第十話
アストン伯爵は国境の守りを担う貴族である。直轄地であるアストン領の他にサルジラ領などの領地を持ち、軍備を整えモンスターや狼藉者が入り込まないか警備するのが主な仕事だ。
深い雪に覆われる大地は一年の殆どが白く染まっている。険しい環境だが、それでも人々はたくましく生きていた。
今から十八年前、国境付近で大規模なスタンピードが起こった。飢饉によって食糧不足に陥った森から、黒山のようなモンスターが流れ込み、サルジラ領を襲う。
多くの兵が武器を持ち戦った。
その中にはアストン伯爵の子供の姿もあった。
白い息を吐きながら、見えてきた小さな別宅に思いをはせる。屋根の傾斜を急にして作られた別宅は、昔と変わらない。
伯爵の子供は一つ違いの男女であった。
回復魔法の使い手の長女と、双剣の使い手であり火魔法を得意とした長男。二人の活躍により、スタンピードは瀬戸際で持ちこたえていた。
しかし、ほんの一瞬の隙を突いた雪原狼の一撃が長男の首と胴を切り離し、冷たい湖の底へ沈めてしまったのだ。
前線は崩壊し、サルジラ領は深い傷を負った。
「当時十六の小娘は、何をとち狂ったのか代々伝わる勇者の壁画に魅入られ、蘇生魔法を探し始めた。父親は激怒し、きつい折檻をお見舞いしたよ。でもね、諦められなかったんだ。出奔し、迷宮に潜り始めてから一度も家に帰ってない。とんだ親不孝もんさ」
薬師は――長女クースィリア・アストンは苦く笑う。
彼女が名乗らなかったのは、辺境伯や周囲の目から逃れるためだったのだ。
籠の中で毛布を突き抜ける寒さに震えながら、ただ話の続きを待った。
「十八年だ。十八年かかった。これで、ようやくこれで――」
「クースィリアさん。蘇生に時間制限があるのは、昨夜話したとおりです。私には、十八年前に死んだ人が蘇るとは思えません」
蘇生魔法が発現した際、アリアの体には「71:47:23」と言う数字が浮き上がった。
「一秒ごとに数字が減っていきました。三日以内という制約があるのだと思います」
「弟の遺体は冷たい湖の底へ沈んでる。もしかしたら大丈夫かもしれない。頼むよ、頼む!」
頼むと言う言葉は殆ど涙声だった。
後から後から流れる涙が、冷たく凍りついていく。
もしも蘇生魔法が失敗したら、クースィリアは壊れてしまうのでは。
そう思うほど疲れ切ったように見えた。
ミルは一度失敗してから魔法が成功する確信を得られなかった。大切な人を失う恐怖に勝つことが条件ならば、ほんの少しの迷いが失敗に繋がる。考えるほど、心の奥まで雪のように冷たくなっていく気がしていた。
ついに、別宅の入り口までやってきた。
朝早くから雪かきをしていた使用人が怪訝そうにこちらを見ている。
「アレティアは生きているかい」
若い使用人はますます怪訝そうな顔をする。
「失礼ですが、お名前は?」
「アレティアを出しな。昔なじみが来たと言えばわかるさ」
とても令嬢とは思えない口調で言うので、使用人は伯爵の娘とわからないようだった。もしかしたら会ったことすら無いのかもしれない。
「グダグダと遅い奴だ。いつからアストン伯の使用人はグズばかりになったんだい。さっさとおし!」
ぴしゃりと言うと、驚いた使用人は慌てて箒を持ちながら家の中に入っていく。
しばらくすると、老婆が出てきた。
ソバカスのある皺くちゃの顔で、小走りに走ってくる。真っ白に染まった髪を一つに結わえ、上品な厚手のワンピースを羽織っていた。
「お嬢様! ようやくお戻りですか!」
「声がでかいよ、アレティア!」
同じくらい大きな声で言うと、後ろについてきた使用人がぎょっとしている。
アレティアはくるりと振り返ると、その使用人に向かって「他言無用ですよ。ここはいいから、別の仕事に回りなさい」と追い払った。
