第八話
未だ物々しい雰囲気は払拭できず、巡回する兵士の数は増えたまま。本日の冒険を終えた二人は真っ直ぐ宿へ帰る途中だった。
「あ、しまった。おじちゃんのところに行かないと! 鎧の相談で来て欲しいって言ってたのに」
「でしたら、私は先に帰っておきます。このドロドロを何とかしたいので……」
「本当にごめんね……」
炸裂した暗黒魔法の余波で肉のジュースとなってしまったモンスターの残骸をかぶったミルは、服の端に入り込んだ生臭い物体を情けない表情で払った。新しい鎧を作るための素材に使うモンスターを狩っていたときの、不慮の事故である。しかし、ミルの目は死んだように生気が無かった。
ねちょっと糸を引く服を早く脱いで、お風呂に入りたい。沈みそうな夕焼けを見ながら強く思う。今日も精神力が削られた一日だった。一刻も早く、記憶を消す魔法を完成させなければ。
シャリオスは宿まで送ったあと、とんぼ返りで装備屋へ走る。鎧が完成すれば四十三階層を抜けて火山地帯が始まる四十四階層へ突入だ。
「アルブムもドロドロになっちゃいましたね」
「キュア……」
毛繕いできなかった頭の後ろに湯をかけると、気持ちよさそうに目を細めている。すっかりお風呂が大好きだ。自分も泡まみれになりながら、ふやけるほどゆっくり浸かった。
最近はお金が稼げたので、奮発して甘い香りの入浴剤を使っている。それが肌に染みこんで、湯上がりでも香っている。髪を丹念に乾かすと、油を薄く塗って揉み込んだ。
ほんのり蒸気をあげる肢体。膝も頬もピンク色に上気している。そのまま仁王立ちしてミルクを一気飲みすると、火照った体が冷えていく。
「風呂上がりの一杯はこれですね! ……身長は伸びるかしら」
服のサイズもあまりかわってない気がする。自分の頭頂部を撫で溜め息をついていると、部屋の扉がノックされた。
「あ、お帰りなさい! 話し合いはどうでし、た……か」
すらりとした足に似合う黒いズボンに、磨かれた靴。視線を上げれば、糸くず一つ付いていない灰色のローブに見たこともないほど綺麗な、ガラスの花束。夕焼けに染まり、オレンジ色に光っている。
「もうすぐ今晩は、お嬢さん」
「あのときの……!」
長いシャンパンゴールドの髪を一つに結わえた男性に見覚えがあった。【遊び頃】の襲撃があった時に途中ではぐれた男性だった。
無事だったのかとほっとしながら首をかしげる。
「どうしたのかと気になっていました! 今日はお泊まりですか? この部屋は私が使用中なのです。部屋番号がわかれば、ご案内しますよ」
「や、優しい……。その、改めまして、俺はススル・ドミトルトと言います。お名前をお聞きしても? お嬢さん」
「ミルと申します」
緊張した面持ちになったススルはゆっくりと膝をつく。
「頬の、やっぱり綺麗に消えちゃってるなぁ。ね、何をしたの?」
「ええと、何がでしょう?」
「ここに俺の印をつけたんだけど、気付いてなかった?」
指先がなぞるように頬に触れ、耳の裏に指先がかかる。大きな手だ。親指が頬を撫でるように動く。
「あ、あの……」
真っ直ぐ見つめられ、ミルは動けなくなった。夕焼けのせいだろうか。灰色の目が赤く染まっているような気がする。それはシャリオスとは違う、頭から囓られそうな色。
「今日はお願いがあって来ました」
口調を改めたススルは持っていた花束を差し出す。反射的に受け取ったミルは、甘い香りに頭がくらりと回ったような気がした。
何かがおかしいと思っても、思考が上手く回らない。アルブムが毛を膨らませ異常に気付いたように足下に待機した。ススルはそれでもミルから視線を外さず、ゆっくりと口を開く。
「俺と、結婚してください」
一生大切にします、と聞き終える前に、首まで赤くなっていた。息ができない魚のように、突然のことに混乱する。
