執事と銘打っているので身だしなみには気をつけなければならな

い。更衣室の隅に置かれた俺の身長程ある大きな姿見で、自分の姿を確認しながら、皺ひ

とつないように注意しながら着替える。

 ここに入った最初の頃は、慣れないリボンタイを結ぶのに苦戦していたが、今となってはさすがに慣れた。

 まあ、着替えるのに慣れたが、着ているのにはいつまで経っても慣れない。

 キッチリと執事服に着替え終わると、次はメイク。

 これもまためんどくさいが、お嬢様方に夢を与えるのが仕事なので、これもしっかりやらなければならなかった。

 ロッカーから無印で買ったメイクポーチと、卓上ミラーを取り出して、パイプ椅子に腰かける。

特に俺は、仮にもレオンを名乗っているので、なるべくキャラに寄せるよう、中2くさい赤色のカラコンをつけることも義務付けられていた。

まじでこの格好は恥ずかしい。さすがにこれでは、いくら仲がいいといっても千晴や、せりかに、知られるわけにはいかなかった。これが、バイト先を誰にも教えたくない理由である。

そして、俺の恰好は特に異質。ほかの執事たちは黒髪黒目で、源氏名も「本郷」や「東雲」など和風の苗字。対して、俺は銀髪で緋色の瞳、で、名前は「レオン」。

俺はもしかしてオーナーから軽いいじめを受けているのだろうか。

 顔にコンシーラを塗ってそんなことを考えていると、勢いよく更衣室の扉が開けられた。

——ボコボコ

「おはよう、亞流斗。相変わらずのマヌケ面だね」

 開口一番に失礼なことを言われた。・・・うん、普通にムカつく。

そんなことを言ってくる、この人は、ここのオーナーの水野裕子。見た目は、40代半ばだが、年はたぶんもっと上。ふくよかで魔女みたいな人。

 さっきここでは、俺は源氏名のレオンで呼ばれているといったが、オーナーとは昔からの知り合いであるため、この店でこの人だけは俺のことを亞流斗と呼んでいる。

——ボコボコ

「ごほっ、ごほっ。おはようございます。会って早々、マヌケ面とは失敬ですね」

「目上の人に、失敬なんて言葉使う方が失敬よ」

——ボコボコ

「ごほっ、ごほっ。はあ、まあ、そのことはいいとして・・・」

 俺はそう前置きして、オーナーがずっと抱えながら吸っている、受け皿と長いパイプがついた細長の壺を見つめ、

「なんで、更衣室でシーシャ吸ってんだよっ‼」

 と、ツッコんだ。

 なぜかこの人は、持ち運ぶタイプではない、水タバコのシーシャを抱えて、ボコボコと音をたてながら吸っていた。

——ボコボコ

 めちゃめちゃシーシャ似合うけど、ここで今吸うのはまじで意味が分からん。

「すぅぅ~、ハアァァ~」

 オーナーは大きくシーシャを吸って、わざとらしいくらいにモクモクした煙を俺に向かって勢いよく吹いた。

「ごほっ、ごほっ。それ持ち運ぶやつじゃないからっ! 煙がイリュージョン並みにすごいからっ!」

「今度、中洲でシーシャバー始めるから試しに吸ってんのよ。お前も吸うかい?」

オーナーはそう言って、シーシャのパイプを俺に向ける。

「吸わんわっ‼」

 もちろん俺はそれを断る。未成年なので吸うわけにはいかない。いまめちゃくちゃイラついてて、落ち着きたくても。

——ボコボコ

「まあ、吸いたいと言っても、吸わさないけどね。それにしても、せっかく人が準備に時間かけて、出落ちモノボケしてやってんのに、反応が悪いわね。もっと笑いなさいよ」

「ごほっ、ごほっ。なんだよ、笑いなさいよって・・・偉そうに」

 めちゃくちゃ傲慢で偉そうなこのババアは、実際偉いし、すごいらしいが・・・。

このババ・・・オーナーは福岡でも有名な経営者で、コンセプト喫茶やコンセプトバーを始め、キャバクラやマッサージ店など多種多様な店を経営して、どれも繁盛させている、福岡のドン的な人だ。

