第七話
「へー、大変だったわね」
人ごとのようにアリアは言う。
ドーマの宿、食堂で全員が食事を囲んでいた。本日は、野菜と魚介類がこれでもかとたっぷり入ったサンドイッチだ。キャベツと貝のスープが付いている。スープの色は赤く、香辛料の辛さがサンドイッチのクリームチーズと混じって美味しい。
既に話も終盤で、食事も殆ど食べ終わっていた。ムムとユユ、そしてシャリオスは無限の食欲でおかわり合戦をしているが。
「他の人にも、後で連絡が行くみたいもぐ」
「ていうか口の回り拭きなさいよ! 何で鼻の上まで飛び散ってんの? 汚いわね」
「いくら拭いても、もぐ。飛び散るから意味ないよ。もぐもぐ」
クリームチーズとサンドイッチの具、スープの赤で斑色になっている。ペロリと口の回りを舐めるが範囲が広すぎてフォローし切れていない。
「いいじゃん別に。牙生えてるから、たぶん飛び散るんじゃないか? たぶん」
「たぶんが多いですね。たぶんついでに、先ほどから食事を横流しされてますよ。たぶん」
「え、あ!」
ミルは自分のサンドイッチが二つと、スープの具がたっぷり増えていることに気付く。本日、三度目の追加である。はち切れそうな腹をさすりながら、ぷんすか怒る。
「もー! 二人とも止めてください。食べきれないです」
「でも、たくさん食べないと大きくなれないよ」
「ミルク飲んでますのに。ちゃんと身長も伸びました」
指先で「こんなに!」と示すが、殆ど誤差のようなものだ。生暖かい視線が集まる。
両隣に座っていたシャリオスとズリエルは視線をそらした隙に、更にスープの具を増やす。
「伸びて良かったね」
「しかしながら、未だに飛んでおられる。今回の件もあるので、もっと成長していただかなければ」
ルールックに弾き飛ばされたのは、ミルが軽すぎたせいだ。ドーマが食事を置く際、未だに鞠のように跳ねているのも問題だ。
「でも、これ以上はちょっと……吐いてしまいそうです」
「僕の十分の一も食べてないのに」
「あんたは食い過ぎなのよ。二十五皿目とか、胃はどうなってんのよ」
「サンドイッチおいしいから」
すると、頃合いを見計らったかのようにドーマが現れ、蜂蜜色の半透明な液体が入ったジョッキをミルの前に置く。
「これは?」
「サービスだ」
ただそれだけを言って踵を返す。
匂いを嗅ぐと蜂蜜の香りだ。ペロリとなめたミルは口元を覆う。
「う! こ、これは油と蜂蜜の混合液では……」
「良かったね、ミルちゃん。これは太るよ」
「飲めませんよ!?」
「野菜が多いメニューだから良いんじゃないかい。胃もたれには気をつけな」
「ドーマ、同じのユーズドに三杯追加で」
「にゃ!?」
蜂蜜と油を一気飲みするなんて正気じゃない。しかし「ミルさんの、格好いいとこ見てみたぁーい」と投げやりなアリアの挑発で一気飲みさせられた。酒を飲んでないのに酒場のノリである。可哀想なユーズドは、半分も飲めずむせていた。
「それで、あんたらいつ迷宮に潜るのよ。次に会うのは二年後くらいかしらね」
「何階層あるかわからないけど、それくらいになるかもしれない。食料品も揃えたし、もう行こうと思ってる」
軽く頷いたアリアは「気をつけていくのよ」と母親の小言みたいな事を言いながら、サンドイッチの欠片を口の中に放り込んだ。聞きたい事はそれ以上ないようだった。
夜も更けてきたので【空の青さ】は宿に戻る事になった。騒ぐイルに怒るアリア、腹を押さえたユーズドが耳をへたらせながら続いていく。
平和な光景に微笑みながら見送っていたミルは、彼らの前に忽然と現れた何かを見た。【空の青さ】も気付いて立ち止まる。
そのときにはもう、遅かった。
闇に溶け込むような紫の液体が津波のように襲いかかった。
「馬鹿猫!」
目を丸くするアリアがユーズドを背後に押した。イルが大剣を抜き放って盾のように構える。双子はその後ろに隠れ、ウィリアメイルはミルの障壁で辛うじて守られた。
「あああああああ――!!」
悲鳴が上がる。
アリアの悲鳴だ。
皮膚が粘液に触れしゅうしゅうと煙を上げる。
「てめぇ!!」
次に動いたのはイルだった。襲撃者に大振りの一撃を振り下ろす。地面が砕け、四方に亀裂が走った。追いすがるようにウィリアメイルの矢が脳天を狙う。しかし襲撃者はするりと避ける。
中から飛び出してきたシャリオス達が厳戒態勢で武器を抜き放つ。大きな盾を持ったズリエルが前に出て、薬師はアリアに張り付く双子を引き離した。
「あれぇー」
女の子のような可愛らしい声だった。
月明かりを遮っていた雲が晴れ、襲撃者の姿が露わになる。もこもこのクッションは雲のような形をしており、ふわふわと宙に浮いていた。うつ伏せにべたりと乗った襲撃者は少女だった。見事な金色の髪に、目は夕焼けのようなオレンジ色で、今にも瞼がくっつきそうだ。
