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1. 共同トイレ

 性は多摩川、名は菊斎。四月生まれの十九才。一浪して挑んだ大学受験。去年は自分を過大評価して玉砕した。

 今日は大学の合格発表を見に来た。

 少し緊張した面持ちで門をくぐる。既に合格者の番号が書かれた紙が張り出されていた。

 インターネットで確認できるので、わざわざ見に来る必要は無い。だが、ここは受けた大学の中で最後の発表になる。どんな雰囲気なのかも含めて見ることにしたのだ。

 思っていたよりも多くの人が群がっていた。すれ違う人達は笑顔の人や沈んでいる人と様々だ。ここのレベルは俺の成績では十分合格圏内に入る。色々あったが自己採点では合格ラインギリギリだった。その微妙な手応えが周りの感情に揺すぶられる。

「大丈夫だ。合格ラインは超えていたはず」

 その言葉を呪文の様に繰り返し、自分の受けた学科の掲示板を探す。

「この辺だな」

 掲示板に書かれている自分の受けた学科の名が目に入った。

 カバンの中から受験票をを取り出し、受験番号を確認する。

 貼り出されている合格者の番号と、自分の受験番号を交互に見ながら探す。しかし、何度見ても、そこに自分の受験番号は無かった。


 帰る足取りが妙に重く感じる。電車の窓から流れる町並みが白々しく見えた。ドアのガラスに自分の顔が薄っすらと映る。髪はボサボサの少し長めで、顔は整っている程度。決してイケメンというわけではなく普通だ。

 そんないつもの見慣れた顔が凄く情けない顔に見える。

 複数の大学を受験していて、合格したのは滑り止めの一校だけだった。正直、思っていたよりも低いレベルの大学になってしまった。しかも、その唯一受かった大学は冗談半分で選んだ所だった。

 床園大学 文学部 想像言語学科。

 成績はそれほど悪くはなかった。今日の合格発表を見に行った大学も十分合格できる実力はあった。だが、試験中に腹痛になり、本来の実力は出せなかった。

「そういえば、俺の周りの受験番号も無かったな」

 嫌な事を思い出してしまう。


 ◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 試験が始まり、静まり返る会場の中でシャープペンシルを走らせる音やノックする音が妙に大きく聞こえる。

 十五分くらい過ぎた頃だ。

 ぎゅるる。

 あっ。何だか腹の調子がよくないな。最初はその程度だった。

 一旦収まるが、数分後。

 ぎゅるるる。

 うっ。ちょっと腹が痛いな。何か悪い物食べたか? いや、今はそれどころではないのだ。試験に集中しないと。

 どうにか耐えていると、また収まる。だが、数分後。

 ぎゅるるるるるる。

 おっ。かなり、やばそうな感じだ。試験に集中できん。

 ぷしゅーーー。

 出物腫れ物所嫌わず。すかしたので音は出ていない。一瞬、周りのペンの音が止まった気がする。

 ぷしゅーーー。

 ちょっと臭うかな。「うっ」とか「ふぐっ」と言う変な声が聞こえる。

 ぷしゅーーー。

 なんか、「バキッ」という力強くシャープペンシルの芯が折れる音や、「ビリッ」という、聞こえてはいけない何かが破ける音が聞こえた。自分が思うよりも臭いがキツイのかもしれない。犯人を捜すように周りを窺う人もいるので、俺も犯人を捜すような態度をして誤魔化した。


 うまく誤魔化せたのかどうかは分からないが、漏らさず試験を乗り切った。集中できなかったが、それなりに解答できたと思っていた。

 だが、世の中そんなに甘くは無かったということだ。


 ◆◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「どうだった?」

 家に帰ると、うだつの上がらないサラリーマンの親父が、居間でビールを飲みながら、赤ら顔で聞いてきた。

「駄目だったよ」

「そうか。でもよ、一校受かってんだろ。十分じゃねぇか」

「でも、滑り止めの一校だよ」

「いいじゃねぇか。昔から言うだろ、『上見て暮らすな、下見て暮らせ』ってな。大体、馬鹿な奴だから教えてもらう為に学校に行くんだろ。頭が良いは自分で勉強できるんじゃないのか?」

 酔っ払いは不思議な台詞を言うもんだと、つくづく思う。だか、言われてみれば、俺が受かった大学を落ちた奴もいるわけで、そいつらに比べれば十分幸せかも知れないと思うと一気に心が晴れた。


 俺は諦めるのが早い。世の中にはどうにもならない事があると知ったからだ。

 あれは小学生の時。同級生が俺の名前を弄ってきた。

「お前のフルネームって『多摩川菊斎』じゃん。『玉が脇臭い』って、どんな名前だよ」

 それから俺のあだ名が「ワキガ」になった。

 当然始めは嫌がって止めさせようと、必死に抵抗した。だが、名前を変えることはできないし、あだ名も自分で付ける奴はいない。拒否しても呼ぶ奴が辞めなければ変わらないのだ。