まあ、俺からしたら、普通にイラつくババアだけど。

「で、なに? なんか用があってきたんでしょ? さっさと要件いって出て行ってよ」

「オーナーに向かって冷たい言い方ね。知り合いのヤクザに頼んでボコボコにして、博多湾に沈めるわよ」

「あんたのほうが冷たいよ。いや、冷徹だよ。まじで、どんな所業だよ」

 この人は、本当にそうゆう黒い人の知り合いがいそうで、まじでシャレにならない。

「それかオーナー権限でクビにするよ」

「さっきの聞いたら断然そっちのがいいよ」

「もちろんクビっていうのは、首チョンパのことだけどね」

「なんでたよっ! どこの世界の隠語だよっ!」

「なによ、淫語って、いやらしいわね。欲求不満なのかい?」

「字がちげぇーよ、ざっけんな、クソババア!」

「いまどき女性に向かってクソババアなんて酷い言葉使うとは、お前いまの時代にそぐわないわね。そんなこと言う子には、目ん玉くり抜いて、あんたのちんぽに突き刺すわよ」

「あんたはどの時代にもそぐってないわっ! あと、さっきからいちいちバイオレンスすぎんだよっ! こぇーんだよ‼」

「しぃー。あんまし、大声ださないの。お客さんに聞こえるでしょ」

 オーナーは俺を諭すように言ってきた。

 はあ? ふざけんな。なんで俺が諭されてんだよ。

「大声出してんのは、あんたのせいだよっ‼」

俺はそう叫んでから、一度深呼吸して、自分を落ちつかせる。

すぅ~、はぁ~。ああ~、シーシャ吸いたい。

「で、結局要件はなに?」

「あんた先月、指名一位だったから、ボーナスあげる」

オーナーはそう言って、賞与袋と書かれた茶封筒を渡してくれた。

「お、まじ? あざっす!」

 俺は礼を言って、茶封筒を受け取る。

 中身は、2万5千円。今年に入って貰うのはこれで3回目。まじでこの臨時収入は有難い。

「これからも頑張んなさい。あんたはうちのエースなんだからね」

まあ、このババアはこうやって、飴も与えてくれるから嫌いになれない。

「じゃあ、頑張って今日も働くんだよ」

オーナーは笑顔でそう言って、更衣室から出て行く、

「おいっ! シーシャ持って帰れや!」

 でかいシーシャを床に置いて。

オーナーにシーシャを押し付けてから、メイクを済ませ、白手袋をはめる。そして、タイムカードを押してから、ホールに出た。

ホールには2組のお嬢さまがもうすでに屋敷にご帰宅されていた。

うちの店は、そこまで広くはない。ソファー席が5つに、個室が2つだけ。だからといって、楽ではないし、仕事も多い。

俺はお嬢さま方に優雅に頭を下げ挨拶してから、ホールから玄関に向かって背筋を伸ばして歩いて行く。

もうすぐ次のご帰宅があるのでお出迎えをしなければならない。

ちなみにうちは、お客様のことを「お嬢様」、店に来店することを「屋敷にご帰宅」という。

「お疲れ様です」

玄関につくと、俺はすでに待機していた先輩執事に挨拶する。

「おぉ、レオンやっときたか。遅かったね」

この人は、東雲さん。20代後半で丸渕眼鏡をかけた真面目な人。

東雲さんは、ベテランさんで社員でもある。

「すみません。あのクソババ・・・オーナーに絡まれてまして遅くなりました」

「そうか、それはご愁傷様」

 俺が申し訳なく謝ると、東雲さんは同情したようにそう言ってくれた。

 あのババアは、執事の共通認識でだるい。まあ、だがみんな嫌いじゃない。

「そろそろ、ご帰宅されるかな」

東雲さんの言葉通りにピンポーンというインターホンが鳴り響く。

「「おかえりなさいませ、お嬢さま。お待ちしておりました」」

 俺たちは、声を揃えて優雅にお嬢さまを出迎えた。

ここではお嬢さま方に失礼のないように、優雅な立ち振る舞いや、綺麗な言葉遣いを常に意識しなければならない。その反動のせいか、ここで働くようになってから普段の日常でセクハラ発言や、下ネタが過度になった気がする。

 そんなことは、さておき。そろそろ時間は19時。

 19時から閉館時間の21時まではディナータイム。ディナーといっても、ディナー用のコース料理なんてうちにはないが、酒の提供はあるので、執事喫茶にも関わらず夜もお嬢さまはご帰宅される。

 しかも今日は、19時から俺に指名が入っていた。なので、なおさら気合を入れなければならない。特に、その指名を入れて頂いているお嬢さまは常連で、週2、3回は必ずご帰宅される。いわば、俺の太客のうちのひとりだった。

 ほかの執事に一言言ってから、ひとりで玄関に向かう。

 今回の出迎えは俺のみ。指名があるときは専属執事としてひとりで対応しなくてはならなかった。

 インターホンが鳴り、綺麗な所作を心掛けながら扉を開く。

 そこにいたのは、予約通りに常連のお嬢さまだった。

「おかえりなさいませ、かぐやお嬢様。お待ちしておりました」

 俺が笑みを作ってそう言うと、お嬢さまはふっと鼻で笑ってから、口を開く。

「お迎えご苦労、レオン。では、さっさとエスコートしろ」

 傲慢に振舞うお嬢さまの名は、姫乃かぐや。そう、俺の太客は、俺の現文担当教師でもあるのだった。

「はい、かしこまりました、かぐやお嬢様。それではご案内致します」

 俺はそう返して、かぐやちゃんを個室の部屋に案内する。

 個室は、ゴールド会員のお客様しか入れない。

 個室の中は、部屋の真ん中に、シンプルだが高級そうな白のテーブルクロスが敷かれた四角いダイニングテーブルに、ロココ調の赤いダイニングチェアーが4脚あり、天井にはスワロフスキーのシャンデリア、そして床にはペルシャ絨毯が敷かれている。

 この部屋は、12畳ほどの広さしかないが、オーナー曰く、めっちゃ金をかけているらしい。

 椅子を引いてかぐやちゃんを座らせてから、彼女の膝にナプキンをかける。

そして革製のメニュー表を渡して、彼女の後ろで待機する。

 かぐやちゃんは、ざあっとメニュー表を見て、いつものメニューを注文する。

「飲み物はこの赤ワイン。アラカルトは4種のチーズ盛りと、サーモンのマリネを頂こう」

「かしこまりました」

 俺はメニューを受け取り、頭を下げてから個室を出た。

 サーモンマリネと、チーズ盛りをキッチン担当の人に頼んでから、ワインセラーからワインを選び、オープナーとグラスを取り出す。

そして先にワインを運んでいく。

「失礼致します」

 ワイングラスをかぐやちゃんの近くに置いて、ワインボトルのコルクをオープナーを使って優雅に抜く。

「慣れたものね」

「恐縮で御座います」

 俺はドヤ顔しないように気を付けながら、澄ました顔で言った。

 この栓抜きもここに入った当初は、オープナーの使い方もわからずに苦戦したものだ。

「お注ぎしますね」

「ああ、お願い」

 一礼してから、ワインボトルを片手で持つ。

 グラスから数センチ離して、上からゆっくりワインを注いでいく。

 ワインは空気に触れることで、より香りが引き出され、味わいがまろやかに変化するのだ。まあ、ワインなんて飲んだことないけど。

 グラスの3分の1までワインを注いだら、ボトルを少し上に傾け、流れを止める。そして、軽くひねるようにして持ち上げた。

「ありがとう」

 かぐやちゃんの言葉に頭を下げて、料理を取りに行くために一度戻る。

 キッチンに戻ると、もうすでに料理は出来上がっていたので、トレンチに料理を載せて運んでいく。

「こちらがサーモンのマリネで御座います」

 サーモンマリネは、赤玉ねぎのスライスの上に4切れのスモークサーモンを盛りつけ、ソースにはマスタードソースを使っている。ちゃんとピンクペッパー、パセリとレモンも添えて。