「いち、にー、さん、しー、ご……ろーく? 一人おおいなぁ。ふわぁぁあ……眠いよぅ。あっちは、いち、にー、さん、しー、ご? 一匹だけど、ごーいる……あっちだったよぅ」
人差し指で周囲の人間を数えている。少女の乗っているクッションがもこりと膨らんだかと思えば、液体噴射される。それはアリアを溶かしたものと同じだった。
ズリエルの小盾が見る間に溶け、腕に達する前に投げ捨てる。
「鉄は駄目か!」
二射目がすぐに放たれ、ズリエルは剣をしまい大盾をマジックバッグから引き出す。液体に触れた瞬間、足下から立ち上るような燐光が包み込み、液体を弾く。
ズリエルの背後では、アリアを大声で呼んでいた。解毒薬と回復薬、<回復魔法>を合わせても容態は悪化するばかり。下がるわけにはいかなかった。
「薬師、さがれませんか!」
「動かせば毒が回っちまうんだよ! 何だってんだい、解毒薬が効かないじゃないか」
「学習、するよぉ。一度、解毒された毒は、暗殺に向かないからぁ。にゅにゅにゅ……でも、こっちは防がれちゃったよぅ。毒液と、酸の混合液は、弾かれるよぅ。うーん、うーん……六十階層から帰ってきた人を殺すまで、眠れないのに。うーん」
「まさか【遊び頃】か?」
「どうしましょう、『神々の治癒』は返してます」
「僕がやる」
シャリオスは双剣を構えた。
「む。むむぅ。わからないから、出直そぅ……」
「なっ」
クッションがふわりと揺れた瞬間、襲撃者は頭上高く舞い上がった。高速で西の彼方に消えていく。
「追います」
とウィリアメイルが走った。足下から風が巻き上がり、瓦礫を吹き飛ばしながら跳躍する。
「アリア! アリア、しっかりしろ!」
はっと振り返る。
体の半分が溶けて液状化し骨が露出している。おかしな痙攣を繰り返し、肌がどんどん灰色に染まっていく。水で洗い流し、ありったけの解毒薬をぶちまけているが、一向に解毒されないその毒が何か、薬師にもわからない。
双子は既に教会へ走らせた。だが、間に合うだろうか。
「……ば、か猫……なさい」
死相が浮いた表情が動き、紫色の唇が震える。
立ち尽くしていたユーズドは弾かれたように膝をついて、アリアの口元に耳を当てる。
「……あ……、あ…、いうと……は、にげ……のよ。わ……た?」
「わかった、わかったよ!」
周囲が騒がしくなり始める。兵士達が騒動に気付き走っているのだ。それに負けないくらい大きな声でユーズドが答える。いつも震えていた彼が、腹から声を出している。アリアに聞こえているかどうか、わからないのに。
見間違いかと思うほどかすかに、「ばぁーか」と唇が動く。
それを最後に、痙攣が止まった。
「待て、おい待てよ! アリア、アリアっ」
薬師は魔法を止め。小さく首を振る。
言葉が出なかった。
ミルは自分が息の仕方を忘れてしまったのかと思った。胸が苦しくて頭の奥がじんじんする。
呆然としていると、強く腕を掴まれる。
「助けてくれ」
「え」
「頼むよ! 蘇生魔法を使ってくれ!! あんたならできるだろう!?」
「やめなよ、イル」
イルは泣いていた。
ぼろぼろと涙をこぼしながらミルを睨むように見上げ懇願している。
「できるはずだ!」
「できないよ」
「やれ!」
「やめろ! 無理を言うな、そもそも呪文だってわからないじゃないか!」
怒鳴りつけて、シャリオスはイルの腕を振り払う。つかまれた部分がくっきりと痕になっていた。
「<世界に夜が訪れる>」
ぽつりと薬師が言う。
「呪文はそれさ。でもね、発動しないんだよ。何が足りなかったんだろうね」
無表情で言いながら、アリアの瞼を下ろした。毒と酸の混合液を採取してガラス瓶に収めると、乱れた服を直し、残った毒液を水で洗い流す。薄まっても抗力は健在で、地面が煙を上げた。
飲み込まれた言葉が何だったのか、ミル自身もわからない。大きく開いた口が音にならない何かを呟く。ミルは弾かれたように宿へ走り、自室の鍵を乱暴に開け、マジックバッグをひっくり返した。中身をかき分けるように出し、目的の物を探り出すと踵を返す。
転がるように戻ったミルは、特上級の魔法書を開こうとして取り落とした。その拍子に開かれた最後のページが、淡く光っている。
「なんだい、それは」
「<世界に夜が訪れる。されどこの運命、未だ光彩陸離にて輝かしく――>」
「なっ!?」
一瞬だけ、何かが吹き出した。目視できないほど少ない魔力の奔流だ。
鳥肌をたてながらページを殴る。
「お願い、続きを出して。今じゃなきゃ駄目なの! 出して、出して! 出して!!」
