第十四話
「守り手は殺せ!」
法衣に兵士の服装をした十人ほどの集団が、騎乗しながらやってくる。
「くそっ、追手に見つかった」
そう言ったのは、ミルを膝に乗せてくれた冒険者二人組だ。よろけながら走ってくると、ミルの首に巾着袋を引っかける。
「我々は御領主様からお二人を逃がすよう仰せつかった者です。これにはアルラーティア侯爵の印が入った身分証が入っています」
「ユグド領はすでに見張られております。侯爵と言えど、今は戦時。教会と相対することはできません。お立ちませ、ほとぼりが冷めるまでお隠れを! ここは我々が食い止めます」
剣を抜き放った二人は素早く魔法を唱えた。
炎の渦が道を焼き払い、馬が前足を大きく上げ嘶いた。
シャリオスは動けない。
自分がやるしかないと水グミを口に放り込む。
障壁に乗って浮かび上がれば、追手が指をさして言った。
「追え!」
「生きていれば手足はもげていてもかまわん。治せば良い!」
風魔法の使い手が馬から飛び降りた。
逃げ惑う二人に五人の追っ手がつく。一人は法衣を纏っていた。
自然とシャリオスを抱く腕に力がこもる。ミルよりもずっと大きかったのに、抱えるほど小さい。
(これ以上縮んでしまったら)
追手よりもそちらの方が怖い。
どこか休める場所まで逃げ切らなければ。それも、一秒でも早く。
背後から飛んでくる風魔法を障壁で弾きながら、ぐんとスピードを上げる。鍛え抜かれた兵士達は、食いついてきた。
回り込まれては逃げ場がない。
四方八方から攻撃の手が伸び、陣形を整えて誘導してくる敵のなんと恐ろしいことか。
(追い込まれているわ……!)
誘導から逃れるには、あまりにも切り札がなさ過ぎた。
ついに伸びてきた手を杖で叩き落とし、とっさに目眩ましを使う。彼らが目を開けたとき、ミルの姿は忽然と消えていた。
「どこへ行った!」
「下だ、姿を隠しているぞ!」
獣人の耳が風を切る音に気づき、一斉に降下する。しかし、そこに待ち受けていたのは帯状に広がった障壁の罠だ。
全員をぐちゃぐちゃに縛り上げたミルは、身を捻って上昇する。
背後から撃たれる魔法も射程圏外に出れば問題ない。水グミを噛みつぶし、青ポーションを嚥下する。
関節を押さえ、指先を縛り、藻掻くことすらできないよう障壁を動かしていく。
「良い魔法は、よく――使うっ」
完全に食い込んだ感触。
成人男性を縛り上げるのは骨が折れるし消費魔力も多いが、これで逃げられる――そう思った刹那、後方で爆炎が上がる。
「なっ! 自分ごと魔法を剥がしてっ」
「舐めるなよッ!」
獣人は身体能力が人族よりも強い。風と炎の魔法で無理矢理威力を増した爆発で、自らの上半身ごと吹き飛ばした追手は、素早く仲間達を救い出す。
このままでは本当に捕まってしまう。
一縷の望みをかけ、ミルは視界の端にちらついていた森に進路を切った。
冷たい風が頬を冷やし、鼻先を赤く染めていく。びゅうびゅうと耳の奥で風の鳴る音が、大きく聞こえる。自分が緊張しているせいだと気付く前に、追手の猛追が始まった。
「逃がすなああああ!」
一度縛り上げたことで、進路誘導からは逃れられた。その獲物が目指した先を見れば、どんな狩人だって目の色を変えるだろう。
森は豊かだった。
幹が太く青々と茂った立派な大樹が連なり、下草は肥えている。遠くからでも鳥の鳴き声が聞こえ、獣達が豊富に暮らしていることを想像できる。
だが森に立ち入ることは許されていない。一歩踏み込めば命は無く、例え長らえても牢屋送りは免れない。聖域の森はそう所以ある場所だった。
豊かな恵みを守るために国が法を布いたのではない。
政治的配慮でも国境があるからでもない。
森を統べるただ一頭の獣の縄張りであるために、聖域となって人々を寄せ付けず、獣の力によって、今日まで秩序を守られている。
モンスターよりも恐ろしい生き物が住まう場所だと、誰もが知っている。
だから人は近付かない。
風の刃が障壁を貫き、ミルの足に赤い線が走る。
不思議と痛みは感じなかった。