 それを知った時、諦める事も必要だと思った。ちなみに、そのあだ名は中学校に上がっても少し続いたが、皆があることに気付いて呼ばれることは無くなった。

 そのあだ名は呼ばれる俺も恥ずかしいが、呼んでる方も恥ずかしいのだ。

 それからは「タマ」と呼ばれるようになった。猫のようだが、「ワキガ」よりは良いので特に文句も言わなかった。


 まあ、そんな事もあり諦めるのが早くなった。そうなると多少の失敗も気にしなくなるので、周りからは大雑把な性格と見られるようだ。

 自分ではそうでもないと思っているんだが。

 さすがにもう一回浪人するのは厳しい。諦めるのが早い俺はその大学へ通う事を決めた。

 ただ、実家から通うには少し遠いので、部屋を借りる事になる。

 毎月の仕送り額を親父と話し合って決める事になった。

「まあ、仕送り額はこんなもんだな」

 親父は電卓を叩いて出した数字を俺に見せる。インターネットで調べた平均額より少し低い。

「もう少し、なんとか……。ほら、教科書とかの専門書って高いじゃん」

 親父は眉間に皺を寄せて、電卓を叩く。

「んー。確か住む所はまだ決めてないんだよな? じゃあ、家賃込みでこの額にしよう。後は自分で調節しろ。やり繰りするのも勉強だ」

 提示された額は平均額と同じ。足りない分はバイトしろと言われてしまった。あと、来年は成績によって多少増減を考えているようだ。頑張らねばなるまい。

 それはさておき、家賃はできるだけ抑えたい。それによって生活の質も変わりそうだ。 早速部屋探しをすることにした。


 ◆◆◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 大学の最寄り駅の近くにある中本不動産という所に来ていた。

 当然、親父も一緒である。ただ、親父はこれも勉強だからと、余計な口出しはしないと言っている。

 俺は、できるだけ安い部屋を借りようと意気込んでいたが、考えが甘かった。

 この時期は借りる人も多いので、良い部屋は全て契約済みだった。多少、住み難くても安い部屋と思ったが、考える事は皆同じ様だ。

「家賃が少し高めの部屋しかないですね。その分、良い部屋だと思いますよ」

 不動産屋のおっさんも少し困り気味だ。少しでも家賃の安い部屋を探していると告げた時点で、難しい顔つきになった。

 困った。家賃が高くなるとバイトを増やすことになる。成績に影響が出そうだ。そうなると来年の仕送り額が減らされる。その分、バイトを増やさざるを得ない。負のスパイラルだ。

「せめて、相場くらいの所は無いですか?」

「申し訳ないですが、何所も契約済みですね。もう一週間早ければ、ご希望の部屋も数件提示できたんですが……」

 俺は親父の方を見る。仕送り額を上げて欲しいと言おうとした矢先。

「仕送り額は変更しないぞ。決められた金額内で、やり繰りできないようじゃ、一人暮らしなんて無理だぞ」

 釘を刺されてしまった。仕方が無いので、もう少し交渉してみる。

「例えば、事故物件とかが安いって噂を聞きますが、そんな部屋は無いんですか?」

「残念ですが、そういう部屋も含めて契約済みです」

「そうですか」

 どうするか悩む。安い部屋を見つけられない俺が悪いので何も言えない。

 悩んでいる俺を見かねたのか、不動産屋は周りを確認してから小さい声で提案してきた。

「あまり良い提案では無いのですが、少し特殊な部屋ばかり扱っている知り合いがいます。公にしないという条件で、ご紹介できますか……」

「えっ? は、はい。誰にも言わないので、紹介してほしいです」

 俺は藁にも縋る思いで、反射的に答えてしまった。


 ◆◆◆◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 「はっはっはっ。中々雰囲気のあるビルだな」

 親父はそのビルを見て言う。そこは人通りの無い裏路地にある寂れたビル。

 中本不動産に紹介された場所だ。

 公にできないらしく、口頭で場所を説明され、ここに辿り着いた。

 少しの不安を抱えながらエレベーターで四階へ上がり、指定された部屋の前まで行く。

 そこには看板などは無く、至って普通の部屋だ。

 変わった物件を扱う不動産屋らしいが、外からでは分からない。

 再度、場所を確認してからインターホンを鳴らす。少し間を置いて「はい」と返事が返ってきた。

「あ、あの。中本不動産の紹介で来たのですが」

 しばらくすると、ドアがゆっくり開いた。初老の男性と目が合う。

 俺は軽く頭を下げた後に中本不動産に書いてもらった紹介状を渡す。その手紙を読んだ男性は俺の方を見る。

「まあ、入りなさい」

「失礼します」

 男性の後についていく。テーブルのある部屋に案内され、座るように言われる。男性は棚からファイルを取り出し、俺達の向かいに座った。

「うちを紹介されるとは運が良いですね」

「そうなんですか?」

「どういう基準で紹介しているのか分からないんですよ。まあ、どうでもいいんだけど。で、どんな物件を探しているのでしょうか? あっ、聞いていると思うけど、うちは少し問題のある物件ばっかりですよ」

