第二話
浄化魔法を覚えるので、教会に寝泊まりすると言う話に、ミルはすぐさま了承した。
迷宮に潜ることもできず暇なのもあったが、纏まった時間を地上で過ごせる機会が今しかないからだ。
外泊に渋い顔をしたズリエルを説き伏せたシシリは、ミルを教会まで連れ出した。
何事かをズリエルに囁かれたセドリックの表情が、なぜか使命を帯びた表情に変わってしまったのが、ミルはとても気になった。何を言われたのだろう。
「大丈夫だ。変な奴を近づけないと誓う」
「は、はい」
そんな疑問を持たれているとも知らず、セドリックはキリリと表情を引き締めていた。
教会は白く、清潔感のある建築様式だ。建物へ入ったミルは、そのまま聖水を浴びた浴槽までシシリにつれてこられる。宿で練習をしたとき、何かの拍子にシャリオスが焼けてしまうと大変なので物理的な距離を取る必要がある。
アルブムは足下で周囲を警戒していたが、危険がないとわかると「キュフ」と言って出ていった。お友達のところへ遊びに行くらしい。
「あの、練習する前に質問なのですが」
「どうぞ」
「浄化魔法を覚えたら、夜眠る時にうなされる事が少なくなったり、必要以上に苦しんでるモンスターのうめき声や内蔵物の飛散に耐えられますか?」
「最初以外は全部慣れですね」
シシリは悟りを開いたような優しげな眼差しで言い放つ。ミルはしょぼんとした。
「……やっぱり記憶を消す魔法を開発するしかないのですね」
「三日ほど泊まる許可を貰いましたし、ゆっくりやっていきましょう。後で魔法の話を詳しく聞いても? とても興味をそそられる議題なので」
聞いた言葉に芳ばしい気配しか感じず、シシリは何とか笑みを保つ。背中に浮いた脂汗を気のせいと確認したいのだ。
そんな内心のことは知らず、ミルは目を丸くして微笑んだ。
「シシリさんも忘れたいことがおありなんですね。初めての魔法開発で手間取っているので、お話しするの楽しみです」
ああ、これ駄目そう、とシシリは内心涙を飲む。唯一同じ場にいるセドリックは魔法のことには疎く「二人とも、そろそろ練習をした方がいいのでは」と促した。まるで何も分かっていない様子に、シシリの口元が引きつった。
「そうでしたわね。もう呪文はご存じでいらっしゃる?」
「ええ。<浄化>ですよね」
「よろしい。では暖かな光が体を包み込むようなイメージで唱えてください」
「<浄化>」
淡い光が体を内側から光らせるように巡っていく。肩こりがすっきり取れたような感触に、思わず息を吐く。
「気持ちいいです。こんなに良い魔法ならもっと早く覚えればよかったです」
「一度で成功するなんて、さすが光属性持ちだわ。威力を変えてやってみてくださる?」
何度か試した後「お上手です」と言われ練習は終了となった。
今更ながら受講費が必要か聞けば、必要ないという。
夕食は教会の住民と揃っていただく事になった。
パンとスープに小さな小鉢のサラダというメニュー。男性には物足りない食事量だ。
祈りを捧げた彼らは食事に手をつけ、ミルはちょうど良い食事量に息を吐く。いつもはよそ見をした隙に増量されてしまうので、食べても食べても終わらないのだ。
「それだけで良いのか? おかわりはあちらの鍋でもらえるが」
「大丈夫です」
甲斐甲斐しく妻の食事を世話していたセドリックは、心配そうな顔をする。
「あなた、良いじゃありませんの。無理に食べると吐いてしまいますし。ね、この後お暇でしょう? 一緒に入浴しません?」
「ジュディット、それは……」
「貴方も、私につきっきりでしょう? たまにはゆっくりした方が良いわ」
まだそれほど目立たないがジュディットは妊娠している。視線に気付いた彼女は「介助は要りませんのよ」と笑う。セドリックに恨めしそうに見られ、苦笑いを返す。どうもゆっくりしたいのはジュディットのようだ。
ほどよい満腹加減になったミルは誘いに乗って浴室にやってきた。
大きな浴室は湯煙で前が見えないくらいだ。
体を洗って湯に浸かったミルは、柔らかく膨らんだジュディットのお腹を見た。
「触ってみても良いですか?」
「どうぞ」
妹が母のお腹にいたときの事を思い出していると、シシリもゆっくりと足を浸す。彼女の丸い尻尾がピルピルと動いていた。
「ジュディット、今日の調子はいかがなの?」
