第十九話
シャリオスが目覚めたのは、本当に一月後だった。
その間、口の中に適当に赤黒い物体を詰め込むだけで、治療は何もしていない。
やきもきしたミルだが、目が覚めるとほっとして涙ぐんでしまった。
「起きられて良かったです」
散々小さくなったことを馬鹿にされ、終始不機嫌顔だったシャリオスは、三日経って歩き回るようになっていた。
こうして元気そうに見えるけれど、シャリオスの身長は縮んだままだった。
「心配してくれてありがとう。もぐもぐ」
シャリオスの実家は、どうやら裏手に巨大な農場があるようで、一家総出で世話をしている。赤黒い何かは畑で採れる果実だ。生臭いが吸血鬼には美味しいようで、収穫を手伝おうとしたところ満場一致で却下された。生き物が近付くとうねって襲いかかってくるらしい。
お金を払おうにも手持ちが少なく、あげられる荷物もない。肉体労働は吸血鬼の身体能力に全て劣っているので、悲しいほど役に立たなかった。
申し訳ない思いでいっぱいだ。
「シャリオスさん、魔法剣士が襲ってきた時の事なんですが、もたもたしてごめんなさい。体が縮んだのは、太陽の光を浴びたせいですよね」
「気にしないでって言ったのに。僕も不注意だったんだ。特上級魔法を使うつもりなかったし、鎧も脱いでたから」
「私を信頼していたから、鎧を脱いだのですよね? そういうわけにはいきません」
しょぼんとしているミルの頭を優しく撫でた。
「それに、移動の時も助けてもらってばかりでした。私は……自分はもっとできると思ってたのです。でもカツアゲに会うし、働いてもお金を巻き上げられっぱなしで、物の正確な値段すらあやふやです。教会にも目を付けられてしまって、目も当てられません。具合の悪いシャリオスさんに頼りっぱなしですし」
ずーんと落ち込んでしまった頭をよしよしと撫でたあと、優しく手を握った。
「皇国に来たのは僕が縮んだのが理由でしょう? ミルちゃんは実家とユグド領しか行ったことないよね? 誰でも始めから上手くできないよ。いても世渡りが元々上手な人だろうし」
僕も失敗ばかりしているよ、とシャリオスは続けた。
「たくさんの失敗から学んで冒険者を続けてる。皆同じだよ」
「……シャリオスさん」
望んでいた新しい魔法の発現は叶った。思っていた物とは違ったけれど。
苦く笑うミルに、口の回りが真っ赤になっているシャリオスは、美味しそうに舐めとったあと、こう言った。
「落ち込むのはおしまい! 身体がおかしくなっちゃうから、明かりを浴びに行こっか」
「明かりですか?」
入国した時も道中も見かけなかったので首をかしげる。ミルは未だに自分で出した明かりを頼りに家の中を歩き回っていた。
「僕もこの身長じゃ手伝いできないし、家を離れても迷惑かけないよ」
と言うわけで、翌朝行く事になったのだが、実は問題があった。
「シャリオスさん、今日もお風呂場まで来るのですか?」
この三日の間、片時も離れず側にいる。てっきり目覚めた反動かなにかと思っていたが、本人は無意識のようで、時々はっとしている。
今も「あれ、なんで僕は自然に付いていこうと……」と頭を悩ませていた。
「小さくなっておかしくなったのかも。なんだか離れがたい」
「血を飲んだ時のようだな。噛んだのか」
「噛んでないよ破廉恥!」
とっさに振り返ると、顎に指を当てたバーミルが立っていた。
彼は顔を赤らめる息子の言葉を信じ、チラリとミルに視線をやる。脂汗をびっしょりかいていたので、誰が見ても明らかだった。
「ふむ、少し話そう」
額をつん、と突かれたシャリオスの目から光が消える。
「えっ、シャリオスさん!?」
「意識を混濁させただけだ、心配ない。――それで?」
う、と反射的に顔を避けながら恐る恐る言う。
「すみません、他に食べる物が無くて、何度か血を飲ませました……」