「そして、こちらが4種のチーズ盛りで御座います。本日のチーズは、カマンベール、ミモレット、ゴーダ、ラクレットになっております」

 本日のチーズと言ってはいるが、ほとんど毎日この4種。まあ、そこは雰囲気。

 かぐやちゃんはさっそくチーズに手をつけて、ワインを一口飲む。

「はあ~。この幸福な瞬間があるから、日頃の生意気なガキの相手もしていられる」

かぐやちゃんは満足げな顔をして、棘のある言葉を言ってきた。

「生意気なガキですか・・・? それは、大変で御座いますね」

 俺は自分でも白々しいと思えるくらいのトーンで返した。

「そうなんだ。レオン、私の愚痴を聞いてくれるか?」

 俺の言葉に、かぐやちゃんはここぞとばかりにニヤリと笑った。

「かぐやお嬢様がして頂けるお話しでしたら、喜んで」

 俺は心の中ではため息を吐きながらも、満面の笑みでそう言った。

「実はな、私、高校の教師をしているんだ」

「はい、存じ上げております」

「あれ? 私、教師をしてるって前に言ったか?」

かぐやちゃんはニヤニヤしながら意地悪な顔で尋ねてくる。

ここでは、あくまで執事と主。かぐやちゃんがお嬢様役をやっている限り、俺も執事の役をしなければならない。

それはつまり、今から学校での亞流斗としての素行を嫌味たらしくクドクド言われるとしても、執事として耐えなければならないということだった。

「はい、以前お伺いしました。それに私は、かぐやお嬢様の専属執事。かぐやお嬢様のことでしたら何事も把握しております」

「ふふっ。そうか」

かぐやちゃんは気分が良さそうに鼻で笑う。

「で、話しを戻すけど、私が授業を担当するクラスに、ひとり生意気なガキがいるんだ」

「左様で御座いますか」

「その生意気なガキは、事も有ろうに、私の授業でよく寝るんだ」

「左様で御座いますか」

「それで私が起こして説教しようとしたら、生意気に言い訳して、いつものらりくらりとかわすんだ」

「左様で御座いますか」

「完全にあいつは、私を舐めてる」

「左様で御座いますか」

俺はゲームのNPCのように、同じ言葉で返し続ける。

残念ながら、かぐやちゃんの怒りは収まらない。

「しかも、その生意気なガキは、意外と成績も良いからなおムカつく‼」

「左様で御座いますか」

・・・それは理不尽じゃね? 

「あと、女の子と仲良さそうにしてんのも気に食わない」

「左様で御座いますか」

・・・もう、授業関係ない、ただのいちゃもんじゃん。理不尽どころじゃねえ。

「ほんとに困ったものだ。少しはレオンを見習ってほしいぞ」

かぐやちゃんは嘆くようにそう言った。口元をめちゃくちゃ緩ませながら。

「きょ、恐縮です。・・・その生徒はもっと反省すべきですね」

 もう、こう言うしかない。俺はたぶん口を引き攣らせながら言った。

「ほんとにレオンを見習ってほしいぞ」

・・・なんで2回言ったんだろうか。

その後もかぐやちゃんの愚痴は止まらず。学年主任の愚痴、教頭の愚痴、保護者の愚痴と留まることを知らなかった。

「少し酔ったわ」

かぐやちゃんは少し顔を赤くさせている。それも、そうだろう。もうワインを1本開けているのだから。愚痴っていうのは、相当いいつまみになるらしい。

「どうぞ、こちらをお飲みください」

 俺はそう言って、水の入ったグラスをかぐやちゃんに渡した。

「ありがとう」

 かぐやちゃんは俺からグラスを受け取り、口をつける。

 ぐびぐびと喉を鳴らし一口で全部飲み干すと、酔いを醒まし落ち着かせるように、ふぅーと息を吐いてから、口を開いた。

「愚痴ばかり話してしまっていたが、実は今日、お前にお願いがあったんだ」

「お願いですか・・・それはレオンに? それとも亞流斗に?」

「・・・亞流斗だ」

 かぐやちゃんのその言葉を聞いたこの瞬間から、俺は執事ではなくなった。

俺は、かぐやちゃんの対面の椅子をひいて、だらけきったようにしてそれに座る。 

そして、目の前に残っているチーズの一欠片を口に入れた。

「おいっ! 私の1800円のチーズっ‼」

「せこいこと言わない、言わない」

「私の給料では、1800円は安くないんだよ」

「いいじゃん、どーせここ以外でお金使うこともないでしょ」

「し、失礼だな。まあ、その通りだけど」

 かぐやちゃんは恥ずかしそうに言う。

 でも実際かぐやちゃんのプライベートは、彼女から聞く限り、20代前半の美人教師とは思えないほどの悲しいものだった。平日は仕事仕事で、たまに執事喫茶。休みの日は授業の準備か、アニメ鑑賞、そして執事喫茶。そう、この人の生活には華がなかった。

 俺は憐れみの目をかぐやちゃんに向ける。

「おいっ、その目を止めろっ! あと2個目のチーズに手を伸ばすなっ!」

 俺はその言葉を無視してチーズを口に運んだ。

 ・・・チーズって喉乾くな。

「ほんと切り替え早いな。もう少し夢を見させろよ」

 かぐやちゃんはわざとらしくため息を吐きながら言う。

「白井亞流斗を所望なんでしょ?」

「そうだが・・・」

「残念ながらに、レオンと亞流斗は別人だからね」

「うぅぅー」

 かぐやちゃんは可愛く唸った。

この人はちょいちょい俺にお願いをしてくる。しかも大変なことを。まあ、頼られるののは悪い気がしないのだが。

ちなみにかぐやちゃんは、去年の俺の担任だった。出会った当初は、こんな感じのお茶目な姿など微塵も見せずに、見た目通りに常に孤高でクール。生徒にお願いすることなど全くなかった。

しかし俺は、そんなかぐやちゃんを生意気にも助けてやりたいと思って、勝手にいろんなことをお手伝いした。学級委員長から始まり、文化祭の実行委員、体育祭の実行委員、クラスの成績上げの勉強会の幹事、宿泊研修の総リーダー。まあ、いろいろかぐやちゃんのために頑張ったのだ。そんなこともありつつ、この執事喫茶のこともあり、いつのまにか、かぐやちゃんの信頼を得て、気づけば頻繁に頼られるようになっていた。