「ええ、とても。お産の経験者がいるから教会は安心するし、来て良かったわ」
「ここには色々な方がいらっしゃるから」
夫から逃げてきた人、身寄りのない子供、娼婦に農民に冒険者まで様々だ。当然貴族出身者もいる。
上品な方達に挟まれたミルは、ジュディットのお腹から手を離すと湯船に肩まで浸かる。
「湯加減はいかが? この浴室は魔導具で水を汲んで湯を作っているのよ。廃棄予定の聖水も混じっているけれど――飲んでは駄目よ」
手の平ですくったお湯を凝視していたミルはハッとする。無意識だった。
「浄化魔法をかけたらいかが?」
「そうよ、体がおかしいのなら早めにした方がいいわ」
妊婦にまで心配されてしまった。
「すみません、ちょっとぼーっとしてただけなんですが、お言葉に甘えて、<浄化>」
情けない気持ちで呪文を唱えると、小さな光が手の平を覆い、全身に回る。杖無しでもこれくらいはできるのだ。
「まあ、お上手ね。さすが六十階層を突破された冒険者。そのうち無詠唱でも魔法を発動させられそう。そうなったら超一流の魔法使いだわ」
「でも、私は付与魔法使いです。評価されませんよ」
魔王もいないので光属性はお役御免なのである。
けれどシシリはとんでもないと首を振る。
「今のあなたを見て、そんなことを思う人は節穴よ。たった五人で六十階層まで降りて迷宮の仕掛けを解き、多くの冒険者を救った。こんな事、攻撃魔法が得意なだけの魔法使いでは無理よ。ユグド領も、あなた達が攻略情報を流してから変わりつつあります。付与魔法使いの中でも、とりわけ無属性の扱いに長けた魔法使いが引っ張りだこなのよ」
「そうなのですか?」
迷宮の中では滅多に冒険者とすれ違わないのでわからなかったし、普段は宿に隔離されているので、そんなことを言われてもピンと来ないのが正直なところだ。
ジュディットは微笑んだ。
「沼地も砂漠の浮遊階段も危ないのに、あなたと一緒なら商店街に行く道より安全よ。毒蛇を超えようとする冒険者がぐっと増えたわ。そのおかげで一級冒険者認定が見直されるのをご存じ? ほら、人数が増えるわけでしょう? この領地は、補正効果のある魚が捕れるようになったから、冒険者にとって美味しい獲物もできたわ。優遇措置を厳しくしても離れたりしないと領主はお考えなのよ」
「砂漠階層までの難易度も劇的に下がったわよね。あれなら新種のモンスターの調査に学者が依頼を出すのではないかしら?」
「実はもう出ているみたいなのよ。夫は火山の海まで行っていたから、案内役を依頼されたの。もちろん……私がいるから断ったみたいなのだけれど」
「お熱くて何よりだわ」
くすくすとシシリは笑う。
頬を染めたジュディットは優しく腹部を撫でた。そのたおやかな手つきは労働階級でも荒くれ者でもない。商家よりも貴族的だ。
「ふふ、それを言うならサンレガシ様も大事にされているわよね。セドリックったらズリエルさんに頼まれたみたいで、入浴中に変人が近づかないよう見ててくれとお願いしてきたのよ。神殿の浴室よ? 変な人が来ると思って?」
「それは、なんというか……」
まさか突然部屋へ訪ねてきた【遊び頃】に結婚詐欺をされかけたと知らないジュディットはおかしそうに笑っている。ミルが微妙な表情になるのは仕方ないだろう。
「ところでサンレガシ様、ご実家との関係は大丈夫なの?」
ジュディットの問いに首をかしげると、ミルの代わりにシシリが答えた。
「この方、お茶も送られてきてるくらい仲がいいのよ」
「そう。……なら大変ね。私は悪かったから踏ん切りが付いたのだけれど。もうわかっているでしょうけど、私とセドリックは駆け落ち婚なのよ。私は貴族の二女だったの」
驚いているのはミルだけなので、シシリは事情を聞いていたのかもしれない。
「親の反対を押し切って、護衛だったセドリックと駆け落ちしたの。どうしても両親が決めた婚約者と結婚したくなかったから……。もちろん両親は追手をかけたのだけれど、結婚が成立して縁を切られたわ。セドリックも実家と絶縁したみたいで、それだけは申し訳ないと思っているの。あなたもいずれ結婚の話が出るでしょう。もちろん上手く行く場合もあるわ。けれど好きな人がいるなら、手を離しちゃだめよ」
そう言って、ミルの頭を撫でた。
風呂から上がると、二人はジュディットを自室に送った。