 そう言って、楽しそうにファイルを広げる。なんかマニアがコレクションを眺めているような感じだ。

「息子が今年から大学に通う事になりまして。まあ、これも勉強と思っているので、基本的に私は何も口出ししません。息子の判断に任せます」

「えーと、できるだけ安い物件を探していたのですが、時期的に全て契約されてまして……」

「この近くだと、あそこの学生さんか。何人か紹介したことがありますね。確か、この手の物件が人気だったかな」

 開いたファイルをこちらに向けて見せてくれた。確かに相場より少し安いし、部屋の広さも十分だ。

「これは何で安いんですか?」

「これは事故物件ですねぇ。まあ、ここを借りた人達は、そういうのを気にしない人でしたよ。でも、意外と早く引っ越しましたね」

「それって、何かあったんでしょうか」

「さー。詳しくは聞いてないませんね。かなり急いで引っ越してしまいましたから」

「ほ、他のにしようかな……」

 主人のファイルを捲る姿が活き活きとしていた。

「これなんか面白いですよ」

 次に見せられた物件は広い部屋が三つもある、見た目はかなり良い物件だ。それに比べて家賃は安い。

「ここも事故物件ですか?」

「ここは年々傾く角度が大きくなっているんですよ。あと一年くらいは大丈夫だと思います」

「短期間で借りるには良いですな」

 何故か親父が食いついた。

「あっ。わかります? 借りようによっては凄くいい物件だと思うんですよ」

 なんか、親父と不動産屋の主人が盛り上がっている。でも、傾いている部屋なんて駄目じゃん。しかも一年くらいって……。

「できれば、四年は住みたいのですが」

「そうですか。これだけ広い部屋が、こんなに安いのは滅多にないんだけどな。残念ですね」

 主人が再びファイルを捲るが、直ぐに手が止まる。

「ここは、あまり面白みが無いのですが、だいぶ安くなっている部屋ですね」

 開いたファイルをこちらに向ける。その物件は洋間二部屋でかなりスッキリしている。しかし何か違和感がある。

「悪くは無いんですが、なんか物足りないような……」

「ここは風呂無しのトイレが共同となっていますね」

 なるほど、風呂とトイレが無いのか。しかし、今時風呂無しでトイレが共同とは珍しい。だが、それだけにしては家賃が安すぎる気がする。

「他にも何かあるんですか? 家賃が安すぎる気がするんですけど」

「それだけだね。まあ、駅からは少し遠いかな」

 駅から遠いのは覚悟していたから問題ない。家賃も相場の四分の一くらいだ。トイレも共同とは言えあるから問題無いだろう。問題は風呂だな。

「近くに銭湯とかあるんですかね?」

「そうですね。あったと思いますよ。その手の情報は確か備考欄に書いておいたかと」

 そう言われて備考欄に目を移すと確かに書いてあった。徒歩約五分の所にあるようで、

回数券などもあるようだ。考えようによって悪くないな。生活費が苦しい時は、銭湯に行く回数で多少の調整ができるだろうし。

 前の二つに比べると、この物件が凄く良い物件に思えた。俺はこの部屋を借りることにした。


 ◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「これで全部か?」

 親父が段ボール箱を置いて聞いてきた。

 今いる場所は八階建ての賃貸マンション。その五階にある一室を借りた。そこへ引越ししているのだが、業者に頼むほどの荷物は無かったので、親父が運んでくれたのだ。

「うん。それで全部だよ」

 それを聞いた親父は部屋を見回す。

「そうか。しかし、面白い所を借りたな。じゃ、俺は帰るぞ」

「運んでくれて、ありがとう」

「うん。あと、これな。母さんには内緒だぞ」

 そう言って、封筒を渡された。

「何これ?」

 封筒の中を見ると、お金が入っていた。

「場所を考えると自転車とかあった方が楽だろ。入学祝だ」

「ありがとう。大事に使うよ」

 親父は笑いながら帰っていった。

 一人になった部屋で封筒を見つめ、親父の一言を思い出す。

「面白い所か。確かに予想外だったな」

 そう。予想外だったのは共同トイレだ。

 俺のイメージでは学校にあるような男女別れているトイレだ。さすがに便器の数は少ないだろうが、そんなトイレが各階にあると思っていた。

 だが、実際に見て目を疑った。様式便器が一つ。それがエレベーターのようになっていた。つまり各階に共同トイレが有る訳ではなく、この建物内で共同の様式便器が一つしかなかった。

「普通は契約する前に部屋を見るんだよ。勉強になったな」

 これを見た時の親父の一言だ。先に言ってほしかった。俺は家賃にしては十分良い部屋だと思い、すぐ契約してしまった。良い条件の部屋は全て契約済みだったこともあり、少し焦っていたのだ。


 聞いた話によると、設計ミスで最初は通路の両端にエレベーターが一つずつあり、トイレは無かったそうだ。設計段階で気が付かない時点で終わっていると思う。これではあまりにも不便だろうと、エレベーターの一つをトイレに改造したそうだ。

「使用中に別の階の人が使いたくなったらどうなるんですか?」

 その質問に不動産屋が当たり前のように答える。

「使用中は動きません。エレベーターと同じで、ドアの上にある番号がトイレのある階を示しています。オレンジで光っている所が現在トイレがある場所です。使用中は赤に変わります」

 今は三階の所にトイレがあるようだ。不動産屋がドアの横にあるボタンを押す。するとドアの上の番号が三から四、四から五と点灯が移る。そして、チーンという音と共に目の前のドアが開いた。そこには横を向いた様式の便器があった。