バーミルは小さく「そうか」と言って続けた。
「吸血鬼は血を飲んだ相手を本能的に気にしてしまう。しばらく続くが、そのうち元に戻る。それまで我慢してもらいたいのだが」
「病気じゃないのですね?」
「ああ。君の血を飲んだとわかれば息子のことだ、挙動不審になるので内緒にしてくれると助かる」
「それはもう、ええ、かまいません」
のたうち回りながら「破廉恥ー!」と叫ぶ姿が目に浮かぶようだ。ミルも避けたい事案である。
背中を見せたバーミルは「よかった」何事もなく去って行く。どこから話を聞いていたのだろうか。気配が全くしなかった。
揺するとシャリオスはすぐ正気付いたので、そのまま脱衣所で待ってもらうことにした。混濁した前後の記憶があやふやになっているらしく、血を飲んだという話題のことはすっかり記憶から消えたようだ。
「ミルちゃんいる?」
「はい」
「ね、いるの?」
「はーい」
「まだ終わらない?」
「はいー」
「本当にそこいる?」
「はいー」
「返事が同じすぎる」
「……」
「え、ミルちゃん!?」
「今」
「あ、良かったいた」
「顔を洗ってるので」
「うん」
「返事ガぼぼぼぼ……」
「ごめんね、三十秒後にもう1回声かけるから……」
「ガポボボボ……」
+
手を取られて玄関を出ると、シャリオスはミルより頭一つ分小さかった。
ちょこちょこと歩いて行くと、時々声をかけられ足を止める。けれど、暗くてぼやっとした影のようだ。親しそうに交わす挨拶のあと、彼らは決まってミルのことを聞く。
「今、一緒にパーティを組んでるんだ。向こうの大陸で面倒ごとが起こったから、いるの内緒にしてくれる?」
「ええよ、ええよ。まぁ何もない所だけど、好きなだけいればええよ。またなぁ坊主」
「またねー」
ばいばい、と下半身が蛇の人へ手を振る。
少し歩くと、見えてきた看板をシャリオスが指さす。
「この先にあるんだ」
闇の中に手を伸ばし、布を捲るように腕をスライドさせると、足下がぼやっと光り始めた。淡い燐光が胞子のようにふわふわと浮かんでいる。触れた端からぱちんと弾けた。
進んでいくと、巨大な丸い明かりがあった。地上から浮いた状態で小さく上下している。まるで水面に浮いているようだ。揺れるたびに小さな光が零れて落ちていく。
「シャリオスさん、目が焼けませんか?」
「平気。この光は直接触れても焼けたりしないんだよ。皆は星の光って呼んでる」
「星の光……」
たしかにポツポツとした光はそう呼ばれるにふさわしいかわいさだ。
頬を緩めたミルは、近付いていく。
周囲には星の光を囲うように小さな子供達が遊んでいたり、なにやら武器を磨いているスケルトンもいた。その中の一人が顔を上げると、軽く手を上げて近付いてくる。
「やぁシャリオス。聞いたよ、帰ってきたんだって? 望みのものは手に入ったかい」
「それがまだなんだ。今は休みに来た感じ。――ミルちゃん、このスケルトンっぽい人は実はリッチだよ。名前もリッチさん。悪くて良い人なんだよ」
「どっちなんですか?」
「大勢の人を救ったけど、国で禁じられてた研究をしてたせいで処刑されて、気付けばリッチになっちゃったんだって」
「いい人ですね」
「でも人体実験用に人を攫ってバタバタ殺してたみたい」
「悪い人じゃないですか!」
慌てたリッチだが「まあいいか」と言いながら頭を掻いた。
「いやぁ、昔は今より命が紙屑だったんで。私もやんちゃしてて」
「やんちゃ」
「リッチになってからは行く場所がないし、どうしようかと思ってたら、この国に行けばいいって教えてもらって。もう二千年くらい住んでるよ。大丈夫、今は犯罪歴ないから」
情報が多すぎてあっぷあっぷしていると、リッチは続けた。
「この国で犯罪とか無理だよ。なまじリッチなので、ほら……死ぬより辛い事って多いじゃないか」
「リッチさん……」
ミルは曖昧に頷く。
