堕ちた先には。
今日、長く付き合っていた彼女と別れた。なんでも、俺がすべて悪いらしい。
生活がだらしない、言葉遣いが悪い、お金がない、欲もがむしゃらさも感じない。一緒にいて、楽しいとかワクワクするとか、将来に希望が持てる気がしない。刺激がなさ過ぎて飽き飽きしたとも言われた。
ついでにじゃないが、会社もクビになった。リストラされたんだ。
まだ結婚前の、次の仕事も簡単に見つかるだろう、独身者。
「いやあ、悪いねえ。どうしても他の連中は所帯を持ってたり、子供が小さかったりとお金が必要な人たちばかりでねえ」
今も耳にこびりつく、人事部長の猫なで声。吐き気がしてくる。
おかげで家に帰る気にもなれず、夜の新宿を独りでフラフラしていたら、そっち筋のような男たちの肩にぶつかったらしく路地裏に連れ込まれてしまった。
「おいおい兄ちゃんさあ、物欲しそうなツラしてふらついてんじゃねえぞ? ああ? 金持ってんなら分けてやるぜ、上物をよお。おっとその前に落とし前つけてもらうな?」
ボコボコに腹や足をやられ、あばらも何本も折られた。財布の中身のほとんどを抜かれ、くさい路地裏で寝そべった俺の足元には、なにやら意味深な白い粉の入った、小さなビニール袋が置かれていた。
俺は助かったと思い、空を見ながらその粉をそのままノドに流し込んだ。
ああ助かった、死ぬのにちょうどうってつけの物が手に入って。これで楽に死ねる。虫も殺さぬよう、まじめに誠実に生きてきた俺。最後くらい凄絶に、自分のことを壊して汚して逝くのも格好つくじゃないか。
しばらくして、激しい目まいと耳鳴りに襲われた。のたうち回るような苦しさと、こみ上げてくる嘔吐感。いや、内臓そのものを吐き出すような、内側からめくり上がるようなおぞましさ。涙と汗と鼻水と、下からは糞尿が垂れ流されているのも感じた。
凄まじいまでの快感、絶頂感と、まったく真逆の絶望と喪失感。
し、し、しに、しにたい、しにたい? 死にたくない……死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない生きていたい!!!
我に返ると、目の前には大きな、とてつもなく大きな門があった。その門は黒くて、禍々しくて、それでいて清々しくもあった。触るとビリッとしたがひんやりとした感覚が手から頭に伝わる。
俺は死んだんだよな、きちんと。
誰の迷惑にもならず、誰の手も汚さずに死ねたみたいで良かった。家で待つ両親や妹には悪いなとは思ったが、もうどうでも良い。今はあの門を開けてあっち側、おそらく天国かなんかだろうが、そこに行けば良いだけだ。死んでるのにワクワクする。あの死ぬ寸前の状態からは考えもつかないくらいに、気分が高揚して体もフワフワしていてなんともいえず気持ちが良い。最高だ。
俺を振った彼女、リストラしやがった会社、ボコボコにしたあいつら。
ざまあみろ。俺は本当の幸せをつかんだんだ。永遠に続く幸せをな!
黒い大きな門は、思いの外軽く押して開いた。
遠くには、見たこともない美しい光景が広がっている。理想郷って言うのは、あれを指す言葉なんだろうな。あそこに行けると思っただけで、全てが満ち足りて、報われる思いがした。
俺は足元を確認することもなく、力強く一歩を踏み出した。
途端に景色が一変する。目の前に広がっていた夢のような幸福のかたまりが、色褪せ、汚く澱み、そしてなにひとつ残さずに消え去る。無だ。なんにもない、真の無だ。
俺はこのなんにもない真の無を身体全体で……あったとしてだが、感じながら堕ちた。もの凄いスピードで落ちるのが分かるが、周りにはなにも無いので速度も分かりようがない。ただひたすら落ちて、堕ちているのが飛び出ようとする内臓……これもあったとしてだが、の苦い味で感じた。
なんでこんな目に遭わなきゃならないんだ?
どうして簡単に死なせてくれない?
どうして助けてくれなかったんだ?
どうして、どうして、どうしてなんだ!!