見えなくなるまで見送ると、再び振り返ったアレティアはしげしげとクースィリアを見回した。
「まぁまぁ、三十過ぎとは思えない。これなら婿も取れるでしょう。伯爵様もお年です。いい加減戻って跡取りを――そちらの背負ってるのは何です」
お小言を言う口調が一転。低く呻くような声音に睨め付ける視線は、背負われている籠の中から、ひょこりとはみ出ているミルに向く。
貫禄のある老婆に睨まれ、首を竦める。
「まさか、お子が――!?」
「違う! それよりも、湖へ続く鍵を渡しておくれ」
「なんですって?」
アレティアの目が釣り上がった。
「いい加減になさいまし! あのような世迷い言をいつまで信じるおつもりです! この婆や、今度という今度は、ふん縛ってでも伯爵様の前へお連れします!」
「勘弁しておくれよ。こっちには時間がないんだったら――」
「そもそも十八年もの間、行方知れずのお嬢様を伯爵様はお待ちになっておりました。方々を探し、冒険者を雇って捜索する事もあったのに、お嬢様と言えば手紙一つ寄越さず、たまに帰ってきたと思ったら、怪しげな魔導具や、おかしな人間を連れて来て湖に行くばかり! 坊ちゃまはお亡くなりになられたのです。いい加減現実を見ませ!」
あまりの剣幕に口ごもるクースィリア。
宥めることもできずにいれば、火を噴いたように言葉が止まらない。
「伯爵様は後妻をお迎えになるどころか、愛人に子を産ませなければならないと追い詰められておられるのですよ。お年を召され、子にこのような仕打ちを受けどれほどお辛いか! なのに、ご自分のことばかりで! それでも貴族の淑女なのですか! 婆やはそのような育て方をした覚えはありませぬ。伯爵様や、亡くなられたお母様にちっとも似ていらっしゃらない! あの方は義務を遂行していらっしゃるというのに、お嬢様と来たらふらふらと!」
「止めてください!」
思わずミルは叫ぶ。
籠から身を乗り出して「酷い事を言わないで」とアレティアに告げる。
「親に似ていないと言われた子供の気持ちが、あなたにはわからないのですか。どれほど残酷な言葉なのか!」
「何を部外者が! そもそも、あなたこそ何なのです!」
「あなたはクースィリアさんが一生忘れられない酷い言葉を言いました。撤回と謝罪をしてください」
「答えなさいな! 胡散臭い娘が。伯爵家の財を目当てに、お嬢様をたぶらかしたのではないのか!」
籠に飛びついて来たアレティアが乱暴に肩紐を引っ張った。ずり落ちたミルは頭から雪の中に落ち、と思えば乱暴に髪を引っ張られた。
「おやめ、アレティア! 何て事するんだ……大丈夫かい」
「なぜこのような詐欺師を信じるのです!」
「何も聞いていないくせに決めつけるんじゃないよ!」
アレティアと押しのけたクースィリアは、助け起こしたミルの膝を叩き、雪を払ってやる。毛布がべちゃべちゃに濡れてしまい、大きなくしゃみがでた。
「そのような薄着しかできない貧民が、どのような手でお嬢様をたぶらかしたのです」
「いい加減お止め!」
「なぜ庇うのですか。お嬢様はどうかしていらっしゃる! ――お前、お年を召しても伯爵様はご健在。牢に入れられたくなければ去れ!」
「私はいい加減にしろと言ったんだ。どれほどアストン家に恥をかかせれば気が済む!」
地を這うような声音に、ぴたりとアレティアの暴言が止まった。
怒りに満ちた背中が膨れ上がっているように見える。
「そ、その小娘が坊ちゃまを蘇生できるとでも?」
後ずさりたくなるような怒気を目の前にしてもアレティアは足を踏ん張って言い返した。その胆力は凄いが、いい加減にして欲しいのが本音だ。
どうなのかと矛先を向けられ、ミルは「わかりません」と首を振る。
