第六話
ラーソン邸への招待状が来たのは、一週間後だった。
柔らかな日差しに照らされて、木の葉の色が濃くなっている。
夏の日差しは陰りを見せ、風には秋の冷たさが絡まり、洗ったように空気が綺麗になっていた。
ユグド領に来たとき、ミルはただ身を立てることだけを願っていた。それは今も変わらないが、少しずつ理由が増えていく。
一週間前に超えた壁が今日の名誉を生んだ。激戦だったと聞かれれば首をかしげる。三十四階層へ、ユーギを追って走ったときの方が怖かった。
これから先、あのときより怖いことが待ち受けているかもしれない。それでもミルは進むのだ。誰に言われたわけでもなく、自らが望んだ結果として。
「魔法使いが来るのは久しぶりだ。才能の芽生えが雀から鷹へ姿を変えるかのような、見事な躍進。ウズル迷宮の一級冒険者が増えたことに、心からの喜びと祝辞を」
紳士はそう言って、笑みを浮かべる。貴族然とした柔らかな口元は、面白いからでも、相手が好ましいからでもなく、礼儀としての笑みだ。
黒と見まごうほどの深い緑の染料で染められた衣服に身を包み、紫色の髪と瞳をした若く美しい男性が、ユグド領の領主――ディオニージ・ユグドその人だ。短い髪は領内でも目立ち、直ぐにその存在が何者かを示すだろう。
向かい合うように座り、太めの眉を見ていると、ユグドはふと笑みを崩す。
「堅苦しいやり取りは止めよう。君の事は聞き及んでいるよ。サンレガシと言えばかの有名な錬金貴族。その長女が、よもや我が領にやってくるとは。いくつも領地に貢献していただき、感謝しますよ」
代筆屋、魚の件だろう。あれから調査が進み、そろそろ情報が公開されると聞いている。
「それから、シャリオス・アウリールの事も。彼と組みたい冒険者は多くとも、合う冒険者は少なくてね。いろいろ気を回してみるのだが、失敗に終わる。だからこそ君と長くパーティを組み続けることを望む。さて、当の彼だが順調に回復をした。君達は晴れてラーソン邸を出て、好きな宿に泊まれるというわけだ。まあ、いつでもこの邸を使って構わないがね」
そう言って片目を瞑ったユグドは、それだけではっとするほど様になっている。これは他人から自分がどう見えるかわかっている男だ。貴族なのだから当然のように教育されるが。
「もう答えをお知りになっているんですね」
「おっと、これは無粋を許されよ。レディを待たせてはいけないという気持ちが、無意識に出てしまったようだ。なにせ、暗黒魔法の使い手がパーティを組むのは難しいからね」
「ん?」
ミルは今、言われたことをゆっくり頭の中で反芻した。
「あんこくまほう」
それは人々の心に闇を与え、傷をつけ、滅びをもたらすと言われる闇属性魔法の派生形。
見た者は眠れぬ夜を過ごし、時には術者本人の正気をも削ってしまうトラウマ魔法――と言われている魔法だったはず。
領主は麗しく微笑んでいる。
しかし表情から知らなかった事を読み取ったのか、心なしか口元が堅くなり、冷や汗を流しているように見える。
「あんこくまほう、とはまさか……」
「返答は改めて、本人から聞くと良いだろう」
そう言う間に足音が近づいてくる。
ユグドは目配せをする。
すると扉付近で待機していた使用人が、無言で扉を開けた。大荷物を引きずっていたシャリオスが、全身鎧姿で立っている。そして右手の甲を向けた状態で固まっていた。
「失礼。その装備でノックされると扉が痛むのでね。先に開けさせてもらった」
「あ、領主様だ」
あ、ウキキだ。と幼子が指さして言うように、虚を突かれたシャリオスが思わずと言ったように口にする。気付いて少し慌てていたが、気にしていないかのように領主は微笑んだままだ。
「君達の飛躍を期待しているよ。迷宮の加護があらんことを」
そう言って退出していく様子が、逃げるように見えるのは被害妄想なのか。
「シャリオスさん、あの――」
「うんっ。今日からよろしくね!」
麗しい生き物が出ていき、入ってきた麗しいはずの生き物が可愛らしく――全身鎧で見えないが――笑っている。
あんこくまほう、と言う言葉は声にならず終わった。
(原因は暗黒魔法で……? あんこくまほう……えっ?)
「キュー?」
わくわくした様子のシャリオスはアルブムを撫でさすると持ち上げる。そして自分の肩に乗せると、ミルの手を握って引っ張った。
「やった! 今日から毎日お腹いっぱい食べられるっ。へへへっ。こないだ持ってきてくれた魚、凄く美味しかったよ! ミルちゃんが釣ってきたの?」
「えっ? はい、三十五階層で。あんこくまほうさんも気に入りましたか?」
「そりゃもう! あれ? 今、呼ばれ方変じゃなかった?」
「気のせいですよ」
「目をそらしている……。まあいいや。僕も同じ宿に泊まるよ。あと、今日はもうお昼だから迷宮探索は止めて、ギルドでパーティ申請しようね」
「やっぱり暗黒魔法だったのですね……」
そう言えばシャリオスを追っていたお姉様達も「暗黒騎士様」と呼んでいた。鎧の色から取ったわけではなかったのだ。
ミルの心中を知らず、シャリオスはずんずん進んでいく。
「怪我は凄く良くなったんだよ。――ごめんねミルちゃん、心配をかけて。久しぶりに大怪我をして死にそうになって、地上が遠かったから、深く潜るのが怖くなったんだ。でも頑張ってる君を見て、僕も夢を諦められないと思った」
ふと足を止めたシャリオスが言う。
バイザー越しで表情はわからない。きっと<纏う闇>で鎧の中も暗く覆っているのだろう。
今も太陽の下を歩けないシャリオス。夢は叶わず、追っている最中だ。
「そうでしたね。シャリオスさんは、シャリオスさんですよね」
「え、なに? 今のどういうこと?」
「いいんですよ。でも迷宮に行きませんか? 魚捕ってきて晩ご飯にしましょう。ドーマさんが料理してくれるので」
「あっ、それ良い案。賛成!」
「キュキューン! キュアッキュア!」
ミルは微笑んだ。
喜ぶアルブムとシャリオスを見ているとヤーメタ、なんて言えなかった。
きっとどうにかなるだろうと、心の中で自分を大呼する。
それを人は、問題の先延ばしだと言うだろうが。
三章(完)