「で、お願いはなーに?」

俺がそう尋ねると、かぐやちゃんは神妙な面持ちになり、話し始めた。 

「私のクラスに不登校の子がいるんだ」

 おお、これはタイムリー。ちょうど、保健室でまこちゃんと少し話したな。

「ああ、知ってるよ。たしか、アウロラちゃんだっけ?」

「そうだ。さすがにお前なら知っているか」

「うん、まあね。でも、顔を見たことも、話したこともないけど」

「それは分かっている。あの子が、学校に来たのは1度きりだしな」

「らしいね。始業式の1回だけ来て、途中で帰ったって。5組のやつに聞いたよ」

「ああ。その1回も私が強引に連れてきたんだけどな。・・・あれは良くなかった」

 かぐやちゃんは反省したようにそう言った。

「実はな、アウロラは、私の従姉妹でもあるんだ」

「へぇー」

そういえば名字は姫乃だったか。アウロラという聞き慣れない名前に引っ張られて、姫乃って苗字は薄れていた。

「で、お願いは、従姉妹ちゃんを学校に連れてきてほしいってことかな?」

「ああ」

 かぐやちゃんはどこか悔しそうにそう短く返してから、言葉を続ける。

「・・・・・・もう私には、今のアウロラとどう接すればいいか・・・わからないんだ」

「ん? わからないって?」

「小さい頃のあの子は、とても無邪気で元気な子だった。幼い頃は、日本によく遊びに来ていたし、私も何度かイタリアに行って、アウロラ、そして、あの子の姉のターリアと、よく3人で遊んだものだ。本当にあの姉妹はなんでも興味を持って、活発で、天真爛漫な子達だった。・・・でも、あの子達が小学校に入ったくらいかな。私もあの子たちも忙しくなってな・・・全く会わなくなった。

それでその、久しぶりに再会したら・・・アウロラは、別人のように違う雰囲気の子になっていた。幼い頃のような無邪気さは消え、内気で引っ込み思案、自分に自信を持てない子になってしまっていた・・・」

かぐやちゃんは寂しそうに話しを続ける。

「傷ついたアウロラの心を少しでも和らげるようにと、環境が変わればどうかと、彼女のお母様の勧めで、アウロラはイタリアから日本に来たんだがな・・・まあ、ダメだった。私もいろいろ手を尽くしてはみたが、最近は口も聞いてくれない」

「そうだったんだ」

 俺は相槌をうちながら話しを聞く。

「あの子が転校してから、もうだいぶ時間が経つがまだ1回しか学校に来られていないし、その1回も早退だったからな。ほかの先生たちからは、通信制の高校への転校を勧められている。うちの高校に通うのと、通信制高校に通うの、どちらがアウロラのためになるのは分からないが・・・それでも私は、あの子をうちで学ばせたい。あの子が友達と、無邪気に遊んでいるところを見たいんだ。・・・でも正直あまり時間はないと思っている」

 かぐやちゃんは背筋を綺麗に伸ばしてから、深く頭を下げる。

「あの子の担任の教師として失格だし、あの子の従姉としても心底情けない話だが、お前を頼りたい。白井になら解決できると思っている・・・どうかアウロラを、学校に連れてきてくれないか。・・・あの子の自信を取り戻してくれないか」

 かぐやちゃんはそう言って、しばらく頭を下げていた。

 お願いは、学校に連れてくるだけではなくて、自信を取り戻すもか・・・。

 まあ、話を聞く限り簡単なことではないだろう。俺はアウロラちゃんに会ったこともなければ、見たこともない。彼女のことをなにも知らない。

 それでも、かぐやちゃんの頼みだ。断る理由なんて一つもない。それに、高校生という人生で一番、青春できる時間を捨てるのは、もったいないしね。

「ふふっ。学校でも、どこでも連れてきてやるよ」

 俺は自信満々に言い放つと、かぐやちゃんはゆっくりと頭を上げた。

「・・・頼んで、いいか?」

「まかせんしゃいっ!」

こうして俺は、不登校の女の子を学校に連れてくるという依頼を受けた。





4.餃子は、ラビオリではありません。


 かぐやちゃんからの依頼を受けた次の日の放課後。さっそく俺はアウロラちゃんのもとに向かうことにした。

 かぐやちゃんからラインで送られてきた位置情報を頼りに、アウロラちゃんの家に向かう。場所は六本松駅近くのタワーマンションだった。

六本松は近年、大々的な再開発が進み発展している場所である。駅近くには、科学館や、大きな書店、綺麗な分譲マンション、裁判所や検察庁、そのほか複合施設などいろいろなものがここ数年で建てられて、土地の値段も爆上がりし、人口も増えて、賑わいを見せている。

 俺ら福岡市民からしたら、六本松はなんかちょっとおしゃれな場所だ。

東京で言うと、たぶん六本木あたり・・・うん、テキトーだけど。

そんな六本松は、ここ七隈から地下鉄で4駅だが、今は学生の帰宅ラッシュ中。できるだけ地下鉄には乗りたくない。そのため、今日は自転車で向かうことにした。

 自転車のハンドル中央にあるスマホスタンドにスマホをセットして、いざ発進。

 たぶん15分ぐらいでつくだろう。遅くなって尋ねるのも迷惑だろうから、なるべく急いでペダルを漕いでいく。

 さて、アウロラちゃんにどうやってアタックしていこうか。

 不登校の子に、いきなり知らないやつが来て「学校に行こう」というのはダメだろうからなあ・・・ああ、どうしたものか。

 まあ、なるようになるか。そんなことより初めて行くお家だし手土産を持っていこう。

 その考えに至った俺は、手土産を買いに餃子屋に向かった。

 六本松には俺がよく行く一口餃子の店がある。外れが少なくどこも美味しいのが餃子であるが、そこはまじでレべチで、ふつうに全国で一番うまいと思っている。まあ、あくまで、ほかの県の餃子を食べたことがない俺調べだが。

