第十八話
「……というわけでして」
「苦労したんだなぁ」
ボロボロと泣いているのは商船すら丸呑みにできそうなほど大きな口のクラーケン。灰色味がかった青い身体で、うねうねと動く吸盤付きの触手がしきりに目を擦っている。
クラーケンの顔は涙でべしょべしょだが、落ちてくる水滴でミルもずぶ濡れだ。
その前に捕まって海に引きずり込まれたので、あまり変わらないが。
「くしゅん!」
「おお、悪ぃなぁ。風邪引いちまうべ」
「いえ、こちらこそすみませんでした。国境警備のお邪魔をしてしまって」
何日もかけて海を渡っていたところ、突然このクラーケンに捕まり「テメェ! どこの島のもんジャァ!」と凄まれたのだが、事情を話すと、すっかり打ち解けた様子である。
「いいんだよぅ。おらぁ、まさか皇国に入国しようとする奴がいるなんて思わなくてよぅ。悪かったなぁ。最近変な船が槍衾投げてくっから気が立っててよぅ」
どこか間延びした言葉で話すクラーケンは「おいちゃんが岸まで連れてってやるよ」と泳ぎ始めた。触手に巻き付かれたまましばらくすると、陸地が見えてくる。
「吸血鬼ってぇーと、南地区に住んでるっぺ。わざわざ心配して国にまで来るなんてこいつは良い仲間に会えたぁ。おいちゃん飴あげるでよ」
「あ、ありがとうございます……」
ねとっとした半透明の何かをもらい、そっとマジックバッグへしまう。蛸壺が張り付いていて、とてもじゃないが食べられるように見えない。
クラーケンと人族では飴の意味が違うのだろうか。
そんなことを思いながらネトネトした右手を何とか拭いていると、砂地に下ろされた。
「その道をまっすぐ行って右だで。誰かに会ったら、吸血鬼のアウリールさんちに行きたいって言うんだぞぉ? クラーケンおじさんが許可出したって言えるべ?」
「はい! 何から何まで、ご親切にありがとうございました」
頭を下げると、クラーケンはざぶんと海へ潜っていった。
再び海水濡れになったミルは、ちょうど良いとばかりに手を洗うと、背負っていたシャリオスを取り出して、乾いたタオルで包む。
「くしゅん! うう、速く向かわないと。……まっすぐ行って右」
しかし、岸から先は真っ黒な雲に覆われており、指先さえ見えない有様だ。小さな光を手の平に出したミルは、シャリオスを背負い直す。
転がりそうになりながらゆっくりと進んでいった。
リアンユ皇国は光の一筋すら差し込まない有様だった。けれど不思議な事に草地があり、木々が生い茂っている。人一人通れる細い道がある。どこか空気がもったりとしていて、不思議な感じだ。
気温は熱くも寒くもない。濡れた髪も自然と乾燥した。
「動物の鳴き声が全然しないけれど、人がいる場所なのかしら?」
「へえ、アルラウネの住居でして」
「へあっ!?」
おっとりした声に振り返れば、桃色の髪をした素敵なお姉さんが立っていた。ただし、下半身が花に飲まれ、根っこが触手のようにうねうねとしている。
「アルラウネ、見たことおまへんの? まぁ、かわゆい……」
するすると伸びてきた根っこに頬を擦られる。気付けば、周りはアルラウネだらけになっていた。どのお姉さんも同じ顔をしている。そっくりな姉妹で片付けるには多すぎる。
「ね、どなんしてここへ? お姉さん達と楽しいことしまへんか? ね、怖くない、怖くない」
怖すぎる。
怪しげな目つきで舌なめずりをしているアルラウネ達の根っこが体中を這い回る。
「す、すみません! 私は吸血鬼のアウリール様宅に向かう途中でして、クラーケンさんにも許可をいただいたのですが――」
「クラーケン!」
「クラーケンですって!?」
「キャアアア!!」
突然悲鳴を上げて、彼女達は逃げ出した。人っ子一人いない状況になり、なんだったのだろうと思いながら、道を進んでいく。