結婚は十歳の時から無理だと思っていた。男性から申し込んでもらえる日など来ないと。言葉を失い、動揺しきったミルを見て、ススルも目元を赤らめていく。
「これは俺、脈があるんじゃ……!」
「あ、の。ま、待って下さい。私はその、付与魔法使いで錬金術の適性も無く! な、なのであの、あのっ」
「え、駄目!? もしかして断られる? そんなの絶対嫌だ。君は俺の――」
「ちちちち父に話をしていただかないと、困りますぅ!」
「え、あ、そう……なんだ。お義父さんに、話……まさかのご挨拶!?」
花の香りをめいいっぱい吸ったミルは、腰から力が抜けたようにへたり込む。
よかった、と呟くススルの目から涙がこぼれた。
「断られなかったのは初めてだ。嬉しい……。なら今からお義父さんの所へ連れて行ってくれる? 俺、家の場所とか知らないし。結婚の許可を貰って式を挙げよう。もうドレスもケースも揃えたんだ。君に似合うアクセサリーもあつらえなきゃ。だから部屋から出ておいで?」
そのとき、ようやく違和感に気付いた。
ススルの指先が焦げている。白い手袋は手首で跡形も無く消え、右手の甲に赤い痣があった。頬を撫でたとき、確かに手袋をしていた感触があったはず。異変はそれだけではない。部屋の扉が、黄金に輝いている。
『あなただけの部屋』は錬金アイテムだ。使用者が招かなければ入出できない。もし入ろうとすれば弾かれ、強引に破れば侵入者を攻撃する。
つまりススルがミルの頬に触れることも、花束を渡すことも本当ならできないはずだ。ミルは一歩も部屋の外に出ていないのだから。
扉は何度も閉まろうとするせいで光っているのだ。それを大量の魔力の渦が、手を形取って押さえている。
立とうとした。しかし骨を抜かれたように力が入らない。むせ返る甘い香りを吸うごとに思考が溶けて行くようだ。
「しまった、香りが濃かったか」
悪びれない声に初めて背筋が震えた。アルブムが手を伸ばすススルに吠えた瞬間、姿が消える。聞こえたのは「うるさいな」と目をつり上げたススルの声。アルブムが壁に叩きつけられ「キュウ!」と痛みに鳴いた。
「やめてぇ……」
「俺のお嫁さんは本当に大切にされてるんだなぁ。お義父さんには感謝しないと」
そう言って無遠慮に手を伸ばしてくる。『あなただけの部屋』が反応し、侵入者に攻撃を加えている。ススルの両手は、入った分だけ焦げていく。けれど彼は、痛みを感じていないかのようにミルを抱き上げようとして――。
「俺の店に入り込んだテメェは何者だ」
横から伸びてきた太い腕に、吹き飛ばされた。
凄まじい轟音、衝撃と同時に花束が遠くへ投げ捨てられた。
「宵闇の花か。クソ男だな」
吐き捨てるようにドーマが言う。
「う、ドーマさ、ん。……アルブムが」
「キュア! キュキュ、グルルルル。ギュアアア!」
「元気だな。だったら主人を守ってろ。ありゃ何だ、死んでんじゃねぇか」
どおりでわかんなかったぜ、と呟いたドーマの腕に、黒い魔力が張り付いていた。風通しの良くなった廊下の向こう、落ちかけた夕焼けの眩しさで視界が悪い中、浮き出すように漂っている。それがピンと張ったかと思うと、体の半分が削ぎ落とされたススルが現れた。とても生きていられる状態ではないのに、血の一滴すら零さず立っている。
「俺の求婚の邪魔をするテメェは誰だ。ブチ殺すぞ間男が!!」
「宿屋の親父だ。ここに居られるのは客だけだぜッ!」
黒い魔力が傷口を覆い、はじけ飛んだ体の残骸を糊のようにつけていく。ベロベロとアルブムに顔面を舐められているうちに、ドーマの舌打ちと打撲音が響く。
「人間のくせに鋼みたいだなッ! 俺達は婚約したんだぞ、外野は素っ込んでろ!」
「黙れ外道、金を出せ!」
「追い剥ぎか!?」
「ちょっとドーマ、何があったの!? 滅茶苦茶ぶっ壊れてるじゃない!?」
騒動は周辺にも筒抜けとなり、運悪く居合わせた【空の青さ】が二階に駆け上がってくる。ドーマが戦っている相手を見ると「げぇ!?」とアリアが呻き、食いしん坊双子の尻を叩いた。