「人が入ると使用中に変わります。世界中探しても、こんなトイレは無いと思いますよ」

 不動産屋のドヤ顔に少し引いてしまった。


 ◆◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◇◇◇


 まあ、借りてしまったのだから、そこは割り切ろう。むしろ、あの状況で安い部屋が借りれたのはラッキーだった。そう思うことにした。

 荷物は殆ど無いので、整理するのも時間は掛からなかった。

「とりあえず、この周辺に何があるか確認しておくか。スーパー、コンビニ、銭湯。この辺は確認しておくべきだろう」

 部屋を出て、左右を見る。両方にエレベーターがあるので少し混乱する。

「部屋を出て左がエレベーター。右はトイレだ」

 部屋に鍵をかけながら自分に言い聞かせた。


 外に出て、ふと思う。右へ行けば駅なので、周辺には色々あるはず。ただ、不動産屋との会話を思い出す。

「この近くにお店とかはあるんですか?」

「駅と反対方向にコンビニエンスストアがあったはずです。たしかファミマだったと思います。ここからだと五分くらいですね。あと、その近くに銭湯もあったはずです」

 まずは近くのコンビニを確認しておいた方が良いと思い、駅と反対方向へ行く。しばらく歩くと少し広い道路に出る。周りを見ると左側に駐車場を挟んで店があった。

 思っていた大手のコンビニエンスストアではなかった。建物には『ファミリーマサト』と書いてある。入り口の近くには、のぼり旗が立っており、そこには『元祖ファミマ』と書いてあった。まあ、個人経営の店なんてこんなものだろう。

「いらっしゃーい」

 中にはいるとカウンター越しにアフロヘア―のオッサンがいた。頭の位置が低い。座っているようだ。店主だろうか、あまり見ない光景だ。ちょっと怖い。店内を一回りする。至って普通で、別の意味で期待外れだった。お弁当とサンドイッチが充実していたので、一人暮らしには良いと思う。大いに活用させてもらおう。ただ、今日は場所を確認に来ただけなので何も買わない。と、言いたいが、カウンターからアフロのオッサンが暇そうにこっちを見ていた。手ぶらでは出難いのでガムでも買うことにする。

「君、初めてだよね? 見たこと無いよな」

 アフロが話しかけてきた。

「はい。今日、この近く引っ越してきました。散歩がてらに何があるか確認してるんですよ。でも、通りすがりでコンビニに入る人って、結構いるんじゃないですか?」

「ここを使うのは近所の人ばかりなんだよ。通りすがりで寄るのは車で移動していた人だな。近所の人以外は歩いてここまで来ないよ。学生さん?」

「あっ、はい。今年から大学に通います」

「そっか。まあ、がんばれや。ほい、お釣り」

「はい。ちなみに、この近くに銭湯があるって聞いたんですが」

「あるよ。三軒隣だ」

「そうですか。ありがとうございます」

「おう。たまには使ってくれよな。はっはっはっ」

 見た目びびったが、人は良さそうだ。


 銭湯を見に行くと、まだ営業していなかった。趣のある木で出来た扉が硬く閉ざされている。隣にはコインランドリーがあった。洗濯の事をすっかり忘れていた。洗濯機って幾らするんだろう。近くに家電量販店が有れば良いのだが。

 今は、それよりも銭湯だ。どこかに営業時間や料金が書いていないか探したが見当たらない。すると、扉が少し開いて、お婆さんが出てきた。

「風呂は十五時からだよ」

「あ、十五時からですか」

「あんた、初めてかい?」

「はい。今日、引っ越してきました。銭湯は使った事が無いので、どんなものかと見に来ました」

「そうかい。最近そういうのが多いからね。ちょっと待ってな」

 そう言って、お婆さんはよろよろと銭湯の中に消えていった。待ってろと言われたのに、いなくなったら後で気不味くなる。そう思い待つ事にした。

 しばらくして、お婆さんが銭湯から出てきた。手には一枚の紙を持っていた。ぷるぷる震える手で、それを差し出す。

「これに大体の事が書いてあるから、持って行きな。初めて来た人には渡してるんだよ」

「ありがとうございます」

 その紙には、営業時間に定休日、料金や注意事項など色々書いてあった。

「そんな所に突っ立てると通る人の邪魔になるから、また、後で来な」

 親切なのか厳しいのか分からないが悪い人では無さそうだ。俺はお礼を言い、その場を去った。


 ◆◆◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◇◇


 駅周辺には思ったよりも色々あったので、必要そうな物は揃いそうだ。今日は探索を兼ねた散歩なので、後で買い物リストを作ってから来ようと思う。

 小物を少し買って帰ることにする。時計を見ると十三時を少し過ぎた所だった。駅に来る途中でファミレスのようなものを見かけていた。昼食はそこで食べようと思っていたのでそこへ向った。