シャカシャカ、シャカシャカ、ペダルを懸命に漕いでいく。

時間を見ると10分しか経っていない。予想以上に早く、六本松駅にたどり着いた。

六本松駅の向かいにある餃子屋に入り、餃子を1人前と、ニンニク胡椒を頼んでいく。

 いまはちょうどハッピーアワーのお時間だったようで、お持ち帰りでもお会計が半額になった。ラッキー、なんか得した気分。

 それでは、装備も整ったことだし、アウロラ家へ向かって行くか。

 アウロラ家は、想像以上にでかいタワーマンションだった。遠くからでも大きいなあ、と思っていたが、建物の近くに行くと、まじでビビるでかさ。

しかも住んでいる場所は48階、最上階らしい。

 緑のある庭を通って、慣れないエントランスのインターホンを押す。

 まじでスマホで『マンション入り方』って調べといて正解だったわ。

 そんなことを考えていると「はい」という声が聞こえてきた。

それに俺が、

「アウロラさんと同じ学校のもので、姫乃先生に頼まれてきました」

と返すと、綺麗な声で、

「伺っております」

という言葉がきて、エントランスの自動ドアが静かに開いた。

 ネクタイを一度締めなおし、よしっと意気込んでいると、ドアが閉まりだしたので急いで中に入る。あぶね、あぶね。

 そして、たぶん大理石であろう廊下を通り、すんごい格好いい黒のエレベーターに乗り込んだ。

エレベーターで48階までボタンがあるのを見るのは、もしかしたら初めてかもしれないな。潔癖症ではないし、いつもはふつうに人差し指でボタンを押すのだが、なんとなくあまり触っちゃいけない気がして小指でそっとボタンを押す。

鏡に映る緊張した自分の顔を見ながら、最上階まで上がっていった。

 たぶんここは、150メートル以上あるのではないだろうか。耳が少しキーンとなり、窓から見る外の景色は、俺がいつも住んでいる場所とは思えなかった。

 これが噂の億ションってやつか・・・おションベンちびりそう。

てか、手土産に餃子恥ずかしっ。なにがレベチで日本で一番うまいだよ。誰だよそんなの言ったやつ。もっとオシャレなやつにすれば良かった。そうだな例えば、ラタトゥイユとか、トゥルヌドとか・・・それがなにかは知らんけど。

 俺はとりあえず、手に持った一口餃子の入った袋をエイソスのリュックの奥深くにしまっておいた。

かぐやちゃんから教えてもらった番号の部屋に行き、インターホンを押すと、すぐにドアが開き、

「お待ちしておりました。白井亞流斗様ですね」

と、外国の大人の女性が流暢の日本語でそう言った。

その人は、年を重ねたように目尻に皺はあるが、背筋はピンと伸びて、茶色い瞳が綺麗な中年の女性であった。

アウロラちゃんのお母さんかな? と俺が疑問に思っていると、その女性は頭を下げて自己紹介してくれた。

「私は、家政婦のニロと申します」

「家政婦さんでしたか。初めまして、アウロラさんとは同じ学校の白井亞流斗です」

俺も失礼のないようにそう言って、急いで頭を下げた。

 それにしても家政婦さんって現実にいるもんなんだな。金持ちすんげぇー。

「かぐやお嬢様から話しは伺っております。どうぞ中へ」

俺はニロさんに促されて中に入る。

それにしても、かぐやちゃんってリアルでも、かぐやお嬢様呼びされてんのか。あの人、わざわざうちの執事喫茶来る必要なくね?

 そんなことを考えていると、高そうなスリッパを差し出された。

俺は「ありがとうございます」と言って、段差のない玄関でローファーを脱いで、そのスリッパを履いた。

 ニロさんの後ろについていきながら、並んでかけっこできそうな広い廊下を通り、教室くらいあるんじゃないかと思える広さのリビング的な場所に案内された。

「どうぞ、おかけください」

1人掛けのソファーに座るように勧められ、リュックを抱えてそれに座る。ソファーは俺のことを飲み込むように深く沈んだ。正直、座るというより、体を預けるに近い感覚だった。