「ムムは兵士に報告! ユユは領主家に行って報告! あいつ【遊び頃】よ! 右手に鬼灯の刺し印があるわ」
「マジかよ、俺初めて見た!」
「ばぁかなの!? 見物してないでアンタも働け肉壁が!」
「こうやって煽ってるけどさ、あいつ背格好からしてアレじゃね? 少女連続誘拐殺人犯的な剥製狂じゃんよ!? やだよ俺、なんか怖いし」
「腐臭で鼻が曲がりそうです。禁術の匂いがプンプンと……。それにこれは、宵闇の花ですね。私は教会で聖水を貰ってきます。サクッとやってじゅわっと退治する方が速そうです」
「むちゃくちゃ料理みたいに言ってる……痛ェ!?」
「さっさと援護――しろ!」
蹴り上げられたイルは、涙目で大剣を振った。尻を押さえながら「ここ狭いから向かないんだぜ」と言いつつ飛びかかっていく。
ススルは今や面影を消し、両手が黒い渦となっていた。腕には陶器のように罅が入っている。触れたとき人の肌のように暖かく、血が通っていることを疑いもしなかった。けれどその肉体は作り物で、内臓一つ入っていない。まるで本物の人形のようだ。
「よし、兄ちゃん話し合おう! しつこい男は嫌われるぜ!?」
「俺は振られてない、お義父さんのところに一緒に挨拶に行く! 彼女が言ったんだ!」
「マジで?」
信じられないと振り返られ、ミルは静かに悲しんだ。体が動かず、口も痺れたようになって返事すらできない。言い訳させてもらえれば「そんな人とは思わず」とか「結婚はまず父に許可をもらう流れで」と言えたのだが。
「これどういう状況――ミルちゃん!?」
混乱を極める現場に、更に一人、哀れな冒険者が加わった。
帰ってきたシャリオスは仰天してミルを抱き起こす。アルブムがこの野郎、遅いじゃねぇかと背中に頭突きを食らわせた。
「どうしたの!? こんなにぐったりして……」
「宵闇の花よ! アリアが教会で聖水買いに行ったから、とりま平気。それよりあいつ掴まえるの手伝ってちょうだい! <火球>!」
火球が炸裂する。しかしススルの表面を焦がすことすらなく、表面を滑り後方へ飛んでいく。空中で爆ぜた火球は大気を震わせ、周辺住民は飛び上がって逃げ出した。
「待て待て、表面にコート剤でも塗ってんのか!? 魔力が滑って効かないぞ!?」
「なら筋肉に物を言わせなさいよ肉壁!」
「無茶言わないで」
振り下ろした大剣もツルリと滑る。振り返ったイルは無言で首を振った。迷宮内なら逃げようの合図。しかしここは地上で、相手は【遊び頃】の犯罪者。
シャリオスはその間、息を止めていた。
「宵闇の花って、麻薬じゃないか……!」
「……シャリオスさ、ごめ、なさい。私、気付かなくて」
「だ、大丈夫! すぐ中和すれば後遺症出ないから。他に何かされなかった? 解毒薬飲まないと――」
「おいテメェ、俺の花嫁にみだりに触れるな! ブチ殺すぞ!?」
飛んできた魔力の固まりが『あなただけの部屋』に弾かれた。狂ったようにススルは壁を叩く。隣の部屋も全て壊し、宿屋の二階はほぼ全損。それでもミルの部屋だけは、形を保っていた。
「花嫁?」
混乱の境地に陥ったシャリオスは口をあんぐりと開けた。ひぐ、とミルの喉が変な音を出す。
「わ、私、結婚できないと思ってて……う、嬉しかったのにっ。初めてで……ぐ、グスンッ」
「はじ、めて……?」
顔面を殴られたような衝撃。頭の中が真っ赤に染まり、シャリオスは一瞬、全ての音が周囲から消えた気がした。
夕日が沈み、空がオレンジから青く色を変えていく。
優しくミルの目元を拭ったシャリオスは、甲を脱ぐと放りだした。
「ちょっとアンタ!? あ、日は沈んだんだった……わ?」
「二人とも下がれ! 今は夜だ!」