(とにかく人がいて良かったわ。……まっすぐ行って右)
どこまで行けば良いのかわからないが、そのうち右に曲がる道があるのだろう。
ミルは一生懸命先に進んだ。
その後「お嬢ちゃん、見ない顔だね」と気さくに声をかけてきた幽霊にクラーケンの名前を出すと逃げられ「貴殿、暇ならば――待てクラーケンの匂いがするぞ!?」と巨大な蜘蛛に逃げられ「すみません、ちょっと回り込んでくれませんか、下に埋まってるので」「あ、失礼しました」とスケルトンに謝罪しながら進む。
「も、もしかして私、オバケ大丈夫になったんじゃ……! そうだわ、オバケ怖かったのに!」
感動に涙が目尻に浮く。
けれど何故だろう。四十三階層に居た老婆の顔を思い出すと、未だに怖い。
内心訝しんでいた時、薄暗い道の向こう側から誰かが歩いてくる。立ち止まって端に避けていたミルの前で、その男性は立ち止まった。
長身痩躯で、頭から黒いローブをかぶっている。裾は金の金具で補強され丈夫な造りだった。革ベルトには立派な剣を佩いており、風格のある戦士風の鎧を着ている。そして黒馬を引いていた。
暗くて表情はわからない。ただ、こちらを見ているのを感じる。
「そなた ひかりまほうの つかいてか」
声は水面に落ちた水滴のように波紋して聞こえた。不思議な声音だった。抑揚がなく、声帯から出された物とは思えない。まるで別の空間から囁かれているようだ。
「なにゆえ この とちに まいった きぎも くうかんも たみも くにじゅうが ざわめいている」
「アウリール様のお宅に向かう途中です。クラーケンさんに許可をいただきました。あの、なにか不味いことが起こってるのでしょうか」
「うみのものが とおした なにゆえ きゅうけつきの じゅうきょへおもむく」
「シャリオスさんが眠ってしまったのです。時々起きていたのですが、目を覚まさなくなりました。お医者様に診ていただきたいのですが、まずはご家族にお知らせしなければと思っています」
男の姿が滲んだかと思うと、馬上の人になっていた。黒馬は赤い目を光らせ嘶くと首を振る。
無言で手を差し出した男。首をかしげる間もなく腕を取られ、前に乗せられる。
「あ、あの」
「しずかに したを かむぞ」
「でも、まっすぐ行って右に行かないと――」
「みぎ は とうのむかしに すぎた」
「ええっ」
「このさきには おうじょう が あるのみ」
馬が走り出すと酷い揺れに口をつぐむ。落ちないように太い腕を回される。背中のシャリオスが潰れて「ぎゅ」とアルブムのような声を上げた。
風のように走る黒馬は闇の中を迷わず突き進む。
次第に空気が変わっていった。
静かだった空間に、誰かの声が混じり始める。
それはコウモリのような羽を持つ悪魔だったり、赤い光をランタンに入れた小さな商店。不気味な音のする楽器を売っている店主が「おや珍しい」と巡らせた首はどこまでも長く、手の平ほどの妖精がその横で下品に笑う。引かれそうになった鼠が仁王立ちして文句を言うのに目を丸くし、増える民家を眺めていると、突然馬が止まった。
襟首をつまんで下ろされたミルは、馬上の男を見上げる。
「そこが あうりーるの じたくである」
言い終えると煙のように消えた。
気付けば空には星のような人魂が浮かび、うっすらと家の輪郭が見えた。
吸血鬼と言えば廃墟に城に墓場に棺桶というイメージが湧くが、その家は石造りであるものの、よく見かける造りをしている。
ドアの前には赤い光のランプが吊されており、なぜか懐かしさを感じながら戸を叩いた。
「もし、ごめんください。ここはシャリオス・アウリールさんのご家族が住まわれている場所でしょうか」