それ見たことかと顎をそらす。
「……クースィリアさん、やっぱり止めましょう。これほど反対されては、湖にも行けないのではありませんか」
「駄目だ!!」
振り返ったクースィリアは縋るように肩を掴む。
「でも……」
「絶対嫌だ! もう縋るしかないんだよ! 頼むよ、せめて時間が残ってるかだけでも見ておくれ」
そう言って、わっと泣き崩れた。
まるで心の中にいる十六歳のクースィリアが、泣きじゃくっているようだ。涙で濡れた目が壊れそうな心を映していて、動揺する。
動揺してアレティアを見るが、手の付けられない状況に彼女も困っている。
「……。鍵を持って参りますので、中でお待ちください」
やがて大きな溜め息を吐いた彼女は、泣く子には勝てないと、座り込んだクースィリアの手を引っ張った。
「ミル……」
「わかりました。……猶予があるのか見てみます。でも、手遅れかもしれませんよ」
「それでもいいから」
通された客室は分厚い絨毯に、暖かな暖炉の光が部屋中を照らしている。柔らかいソファーに身を沈めると、いつも膝に乗ってくるアルブムがいないことに、改めて気付く。迎えるように上げた手を膝に下ろす。
(皆さん、どうしているかしら。……シャリオスさんの傷はもう治っているでしょうけれど)
どちらかと言えば、ズリエルの方が心配だ。
寒さを思い出したミルは大きなくしゃみをする。
「ホットミルクです」
「これが、ホットミルク……」
仏頂面のアレティアが、思い切り音を立ててカップを置く。
触れた指先から伝わる冷たさに、凍ってないだけマシなのかもと思い直す。そのまま口を付けると、砂糖は入っていたのか、底にこびりついて口の中がジャリジャリした。
「それと、こちらが湖へ続く門への鍵になります」
「それじゃ行こうか。……アレティア、まさかついてくる気じゃないだろうね」
「騙されているお嬢様一人では心もとありませんので」
「ふざけんじゃないよ」
しっかりと防寒具に身を包んだアレティアは、鍵をちらつかせる。
まさに人質ならぬ物質に、泣きはらした目元を険しくさせる。どこまでも邪魔をするつもりなのだ。
「連れて行かず困るのはお嬢様のほうですよ」
おそらく、何を言っても付いてくるであろう気配に、渋々ながらクースィリアは同行を許した。しかし、絶対に乱暴を働かず邪魔をしないと言う条件付きだ。
鷹揚に頷いたアレティアは老婆とは思えない俊敏さで部屋を出て行く。
すっかり腹の冷えたミルは、奥歯を震わせながら後ろに続く。その背中に自分のお古のローブを巻いたクースィリアは、再びミルを籠の中にしまい込む。
「ここまで来たら逃げませんよ」
「仕事をしてもらうんだ。万全の状態でなけりゃ困るのはこっちさ」
その期待に答えられるかもわからないのに、クースィリアは雪道を歩き始めた。
雪は水気を増し、足場は悪くなっていく。
別宅の裏手から出て、使用人用の小道を二人は通っていった。昔は綺麗に積まれていたのであろう石畳は所々欠け、隙間から草の芽が出ている。周囲は木々に覆われており、鳥の声一つしない。
朝なのに分厚い雲に覆われて、周囲は薄暗かった。
「モンスターが出たら、どうするのですか」
「今更な質問だね。この時期に出るのは兎のように大人しい奴らばかりだよ。あれから――スタンピードが終わってから、モンスターは大人しくなった。殆ど死んじまったからね」
だから静かなのだ。
「そのようなことも知らないとは、どこの田舎娘でしょう」
嫌みを聞き流しながら殆ど休みなく歩き続けた先で、ぱっと視界が開けた。
自国は昼を過ぎ、心なしか暖かい気がしていた。だが、湖の周辺は凍るような冷気で包まれている。
湖は円形に広がっていた。まるで鏡のように表面がうっすら光っている。