 目の前には聞いた事の無いファミリーレストランがある。『ロイヤル・サイゼスト』と書かれた看板を見て何かモヤモヤするが、味には関係ないだろうと店に入る。

「お一人様ですか?」

 頷くとミディアムヘアのウェイトレスが席へ案内してくれた。

 メニューを見ると思ったよりも安い。コストパフォーマンスが良く、大手のファミレスに引けを取らない。これで味が悪くなければ、ここを使う頻度が増えそうだ。

 注文を取りに来たのは先程案内してくれた女性だった。よく見ると結構かわいい。年齢もそれほど違わないようだ。注文のついでに少し話しかけてみた。

「思ったより安いんだけど、特別な日とかじゃないんですよね?」

「はい。価格は変わらないですよ。学生の方が多いので、お手ごろ感が出るようにって店長は言ってましたね」

「学生か。高校生とか?」

「高校生も多いですが、少し行くと大学があるんですよ。そこの学生さんの方が多いですね。駅に行く途中で寄るみたいですよ」

「なるほど。俺と同じ様な奴が結構いるんだな」

 思った事を呟いていた。同じ学校の生徒だと時間が被るかもしれないと考えていたのだ。

「お客様もあそこの学生さん?」

「えっ? ええ。今年からですけど」

「そうなんだ」

 女性はそう言ってから少し前屈みになり小声になる。

「実は私も今年からなんですよ。構内で会うかもしれませんね」

 そう言ってウェイトレスは奥に消えていった。

 頼んだのは和風ハンバーグにライスとドリンクバーのセット。味も悪くないので、ここに来る頻度は増えそうだ。三杯目のドリンクを飲み干して食事を終わらせた。

 お会計も同じウェイトレスだった。その時に感想を聞かれたので、「とても美味しかったです」と少し盛って答えておいた。すると、彼女は「また来てくださいね」と笑顔を振り撒く。少し魅了された気がする。何かスキルを持っているかもと、変な妄想をしながら帰った。


 ◆◆◆◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◇


 ファミリーレストラン『ロイヤル・サイゼスト』のウェイトレスは可愛い子だった。同じ大学らしいが構内は広いので合う事は無いだろう。まあ、あのファミレスは週に何回かは行くと思うので、また会えるかもと部屋で横になりながら考えていた。

 いつの間にか眠ってしまったようで、もう夜になっていた。

「しまった。トイレに行っておけばよかった」

 極力、共同トイレは使わないようにしようと思っていた。大学や駅周辺の店で済ませれば、使う頻度を減らせると考えていたのだ。

 そうは思っていても出るものはしょうがない。部屋を出てトイレの前へ行く。ドアの上にある番号の八の所がオレンジに光っている。ドアの横にあるボタンを押すとトイレが下りてくる。五階に着くと「チーン」という音と共にドアが開いた。そこには様式の便器が横を向いて待ち構えていた。

「なんだろう。初めて見た時より違和感が無い気がする。そういうものなのかな……」

 中に入ると八インチくらいの白黒の液晶があり、自動で電源が入った。そこには『使用時間』と表示されていて、その文字の下には経過時間が表示された。重量で人がいるのを感知しているのだろうか。経過時間は共同だから長く使用しないようにする為だろう。

 閉めるボタンを押す。よく見ると、小さいが手を洗う所も付いている。横のドアを気にしなければ、普通にトイレだ。ふと、ドアの横にあるプレートが目に入る。エレベータの名残か、そこには定員数八名、積載五百五十キログラムと書かれていた。しかも、用途の横には『排泄』と書かれたシールが張られている。多分、下には『乗用』と書かれているのだろう。なんて中途半端な対応だ。

 用を足して、トイレから出る。

「うーん。慣れれば普通に使えるな。無理に外で済ます事も無い気がしてきた」

 五秒くらいすると、ゆっくりドアが自動で閉まった。


 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇


 大学生活が始まってー週間。今の所は何の問題も無く生活している。

 講義が終わり横を見ると、友人が机に体を預けて涎を垂らして寝ていた。名前は信濃柳都(しなのりゅうと)。俺が大学で最初に仲が良くなった友人だ。ナチュラルなショートカットに整った顔をしており、体格は少しほっそりとしている。モテそうな感じではあるが、今の顔見ると残念である。