とたん、ランプの炎が燃え上がった。それは家の屋根よりも高く吹き上がったかと思えば、一瞬で戻る。
中から一人の女性が現れた。
「お客様なんて珍しい、誰かしら?」
「初めまして。ミル・サンレガシと申します」
「あら? あらら?」
周囲を見回している婦人は黒髪を綺麗に結って買い物袋を下げていた。白いエプロンからすると、買い物に出ていたのかもしれない。
赤い目に唇から見える牙。シャリオスとそっくりな淫靡な美貌にすぐ血縁関係がわかる。
こちらです、と跳ねながら手を振ると、彼女はぎょっとしたように俯いた。
「まあまあ小さい子ね。もしかしてブラウニー? にしては大きいけれど、ごめんなさい、うちは家事手伝いが間に合ってるのよ。今日は泊まって、明日別のお宅を訪ねた方が良いわ。そうだ、三軒先の御婆様の家はどう? 最近腰が痛いって言ってたから募集がかかるかもしれないわ。そこも駄目なら山向うのゾンビの館とか、大口なら三月先の――」
話は三時間続いた。ミルは人の話を最後まで聞いてしまう癖があった。
そわそわしていると、話し声を聞いていたのか、中から男性が出てきて「そろそろ話を聞いてあげたらどうだ」と取りなしてくれた。
振り返ると白皙の美貌があって目が眩しい。黒い髪に赤い目。吸血鬼の標準装備なのかもしれない。
「あらあなた、帰ってたなら言ってくれれば良かったのに。今日は早かったのね」
「早退してきた。話し込んでたから裏口からね。それよりシャリオスが帰ってきたから、今日は豪華にしよう」
「え!? あの子もう帰ってきたの!? やだ、部屋の掃除なんてしてないわよっ」
慌てた声におや、と思う。
ミルは恐る恐る聞いてみた。
「もしかしてシャリオスさんのお母様ですか?」
「そうよ。こっちは夫です」
「ええっ、お姉様かと思いました」
「や、やだお上手ねっ」
頬を染めた彼女がぶんっとミルの背中を叩こうとした手を、夫と呼ばれた男性が掴む。そのまま引っぱって腰にまわし直すが、なぜか拘束しているように見えた。
「客室が使えるから、今日の所はそこに泊まって貰おう。君、名前は」
「そうだわ! シャリオスで埋まっちゃうわどうしましょう」
「小さくなってるから大丈夫だろう」
「あら? あらら? そう言えばあの子はどこかしら」
「こちらにいらっしゃいます」
背負っていたシャリオスを見せると、ますます目を大きくして素早くシャリオスを抱き上げた。かくん、と仰け反った頭に父親が手を添えて支える。
「やだこの子、またこんなに小さくなっちゃって! もーっ、手がかかるんだから! ごめんなさいねぇ。もしかして、えっ!? 人族!? 大陸を渡ってきたの!? まぁまぁまぁ! こんな片田舎まで大変だったでしょう? 愚息は棺桶に詰めておくから」
「か、棺桶!? いえ、私はお医者様に診せていただきたいと思いまして――」
「医者なんて大袈裟よ。一ヶ月くらい寝れば治るわ。そうだ、昼間の人は成長したら縮まないのよね? びっくりしたでしょう。適当に暗いところで寝かせておけば大体治るから、そんなに心配しなくて良いのよ? ああでもシャリオスはねぇ、遅く生まれた子だから、まだ調節できないのよねぇ」
溜め息をつくと「短期間に魔法連発したでしょう。まだ体ができてないのに。……だから迷宮行くのは百年後にしなさいって言ったのに」とぼやいた。
恐る恐るミルは聞いてみた。
「失礼ですが吸血鬼の成人年齢と、寿命はどれくらいでしょうか」
「じゅみょう? って何かしら。成人は魔力が落ち着いたらよ。この子まだ全然なの」
ぷんすかしているのを唖然と見上げていると、じ……と様子を窺っていたシャリオスの父親が口を開く。