どこに遺体があるかわからずにいると、二人は左回りに歩き始めた。
真反対まで行くと、小さな墓石が置いてある。
「ここさ。下を覗いてみてごらん。表面が薄いから気をつけるんだよ。落ちたら助からない」
「ひ。クースィリアさん、死んでます……」
「そりゃそうだよ。……引き上げられずにずっとこのままなのさ」
うつ伏せに倒れた下半身の近くに黒髪の生首が浮いている。湖の水は透き通り、この暗さでも底が透けて見えた。だからこそ、放置された状態が生々しい。
蘇生を試すにしろ、引き上げなければならない。
どうするか問えば「障壁で何とかならないかい?」と逆に尋ねられた。
「構いませんが、もし駄目だったら……」
「魔法はかけなくていいよ。……そのまま、諦める」
「クースィリアさん……」
「あれだけ泣いたんだ。頭だってはっきりするさ」
嘘だと思った。
クースィリアの目は怖がっている。本当は弟が生き返らないと知りたくないのだ。長い年月をかけた彼女の旅路の結果がそうなったとしたら、あまりにも辛い。
それでもやってくれと背中を押すのは、歩いた道のりが現実逃避のためではないからだ。
確かな意志を持ち、彼女は希望を願ったのだ。
す、と背筋が伸びた。
「<障壁>」
帯状にほどけた障壁が、表面の氷を突き抜けて遺体を絡め取る。
落ちたら助からないと言うのは、見た目以上に湖の底が深いからだ。浅く見えた水位は倍以上あった。
引き上げると、物言わぬ骸の目と目があった。
青ざめた皮膚は腐敗もなく、並べて置く。
見えたのは「01:03:14」と言う数字。湖から引き上げたせいか、一秒ごとに数値が減っていく。
ミルは、唱えた。
「<世界に夜が訪れる。されどこの運命、未だ光彩陸離にて輝かしく。であれば争う余地があったのだ。開け冥府の門。蘇生せよ>」
全身に走った呪文と魔方陣が遺体を包み込んだ。けれど、離れた首の再生は遅く、その間にも数字が減っていく。
確信していないからだと直ぐに気付いた。失敗したという記憶が魔法の足かせになっている。
(でも逆を言えば、生き返るということ……!)
ずしんと命の重さが体中にのしかかったような錯覚をした。
クースィリアは願うように指を組み震えていた。
紫色に染まる唇に、視線を戻す。
杖をくるりと回し目を瞑った。
想像する。
目の前の人物が生きて笑っている姿。クースィリアと彼は一つ違いの姉弟だ。仲が良かったに違いない。
想像するほど回復は進み、傷が癒えていく。
「この人は蘇る。立って、歩いて、言葉を話し、失われたものを取り戻す」
囁きと同時に、全ての傷は癒えきった。
魔力の枯渇に座り込むのと同時に、少年の胸が大きく膨れ咳き込む。
「ゲホッ、うぐ……」
「セロン? セロンラフル! ああ、良かった、良かった!」
「な、なんだ!? う、寒い。びしょ濡れじゃないか」
くしゃみをしたセロンラフルはクースィリアを押すと、自分の有様を見て挙動不審になる。
「ああ、もっとよく顔を見せておくれ」
「うぐっ。あなたは誰だ」
「姉の顔を忘れたってのかい? でも、今日だけは何でも許すさ。お前が生き返ったんだから!」
ボロボロと涙をこぼす姿にセロンラフルは絶句し、自分の首元を撫でた。
冷え切った体に、直前までの曖昧な記憶が自分の胴体を見下ろす姿を確かに覚えていた。首と胴体が切り離されなければ、見る事ができない情景だ。
喜ぶクースィリアの後ろで、力尽きたミルは雪原に伏した。頭が重く、手足に力が入らない。
アリアの蘇生が失敗してから戻りきっていない魔力では限界だったのだ。極限まで搾り取られた魔力に体が悲鳴を上げ、視界が暗転する。
だからアレティアに化け物のように見られていたことを、気付けなかった。