「ミルちゃん、落ち着いて。動揺してちゃ魔法が使えない」
後ろから手を握られ、はっと振り返る。
赤い瞳が真っ直ぐ見つめていた。
「シャリオスさん……わ、私」
「特上級魔法には条件がある。解説されることのない条件が、自分の人生を曲げてしまう可能性だってある。ちゃんとわかってる?」
「でも私は、アリアさんを生き返らせたい。この現状を打開したいです! そのための魔法がほしい」
「……。なら光がどう発現したか思い出すんだ」
それは小さな姉弟を助けるためだった。願ったのは、今と同じ助けたいという思い。
呪文が全て浮き上がれば、あのときのように助けられるだろうか。
きっとそうだとミルは思った。絶対に蘇生できると魂が確信している。すると動揺した心が静まり、恐怖が泡のように消えていく。
魔法書が、まるでミルの心を感じ取ったかのように震えた。ページが以前より増して光り、その光の粒が形を変え文字を作った。
アリアの体に数字が浮き上がる。けれど他の人には見えていないようだった。
一秒ごとに減っていくそれを見ながら、ミルが唱えた。
「<世界に夜が訪れる。されどこの運命、未だ光彩陸離にて輝かしく。であれば争う余地があったのだ。開け冥府の門。蘇生せよ>」
瞬間、ミルの全身に呪文が形を作り走った。魔方陣が刹那に膨れ、かと思うと剥がれてアリアに飛ぶ。魔方陣に包み込まれたアリアの溶けた手足が、瞬く間に再生していった。まるで時を巻き戻したように。
魔法はアリアに吸い込まれるように消えていく。
魔力が抜け、枯渇したせいで、ミルの意識は貧血を起こしたように遠くなる。
「……アリアさん?」
呆然とする周囲を置いて、ミルは上手く上がらない手で彼女を揺すった。瞼が閉じたままだ。
「アリアさん、アリアさん」
不安が込み上がり、唇がわなないた。
魔法の発動は終わっている。なのに目を開けないのはなぜだろう。
恐怖が再び、心臓を冷たい手で握るがごとく忍び寄ってくる。
「アリアさん! 起きて、アリアさん! ――どうして!!」
どうして、とミルは繰り返した。
全ての傷が塞がったように見えるのに、アリアの心臓は動かない。息も止まったままだ。
強く揺する手を、シャリオスが押さえた。
振り返れば、シャリオスは首を振っていた。
「……私、失敗を? な、ならもう一度――」
「魔法は成功したよ」
息が詰まる。
我に返った薬師が、アリアに詰め寄ると組んだ手の平で胸を押す。口を付けて息を吹きこみ、頬を叩き、大声で名前を呼ぶ。
イルも、ユーズドも呼んでいた。
それでもアリアは目を覚まさない。
「<止まれ>」
とっさにミルは唱えたが、無情にも魔法が霧散する。魔力不足で<魔力暴発>さえ起こらないことに気付かないほど動揺し、ミルは呪文を繰り返す。
「<止まれ>!」
時間が欲しかった。
今だめでも魔法を解明すれば原因がわかるかもしれない。
その時間欲しさに唱えるミルの肩を強引に引き、アリアから引き剥がしたのはシャリオスだ。悲しそうな顔をして、両肩を押さえる。
「離して、シャリオスさんっ」
「生き返らなかった」
しばらく胸を押していた薬師は、ランプを持ちアリアの目を確かめると、首を振って手を止めた。座り込んで項垂れる。
声を上げてミルは泣き出した。
「ごめんなさい、私、助けられなかった! 助けられなかったの」
「いいんだ」
アリアを抱き上げたイルの声。どこか呆然とした表情でミルを見ていたが、小さな笑みに変わる。
「無理言ったのに、アリアを助けてくれてありがとな。この借りは必ず返す」
「……その子は死んじまったよ」
薬師の言葉が届いているにも関わらず、イルは首を振る。
「――ウィリアメイル、後のこと頼む」
「どうするのですか」
追跡から戻り、棒立ちなっていたウィリアメイルは窺う。イルは周囲の不安そうな視線に気付かず、遺体の頭に頬を寄せ話しかけた。
「アリア、あとは爺ちゃんが何とかするからな」
柵や楔、束縛から何もかも解き放たれたような顔で、イルは優しく微笑む。頬に流れる涙さえ無ければ、一点の曇りもない幸せな表情だった。
瞬いた瞬間、切り取ったように二人が消えた。
入れ替わりに帰ってきた双子の後ろには、司祭とシシリがいた。
「怪我人は!?」
額から流れる汗を拭うも、当の本人が消えている。周囲には争った形跡と、大量の血の跡が残るだけだ。
「アリアは?」
「アリアはどこ?」
まるで小さな子供のように、ムムとユユが怯えきった顔で問いかける。言葉無く二人を強く抱きしめたウィリアメイルに、大きく目を見開いた双子は、哀哭した。
兵士達が声を聞きつけようやく登場する。
全てが終わった後だった。