「妻のことはシェスカ、私はバーミルと呼ぶように。君の事はミルでいいのかな」
あまり動かない表情筋にズリエルを思い出しながら頷く。
(シャリオスさんはお母様そっくりね)
美しい吸血鬼に当てられ、ぱしぱしと瞬いていると、奥から似たような顔の吸血鬼がぞろぞろ顔を出してくる。
「え、なに? シャリオス帰ってきたの?」「うわダッセー! チビじゃん」「お前口悪いぞ。父さん、そっちの子は?」「ビャアア」「え、人族とか初めて見た」「なに? 非常食?」「痛い! お兄ちゃん足踏んでる!」「ビャアアッ」「棺桶持ってきたけど、シャリオスと一緒でいいの?」「俺、夕飯の準備してくる」「あたしもいくわ」「りっちゃんは?」「このチビは離乳食でいいの?」「りっちゃんは!」「りっちゃんは積み木で遊ぼうかー」
かなり騒がしい。
ぱっと見、髪型が違うシャリオスが年齢別に並んでいるように見える。たまにバーミルと似ている顔がちらほら。不思議な鳴き声はランプの火だった。
圧倒されていると、ひょいと持ち上げられる。
「お父さんは二人を丸洗いしてくる。シャリオスの棺桶は客室に運んでおくように」
すると「はーい」「うっ、確かに磯臭い」「これはクラーケンおじさんの体臭……」「クラーケンおじさんは何でお風呂入らないの?」「無理じゃね?」「むしろ二十四時間お風呂に入ってる計算」「海水風呂かー」「うわ」と嫌そうな顔をされた。少し傷ついた。
「あらあなた、女の子を丸洗いしたら可哀想よ」
「子供だろう」
「何歳でも女は女なのよ」
謎めいた言葉を告げ、ミルをひょいと抱き上げると「磯臭いから三回は洗濯しないと」と主婦は顔を顰めた。
「……乱暴にしないように」
「大丈夫よ、あなたの時みたいにしないわ」
「もっと柔らかいからな」
「えっ、その、そんなに……?」
怖々と見下ろされる。
「自分で洗えるので、道具を貸していただければと思います」
「あら良かった。うちは男女で湯船を分けてるのよ。ほら、人数が多いと鉢合わせて喧嘩になるし。浴槽もたりなくなるし」
お風呂の構造を聞きながら、脱衣所で服を脱ぐ。気付いた時には洗濯物が消え、横にある箱がガタゴト動き出す。
「洗濯機よ。洗剤と洗濯物を入れてボタンを押すと、勝手に洗ってくれるの。シャリオスが作ったのよ」
「え、シャリオスさんが!」
凄いなぁとのぞき込もうとすると「危ないわよ」と浴室に連れて行かれた。
宿や実家とも違う四角いバスタブは、泳げそうなほど広かった。階段もある。聞けば日曜大工でバーミルが工作したというのだ。アウリール家の男性は手先が器用なのかもしれない。
「シャリオスはね、昔から色々調べるのが好きだったの。時計を分解したと思ったら直してを三ヶ月も毎日毎日毎日毎日毎日毎日やったかと思えば、別の時計を分解し始めて洗濯機を作ったのよ。その後家中の魔導具を分解して組み立てて……いくつ壊したかわからないわ。あ、これが身体を洗う石鹸。こっちが髪の毛、顔、口、あらあら? ちょっと背中が赤くなってるわね。あとで薬塗ってあげましょうね。しかもクラーケンおじさんって体臭きついし触るとなかなか落ちないしゴシゴシてる?」
「してま――」
「やっぱり消毒液よね。あ、これ洗う用のスポンジ。水は蛇口を出るとお湯がでるからそれで。ああもう使い終わったらちゃんと濯ぐように言ったのにあの子達ったら。きっと四番目ね。全くもう二千歳にもなって手のかかる! そうそうシャリオスだけれど――」
そっくりだな、と思いながらミルは身体を洗い、髪をすすいでクラーケンおじさんの匂いを消した。湯船に浸かって百を数えている間もシェスカは話し続けてにこにこしている。