とても強く、ひどく強く、強く叩きつけられる衝撃を感じ、この世の物とも思えないくらいの激痛という激痛、絶望という絶望があるのを初めて知った。この耐えきれない痛み苦しみに比べれば、少しぐらいの悲しみや後悔、身体の痛みなんて屁でもないと心底から思ったがもう遅い。
俺の全身は、あったとしてだが、バラバラでぐちゃぐちゃで原型をとどめてはいないだろうと確信した。そう思った心さえ、あっちこっちに飛び散ってまとまることが出来ないくらいだ。
ああ、このまま消え去るんだな。先程の無じゃないが、なにも無くなってしまうんだろうな。そう考えて静かに消えていこうと覚悟した。
「ふざけんなよ、おい。このまま消えていけるなんてそうは問屋が卸すわけねえだろ、クソ野郎が」
バラバラで、ぐちゃぐちゃになった俺に向かって、罵詈雑言が浴びせかけられる。
「なあにが誰にも迷惑かけないで死ねれただ? 勢いでヤクを飲み込んどいてパニックになって吐き出しといてよく言うよなあ。ああ? それになんだ、死にたくない死にたくないってほざいてたのが、門を開けた途端救われたみたいに舞い上がりやがって。足元も見やしない奴がそうホイホイ救われるわけねえだろ、バカが! バラバラになる前に身勝手にも怒りやがって、お前は何様だ? アホくさい理由で自死を選んだお前を、誰が安穏と消えさせてやるってんだ? 冗談も大概にしろよ、そんなことも分からねえで良く人間ヅラしてたなあ?」
消え去りかけていた俺の心が、この同情や憐憫のかけらも微塵にも感じさせない言葉に少しだけまとまることが出来たような気がした。そして思ったことをしゃべった。いや、つぶやいたのか思ったのか。
『あなたは……神様なんですか? それとも悪魔……』
「そんなもんじゃねえよ! そんなもん、いるわけねえじゃねえかよ。そんなもんがいるんなら、世界はもっと平和だし、殺しも自死も中絶も強姦も虐待もいじめも悲しみも辛さや苦労だって無いかもっと少ねえはずだろうが。なにを期待してんだ、そもそもお前みたいに自死を選んだ奴に、そんな御大層な連中がいたとしても声かけるわけねえだろ。分かれよ、そんぐらいはよ」
『それじゃああなたは一体……』
「だああかあらあ、そんなのはどうだっていいんだって何度言わせんだよ! そんなのは問題にもならねえんだよ、お前のこれからにはな」
俺のこれから……俺にこれから先、なにかが残ってるんだろうか。なにか出来ることがあるんなら。そうだ、俺がすべきこと、やらなきゃならないこと。
それは後悔、懺悔、悔いて償うことだ。俺は間違っていた、しちゃいけないことを勢いでやってしまったんだ。この誰だかは分からないが俺のことを罵倒していた奴のお陰で、スッキリと、ストンと心に落ちた。
「んん~? なにをスッキリした顔してんだお前。気持ち悪い奴だなあ、そんなに簡単に理解できるもんじゃねえぞ、この後はよ」
『どうなる、いいや何をしたら良い? もう戻れないんだろ、元には」
「やけに殊勝じゃねえか。そうだ、その通りだよ。もうお前はどこにも行けない。戻れないし俺にも会えないし話しかけることも出来ない。おまえに出来るのは、これからお前が素になってたお前の身体、お前の心を構成していた目に見えない、存在を意識することも出来ないくらいの小さな小さなもの……まあ有り体に言っちまえばお前って存在だったものから出来た宇宙の中にある、すべての生命、人間だけじゃねえぞ? 植物も動物も蟻だって鉱物だってすべてだ。存在するものすべての死を受け止めなきゃならない。良い死に方した奴はほっといてやれ。それこそ神かなんかが掬い上げるんだろうからな。そうじゃない場合、お前みたいに勝手に死にさらしやがったような輩には、お前の受けた痛みぶん、未来永劫にも及ぶ時間が続く限り、救われることのない痛みがあるってことをを教えてやれ。すげえぞ、半端じゃない人数だからな。って言ってもほとんど人間ばっかだけどな、クソみたいな死に方選ぶのはよ」