一か八か、命をかけて逃げようとするときに、小さな傷を気にする者がいるだろうか。
ここで捕まれば、シャリオスは殺されてしまうかもしれない。
その恐怖が眼前の恐怖を凌駕する。
「<目眩まし>!」
「其の手には乗らん!!」
閃光で目を焼かれながら伸ばされた手が服の端を掴んだ刹那、杖で頬を叩く。それでも離れない指先に、覚悟を決める。
「<不調和魔法><不調和魔法><不調和魔法><障壁>!!」
帯状の障壁が蜘蛛の巣のように追手を絡め取る。二度目の不意打ちは効かず、直ぐに切り裂かれる――だが、それでよかった。
続けざまの<目眩まし>は苦肉の策だと思っただろう。しかし、投げつけられた杖を手で払ったとき、追っ手の目が見開かれた。
弾いたはずの杖が鉄の塊より重く、腕ごと体を吹き飛ばされたからだ。杖が反動で、遠方に飛んでいく。
カンデラ木は光属性持ち以外にはとても重くなる素材だ。
不意を突かれ大きく後退した追手を振り切るように、速度を上げた。体が風圧で軋みを上げる。
森の直ぐ側まで来ていた。
小さな体を枝の隙間に潜り込ませる。
一瞬で空気が変わった。
何かを通り抜けたのを感じた瞬間、全身に悪寒が走る。
震え出す奥歯を噛みしめ叫んだ。
「お許しください! 追われています、どうか私達を見逃して!」
刹那、森のざわめきがピタリと止まる。
鳥のさえずりも、水面に跳ねる魚の音も、木々が木の葉を揺らす音さえも、まるで何かに怯えるように。
聞こえるのは後方の追っ手達が上げる音だけ。不気味なほどの静寂が耳に痛く、心臓の音が聞こえるような気さえした。
「ちょっと。ここはわたしの縄張りよ」
苛ついた声に驚くよりも早く、追っ手達の悲鳴が響く。
「お前も……まあ、あいつらが追い立てたのだろうから、今回は多めに見てあげるわ。見たところ子供のようだし。降りてきなさい」
ふん、と鼻を鳴らしたように言ったのは、美しい獣だった。
白い毛皮に、尖った大きな耳。ふわふわの長い尻尾を振り、細長い手足で優雅に歩いてくる。近付くほど、その巨体さがわかる。もしかしたらズリエルよりも大きいかもしれない。
目の前で降りると、ぐるりと周囲を回り鼻先を寄せられる。
「吸血鬼と、あら……お前」
獣は言葉を止め、考えるように口の回りを舐めると尻尾を振った。
「いいわ、いらっしゃい。あの頭の弱い知的生物は、わたしの森へ入れなくしたから」
それは追手のことだろうか。
進んでいく背中を不安そうに見ていると「そうだったわね」と振り返った獣は、ミルの襟首をそっと噛んで持ち上げる。
「あ、あのっ」
「足を怪我しているのでしょう? 特別にわたしの巣に入れてあげるわ。今日はそこで寝なさい。明日は反対側まで行って、とっとと出ていくのよ。わかった?」
「ありがとうございます……あなたは聖獣様で間違いありませんか?」
「それ以外の何に見えるって言うの」
不機嫌そうに髭をそよがせ、エヴァンジルは長い手足で森の中を進んでいく。道の端にいた小動物がぎょっと逃げていった。他の動物達は息を潜めやり過ごすよう隠れているようだ。
エヴァンジルの住処は切り立った崖の中頃にある。大きな空洞を削って作った場所は風が気持ちよく、景色も良すぎた。
うっかり下を見てしまったミルが固まっていると「さっさと奥に入りなさい」と鼻先で腹を押された。エヴァンジルは宙を歩くことができるので、寝返りを打って転がっても下に落ちないのだという。
「わたしの巣よ。短い間だけど歓迎するわ。……こっちへ来なさい」
「ありがとうございます。でも、私達のことは、どうして叩き出さないのですか?」
「優秀な狩人は子連れを食わないものよ」
「は、はあ……」
中は乾いた腐葉土で柔らかな寝床があった。ちらほら落ちている剣や道具は全て古く「勇者の物よ」と簡潔に言われ手を引っ込める。
そう、この聖獣は勇者と魔王討伐のため旅に出た伝説の存在なのだ。
エヴァンジルはくるりと丸くなると、壁を削った。小石がボロボロとこぼれ落ちる。
