第五話
目の前に選択肢が現れて『はい』と『いいえ』のどちらかを迫られる。
問いは『治しますか』で統一され、ストラーナは毎回『はい』と答えた。
何も考えずに、誘われるように。
そうする事に疑問すら抱かず、ただ無機質な機械のように『はい』を選び続けた。
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真上にある月が消えると朝がやってくる。
青々と茂った森が起き出して、湿った土が匂い立つ。肥えた土の香りはむせるほど濃く、黒く見えた葉が日光を柔らかく吸収し、葉脈が透けて見えた。
ぼうっとしていると、膝の上に乗っていた小動物が耳を動かし目を開けた。丸い目がストラーナを見て二度瞬きする。
狸に似ている小動物の毛は青みがかっており、蹄を持った足は太い。傍らにいる親はストラーナ三人分を超える大きさだ。
名前の判らない生物の子供は、昨夜は足を怪我していた。今は治った足を確認し「ポ」と不思議な声で鳴く。毛皮は昨夜と違い柔らかく、艶を帯びていた。
尻尾を振り、膝を降りて親の元へ駆け寄るのを見送ると、親の腹部にいた兄弟が順番に顔を出し、帰ってきた兄弟とじゃれた。
親が低く鳴くと、子供達と共にゆっくりと森の奥へ消えていく。
太陽と月を見送って、十五日が過ぎた。
ストラーナはその間、ずっと木の根元に座って星を見上げ、木々のざわめきを聞いていた。歩こうとは思えずに、眠くなったら瞼を下ろす。
いつの間にか人気の無い森の奥に座り込んでいたストラーナは、そのまま今日までぼうっと過ごしている。体は健康だし歩けないわけではないが、どうしても動く気になれなかった。
それは情熱をかけて作り続けた物が自分の力ではどうしようもない物にぶち当たり、意図しない方向へ悪用されたからかもしれないし、心ない悪意に晒され、または無関心から来る鈍感な言葉の刃に刺されたからもしれない。
嘘だ。
一番の原因はわかっている。
ストラーナがささやかな力で守っていた宝物が死んだからだ。
それは母だった。
心にぽっかりと空いた穴を埋める方法を、ストラーナは見つける事ができなかった。だからこの森に招かれたのかもしれない。
葬式が終わり、手続きを終え、死亡届を出して新聞の訃報欄に名前が載った。
お悔やみの言葉を受け、参列者に墓の場所と品物を送り終えるとやる事が消えた。
目を閉じて「疲れた」と呟くと、この場所だった。
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膝の上に乗った小鳥が服を突く。青い背中に腹は白く、柔らかかった。
肌をチクりと刺す感触に、湿った小さな舌がぺろりと指先を舐めた。
『治しますか――はい・いいえ』
選択肢が現れた。
銀色の歪な文字が宙に浮き、触れると何かが起こるものだとストラーナは既に知っていた。
どこが悪いのか知らないが『はい』を選べば、小鳥はピクリと顔を上げ、首を回す。そして一声鳴くと飛び立った。
喉の渇きを覚えた生き物が水辺で喉を潤すように、怪我をした動物がストラーナの元へやってきているとわかったのは、三日目だ。
鳥を見送って太陽が真上に来たとき、膝の上に黄色のリンゴが落ちてくる。色以外はリンゴに似ているので、ストラーナはそう呼んでいる。
最初は四方に落ちていた木の実だが、どういうわけか二日目から膝の上に落ちてくるようになった。上を見ても実っている様子はない。不思議で不気味だが、なんとなく手に取って口にしている。
数時間かけてリンゴを食べ終わる頃には森は夕暮れとなっていた。オレンジ色の光りはすぐに黒く染まるだろう。
今日もまた星を眺めて眠るのだと思っていると、予期しない来訪者があった。
猫人族だ。黒耳の男は金色の目をストラーナに向けた。ストラーナよりも頭二つ分大きく、茶色のズボンに汚れたシャツを羽織っていた。
