第八話
方法は一つだけあった。イデアには「九」の数字が浮かび、未だ蘇生魔法の範囲内である。
(……それをしてしまったら、さっき見つけた人達はどうなるの)
命は平等ではないが、今のミルは選ぶことができる。できてしまう。
蘇生魔法を使えるのは一人が限度だ。他は諦めることになる。そしてもう一つ問題があった。蘇生魔法を使ってしまえば、ミルは数日の間、魔法が使えない。まともに進むことも困難になる。おかしくなっているトリシャと共に生き残れるのだろうか。迷宮で仲間が誰もいない状況で。
絶句しながら考える。不思議な事に、頭のどこかが冷静だった。
(そもそも私は使うつもりがなかったのに、今悩み出すなんて)
おかしな話に自嘲した。
そのとき、迷宮が震えた。
通路の奥から咆吼が次々と上がる。瞬きの間にトリシャの背後から出現したミノタウロスが、斧を振りかぶる。
「<空間収納>!」
再配置されたのだ。
空間を断絶して素早く首を切った刹那、絶叫と共に足音が響き始めた。
「まずい、この階層は声を聞きつけて他のモンスターが集まってくる! 挟み撃ちにされてしまう!」
「今まではどうしていたのですか」
「入り口から一列になった個体を順番に……おびただしい数だった。剣も防具も壊れている。もうお終いよ!」
座り込んだトリシャ、死亡しているイデア。
二人を連れて逃げるのは無理だ。
『魔法の部屋』を壁に貼り付けたミルは扉を開く。
「入ってください!」
呆然とする手を引いて扉を閉める。光を屈折させて隠すのと同時に、ミノタウロスの群れがやってきた。
間一髪、隠れることができた。
互いを認識したモンスター達は、相手を攻撃し始めた。まるで向かい合った個体は全て敵だというように。扉の前に死体が増えていく。
ミルは振り返った。
唇に人差し指を当てるとトリシャは頷く。蒼白になって震えていた。
障壁を使いイデアの遺体を隣の部屋へ連れて行くと「ベッドを使わせてもらえませんか」と彼女は訴えた。
「怪我人なんです、どうか」
「あちらへ運びます」
ミルは断った。
襲う素振りのない彼女に少しの信頼を覚えていたが、未だ正気とは言いがたい。何かの拍子にとんでもない事態になりそうだ。
まず目つきがおかしい。彼女の藍色の瞳が狂気じみた光を宿し、表情はどこか虚ろ。肌の上を這い回る寒気は気のせいではない。腰の剣は鞘だけで足も骨折しているが、ミルを殺すのには首を締めればじゅうぶんに見えた。
明るい場所で見上げると、足がすくみそうになる。
(私はきっと、この人から逃げられない)
イデアを芝生の上へ寝かせ、怪我の様子を確かめる。首の半ばまで断ち切られていた。致命傷である。巻かれた包帯が千切れるのを辛うじて止めているような有様だ。
治療はトリシャがやったのだろうか。それでも彼女はイデアが死んだと、信じられなかったのだろう。イデアの瞼を下ろす。
背中の斧を引き抜いて顔を上げると、トリシャは物干し竿の代わりに使っていた槍を凝視していた。
冷や汗が流れる。
「ここは? 空がある……」
「魔導具の中です。許可がない人は入れないので、モンスターも来ません」
壊れない限りは。言外に付け足す。
「でも、お静かに願います」
「そうなのか……ああ、だからこっちの部屋に。しばらく大丈夫なのだろう? ポーションは。何本か使ったが、治りきらなくて」
「彼は……イデアさんは直ぐに治療しなくても大丈夫です。上級ポーションはありますが、その前に足の治療をしましょう」
自分よりもイデアを、という彼女を宥め賺し、骨の位置を戻してポーションを飲ませた。綺麗に繋がって立てるようになった。自分の危険が増しただけだが、それでも放っておくことはできなかった。
「イデアさんの治療前に、確認したいことがあります。……お約束いただかなければならないことも。できないというなら――」
「もちろんだ! 断ったりしない、なんでも言ってほしい!」
「静かに!」