「人族を見たのは久しぶりだ。どこか悪いところはないかね? おじさん、この国の住人が丈夫すぎて退屈してるんだよ」
やっぱり危ない人だ、と一人納得しながら首を振る。
残念そうな顔をしたリッチは、お別れの挨拶をすると戻っていった。
「星の光は皇国に一つだけある明かりで、魔族のために与えられたものだよ」
光の前でぺたりと座り込むと、シャリオスは隣でそんなことを言う。
身体がぽかぽかするのを感じながら目を細めると、そのまま寝てしまいたくなる。
「魔族ですか?」
「昔はリアンユ皇国の人間を魔族って呼んでたみたい。……いや、今も呼んでるのかな? とにかく、最後の勇者がここに来た時に、星の光をくれたんだって」
「そう言えば、この国には王様がいないとエヴァンジルが言ってました。勇者と魔王は戦ったのですよね? それからどうなったのですか?」
伝説では、魔王が敗れたあと勇者も姿を消し、世界が平和になったと言われている。魔王が支配していた土地も正常に戻ったと。けれどリアンユ皇国は今も恐れられている。
「え? エヴァンジルとあったの? どこで!?」
「聖域の森にいらっしゃいましたよ」
「入ったの!?」
危ないよ、とプンスカ怒られるのに謝りながら事情を話す。
あのときは入らなければ逃げられなかった。幸いなことにエヴァンジルは見逃してくれたのだが。
「ミルちゃんは運が良いのか悪いのかわからないね。エヴァンジルはどんな姿だった? やっぱりお伽噺に聞くような白猫だった?」
「はい。とても大きかったけれど、綺麗でした」
おすまし顔でツンとした口調だった。
感心したようなシャリオスは「僕も目が覚めてればな」とぼやく。
「シャリオスさんは……その、勇者様に悪感情はないのですか?」
「どうして? 勇者は明かりをくれたし……あ、そうか。実は大昔、リアンユ皇国の住人は基本的に国外へ出られなかったんだって。でも勇者が星の光をくれてから出られるようになったし、魔王も生まれなくなったって」
「魔王様はどんな人だったのですか?」
「それが誤魔化して教えてくれない」
周囲を見回すと、大人達はくすくすと笑っていた。
確か世界征服や世界を滅ぼそうとしていると聞いたことがあるが、住民の反応に嫌悪感はなく、微笑ましそうにシャリオスを見ている。もしかしたら、実際は違ったのかもしれない。
「いいのよ、昔のことは」
「そうだそうだ」
「ね?」
ぶすっとしたが、気を取り直したように星の光を集めていく。クッション程度の大きさのものを二つ作ると並べた。
「暖かいから眠くなるでしょう? 僕も昼寝するから枕に使って良いよ」
「え、これ私も触れるのですか!? ……触れました」
光とはなんぞやと考えながらふっかりクッションへ頭を乗せると、一瞬で眠りがやってきた。
夢を見た。
+
『<聖剣よ、大いなる光の精霊よ。使徒を選びたまえ。曇天を切り裂き導きを降らすがごとく、目も眩むような希望の顕現。その勇気ある者を>』
黄金の鐘が鳴る。
澄んだ空に響き渡るような音色と共に、一人の少年と背の高い騎士、魔法使いと神官、そして赤いマントを羽織った巨大な白猫が白い石畳を歩く。
今よりずっと建築様式の古いセピア色の街並みを見て、何故か昔の王都だとわかった。
一行は長い長い旅をし、海を渡って日の差さない大地へやってきた。小さな船に乗った一行を迎えたのは、異形の者達。モンスターよりも強く、けれど知能が無い何か。
向かってくる彼らの悉くを討ち果たした彼らは、闇の中に佇む城へやってきた。
『俺は勇者を冠する者。開門せよ』
錆び付いた音を立てて、固い鉄の扉が開く。黒く見えたのは腐食しているせいで、赤錆がボロボロと落ちた。
中から現れたのは目の覚めるような美姫だった。黒いドレスを纏い赤い目で静かに勇者を見ている。その唇から鋭い牙が覗いていた。吸血鬼だ。