上がるとそのままゴシゴシと拭かれ、服を貸してもらい流れるように食卓へ運ばれ白っぽい何かを口に詰め込まれた。そこはかとない生っぽさを感じる、殆ど味のしない――まるで離乳食。
「シェスカ、止めなさい。……君、いくつだね」
「もぐもぐもぐ……」
食卓は戦争のようだった。山盛りの赤黒い脈打つ何かを、高速で舞うフォークがかっさらっていく。ミルが口の中の物を何とか飲み下して答えようとしている間に、ほぼ無くなっていた。
「もうすぐ十六歳になります」
「あら、離乳食であってるじゃない」
ピタリとシャリオスの兄妹達が動きを止める。全員口の回りにべったりと赤黒いソースが付いていた。食べ方は遺伝なのだろうか。
食卓に「え……十六歳?」「りっちゃんの方がお兄ちゃんだよ」「つまりあのでかいのは赤ちゃん……?」「十六歳であんなにでかいの?」動揺が広がる。
優雅な動作で赤黒い物体を一口サイズにして口にいれたバーミルは、ナプキンで口元を拭うと、こう言った。
「人族は十五歳で成人だ。どれ、私が作ってこよう」
「あなた料理なんてできるの?」
「昔はやっていた。その離乳食はりっちゃんが食べなさい」
「赤ちゃんじゃないのに! でも食べてあげる」
「ありがとうございます……」
手から手へ渡っていった離乳食は一口でりっちゃんの腹の中に消えた。
そうしてしばらく待って出てきたのは、サンドイッチだった。パンの中に赤黒い物が挟まっている。小さく脈打ち、まるで血管から噴き出す血のように液体をまき散らしていた。
「こんな物を人族は食べるのね」
横から見ていたシェスカが、そんなことを言う。
大いなる勘違いだが、せっかく作ってくれたので黙って口に入れる。
「いただきます」
「召し上がれ」
生臭かった。
+
なだらかな丘の上。
聖域の森を迂回したところで、ズリエルは剣を交えていた。
来るまでに山賊と二度鉢合わせになったが、今回は違う。聖職者と兵士の混合だった。
嫌な予感はしていた。それが現実となったのは彼らが「二人組の子供を探している」と言ったからだ。
「彼女はどこへ向かった。言え!」
現在、アルラーティア侯爵家は教会と正面から事を構えることができない。情勢は未だ安定していない。そのため、ズリエルは自前の装備に身を包み出自を隠していた。
「ひっ、き、北だ!」
「……まったく、手のかかる」
神官を昏倒させたズリエルは、小さく溜め息を吐くと剣をしまう。その懐からもぞもぞと顔を出したアルブムが地面に着地すると同時に、声をかけられた。
「おーい、そこの兄ちゃん」
鋭く振り返り、内心舌打ちする。
オレンジ色の髪をした男が立っている。問題は銀の鎧を着込んでいることと、背後に神官を連れていることだった。
「そいつ教会の者じゃねぇの? やー、困るんだけど。目の前でそういう事されると」
「先を急いでいる」
駄目元で見逃せと言うと、男は肩を竦める。
「そうしたい所だけど、こっちにも事情があるわけ。あーっ、これだからシューリアメティルは面倒なんだ。弁明があるならすぐに言えよ。言っとくが、こっちの神兵は俺だけじゃない」
「押し通る」
しかし二人が剣を抜くよりも速く、大きくなったアルブムが男の周囲を嗅ぎ「キュアキュ」と鳴いた。
「キュキュ。キュ……キュルクルルルルル」
「うおっ、なんだこのブヘッ」
べろりと顔を舐めると、ひとっ飛びでズリエルの前に行き、頭を伏せた。背中に乗れと言っている。
ひらりと股がったズリエルと共に、アルブムは男達の背後へ向かう。
焦ったのは相手の方だ。
飛び交う攻撃魔法や剣をひらりと避けて、アルブムはこっちだぜ、と言うように天幕の中に頭を突っ込んだ。
「おや、これは珍しい」
中にいた男は優雅に茶器を置くと、騒ぐ兵士達を手を上げて止めた。
「今年のシューリアメティルは実に豊かです」
