ユニットバス
その街は、私にとって懐かしい街だった。
琥珀色のスープが優しいラーメンや、むせながら吸った二階のシーシャ屋。
階段で泥酔した先輩を介抱したライブハウスも覚えているし、待ち合わせの目印にしたサーティーワンアイスクリームの店前も。
今も若いが、今よりもっと若かった当時の私には、わくわくの詰まったおもちゃの箱みたいな場所だった。
気づいたら寄り付かなくなって、というよりも伺う理由がひとつ、またひとつと消えて、なんとなく記憶の中の、大切な思い出の引き出しにしまっていたのだと思う。
二十一時前には着くよと連絡をして、電車に乗った。
正直なところ、今更会って何を話せばいいかもわからないし、お互い困るだけだと思っていた。そしてそれは本当の事なのだろう。
初めて話したのは三年前で、二回目に話したのも三年前。大勢いた中の一人と一人だった。
でも、また会いたいと思っていたのも事実。
口にする事もなく、ただ、小さな小さな篝火のように、ちらちらと心の中に閉じ込めていた。
時間は不平等に進んでいくものだ。これから歳を重ねてまた今を思い返せば、恥ずかしくて目を伏せてしまうのだろうけれど、それでも、あの頃は、なんて思ってしまう。
あの頃は、自分のイタさや青さ、それを補ってあまりある輝きがあった。自分にも、みんなにも。
それを懐かしんだり、羨んだり、そうやって手垢に塗れさせれば、いずれ丸く鈍く輝くと知っている。
そうやって人は、思い出に寄り添って生きていけることを、私はもう知っていた。
改札を出たら、待ち合わせ場所を教えてくれた。
自分の他に誰が呼ばれたかわからないけれど、わかったとてなにも変わらない事を知っている。
そうしてエスカレーターを上がってきたのは、僅かに見知った顔が二人と、君だった。
ああ、変わらないなと思って、でも、やっぱり変わったのかな、気づいてないだけなのかなとぼんやり考えていた。
久しぶり、会えて嬉しいよと笑顔で言った君は、頬を朱に染めていて、そこだけを切り取ってまた心に仕舞い込んだ。
箸が転んでも楽しいのは十代までだと、誰が決めたんだろう。
彼女らはもう少女という歳ではないけれど、それでいいと思う。それが許される時代で、豊かなことだと思う。
家までの道すがら、傘と体の隙間を縫って触れてくる霧雨に笑い、信号で待たされる事に笑い、段差に躓いた事に笑っていた。
玄関を開けると生活の跡を残した部屋が出迎えてくれた。
いそいそ、ずかずかと入り込んで各々が酒を飲む。
すでに出来上がっていた彼女らを横目に、坂道を蛇行しながら転がるような話を聞きつつ、冷えた心地よさを感じていた。
煙草を吸いに行ってくるよ、と中座しようとして引き止められた。
私も吸うから、と、ユニットバスで吸っていいよ、と。
悪いなともおもったけど、気を遣わせ過ぎることと天秤にかけ、言葉に甘えた。
狭いユニットバスで火をつけていたら、彼女も入ってきた。
これで気まずくなれるほど、どちらも子供ではなかったし、大人にもなれていなかった。
私達はまだ不安定で、だけれども既に一部は深沈としていて、それがなんともむず痒かった。
たわいもない事を話して、目を見てはそらして、紅の色と頬の色を見比べ、そしてまた、詰まった息と言葉にできない感情を、煙と共に吐き出した。
どちらから触れたのか覚えていないし、どちらも触れてみたかったのだろう。
ぷっくらとした小指に触れ、手のひらを重ねた。
そうして笑顔のまま顔を近づけて、額にキスをした。
少し話して見つめ合った後、今度は紅い唇と、白い首筋にキスをした。
もっと近づきたくて、それは身体だけではなく、その人の歩んできた歴史や、思考や価値観に触れてみたくて、でも、それをしなかった。
出来なかったではなく、しなかった。
いや、もしかしたら本当は出来なかっただけかも知れないけれど、私はそこで静かにやめた。
今までそうやって関係を持ったことも、それを、互いの承認欲を満たす手段として使ったことも、一度や二度ではないけれど、この時はこれが正解だと思った。
名残惜しさは換気扇に吸い込まれて、後はもう、ただ私とあなたがいるだけだった。
始発が動き出して、静かに街は目を覚ましていた。
駅まで送るよと、君はまだ元気そうで、それが唯々眩しかった。
改札に私達が吸い込まれる直前、目が合った。
人工の光を反射した君の瞳に、小さな篝火を見た気がした。
あのユニットバスくらい世界が狭ければ、これくらいの火でも二人を暖められたかな、なんてぼんやり考えた。
それは私の我儘かもしれないし、君もそう思っていたのかも知れない。
家に帰る途中、もう桜が生き生きとしていた。
十分明るくなった空の下では、遠くにサイレンの音が聞こえた。
鈍くなった身体と、僅かな燻りをシャワーで流そうと、風呂場の扉を開けると、いつもはしない煙草の匂いがした気がした。