「お茶をお持ち致します」

ニロさんはそう言って、奥にあるキッチンに向かった。

なんか高校入試の面接を思い出すな、黒染めしてくるべきだったか・・・まあ、ニロさんも黒髪じゃないから、大丈夫か。とりあえず緊張しながらそれを待った。

「お待たせ致しました。どうぞ」

あまり待たずにニロさんがミルクティーと、なんかクッキーっぽいものを持ってきてくれた。

「ありがとうございます」

俺はそのクッキーっぽいものを一つ手に取り、口に運ぶ。

アーモンドの甘さと苦味がして、お酒のような風味が感じられる。食感はホロっと崩れるくらいとても軽かった。なにこれ? と思いながら俺が思わず首を捻っていると、

「そちらは、アマレッティといってイタリアの伝統的なお菓子です」

 と優しく微笑みながらニロさんが教えてくれた。

「そうなんですね。美味しいです!」

俺はそう言って、ミルクティーを一口飲み、もう一つアマレッティに手を伸ばした。

 これはオシャレ美味い。あと名前も、RPGの装備品みたいでカッコいい。かしこさが5あがった。

・・・うん、ますます餃子が恥ずかしい。

「ふふっ。お気に召して頂けて幸いです」

「ごめんなさい。バクバクと」

「とんでもございません。そのように沢山食べて頂けると私も大変嬉しゅうございますよ」

 俺は祖母という存在を知らないが、いたらこんな感じかなと思った。

 それにしても、二ロさんは言葉遣いが綺麗だな。ニロさんの日本語は可笑しな話だが、日本人が使う日本語より綺麗な気がした。

「その、日本語お上手ですね」

「ふふふっ。ありがとうございます。アウロラお嬢様と共に日本へ向かうことが決まってから、急いで勉強しました」

「すごいですね。じゃあ短期間で覚えたってことですか?」

「そうなりますね。ですが、アウロラお嬢様は、日本に来る前から言葉を覚えられていましたよ」

「そうなんですね」

確かアウロラちゃんは昔はよく日本に来ていて、かぐやちゃんとも交流があったって言ってたっけ。だから、日本語上手なのかな。

「ニロさんとアウロラさんの2人だけでイタリアから日本に来られたんですか?」

「はい、左様で御座います。アウロラお嬢様の御家族は皆様お忙しく、世界各地を転々とされていますので」

「へぇー、そうなんですね」

家族が世界を転々としているか~・・・なんか壮大だなぁ。

俺が漠然とそんなことを考えていると、

「なにか匂いませんか?」

と、ニロさんが不思議な顔をしながら言った。

あっ、たぶん餃子だ。臭いが出るものを買ったのは完全に失敗だったな。

 ・・・隠すのは無理か。

そう思った俺は、リュックから奥深くに眠る餃子を取り出した。

「すいません。たぶん、これです。よかったらどうぞ」

俺はそう言って、プラスチックのパックに入った餃子をニロさんに渡した。

「これはラビオリですか? 美味しそうですね」

「・・・はい、そうです。ラビオリてきなやつです」

ラビオリってなに。と思いつつテキトーにそう答えた。

「わざわざ、ありがとうございます。頂きますね」

ニロさんは笑顔でそれを受け取ってくれた。

少しの罪悪感を感じながら、ごくごくとミルクティーを飲み干した。そして、ティーカップを静かに戻してから、いよいよ本題の話を切り出す。

「それで、その、よければアウロラさんとお話しさせて頂けませんか?」

 俺がそう申し出ると、ニロさんは歯切れ悪そうに言う。

「・・・もちろん、アウロラお嬢様のお部屋をご案内することは出来ますが・・・失礼ながら、直接お話しすることは難しいかと・・・」

ニロさんは顔を曇らせていく。

「最近のアウロラお嬢様は、かぐやお嬢様をはじめ、どなたが来られてもお話しされていません。ですので、亞流斗様にもご不快な思いをさせてしまうかと・・・折角来て頂いて大変申し訳ないのですが・・・」

「それでも、お願いできますか?」

「・・・かしこまりました。では、ご案内致します」

俺の少し強い物言いに、ニロさんは渋々の様子でそう言ってくれた。

リビングから出て再度、広い廊下を通る。いくつかの部屋を通りすぎて、一番奥にある部屋を案内された。

ニロさんが、コンコン、コンコンと扉をノックして中に呼びかける。

「アウロラお嬢様、同じ学校の白井亞流斗様が来てくださりました。アウロラお嬢様とお話しされたいそうです」

「・・・・・・」

中からは何も返答がなかった。

ニロさんは申し訳なさそうに俺に頭を下げる。

俺はニロさんに「大丈夫ですよ」と笑顔で言った。

そして、ニロさんと立ち位置を変わるように、今度は俺が扉の前に立つ。

よしっ、作戦Aを開始する。

コンコンコンと3度扉をノックした。

もちろんそれに返事はないが、俺は気にせず中に呼びかける。

「こんにちは。初めまして、白井亞流斗です。アウロラさんと同じ学校に通うものです。良かったら僕とお話ししませんか?」

「・・・・・・」

これにも返事はなかった。

ドアノブに手をかけてみるも、もちろん鍵がかかって扉は開かない。

諦めずに再度トライ。

コンコン、コン

「アウロラさん。こんにちは」

コンコン、コン

「初めまして、白井亞流斗と申します。こんにちは〜」

コンコン、コン

「こんにちは~。お話ししませんか〜」

コンコン、コン

「お元気ですかー? お話ししーましょ!」

コンコン、コン

「やっほーい~」

コンコン、コン

「元気ですかー?」

コン、コッコ、コン、コッ、コン♪

「雪だるまつくろ〜♪ ドアを開けて〜♪ 一緒に遊ぼう〜♪ どうして出てこないーの~♪」

「・・・・・・」

めっちゃ滑った。

もちろんこれにも返事はないし、笑いもなかった。

あれ、もしかしてエルサいる? なんか寒いんだけど・・。

今はニロさんの生暖かい目が、心に染みる。

それでも俺は再びトライ。

コンコン、コン

すると、今度は俺が何か呼びかける前に、ポップな音楽が鳴り響いた。

なんだっけこれ、なんか聞いたことあるな。可愛い歌声と、明るいメロディー。

あ、これ「公爵令嬢に転生したので、クール執事とイチャイチャします」のアニメのオープニングテーマ曲だ。

「失礼します」

ニロさんが俺に一言そう言って、エプロンのポケットからスマホを取り出して、スワイプした。

「はい、ニロです」

それ、電話の着信音だったんだ。

「かしこまりました、アウロラお嬢様」

電話の相手はアウロラちゃんのようだ。流石にうるさくて、嫌気がさしてくれたのか、やっと反応してくれた。

「アウロラお嬢様が変わって欲しいとのことです。よろしければ」

 ニロさんはそう言って、俺にスマホを渡す。

 俺はそれを受け取って、耳に当てた。

「もしもし、き、きこえますか・・・?」

 何かボソボソ聞こえてくるが、何を言っているかはわからない。

 ニロさんのスマホだが仕方なしに、勝手に音量ボタンで音量を上げて、より強く耳にスマホを当てる。彼女の言葉を一言も聞き漏らさないようにと耳を澄ました。

「もしもし?」

俺がそう問いかけると、

「も、も、もしもし?」

と、小さく可愛らしい声で返答があった。

そして、そのまま彼女は息継ぎもほどほどに言葉を続ける。

「わ、わざわざ、来て頂いたことには、か、感謝します。あの、で、で、ですが、わ、私は、今、誰とも話したくありません。私は、誰とも関わりたくありません・・・。ご、ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。あの、ど、どうか・・・・・・私のことは気にしないでくださいっ。わ、私に、か、構わないでくださいっ‼ ごめんなさい。で、では、失礼します」

「ちょっ」

——プッ、ツー、ツー

一方的に話されて、切られてしまった。

びっくりするぐらい早口だったな。こっちから話しかける余裕もなかった。

だが、アウロラちゃんの声が聞けただけでも良しとするか。

俺は耳からスマホを離して、それをニロさんに返す。

「ありがとうございます」

「いえ。こちらこそ、申し訳ありません。気を悪くさせてしまったでしょう・・・?」

ニロさんはスマホをエプロンのポケットに仕舞うと、心苦しいように頭を下げた。

ニロさんの悲痛な顔が心に染みる。

「ぜんぜん気なんか悪くしてませんよ」

俺は笑顔でそう返す。これは本心だった。

吃りながらも一生懸命に話すアウロラちゃん。彼女の「私のことは気にしないでください、私に構わないでください」が俺にはどうしても彼女の本心とは思えなかった。逆にあれは「私を助けてください」というSOSに思えた。