待ち構えていたセドリックは妻の体を十分確かめ、二人にお休みの挨拶をする。
本日泊まる部屋へ案内されると、シシリはこう言った。
「あの方はああ言ったけれど、駆け落ち婚はお勧めしないわ。私は貴族の四女で、ジェントリと結婚できれば良い方の順番だったから、神殿に入って魔法使いとなったのよ。聖属性系の魔法使いになれば食いっぱぐれることはないから。結婚は諦めているの」
そう言って寂しそうに笑う。
「神殿には色々な人が来るわ。それこそ駆け落ち婚をするためにやってくる人も。でもね、長続きしない人ばかりよ。特に貴族同士では家の体面もあるし、お金のこともあるの。片方に捨てられる、別れるなんて話は珍しくないわ。あの方達も【探求者】に入らなければ生活が苦しかったはずよ。貴族と平民の結婚は、通常認められていないし、冒険者は安定していると言いがたいでしょう?」
冒険者というのは大抵そう言うものだ。夢を見ながらその日暮しで終わる者が大半なのである。
シシリは今まで幸せな結婚をたくさん見た。だが結婚生活を続けるのはとても大変で、くじける者も多かった。
「あなたはお金の心配はいらないだろうけど、ご家族が近くに居ないと言う事は、思ってる以上に大変なのよ。お産の時もそう。彼女達は無料で神殿に滞在しているわけじゃないのよ。申し訳ないけれど、無償で養えるほど人々の恵みは多くないの」
たくさんの寄付金を詰んで、司祭が認め、そして子を産んだら再び迷宮に潜るか事業を興すか。ジュディット達はどちらかなのだという。
「長々とつまらない話をごめんなさいね。でも、大変なことを一緒に乗り越えられる人と共に暮らした方が良いのは確かよ。信頼を結べる相手を。彼女達はそう言う仲だと思うけれどね。あんたにも良いご縁があるといいですね」
そう言って、お休みの挨拶をするとシシリは自室へ戻っていった。
白いリネンの布団に潜り込んだミルは、目を瞬かせた。
(一度に凄い話を聞いてしまったわ)
結婚とはなんぞやという哲学に入る前に、ミルはすやすやと寝息をたてた。
「お帰り! 魔法の練習はどうだった? あ、実演しなくて良いからね」
宿の入り口をくぐると、にゅと伸びてきた手に脇の下を持ち上げられる。ついでに釣れたアルブムは、シャリオスの顔面に飛び乗って、バイザーをペロペロなめた。
明るい声を聞いていると、自分のテリトリーに帰ってきたようにほっとする。
「浄化魔法を無事に使えるようになりました。あ、これお土産です」
もったりとしたクリームが添えられているショートケーキだ。シャリオスは目を輝かせる。
「これ、今話題のお店だよね? わぁ! ありがとう! 神殿の生活はどうだった?」
「そうですね、夢と現実を一緒に見せられた感じでした」
厳かな表現に、シャリオスは首をかしげた。
「それじゃ、私はこの辺で失礼するよ」
「セドリックさん、送ってくださってありがとうございました」
「いいんだ。それより、悪い男にはよくよく気をつけなさい。わからなかったら、ご両親や友人に見てもらうんだぞ」
「は、はあ」
ズリエルと見つめ合って頷いたセドリックは颯爽と帰っていった。
ミルには最後まで態度の変化がわからなかった。
「それで、シシリさん。魔力は溜まりましたの?」
「ええ! 光属性のものがこんなに! 今年は高い輸送費を払って輸入せずに済むわ。ああ、なんて素敵な光景……!」
ミルが使っていた浴槽を男達が全力でスライドさせる。すると下に詰まっていた魔石が白く輝いていた。ミルがお風呂が大好きなのと、浴室近くの部屋で魔法の練習をした成果が、この白い輝きである。たっぷり光属性の魔力を吸った魔石を見てシシリは今にも頬ずりしそうな表情だ。
「まったく……。殆ど使えていた浄化魔法を教えたにしては、取り分が多いのではなくて?」
「ですから人気店の菓子を、たっぷりお渡ししたではありませんか。食事や宿泊費もいただいてないのだし。依頼を受けたわけじゃないから教会の記録にも残りませんし、皆が幸せになれましたわね!」
「あなたってけっこう狡いのよね。……サンレガシ様を勧誘していた司祭様も、これをやってほしかったのでしょうね。他の神殿にコネもできますし」
聖歌祭で使う魔石を揃えるのが大変で、毎年どの神殿も苦心している。
目を輝かせるシシリに、ジュディットは小さくため息を吐いた。