「こんなとこに、ご同類か」
右足を引きずるように近づいて着て「奇遇だな」と言いながら横に座り込む。
彼は聞いてもいないのに身の上話を始めた。
「ここは綺麗だな。俺の故郷もそうだった。戦争で無くなってから各地を転々とした。これでも傭兵で身を立ててたんだぜ。だが所帯を持とうとした女は死んじまった。日雇い仕事しながらその日暮しだ。それで肺をやっちまったみたいで、医者には匙を投げられた。なら、早めに終わらそうって事でここに来た。散々な人生だった。アンタはどうなんだ?」
わからないと答えたら、彼は深く聞かなかった。
死にに来たのかと思ったが、それにしては止めどなく話し続けている。
月が真上に上がっても旅や訪れた街の話は途切れない。
一人で死ぬのが寂しかったのかもしれない。
そう思いながら彼の顔を眺めると、その瞳が湿っている事に気付いた。月ばかり眺めていたから気付かなかった。
空が白み始めると、彼は大あくびをして瞼を閉じた。
翌朝目を覚ますと、彼は止めどなく話し始めた。
ストラーナは相づち一つ打たないというのに、気にした様子もない。
やがて話題が一巡し、膝の上にリンゴが落ちてきた。
彼はきゅっと瞳孔を細めてリンゴを見た。ストラーナがリンゴを差し出すと、匂いを嗅いだ彼は小さく囓った。
「私には、貴方のどこが悪いのか、わからない」
不思議な場所に招かれて十七日目。
発した言葉は小さくかすれていた。
それでも猫人族の大きな耳は聞き取って、はっとしたように目を丸くする。
「無理をするのは、止めなさい」
すでに『はい』と選択肢に答えていた。
猫人族の肺も、右足も治っている。
なぜ治るのか、この選択肢は何なのかストラーナにはわからないけれど。
「あなたは、色々な人と話ができるのだから、深く付き合える人も、きっと現れる。悩みや、死の恐ろしさを、打ち明ける勇気があるのだから……もう、帰りなさい」
自分にはできなかったと、頭の隅で小さく思った。
リンゴを握りしめたまま飛び上がるように立ち上がった猫人族。まん丸の目でストラーナを見つめ、しばらく無言だった。かと思えば大粒の涙をホロホロと流す。
囓りかけのリンゴをストラーナの膝に戻し、涙を流しきるように瞬きしたあと戻っていった。
二度と帰っては来なかった。
木の葉が擦れるやがて音が止み、囓りかけのリンゴを食んだ。
しばらくすると老いた動物が膝の上に乗ってきた。何度か見かけた栗鼠のような動物だった。硬い毛質を撫でるが選択肢が現れない。
翌朝、栗鼠は冷たくなっていた。
初めての事に戸惑った。
栗鼠は目を瞑ったまま眠っているかのようだった。苦しんだ様子が無い事にどこかほっとしている自分がいた。
ストラーナは栗鼠を近くの茂みに埋めた。土は柔らかく、触れるだけで指の跡がつく。
太陽が真上に昇れば膝の上に黄色のリンゴが落ちてくる。
少し考えた後、死んだ栗鼠を埋めた場所に、墓標代わりにリンゴを置いた。
お腹は空かなかった。
翌朝、置いたくぼみだけを残してリンゴは消えていた。
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それから、少しずつ様子が変わってきた。
怪我をした動物の他に、ふらりと死に場所を求めてやってくる個体が現れた。四肢が欠損した動物が、目が合った途端事切れる事もあった。
墓は増え続けた。
健康な生き物が現れる事はない。
ここはそう言う場所なのか、それとも自分がそうなのか。
一月が経った時点で日付を数えるのを止めていた。
膝に乗る動物、ときには童話に現れるような不思議な存在と出会った。時折言葉を交わせる生き物がやってくるが、ストラーナはほとんど話さなかった。彼らは何らかの疾患を抱えていたが、ストラーナと少し話すと静かに去って行く。