「今日のところはここで帰りますね。また来てもいいですか?」

俺がそう尋ねると、ニロさんは驚いたような表情をする。

「来ていただくのは構いませんが、ですが、あの・・・」

ニロさんは言いにくそうに言葉を詰まらせる。

「いや、また来ます。絶対に」

俺の強い言葉にニロさんはどこか期待するような眼差しを向ける。

「・・・アウロラお嬢様をお願いしますね」

「はい、まかせてください。俺はしつこくて諦めの悪い男ですから」

そう、イキリ童貞はしつこいからな。

 あれから2日経って、今日は金曜日。

水曜日も、木曜日も放課後にアウロラちゃんのもとに出向いたが、残念ながら進歩はなく、アウロラちゃんの声を聞けたのは初日のみだった。

ニロさんに頼んでアウロラちゃんの携帯に電話をかけてもらいはしたが、アウロラちゃんが電話に出ることはなかった。

 まあ、3日もアウロラちゃん家に行ったおかげで、ニロさんとはめちゃくちゃ仲良くなったけど。

 

で、今は昼休み。

 いつもならば、千晴、せりか、大吉と、俺の4人で昼ごはんを教室で食べているところだが、千晴とせりかが今日はクラスの女の子達と食堂で女子会をするということだったので、今は大吉と教室で2人きり。

 野郎とずっと一緒に昼休みを過ごすのは寂しいので、さっさとパンを食べて保健室に食後の紅茶を飲みに行くことにした。

 パンの袋と、カフェオレの紙パックをまとめて席を立つ。

「どこ行くんだ?」

 すると、じゃがいもが寂しそうにこちらを見ていた。

「まこちゃんとこ、保健室だよ。大吉もくる?」

 大吉は少しの間考えて、俺に答える。

「うぅーん。・・・いや、いいかなー。別に朝倉タイプじゃないし、俺の守備範囲外だからな。俺、年上は3つ上までだから」

 なんでこいつはこんなに偉そうなのだろうか。じゃがいものくせにめっちゃ上から言うじゃん。

 俺は大好きなまこちゃんが馬鹿にされたのがムカついたので、じゃがいものマウントをとることにした。

「守備範囲狭いな、それでもショートのレギュラーかよ。そんなんじゃすぐ補欠になるぞ、このホーケー野郎」

「誰がホーケーだよっ‼ そのホーケーって、補欠の略だよな⁉ 俺のアソコの話じゃないよなっ⁉」

「気にすんな。お前は生涯アソコを誰かに披露することなんてないんだから。いいじゃねぇーか、ホーケーでも」

「おいっ、生涯童貞って決めつけんなやっ! 俺のアソコはすごいんだからなっ!」

「お前の下半身事情なんて、素人モノAⅤの最初のインタビューシーンぐらい興味ねぇよ」

「ひどい。俺にも、素人モノAⅤにもひどい」

「うそうそ、冗談、冗談。いつかきっと誰かに披露するときがくるさっ」

「手術ってお金かかるかな・・・?」

「やっぱホーケーじゃねぇーかよ」

「痛いのかな? 俺、痛いの苦手なんだけどな」

「しらねぇーよ。俺じゃなくて、泌尿器科に聞いてこい」

自分の下半身を見つめる大吉にそう言って、俺は席から離れ、教室の隅にあるゴミ箱にパンの袋とカフェオレの紙パックを捨てる。

大吉と猥談して昼休みを潰すほどの時間の無駄はない。さっさと保健室行こう。

俺はそう思ったので、弁当臭がする教室を出た。

昼休みの学校というのは騒がしい。この普通科がある南校舎は特に。

ちなみにうちは5つの校舎棟がある。ぴりついた空気のある、自習室、図書館、特進科の教室がある東校舎。あんまし使われない、選択教室や準備室、謹慎室がある西校舎。現在地の普通科の教室や、進路指導室、職員室などがある南校舎。今から行く保健室や、なぜかテンションが上がる、理科室や音楽室、調理室など特別教室がある北校舎。あまりお世話になりたくない、校長室や生徒指導室、生徒会室がある本館。その他にも、運動部や文化部の部室、食堂、購買などがある別館。まあ、普通に広い。