「信濃、起きろ。講義終わったぞ」

「うーん。分かりません」

「何を寝ぼけている。起きろ」

 体を揺すってやると、ゆっくり体を起こした。ポケットからハンカチを出し口を拭く。

「ここは何処だ?」

「大学の講義室だ」

「西暦何年の?」

「お前はタイムトラベラーか。いいから、昼飯行こうぜ」

 構内の食堂へ移動する。食堂の営業時間は十時から二十時。学食は安くて量があるのだが、メニューの代わり映えが無く飽きる。なので、俺は昼だけ使うようにしている。

 この食堂は八人掛けのテーブルが等間隔に並べられていて、今日は通路側に座った。

 目の前では信濃がラーメンをすすっている。だが、まだ半分寝ているように見えた。

「凄い眠そうだな。寝てないのか?」

「アルバイトで完徹だ」

 そう言って、また一口。そんな信濃を見ていると俺の背後から女性の声が聞こえてきた。

「あっ。柳都」

 その声の方へ信濃が眠そうな顔を向ける。

「なんだ。彼女がいたのか」

「ああ。高校から付き合っている、魚野八海ちゃんだ」

 その魚野がテーブルの横に来た。斜め後ろには女性が一人。友人だろう。

「サークルの事だけど、来週のミーティングは出来るだけ出席しろって言ってたわよ」

「んー。分かった」

「大丈夫? 凄い眠そうだけど」

「バイトで寝てない。いや、さっきまで寝てたか」

 魚野は呆れた顔して信濃を見た後、微笑みながら此方を向いた。

「ごめんなさいね、急に割り込んじゃって。サークルの連絡事項でね」

 魚野は髪が長めで少しふくよかな体型をしている。綺麗と言うより可愛いといった顔つきだ。

 後ろにいた女性がクリッとした目で俺をじっと見る。少し丸顔で髪型はミディアムヘア。

整った顔立ちでとても綺麗だ。何か見覚えのある顔のだが、何処で見たか思い出せない。有名人に似ているのかな? そんな事を思っていたが。

「あっ、お店に来た人ですよね。本当に構内で会うとは思わなかった」

 そう言われて思い出した。引越した日に入ったファミリーレストラン『ロイヤル・サイゼスト』のウェイトレスだ。

「あー。あの時の」

 信濃はビックリしたような表情で俺を見る。

「なんだ。知り合いだったのか」

「いや、知り合いって程でもないよ。ファミレスでちょっと話した程度だよ」

 しかし、本当に構内で会うとは思わなかった。これも何かの縁と思い自己紹介をしておく。

「どうも多摩川です。信濃と同じ学科です」

「平瀬です。信濃君とは同じ高校だったのよ」

「柳都と同じ学科なんだ。もしかして、変な人?」

 魚野は初対面の俺に容赦の無い質問をしてくる。確かに想像言語学科という、何の役にも立ちそうに無い、聞いた事も無い学科に入るのは変わり者が多いのかもしれない。

「信濃と違って、おれは至って普通。冗談で受けたら、ここしか受からなかった」

「待て待て。それじゃ、俺が変な人みたいじゃないか」

 信濃はそう言ってから、ラーメンを一口すすった。

 女性二人はそんな俺達を見て、くすくす笑っている。

 信濃は水を一口飲んでから口を開いた。

「そういえば、多摩川ってサークルとか入って無かったよな。原付愛好会に入らない?」

「えー。会費とかあるんじゃないの? それにバイトもあるしなぁ」

「入会費。年会費は無し。てか、原付が好きな人が集まってるだけだよ。それも、乗るのが好きな人もいれば、見るのが好きな人、弄るのが好きな人と様々だし。あと、先輩と親しくなると、試験の事とか教えてくれるから、メリットもあるよ」

「あー。試験の情報とか欲しいね」

「毎日顔を出す必要も無いよ。バイトは皆やってるし。てか、多摩川って何のバイトしてるんだ?」

「えーと、ファミマで……」

 少し濁し気味に言う。正確に言うなら、アルバイト先はコンビニエンスストア『ファミリーマサト』。数回、弁当を買いに行ったら、アフロの店長に気に入られてしまった。断ると行き難くなる気がして、バイトをする事にした。あそこの弁当は結構美味しいのだ。

 お洒落なカフェでバイトする自分をイメージしていたのだが、現実とは大分違うな。

「へー。ファミマでバイトしてるんだー」

 平瀬さんが、ニヤニヤしながら言う。もしかして、『元祖ファミマ』を知っているのだろうか。俺の目が少し泳ぐ。

「この辺にファミマがあったのか。まあ、いいや。多摩川、今日部室に行くぞ」

「いや、俺はこれからバイトだ」

「じゃ、明日だな。明日は空けておけ」

 なんか、免許も無いのに原付愛好会に入会希望者になってしまった。そんな様子を見ていた二人の女性は「またねー」と言って去って行く。そのうしろ姿を見て、まあいいかと俺は思っていた。