(何かを看取ってばかりいる)
そんな風に思う頃、森は紅葉を終え、葉を落とす。
壁のない木の下だ。雨風をしのげる場所ではないが不思議と雨粒が体を濡らす事はない。凍るような雪の寒さも。
全ての命が眠るような大雪が積もった後も、日が昇ると膝の上にリンゴが落ちてくる。
自分はもしかしたら、以前と同じではないかもしれない。本当はもう死んでいて、長い長い夢を見ているのでは。座り込むこの木に生まれ変わっていて、気がついていないだけかもしれない。
そんな事を思うことが増えていった。
空想は逆に現実的だった。
リンゴを口にしなくても腹が空かず、排泄もしない。
その日は凍るような冷たい風の日だった。
珍しく動物の気配がせず、風に泣き声が混じっていた。
リンゴが落ちてくる頃になっても止まなかった。
ゆっくりと立ち上がったストラーナは、引きつけられるように進み始めた。亀のような歩みだったが、以外と近くだったようで、すぐに倒れる三人の男と小さな子供を見つける。子供は仰向けに倒れた男の腹に手を当てて涙をこぼしていた。
一人にしないでと泣いている。
冬の寒い中、助けも呼べずずっとそうしていたのだろうか。
他の二人は既に死んでいた。一人は胴体が二つに裂かれ、もう一人は背中に剣を突き立てられている。どちらも黒装束だ。
ストラーナは少女がしがみついている男に近づいて『はい』と選択した。
濁った目をし、死の淵に立たされていた彼はほんの少し光りを取り戻す。吐いた血で濡れた唇を動かしてストラーナを認めると、こう言った。
「私はもう駄目だ。この子を、安全な場所へ……」
「そんな事言わないで、メデイル!」
選択肢がもう一つ現れた。
男は重傷で、一度で治らなかったようだ。
うわ言を繰り返す男をそのままに『はい』を選択する。
泣いていた少女は助けを呼ぶようにストラーナに願ったけれど、方法も場所も知らなかった。最初は癇癪を起こしたが、次第に男が回復していると気づき静かにストラーナを見あげた。ときどきされる「治しているの?」や「ねえ、どうして何も言わないの」と言葉をかけられるが答える余裕はない。
次々に出てくる選択肢は、やがて消えた。
男から目を離したストラーナは少女の前に浮く銀の選択肢を見た。胸の辺りに浮いているという事は、心臓に何かあるのだろう。
選び終えると、ストラーナは長い間苦しんでいた男にリンゴを渡した。
あとは自分達でどうにかするだろう。
「ああ、頭がふらふらする」
殺し合いの現場を見た事よりも疲れた事に驚いていた。
木の根元に戻ると、もう起きていられなかった。
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何度も季節が過ぎた。
リンゴは落ち続ける。
時を経るごとに森は色を変え巡っていく。
いつの頃か、虫のような羽を背中から生やした小さな人間がストラーナに纏わり付くようになった。彼らはかしましく、耳元でさえずるように話す。彼らの名乗りを聞くものの、発音が難しく、便宜上妖精と呼んでいる。
その妖精がいつしか現れなくなった頃、長い雨がやってきた。大雨はストラーナの腰ほどまで水を呼び、いずれ全てを飲み込むだろう。それでも動く気になれなかった。
水が喉元までせり上がってきたとき、今度こそ運命に身を任せようとした。もう少しだった。眠りの淵が呼んでいた。
なのに、あのとき助けたメデイルと呼ばれた騎士がやってきて、ストラーナを掬い上げたのだ。
「王族は全て死に絶え、森は侵略者を認めませんでした。ここも沈みます。あのときのご恩返しに参りました。森からドルイドを引き離すこと、お許しください」
そう言って、メデイルはストラーナを連れ去った。
ストラーナの片目から涙のように眼球が落ちたとき、彼女は自分が何者であったかを知ったのだ。