ほんと移動時間は、休み時間の中には入れないで欲しいと思う。

アウロラちゃんが学校に来たらしっかり校舎を案内してやらなきゃな。

そんなことを考えながら、ガヤガヤとざわめきに包まれた廊下を早歩きで進んだ。

保健室にたどり着くと、すりガラスからは、ぼんやりだか2人分のシルエットが見え、小さくではあるが話し声が聞こえてきた。

だれかまこちゃんに、相談でもしているのだろうか。

入るのを躊躇ってしまうが、ここまで来て引き返すのも面倒。中に入って、邪魔なら引き返そう。

コンコン、コン

保健室の扉をノックして、いつもと違い、今回は扉を開ける前に返事を待った。

「はーい、どうぞー」

中から、まこちゃんの声が聞こえたので扉をゆっくりと開けた。

扉を開くと、薬品か、消毒液かツーンとする匂いが鼻についた。

「おお、白井か」

シルエットの正体は、まこちゃん、そして、かぐやちゃんだった。

「おっす、かぐやちゃん」

「先生に向かって、おっすってなんだ。あと、私をかぐやちゃんと呼ぶな。いい加減、礼儀を覚えろ」

かぐやちゃんはクールな表情でそう言った。

執事喫茶では、俺に、かぐやお嬢様呼びさせてるのによくこんなクールな表情で偉そうに言えたものだ。

「アウロラちゃんのことでも話してたの?」

かぐやちゃんのお小言を無視して、俺はそう問いかけた。

「ああ、そうだ。朝倉先生に相談していた」

「そっか」

「そういえば、アウロラのところに行ってくれてるんだってな。ニロさんに聞いたよ、ありがとう」

かぐやちゃんはそう言って、深く頭を下げた。

「まだ行っただけで、何もしてないから、お礼はまだ早いよ」

「そうか・・・それも、そうだな」

かぐやちゃんは俺の言葉に苦笑いするように微笑む。

「そうだよ。こっから、期待しててね」

それに俺は、苦笑いではなく自信ありげに微笑んで返した。

まだ俺はアウロラちゃんに何もしていないし、何も変えれていないが、ここで諦める気

はさらさらない。もっと頑張る。

俺はそう決意して、話題を変えた。

「それにしても、かぐやちゃんってリアルでもお嬢様だったんだね。ニロさんが、かぐやちゃんのこと、かぐやお嬢様って呼んでたよ」

「いや、あ、あれはっ‼」

かぐやちゃんはクールな表情を崩して、顔を真っ赤にさせながら慌てたように声を上げ

た。

この人はなぜこんなに恥ずかしがっているのかなあ。

執事喫茶では、わざわざゴールド会員になってまで、かぐやお嬢様呼びを俺にさせてるのに。

まぁ、そういうとこがほんと可愛いんだけど。

俺が微笑ましくかぐやちゃんを見ていると、彼女はムッとした表情をしてから言葉を続ける。

「私は別にお嬢様ではない。そもそも、ニロさんは、アウロラのお母様が雇っている方だ。私の使用人ではないから、私は関係ない」

 それもそうか、ニロさんイタリア人だし。

「で、何? あんたは紅茶でも飲みに来たの? ここは喫茶店じゃないのよ」

 ここで、俺とかぐやちゃんの話を割って、まこちゃんがいつものようにそう言った。

 いや、淹れるのは俺だから、喫茶店ではないんだけどね。

 そんなことを考えていると、かぐやちゃんが席を立つ。

「それでは私は、そろそろ職員室に戻ります。朝倉先生、ありがとうございました」

「そうですか? いまから亞流斗に紅茶淹れさせますよ」

 まこちゃんはそう言って、いつもの紅茶を淹れろというジェスチャーをした。

 しかし、かぐやちゃんはそれを断る。

「いえ、昼休み中にやっておきたい仕事がありますので。それに、そいつの紅茶は飲み慣れていますから、結構です」

「あら、そうですか」

「はい、では失礼します」

 かぐやちゃんは頭を軽く下げてから、保健室を出た。

 俺は入れ替わるように、かぐやちゃんがいなくなった黒の回転椅子に座る。

 すると、まこちゃんは俺をジト目で見つめてきた。

「なに?」

「ふーん」

「なんだよ」

「いやべつに~。ただ、姫乃先生、あんたの紅茶飲み慣れてるんだあ~と思って」

 まこちゃんはなにか含みを持たせるようにそう言った。

「いや、あれは」

 俺は歯切れ悪くなってしまう。

 ここで執事喫茶の話をまこちゃんにするのは、俺も嫌だし、かぐやちゃんも嫌だろう。

「いや~、知らなかったわ~。あんたが紅茶を披露するぐらい姫乃先生と仲良かったなんて~」

「なんだよ、それ」

「べつに~。浮気者って思っただけ」

 かぐやちゃんはニヤッと笑いながらそう言った。

 なんだよ、浮気者って。これだから、女ってやつは分からないし、敵わない。

「なに、嫉妬してんの?」

 これが俺の精一杯、これが童貞の精一杯だった。

 俺の言葉にまこちゃんは、

「ばーか」

 といつものように笑いながら言って、俺のすねを軽く蹴った。

「いたっ」

「ほんっと、あんたって昔から年上キラーよね」

「俺にとっては、女の人は全員キラーだけどね」

「はいはい」

 まこちゃんは軽くあしらうようにそう言って、白衣のポケットから加熱式たばこを取り出す。

「一応聞くけど吸っていい?」

「べつにいいけど、その前に紅茶淹れてよ」

「うちはセルフになっております」

「たまには淹れてよ」

「なに、姫乃先生には紅茶を振舞って、私には振舞えないの?」

 まこちゃんは意地悪な顔をする。

 この元ヤンは意外としつこい。いや、元ヤンだからしつこいのか。

 俺は根負けしたように椅子から立って、紅茶を淹れ始める。電気ケトルの中には、沸かされたお湯が入っていた。

まこちゃんは、加熱式たばこにスティックをはめ込む。

「あんたここ3日ぐらい、不登校の子・・・姫乃アウロラさんの家に行ってるんでしょ」

「そうだよ」

「ありがとね。ほんとは私たちの仕事なのに」

 まこちゃんはそう言って煙を吐くと、ゴォオオと空気清浄機がいつものように反応した。

「べつにいいよ。俺も嫌々やってるわけじゃないし。それに、あの子を助けるのは、俺のためでもあるから」

「ん? 俺のためって?」

 俺の言葉に、まこちゃんは不思議そうな声で尋ねた。

 俺は紅茶を蒸らす時間を計るために、スマホでタイマーをセットする。

 そして、形見の革ベルトの時計をはめなおした。

「あの子、昔の俺に似てる気がするんだよ」

「昔の亞流斗に?」

「うん、小さくて弱いだけの昔の俺に・・・」

「ああ、今と違って、可愛かった頃ね」

 まこちゃんは懐かしむような顔をしながら意地悪そうに言った。

 この人は昔の俺を知っている。俺の過去を知っている。

「あの子はいま、いろんなものに縛られてる。だから俺がそれを解いてやりたいんだ。俺が師匠に解いてもらったように、救ってもらったように、教えてもらったようにね」

 俺は思い返した。育ての親、師匠の顔を。傲慢で、我が儘で、無邪気で、偉そうで、テキトーで、口が悪くて、馬鹿な、あの人の顔を。ほんとにあの人は、七つの大罪を兼ね備えたような人だった。

そんな師匠のことを思い返すといつも心が温かくなる。

「そっか。あんたは先輩の代わりになりたいのね」

「うん、俺の夢は師匠みたいになることだから」

 俺がそう言うと、まこちゃんはふふっと笑った。

「それ、先輩が聞いたら泣くかもね」

「いや泣かないね。絶対馬鹿にする。お前みたいなクソガキが私みたいになれるかよって」

「あははっ。めっちゃ言いそう」

「あの人基本、俺を馬鹿にしてたから」

「そうね、あんたを一番可愛がってた。そう思えば、あんたが年上キラーなのは、先輩のせいだね」

 まこちゃんはそう言ってたばこを吸って、煙を吐いた。白い煙は、儚げにそっと空気に溶け込んでいった。


だだだだだだだだだださく

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