遮って掴みかかってきたトリシャは狂乱していた。
肩に食い込んだ指に痛みを覚えると、彼女はぱっと手を離す。
「す、す、すまない。仲間達は私達を見捨てたんだ。イデア様が死んだと馬鹿なことを言って置き去りにした! ずっと彼を背負って地上を目指していた、心細かった。眠っているだけなんです。イデア様は、眠ってるだけで……」
モンスターが再配置された以上、ミルには戦力が必要だ。今の時点で彼らの他に考えられない。一刻も早くアルブムを見つけなければ。一匹で迷宮を彷徨うなんて。怪我だって心配だ。殺される可能性だってある。
いくつもの理由が頭の中に浮かび上がって、決意を引き出す。
破滅の手招きだ。
けれど迷宮で冒険をしない者は死ぬのも事実で――考えても正しい答えなどない。
零れた涙を拭っているトリシャは、葛藤に気付かない様子だ。
「君に会えて本当によかった。何をすればいいでしょう」
「お願いですから、落ち着いて聞いてください」
手の震えを抑えるように握った彼女から距離をとり、バッグから契約書を取り出す。ペンと虹色のインク壺も。
「それは?」
「魔法インクです」
共に旅に出た日の事を思い出す。
スールは契約書と虹色のインクを渡し、注意事項を伝えてきた。
死者は直前の記憶を持っている。自分が死んだという記憶だ。
蘇生魔法を使えるとわかれば、ミルは今までのように生活できなくなる。これは禁じ手とでも言うべき魔法。冒険者じゃなくても喉から手が出るほど欲しくなるだろう。
そういう輩に情報を伝えないためにも、蘇生対象や目撃者が不用意に口外できないようにするため、魔法契約を結ぶのだ。
「血判をしてください。これで対象者になります。イデアさんのものは、私が押します」
契約書に虹色のインクが触れた瞬間、魔法が発動するようになっている。これで死の前後の記憶が混濁し、死者が気付くリスクを減らせる。思い出したとしても、口外することはできない。話せるのは特定の人間の前だけだからだ。見張る必要がない。
「魔法契約の内容は、これから行う治療、見聞きしたもの全てを他人に口外しないこと。これに、私にあらゆる危害を加えないこと、裏切らないことを追加します。契約書は結ばれしだい、教会に保管されます。治療中は絶対に動かないでください」
「失敗するのは困る。わかった――なあ、ポーションを使わないのか。君は神官ではないでしょう」
恐ろしく昏い目で見つめてくる。
「イデアさんの傷は、普通のやりかたでは治りません」
「……そう、か」
内容すら確かめず、トリシャはペン先をインク壺に浸す。
名前を書き終わったとたん、彼女の動きが止まった。魔法が発動したのだ。
杖をくるりと回し、集中する。息を吸い、肺を膨らませ唱えた。
「<世界に夜が訪れる。されどこの運命、未だ光彩陸離にて輝かしく。であれば争う余地があったのだ――」
もしも魔法が失敗すればイデアは生き返らず、次の機会も失われる。そのときミルは言い訳できるのだろうか。きっと無理だ。
「――開け冥府の門。蘇生せよ>」
勇者ではないと知りながら、勇者と名乗り旅をしていたイデア。彼の故郷はどんな場所なのだろうか。オールドローズ国はなにを思い、認定勇者を作ったのだろう。
今日、迷宮で朽ちた命は他にもあった。
その中から一人を選ぶ。なんて傲慢な行為だろうか。
蘇生魔法が使えても、いやだからこそミルは、自分が立派な魔法使いになれたと思えなかった。
全身に走った呪文と魔方陣が刹那に膨れ、イデアへ飛ぶ。千切れかかった首が繋がり、背中の傷も癒えていく。血の気の失せた肌に赤みが戻り、凹んだ肺に空気が含まれた。
ミルが座り込むのと同時に、契約書が消える。
頭がぐらぐらして息が浅くなる。魔力の枯渇に体が耐えられないのだ。
地面に倒れたと同時に、起き上がったイデアが見えた。成功したことにほっとしながら、目を閉じる。気が遠くなった。
最後に喜ぶトリシャの声が耳の中に残った。