どうやら今まで俺にしゃべりかけていたこの人? は、俺のように自殺をしたか普通じゃない死に方をして、そういう人間は、人間じゃない場合もあるみたいだが、なんでか知らないが新しい宇宙、世界の素になるようだ。つまりは神的存在じゃないのか? ああ、自由はないんだな、こんな世界にしようとか鉄槌を下そうとか祝福を与えようとか。ただただ見守り、おんなじように死んで来た奴には今みたいに償い、って言って良いのか定かじゃないが、をさせていくように話す。これを延々と、永遠に、未来永劫に続けると。
でも話の中には、もしかしたらってのもあったように思える。ただの希望、願望なのかもしれないが。
『分かったよ、それが俺の贖罪なら。いつかの日のためにやろう』
「ふん。こんだけ言われてへこたれない奴は滅多にいないんだけどな。まあいいさ、もう二度と会うこともねえし、お前はお前の世界の痛みをすべて受けて、生きてるんだか死んでるんだか分からん時間を、誰とも繋がることなく進み続けりゃあいいさ」
本当にこんな会話をしたのかは定かじゃない。もしかしたら俺の妄想で、勝手な希望を描いただけのものなのかもしれない。実際にはただ死ににいくだけの時間が永遠に続いていて、そこで見た夢幻なのかも。それでもあの人が言っていたように、今では間断なく死んでいくものの痛みや苦しみ、無駄にあがく叫びが俺自身を痛みつけるようになっていた。そして俺もそんな中でやってくるものに、あの人がしたみたいに応じなきゃならない。目の前には、感覚的にだが延々と続く門が見える。その一つ一つには、俺のように過ちを犯した連中が永遠に思える時間を堕ち続けているんだろう。
さあ俺がやらなきゃならないことをしようじゃないか。いつかはあの人みたいに諦めや積もり積もった憤りから怒鳴り散らすようになるかもしれない。でもそれは今じゃない。今はまだ正気を保っていられるんだから、いやそもそも正気かどうかなんて分かるわけもないがそれこそどうでも良いことだ。
今だからやれることをしよう。
「死んじゃダメだったんだよ、死んじゃ。だってそうだろ? 自分でその道を選ばなくたって、必ずその時はやってくるんだ。たった一つ、絶対に、確実に間違いなくあること。それはすべて等しく終わるってこと。だからそれを待ってるだけで良かったんだよ。待ち方なんてそれぞれさ。あがくも良い。流されるのでも別の道を行くのでも。いくらでも方法はある。それこそすべての生きとし生けるものの数だけ。これからはあなたも俺と同じように、受け止める側に回るんだと思う。ただ受け止めるだけの苦痛を、永遠に受け続けなきゃならないのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。あなたを救うことは出来なかったけど、もしかしたらなにか他に道があるかも。俺もここであがいてみるからさ、あなたもあなたの世界で抗ってみてくれないか? それしか、それこそが俺たちが今ここにいる意味、今まで生きてきて、やっちゃいけない生きるのをやめてしまったことに対する、贖罪なんじゃないかな。俺はそう思うようにするよ。やってみる。続けてみるよ、だから……」
もしかしたら、俺の中にある宇宙、世界に無限のごとく存在している生きてるもの、これから生き始めるもの、いつか生きることになるもののうちの誰かが。なにかが。この思い、っていうか考えっていうかイメージを受け取ることが出来るかもしれない。無理かもしれないし、そんなことは絶対に不可能なのかも。
でもな、既に絶対はあるんだよ。だったら他にも無いって絶対には言えないのかもしれないだろ?
だったら良いじゃないか、言うだけならタダだし、もしかしたら儲けもんになるかもしれないから。
だから言うよ。
生きてみろよ。
木漏れ日亭です。
この作品は、とある場所で目にした自殺未遂を起こした方の手記から、木漏れ日亭の心の琴線に触れたというか、どうしようもないくらいの怒りを感じて一気に書き上げたものです。
そのため、まとまりもなくメッセージ性も乏しいかもしれません。読み物としてどうかとも思いましたが、やはり自分で産み落とした大切な子供なので日の目をみさせてあげることにしました。
これをお読みになって、なにかをお感じいただけましたらありがたいです。