「この崖は、元々木だった物が長い年月を経て岩となったの。それを囓ればお前の傷も癒えるでしょう」
不思議な緑色の石をつまみ上げ、思い切って口の中に放り込む。すると、舌の上で自然と溶け、体の痛みが消えた。
もう一つつまんでシャリオスの口に入れると、浅い呼吸が深く変わる。
「ねえお前、光魔法の使い手でしょう? なぜ皇国の生き物を庇っているの」
「シャリオスさんは――この方はシャリオスさんとおっしゃるのですが、私と一緒にパーティを組んで迷宮に潜っている仲間なのです」
「そう。あの矮小で知性の低い生き物に追いかけられた理由は? 助けたのだから、聞く権利があるわよね」
矮小で知性の低い生き物……更に表現が酷くなっている、と思いながら答えると「馬鹿ね」とエヴァンジルは吐き捨てた。
「そんな人形、八つ裂きにして腹に収めてしまえば良いのよ。……あら? 人族は消化できなかったかしら」
目を向けられて頷くと「しかたないわね」と可哀想な生き物を見る目をされる。
「まあいいわ、その玩具は自分達でなんとかするのね。お前達の関係もわかったし、もう寝なさい」
のしかかるようにミルを転がすと、エヴァンジルは腹の下敷きにしたまま目を瞑ってしまう。
藻掻いたが少しも抜け出せなかったので、そのまま目を瞑った。
眠りはすぐに訪れた。
翌朝になってもシャリオスは目覚めなかった。
エヴァンジルがご馳走してくれた獲物を焼いて水と一緒に流し込んでも、口は動くが目が開かない。ニュルリと吸い込まれていく焼き肉が別の生き物のようだ。
「深い眠りに落ちているわ。自然と目覚めるまで待ちなさい」
「お医者様に見せなくて大丈夫でしょうか」
「誰にも何もできない。そう言う眠りよ」
さあ、とエヴァンジルは座るとシャリオスを持ち上げるよう示す。
よく見れば表情も幼くなっている。まるで時を巻き戻して、子供に戻ってしまったかのようだ。ぶかぶかのシャツしか着ていないので、余計に小さく見える。
他の荷物は全て【遊び頃】に襲われた現場に落としてしまったので、替えの服もない。
せかすエヴァンジルの後に続いて森の反対側へ歩いて行く。途中「遅いわね」と背中に放り投げられ、必死で毛皮にしがみついた。
境界が見えてきた。背中から降りると、追い立てるように鼻先で押された。
あと一歩踏み出せば森を出るという所でエヴァンジルは問いかけた。
「お前、これからどうするの。帰れる巣はもう無くて、精霊を崇める能なし共に追われている。目覚めない吸血鬼を抱え、そのような弱々しい生き物のくせに何ができるの。お前を守る者はいないのよ」
「仕方ないことです。誰にも眠りをどうにかできなくても……シャリオスさんの故郷へ向かいます。同じ吸血鬼がいる国なら、診てくださるお医者様も、きっといるはずです。少なくとも、見知らぬ土地に行くより、ご家族が近くに居た方が良いはずです」
「そう。あの場所へ行くの」
金色の目が静かに見下ろしてくる。
「リアンユ皇国には王がいないわ。あの大地に住まう黒き者達がどうなっているか、わたしはもう知らない。けれど、大地に太陽の光が届くことは今も無く、人族のお前では体の感覚が鈍るでしょう。長居するほどに弱るわよ」
「心配してくれているのですか? ありがとうございます」
「なっ! 違うわよ!」
ぶわりと毛が膨らみ、柔らかな尻尾が地面を打つ。
「でしたらどうして?」
「それはお前が……。お前が、わたしとの約束を今なお守り続けているからよ……」
そう言って、耐えきれないとばかりに大粒の涙をこぼした。
「え?」
「皇国はここから北へ向かった先よ。もう行きなさい! 二度とここに来ないで」
恥じたように顔をそらし、鋭く言う。
柔らかな尻尾に押された瞬間、ミルは境界を抜け森を出ていた。
「待って、どういう意味ですか! エヴァンジル!」
伸ばした指先は見えない何かに拒まれた。もうエヴァンジルの姿や声を聞くことはできない。
聖域は拒絶したのだ。
「……ありがとう、エヴァンジル」
それでも助けられた事に違いない。
障壁に乗り、ミルは浮かび上がった。