鋭く吠えたイルがアリアを担いで大きく下がる。と同時にドーマも取っ組み合いを止め、飛び上がった。先ほどまで居た場所に、音も無くシャリオスが立っている。黒髪が逆立ち、赤い目が怒りに燃えていた。
「おい破廉恥野郎、ミルちゃんは成人したばかりだったんだぞ」
「は?」
言葉を発した瞬間、ひらめいた双剣がススルの両腕を肩から切り飛ばす。
吸血鬼。
それは常闇の住人であり、日光は彼らを弱らせる。神の与えた試練だと言う者もいれば、帳尻を合わせるためだと嘯く者もいる。それは夜、彼らに敵う者などいないから。もしいるとすれば、燦然と輝く太陽のような光魔法の使い手だけだ。
シャリオスは歯を剥き出しにして唸った。
「おい屑野郎、女の子は脆いんだ」
「そ」
んなのは知ってると言う前に、魔力によって繋がれていた腕が、砂のように消し飛ぶ。
何も見えなかった。その事に驚く暇も無く、決着はつけられる。
「おい犯罪者――<煉獄>」
闇に溶けるような黒い炎が見えたのは、日が沈んだばかりだったから。小さな羽虫のように揺らめいたそれは、音も無く、静かに現れた。
「うぎゃあああああああああ!!」
悲鳴は、空を裂くように細く長く響く。火はむさぼるように肉体を、魔力を、神経を噛み千切り、燃やして咀嚼した。まるで生き物のように血の一滴すら残さないよう、蛾の群れのごとく襲いかかる。暴れる手足は見えなくなり、生々しい咀嚼音が続いたかと思うと、黒い固まりとなった。
ヒクつく姿は既に生きているとは思えないが、シャリオスは許さなかった。右手を向け、手の平に黒炎を収束させる。
「<これを人は幻影と呼ぶだろう。しかしそれは手招き。天上から最も遠く、闇よりもなお濃い影となる。何者かと問う者よ、聞け。答えは、ありはしないのだ>!」
「待て待て! 特上魔法を街中でぶっ放すなぁー!」
しかも暗黒魔法、というイルの言葉は衝撃で消えた。
闇が海のごとく街を包み込む。それは一瞬のことだった。けれど、此の世で最も恐れる何かが肌に触れるのを、彼らは感じた。
魔法はススルの燃え残った灰すら大気に還し、蒸発させる。炎よりも濃く、恐ろしい熱は魂さえも滅ぼすような一撃だ。
「聖水はいりませんでしたね。ですが一応……成仏してください」
超特急で買ってきたウィリアメイルは、両手の瓶を見つめ、溜め息をつく。聖水は地面に染みこむだけだったが、シャリオスは無言でウィリアメイルから一瓶もらうと、静かにまき始めた。彼女の背後では、教会から同行したと思われる司祭が立ったまま気絶している。
無事だった一階すら崩れ落ち、跡形もない残骸となった宿屋。恐怖の絶叫と謎の魔法で領民はもちろん、兵士達すら失神し戦闘不能に陥った。高レベル冒険者も立っているのがやっとで、手の震えは夜が明けても治らなかったという。
シャリオスが使った暗黒魔法は、もろもろの事情により【遊び頃】の仕業にされた。
虹色にきらめくクリスタルのシャンデリア。ガラスの鳥籠の前に、こびりついたようなシミが広がっていた。それは黒い油のように広がったかと思うと、質量を増して膨らむ。
「間男めぇ! 俺との間を引き裂くなんて、三万回コロしても足りねえぞ!」
人形ケースがビリビリと声量で揺れ、罅が入った。
表情を一転させたススルは慌てて駆け寄った。血の塊がとぐろをまき、器を作っていく。そこには傷一つ無い青年がいた。
「ごめんオードリー! 驚いたよね」
ガラスの破片を拾い集めると、自らの魔力を使って治していく。すっかり元に戻ったケースを撫で、横に座り込むと部屋中の人形が一望できる。美しい少女達は永遠の眠りについている。誰もが見惚れるような美しい寝顔で。
しかし思い出すのは頬を赤らめる少女の事だった。
「初めて挨拶に行こうって言われた。嬉しくて死にそう……でも、幸せになるにはあいつが邪魔だ」
どろりと目から零れたのは、赤黒い液体だった。唇を噛みしめたススルは右手の甲に爪を立てる。鬼灯の入れ墨が歪み、色を変えていた。