 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◇◇◇◇


「きっくん。これ陳列しておいて」

「了解でーす」

 俺は商品が入った籠を受け取る。アフロの店長、古角真人(こかどまさと)は俺に指示をしてカウンターの奥に消えて行った。

 昼と夕方は、お弁当を買いに来る人でそれなりに混むのだが、それ以外の時間帯になると人は少ない。今も客はいなかった。

 営業時間は二十四時間ではなく、開店は八時からで閉店は二十時以降。遅くとも二十四時には閉店するが、店長の気分次第。

 そんな感じで、かなりアバウトな仕事場だ。つい最近までは娘さんが手伝っていたそうだ。今年は受験生なので、勉強に専念するらしい。

 陳列作業をしているとお客が入ってきた。

「いらっしゃいませ、こんにちは」

 挨拶をすることで、奥にいる店長に客が来た事を知らせる。奥から店長が出てきた。

「いらっしゃい。って、なんだババァ、まだ生きてたのか」

「なんだじゃ無いよ。相変わらず小汚い顔をして。悪いのは口だけじゃなかったんだね。そんな事を言われたら、あんたより先には死ねないよ」

「何言ってんだ。こう見えても、俺は健康に気を使っている。あと四十年は生きるぞ」

「じゃ、あたしゃ、あと五十年は生きるね」

「はっはっはっ。そりゃすげぇや。バケモンじゃねぇか。で、今日は何しに来た?」

「五月の連休に孫が来るから、お小遣いをあげようと思ってね。お金入れるのに何か良いのは無いかね?」

「あー、ぽち袋だな。きっくん対応してくれる? 香典袋を渡しちゃ駄目だよ」

 なんか、すげぇ会話を目の当たりにして、若干引いていた。

「あっ、はい。あとは私が対応するので、店長は奥へ」

「そう? じゃ、頼んだよ」

 ちょっと見るに耐えないやり取りだったので、店長には引っ込んでもらう。

 俺はお婆さんを案内する。よく見ると銭湯のお婆さんだ。

「お婆さん。ぽち袋は此方に置いてあります」

「あんた。こんな所で働いていると、根性が歪むよ。ふーん。これなんか孫が喜びそうだね。これを貰うよ」

 そのぽち袋には、有名な黒い熊のキャラクターが描かれているのだが、商品名には『くま三郎のぽち袋』と書かれていた。どっから仕入れているのやら。

 お婆さんは会計を済ませると、「仕事がんばりな。負けるんじゃないよ」と言って店を後にした。


 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◇◇◇


 陳列作業を終わらせて周りを見るが、客はいない。少し休憩を取ろうとカウンター内に入る。何故か椅子が置いてあって、休む時は使っていいよと言われていた。つくづくアバウトな仕事場だと思う。そういえば、初めてここに来た時も店長がカウンター越しに座っていたような気がする。折角なので、休憩する時には使わせてもらっている。

 ひと息ついていると、お客が入ってきた。

「いらしゃいませー」

「あー。やっぱり、ここでバイトしてたんだ」

「あっ。平瀬さん」

 ファミマでバイトしていると言った時の平瀬の表情が少しニヤついていたので、ここでバイトしているのが、ばれているではと思っていた。

「平瀬さんって、地元の人なんだ。まあ、入学前にファミレスでバイトしてたから、そうだよね」

「そだよ。あそこは高二の時からやってるんだ」

 特に用があって来たわけではないらしい。気になったので原付愛好会について聞いてみた。平瀬も部室に顔を出したのは、まだ一、二回らしい。毎月、月末にミーティングを行っているらしい。何かやりたい事があれば、そこで提案するようだ。一番近いイベントは、新入生歓迎会をゴールデンウィーク前にやる予定。今の所、新入生は四人。

「歓迎会とか苦手だな。終わってから入ろうかな」

「何言ってんのよー、ダメダメ。明日部室に行きなよ。私も顔出すし」

「うーむ。まあ、いいか」

 そんな他愛無い話を少していると、お客が入ってきた。

「あっ。邪魔になっちゃうね。ジュース買って帰ろ」

 平瀬さんがジュースを取りに行って、直ぐ戻ってくる。買う物は決まっていたようだ。 会計を済ませる。

「じゃ、また明日ね。あっ、そうだ。今度の金曜日、うちのファミレスが半額デーなのよね」

「えっ。半額?」

「うん。毎年一日だけやるのよ。良かったら来てね」

「行く。絶対行く」

 平澤の帰っていく姿を見ながら、もう一踏ん張りする為に気合を入れた。


 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◇◇


 テーブルの向かいには信濃がいる。今、俺達がいるのはファミリーレストラン『ロイヤル・サイゼスト』。待ちに待った半額デーで、席が空くまで少し時間が掛かった。時間的に夕食には少し早いが、俺達はこの時の為に昼は食べていない。