布面の奥で小さく笑うと、彼はアルブムが自由に動くに任せる。
さすがに騎乗するには狭く、ズリエルは着地すると同時に抜刀した。
緊張が走る。
「申し訳ないが、しばしご辛抱いただきたい」
「狼藉者めが!」
神官の一人が吐き捨てると、アルブムは顔を上げて背後に頭を突っ込んだ。木箱があり、鼻先で蓋を弾き飛ばす。神官は悲鳴を上げて抵抗したが、高貴なる女王狐に力では敵わず、中を荒らされ憤慨した。
「キュー!」
見て見てと尻尾を振りながらくわえてきたのは男物のシャツだった。
「これは……! これを着ていた者は一体どこへ?」
「答えても良いけどさ、アンタの目の前に居るのは教会の枢機卿様なんだけど」
追いついて来た男は、いい加減にしてくれと言いたげに首を振っている。
ふむ、と枢機卿は手招いた。
「サシュラ、わかる範囲で経緯を」
「この犬人族の戦士が神官一行をぶちのめしてたから声をかけたんっすよ。ええ、シューリアメティルの途中ですんでね、いつもなら面倒だから見逃すんですけどね」
「そなたの心情はどうでもよろしいのですが、その神官一行を連れてきてください。全ての者の話を聞かねばなりません」
「我々は急いでいる。行き先を知らないのならば失礼させていただく」
「その服の持ち主となら会いました。少女に連れられて終始意識がありませんでしたが。力尽きたところを保護し、代りの衣を着せました」
ズリエルは喉の奥で唸った。
「さて、枢機卿の名を聞いても怯まぬ戦士よ。一角の人物とお見受け致しますが、彼女達の事情をお話願えますか? 煙のように消えたので聞けずじまいだったのです。おかげで気になって動けず。それに、このような杖も落ちてきましたし」
「それは……!」
ズリエルは枢機卿の足下にある杖にようやく気付く。
「カンデラ木の杖。光属性持ちにしか扱えぬ一品です。昼間、歩いていますと、これが聖域の森のから飛んできましたので、贈り物か誰かの悪戯かと一晩とどまることに。すると二人の子供が現れました。この杖が彼女の物と気付いたのは去ってからでした。残念に思いましたが、導きは今なお続いていたようです」
光魔法を使える者は少ない。間違いないとズリエルは確信した。
「思い起こせば我々の紋章を見てから終始警戒し、怯えている様子でした。もしや教会と揉めていたのでは? であれば、力になれることもあるでしょう」
それはもっと不味い。
だがそのとき、ズリエルが昏倒させた神官一味が引きずられてくる。
観念するべきか悩みながら堅く口を閉ざす。
「では、そちらの神官から先に聞きましょう――顔を上げなさい」
「げ、猊下!?」
なぜここに、と言う問いかけに答える者はいない。
「枢機卿の名において命じます。全てをつまびらかに。嘘は通じぬと心得よ」
深く染み入るような声音。
問いかけに、神官は青ざめながら話し出した。
+
「……あの。私はどこで眠れば」
「そこの棺桶を使いなさい。上のは寝返りで落ちるかもしれないから、下のものだ」
ゆっくりと視線を下げると二段ベッドの要領で棺桶が並んでいる。そっと木製の方を開けてみると空で、下の丈夫そうな石造りの蓋を開けると、中にシャリオスが入っていた。側面から全てもこもこのクッションが貼り付けられていて柔らかそうだ。
振り返るとバーミルの姿が消えていた。
「お、おじゃまします……」
なぜか断ってから潜り込み仰向けに転がると、音を立てて蓋が閉まる。びくりとした。
二人が並んでも十分広いが狭い箱の中に入っているような感じで、空気がもったりしているような気がする。シャリオスの寝息が首に当たってくすぐったい。
吸血鬼の家に泊まるのがどういうことか知った、素敵な夜だった。