『お前が今回の勇者か』
『そう言うお前が魔王だな』
魔王は問いかけに頷くと、手の平から黒い炎を呼び出す。しかし勇者は抜き放っていた剣をしまうとこう言った。
『エヴァンジルから話を聞いている。勇者の遺物を見たい』
『そなたも無駄な努力をするのか。酔狂なものよな』
溜め息を吐くと魔王は『ついてこい』と背中を見せた。
「勇者の魂が輪廻の輪から現世に生まれたとき、魔王もまた誕生します」
何者かの声が囁く。
女性の柔らかい声だった。
そこで、初めてミルは自分の体を自覚した。今までは遠いどこか、風景に溶け込んでいたように意識がおぼろげだった。
「二人が戦うことは宿命であり、魔王が倒されることで世界は調和を保っていました。多くの種族は調和を支えていた真の守り手を知りませんでした。それで良いのです。世界は上手くいっていたのですから。――けれど三代目勇者は疑問に思い、魔王に疑問をぶつけ、答えを次代に告げるようにエヴァンジルに願いました。彼女は約束を破りません」
その声はこう続ける。
「四代目勇者が答えを受けとったとき、全ての運命は流れを変えました。彼は魔王との闘いではなく、対話を望みました。長い時を経て、彼は魔王を滅ぼします。そして魔王城に資料を残した事を次の勇者に伝えるよう願いました」
エヴァンジルは約束を破らない。
「彼女は、五代目の勇者に告げました」
その次も、そのまた次の勇者も同じように魔王を滅ぼし言付けを頼む。
やがて勇者は世界の真実を知った。
昔々、魔族は星の民と呼ばれていたこと。
昔々、星の民が特別な力で世界の調和を守っていたこと。
昔々、力を恐れた人が星の民を迫害し、変質させてしまったことを。
人々は魔王という架空の存在を創り出し、畏れや恐怖、自らの想像上の化け物を本当にいるかのように話し、逸話を残して次代に引き継いだ。
やがて星の民は人々の心によって姿が変わり、本物の魔王が現れた。
彼らはそう言う種族だったから、自分ではどうすることもできなかった。
「エヴァンジルには望みがありました。口にしたことはありませんでしたが、この惨状を愁いていました。最後の勇者も真実を知り、長い長い時をかけて考えます」
星の民は魔族となり、知性を奪われてしまった。力の強いわずかばかりの民が城を中心に生活するだけとなっていた。
けれど希望がほしいという願望が闇を打ち払う勇者を創り、恐怖の化身である魔王が勇者によって倒されることで、世界の調和が保たれる。
世界の調和を守る力はこの形で残り、魔族はそれを受け入れた。
「星の民が変質する前から、世界の調和は乱れていました。たくさんの世界が滅び、崩れ、時間すら歪み、黒い輪の中へ飲み込まれていきました」
目の前で生きているかのように動く勇者達を見ていたミルは、振り返ると問いかけた。
「迷宮?」
「今はそのように呼ばれております」
うねる長い金の髪に桜色の唇。宝石のような輝きを持つ黄色い瞳が柔らかく細められ、布をたっぷり使った白いワンピースが揺れている。
お久しぶりですと言われ、困惑しながら周囲を見る。
まるで別世界に迷い込んでしまったようだ。場面が彼女の言葉と同時に動いては止まる。
「あの、どちら様でしょうか?」
「光の精霊でございます」
そう言って光の精霊は促した。
「これは過去の光景。どうぞ、見ていってください。――勇者は決めました。星の民が変質してモンスターのようになってしまった。知性を失ってなお永遠に使命を果たし続けるなら、自分も共に行くと」
視線を戻すと、色あせた世界が動いていた。
勇者の姿が少年から男性へ変わっている。
対峙する魔王は変わらず、美しいままだった。
『魔力の巡りが悪くなれば、この世界も千々に乱れ病み、闇に飲まれて消えてしまうだろう』
『それでも俺はやる』