 信濃は見ていたメニューを閉じて横に置き、俺を見る。

「今日は付き合うぜ。注文は任せた」

「分かった」

 俺も信濃も気合は十分だ。俺は呼び出しボタンを押す。注文を取りに来たのは平瀬だった。

「お待たせしましたー。来てくれてありがとう」

 と、笑顔を振りまく。

「平瀬さん。今日の俺達はちょっと違う。そう、例えるなら飢えた野獣――」

「俺は多摩川と同じにするから、全部二つずつね」

 信濃が恥ずかしそうに俺の言葉を遮ってしまった。平瀬は少し戸惑っている。俺は咳払いをする。

「注文はいいかな?」

「どうぞー」

「ハンバーグとドリンバーのセット」

「はい。ハンバーグとドリンバーのセットを二つずつですね。ライスは?」

「要らない」

「あら、残念」

 平瀬は拍子抜けした様な表情だ。そうだろう。半額デーだから、高い物を頼むと思っていたに違いない。だが、当然それでは終わらない。

「あと、若鶏とソーセージのグリル。カレーライスとエビドリア。それからスパゲッティのミートソースとタンメン……」

「酢豚と生姜焼きも」

「そうだね。あとヒレカツ。デザートは後で頼もう。とりあえず、これで」

「まて、多摩川。ビーフシチューも美味そうだ」

「それだ! ビーフシチュー追加してね」

「これを二つずつ? あんた達、残さず食べれるの? 少しずつ追加した方がいいんじゃない?」

「何を言うんだ、平瀬さん。料理がテーブルを埋め尽くす所にロマンがあるんだよ」

 俺の言葉に信濃は目を閉じて頷いている。平瀬は苦笑いしていた。


 注文した料理が続々とテーブルの上に置かれる。ドリンクの準備もオーケーだ。信濃と目が合い、お互いに頷く。グラスを持ち乾杯する。

「宴じゃー!」

 ドリンクを一口飲んで喉を潤し、料理に手を付ける。一品ずつ片付けるのではない。目に入った料理を次々と口に入れる。

 周りが興味津々の表情でこちらを見ているが、一切気にしない。

「うめー。腹が減っていたから、余計に美味く感じるぞ」

 いつも食べてる料理も、少しおいしく感じる。

「ああ。昼を抜いて正解だったな」

 信濃はそう言いつつも料理から目を放さない。

 見る見ると空の皿が増えていく。半分くらいの皿が空になった。

「デザートを頼んでおくか?」

 俺が言うと信濃は料理を見渡す。

「ピザが無いな……」

「ふっ。そう来たか。俺はオムライスとから揚げが食いたいな」

「全部、二つずつだ! あとデザートだな。チーズケーキとチョコパフェ」

 追加注文する俺達を平瀬は呆れた顔で見る。

 俺と信濃は追加された料理を含めて、マシンガンの如く料理を平らげていく。空になった皿は下げられていき、終にはドリンクだけ残った。

「うん。もう食えん」

 俺は余韻を楽しみながら喉を潤す。

「あー。なんか何か眠くなってきた」

 なんか信濃が眠そうなので、早々に引き上げる事にした。半額デーなのに、いつもの何倍もの料金を払っている事に少々後悔していた。


 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◇


 目が覚めると夜中だった。ファミレスで、いつもの何倍もの食事をしたので自宅に着くと、ラフな格好になって直ぐ眠ってしまったのだ。

「うーん。何時だ?」

 枕の横にあった目覚まし時計を見ると一時を過ぎていた。もう一眠りと思ったその時。

 どりゅりゅりゅりゅ。

 うぐっ。何か腹痛い。食いすぎたな。

 どりゅりゅりゅりゅ。

 いかん。とっととトイレへ行こう。そう思い布団から出る。

 普通ならそのままトイレに行けば良いのだが、このマンションでは、そうは行かない。共同トイレなので一旦部屋から出なくてはいけない。下着姿で外をうろうろしたら通報されそうだ。まあ、状況は察してくれると思うが、世の中は意外とくだらない事で文句を言う人が多い。できるだけ文句を言われないようにした方がいいのだ。

 とりあえず、ズボンをはき外へ出る。鍵も掛けた方が良いだろう。なかなか面倒くさいと改めて思う。

 どりゅりゅりゅりゅ。

 いかん。トイレに行くまで時間が掛かりすぎだ。トイレの前まで駆け寄り、空けるボタンを押す。だが、扉が開かない。

「え? 何でだ……」

 何回か押すが反応が無い。扉の上を見ると三階の所で赤く転倒している。誰かが使用していた。共同トイレだから、誰かが使っていてもおかしくない。だが、なんでこんな時間にぶつかるのか。

 少し待つが動く気配が無い。こいつも大きい方か。

 そこでふと思う。こんな変な部屋を借りるのだから、俺に似たような人が多いのかもしれない。つまり、量は違えどあのファミレスで、いつもより多く食べた人がこの時間に催したのかも。そんな人が四階にいたら不味いのでは……。

 どりゅりゅりゅりゅ。

 俺は動く。三階でトイレから出るのを待ち構えて、入れ替わりで入った方が確実だ。

 トイレの反対側にあるエレベーターまで行き、三階に下りる。階段はお腹に響きそうなので止めた。

 三階のトイレの前まで来て愕然とする。俺が移動している間にトイレが空いたようだ。

 俺が五階でボタンを押したので、トイレは上に移動している。

 とりあえず、気を落ち着かせボタンを押す。直ぐに下りて来るだろうと思ったのだ。

 だが、トイレは五階で一旦止まってから、すぐ上に行った。そして七階で使用中になる。

「う、うそだろ」

 どりゅりゅりゅりゅ。

「そろそろ、マジでやばいんですけど」

 どうする。このままここで待つか。それとも、また移動するか。

 何か、あまり頭が回らない。動くの辛いが上に戻ればそれだけトイレに近づく。そう思い、五階に戻ることにした。

 どりゅりゅりゅりゅ。

 どうにか、五階のトイレの前まで来た。トイレが七階から下へ移動しだした。よかった。ボタンも押したので、ギリギリ間に合いそうだ。そう思っていると五階をスルーして三階まで行ってしまう。

「あれ、なんで?」

 どりゅりゅりゅりゅ。

 後から知ったのだが、ここのトイレはボタンの押した順番に移動するらしい。例えば一階でトイレが使われている時に八階の人がボタンを押して待つとする。その後に二階の人がボタンを押しても、トイレは先に八階へ行く。そうしないと先に待っていた八階の人が後回しになってしまうからだ。まあ、入れ替わりで入られたら手の打ちようがないのだが、できるだけ公平になるようにしたようだ。

 どりゅりゅりゅりゅ。

 三階で使用中になった。誰かが入ってしまったようだ。

 も……、もう駄目だ。

 一気に力が抜ける。

 重くなったズボンが妙に暖かかった。


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