『人々はもはや星の民を忘れた。文明が飲み込まれ歪んだ入り口のみが唯一の繋がりとなった。あらゆるものが滅び、少しの衝撃で崩壊してしまうような状態が落ち着いたのだ。だが、未だ脆い。揺り動かしてはならぬ』
「もちろん勇者にもわかっていました」
『俺とお前の力を合わせ新しい魔法を創ろう。月でも太陽でもないお前達のための光が、苦しみを永遠に遠ざけるように。俺の守る物の中に魔族も含まれるように』
『望まぬ』
『それでも俺はやる』
『この命、そのような行いのために散らせるわけにいかぬ!』
『それでもお前は拒めない。付き合ってもらうぞ、魔王!』
聖剣を抜き放った勇者は魔王に挑みかかった。
突然、視点が変わり、ミルの手は独りでに動き聖剣を操っていた。
目の前には憤怒に形相を変える魔王の姿があった。
『ならぬならぬならぬ! 我が一族は存亡をかけこの世を守護してきた。歪みはやがて正常となるだろう。同情など要らぬ、我ら誇り高き部族であるぞ!』
『だが――は俺達と同じ物を見てみたいと、一人は嫌だと言ったじゃないか! エヴァンジルは――達を助けてほしいと言った。……生まれ変わったその先で再び戦うのか共に歩むのかはわからない。どちらにしろ俺達は死ぬだろう。だが、やる価値のある賭けだ!』
『世迷い言を!』
人の心が飼う魔物が星の民を魔族に変質させたように、闇が光に負けると定められている今、どうあがいても魔王は勝てない。
魔王は勇者に殺されるのを受け入れていたが、世界の調和のためだった。新しい魔法のせいで均衡を崩すことは嫌だった。
大鎌を振るい聖剣を打ち合う。
やがて衣服が裂かれ、血が滲み、足がくたくたになってボロボロになっても、魔王は抵抗を止めなかった。
勇者がどんな魔法を使うのかすら、魔王にはわからない。しかも失敗の可能性まで話されて、受け入れられる方が無理というもの。
『<暗闇の中で囁き続ける悪食が、我らを満たす願望ならば、抗う事こそ愚かなり。身を委ね軟らかな血肉を食らえ。全ての鎖から解放され、膨大な咎を受けるだろう。我らを滅する者どもよ、聞くが良い。深祖より出でし血脈は暗闇へ這いずるのだ>』
魔王の放った魔法は、闇に命を飲み込むものだった。水を撒いたかのように影が形をとって襲いかかる。
勇者を倒せる可能性は、その血液を一滴残らず腹に修めてしまうこと。
ほっそりとした指が勇者の首を捉えたとき、無情にもその腹を聖剣が深々と貫いた。
『嫌だ嫌だ嫌だ! やめろ!!』
『――、わかってくれとは言わない。だが俺達の存在が、お伽噺となるほどの時間が過ぎても続く魔法を創ろう。俺の生まれ変わった先の時間までもを注ぎ込んで。だからごめん、俺と死んでくれ。そのかわり、来世で一緒に冒険をしよう』
『貴様は夢物語ばかりを、口にする。希望を持たせた刹那に、裏切るのだ。この、ぎぜ……んしゃめ』
今や血を流し満足に動けない魔王を、勇者はきつく抱きしめた。
『ごめん。ごめんな……。光の精霊よ、ここに魔王は倒された。褒美がほしい』
聖剣が光り、精霊が実体化した。くるくると回りながら現れた光の精霊は、静かに勇者を見下ろす。
話しかけてきた精霊と全く同じ姿をしていた。
『本当に、それで構いませんか。魔王を倒した褒美を注げば、あなたの最初の願いが叶わなくなるのですよ』
『かまわない』
『あなたは特別な力を失い、幾度生まれ変わっても普通の人となるでしょう。いいえ、もしかしたら他人より恵まれぬ人生を生きることになるかもしれません』
『――の手伝いができないのは困るが、俺は願いを叶えるために生まれた者だから、この道をそれることはできない。人々の願いが安寧ならば、星の民も願われて然るべき大切な人達だ。前の俺も、その前の俺も同じように願ったから魔法書を託したんじゃないのか? なぁ、光の精霊よ! 違うか』
『……しかし』
『それでいいんだ。類い希なる才能も何もいらない。勇者は役目を終え願う者になるだろう。幸せになりますようにと。俺はきっとただの人になるよ』
勇者は魔王を見下ろした。自らの血で口元を赤く染め目尻から涙が流れていた。
魔王は事切れていた。
『お前が誇り高き部族なら、俺は勇者だ。お前達を助けたいよ』
ごめんな、ともう一度謝り抱き上げ直す。
眼前に燐光が収束し、淡い文字となって出現していた。
『その言葉をもって全ての条件が整いました。勇気ある者よ、呪文を』
しばらく見つめていた勇者はこう唱えた。
『<頽れる勇者の蛮勇が、世界を救い滅ぼすならば、焼けた大地を癒やすのも、全てを救うことすらできはしない。酩酊の陽光は輝きを失い、我ら永遠の楔と化し、大地を歩む>』
すると聖剣がひとりでに浮き、勇者の心臓を貫く。
魔王と勇者の血が足下で混ざり広がった。
光が瞬く。
溶け合った二つの肉体は一つの光になっていた。
星の光となっていた。
視点が再び切り替わり、ミルは自分の両手を確かめる。
その後ろで、光の精霊は続けた。
「今、このとき全ての勇者の願いが一つとなりました。新たなる魔法の代価は払われ、大地に水が染みるように、光が闇を裂くように、春の芽吹きが冬の終わりを告げるがごとく咲きました。魔力の奔流は方向を変え、この二つの肉体を核として発動したのです。――魔王は生まれなくなりました。けれど世界の調和が乱れることはありません。世界の形、理とでも言うものが変質したからでしょう」
「知らないのですか?」
ふわふわとした思考が疑問符を浮かべる。
光の精霊は答えた。
「発動させた本人すら詳しいことを知りません。特上級魔法とは、そのような魔法です。星の民が変質したのも、何かしらの代価だったという者もいるくらいです」
「でも、光の精霊なのですよね?」
「精霊は全能の神ではありません」
魔族は星の力を得て、安らぎを享受することとなった。
「魔族は理性を取り戻しました。けれど変質した身体も性質も元には戻りませんでした。星の民は、もうこの世にいません。……エヴァンジルは悲しみました。大団円とは言えない終わりです。仕方ないことでしょう」
そして、と指を向けた先にいるのは勇者と共に魔王の元へやってきたパーティだ。
沈痛な顔をしている。
「彼らは国へ帰り報告をしました。魔法使いは貴族家へ戻り、神官は杖を置き、エヴァンジルも森へ引きこもりました。そして騎士だけは戻ってくると、この地をリアンユ皇国と名付け皇帝となりました。皇国はそうして誕生したのです」
全ての景色が白い雲のようなモヤモヤに変わった。
不思議な夢だなぁと思っていると、頭を撫でられる。
「会いに来てくれて嬉しかった。さあ、あなたの運命が目覚めたようです」
「私の運命?」
「ふふ。目覚めたとき、あなたは全て忘れてしまうでしょう。それでもまた来てください。歓迎致します」
ぱちん、と何かが弾けたような気がして、目を開けるとシャリオスがのぞき込んでいる。
「わ、びっくりしました」
「凄い顔して唸ってたけど、大丈夫?」
「……。変な夢を見た気がします。なんだかこう……ふわっとして意味がわかるような、わからないような。あと、最低最悪男がいたような気がします」
「ミルちゃんが言うって相当だね」
「知っていた気がする壮大な物語を聞いたような気もします。うーん」
「悩んでる」
「……思い出せません、忘れました」
「そっか。とりあえず晩ご飯の時間だから帰ろう? 明日は海辺に連れてってあげる」
「ありがとうございます」
シャリオスはミルの手を引いて歩き出した。
「そう言えば僕も夢を見たよ」
「どんな夢でした?」
「海岸でカニを捕って食べてたんだ。身がぎゅってつまったやつ」
「ぎゅっと」
「少しだけお湯にくぐらせて食べたんだけど、この世のものとは思えない美味しさで」
「美味しい」
「お腹が空いて目が覚めた」