【現状と認識】 事象戦略盤
午前6時50分。
極限のランニングが始まった。
同時にスタートを切った4人の内1人が、他の3人を余所に飛び出していく。
(何この速度っ!!
序盤から全力疾走するとでもいうの!?)
凛は遥か前方を駆けていく者を、驚愕の眼差しで追いかける。
(違う!
これが彼にはジョギングレベルなんだわ!)
しなやかに地を蹴る脚は無駄な張りもなく、あの速度を柔軟に受け止めていた。
(相当走り込んでいる証拠ね。
呼吸の乱れもない見えない、肺活量が並じゃない。
…どうしてこれ程の人材が、最下位を独走しているのかしら)
影だけが木々の間を駆け巡り、そして消えていく。
(私があんな疾走をしたら、半分も走らない内に潰れてしまう)
凛は思案していた。
最短ルート、つまり真っ直ぐに駆けて頂上を目指すのは余りに危険な行為と言えた。
単純に考えれば、迂回し、罠が仕掛けられていなさそうなルートを詮索するのが得策。
だが、如何せん自分で提示した距離と時間がそれを許してくれなかった。
自分の体力を天秤にかけ、それに合うプランを導き出す。
計算してみたが、迂回出来る程の体力は自分に無い事を知る。
時間内に完走するには、どうしても最短ルートを駆け抜けるしかない。
(ティアクラスの体力があれば、もう少しマシなプランが挙げられたでしょうに。
基本体力が無いと何も出来ないわね)
凛は自分の体力の無さを呪いながら、山道へと入っていく。
後ろに2つの気配を感じる。
如何やら、シルーセルとカイルの両名共、同じ結論に達して最短ルートを選んだらしい。
(そうなると警戒レベルを上げておかないと、狩られてしまうわね。
さてビィーナ、お手並み拝見といかせて貰うわよ)
走りながら、全身神経を張り詰めていく。
凛はランニングというより、戦場を駆け巡っている感覚でことにあたるのだった。
※
登り半ばで、状況に異変が生じた。
直線的な道のりに、凛は違和感を覚えた。
(変?
そうか、自然じゃないのね)
視界の節々に、人の手が入った形跡が見受けられた。
そして良く観察すれば、地面には重みで潰れた草達の残骸が点々としていた。
足跡は最近のもので、地を踏締め削られた土が見て取れた。
もう1つ違和感があった。
だが、それは微妙すぎて、凛は把握出来ないでいた。
(…何、あれは?)
前方に赤い絵の具で着飾った木があった。
絵の具の量からして、ペイント弾3発分に相当する量が、木の幹に撃ち込まれぶちまけられていた。
(先行していたティアが、ビィーナに狩られた?)
凛は状況把握をしようとして、ペイント弾が付着した箇所を少しだけ、食い入るように見、意識してしまった。
それは思量深い凛の心理をついた、巧妙なる罠。
人の反応を利用したこの罠は、凛の警戒網に僅かに隙を生み出した。
それに気が付いたのは、もう1つの違和感が耳元に姿を現したからだ。
(しまったわっ!
足音が重なっていたのね!)
何時からだろう。
視界に気を取られ、他の五感が鈍らされていた。
赤いペイントが視界を釘付けにしている瞬間、その僅かな隙こそがハンターの思惑だった。
ワザと足跡を残したり、罠があるように周りに手を加えたりして見せたのも、視界に頼らせ、他の五感よりも目を頼らせる効力があった。
凛は、後ろからする足音にブレがあったことで、その罠の正体に気が付く。
自分が罠に嵌り、その僅かな隙を作ってしまった愚かさを罵倒したくなった。
後ろを走る足音が、3つあったことに今更気が付いたのだ。
時既に遅し。
罠に嵌まったのを自覚し、振り返った瞬間、脇腹に刺さるペイント弾が、衣服を汚していくのだった。
※
その弾丸を躱せたのは、シルーセルの中のスイッチが入っていたからだった。
(久々にきた!)
シルーセルは後方から迫ってきた弾丸を、見向きもせずに横に飛んで躱していた。
先行していたカイルと凛が、ペイント弾に染められていく。
この五感を鈍らせる罠から脱出したのは、シルーセル1人だけだった。
正確には、罠だと見抜いた訳ではない。
罠だと気が付く程、シルーセルの洞察力は優れてはいなかった。
そんなシルーセルがこの事態を回避出来たのは、全体が見えていたからに他ならなかった。
事象戦略盤。
この学園に入学して以来、稀に起こる現象。
これをシルーセルはスイッチが入ったといい、その間は半径2キロという広範囲を把握出来るようになる。
まるでチェス盤を上から見下ろしたかのように、全体像が手に取るようにわかるのだ。
実際はそれよりも高度な捉え方、立体で知覚を可能としていた。
見るという、両目の平面図の総合することで立体的な図を捉えるものではなく、三次元、例えばコインの裏表を同時に把握できる視野が事象戦略盤にはあった。
シルーセルの脳裡に、その立体盤が展開される。
事象戦略盤はいつ何時に起こるかは分からず、運任せの博打と変わらない。
その為、普段はこの能力を当てにはしないようにしている。
だが、一度発動してしまえば、地形、変化する事象までもが明確に盤に投影され、逐一に変化する現実を把握出来た。
まさに最強の情報収集能力と言えた。
その盤の中に気配を殺し、後ろからシルーセル達に銃口を突きつけているビィーナの姿を捉えた。
躱したシルーセルは、全力で山道を駆け下りていく。
この状況下で登っていては狙って下さいとお願いしているようなものだ。
一先ず、人がバランスを取り辛い下りに変更し、正確な銃撃をさせないようにするのが常套手段となる。
ビィーナが後ろから、数度撃鉄を絞り、シルーセルを撃ち抜きに来る。
だが、その行動が手に取るように理解できるシルーセルは、背中を見せたままこれを躱し、そのまま脱兎の如く逃げる。
3度回避された時点で弾が無駄と悟ったビィーナは、セルトナイズを素早くポシェットのしまうと、シルーセルを捉えるべく追撃を開始する。
(なっ、速い!)
全速で走って逃げているにも拘らず、距離がドンドン縮まっていく。
とても同じ荷物を背負って駆けているとは思えない。
あっという間にシルーセルとビィーナの距離はゼロになっていた。
(このままだと捕まる!)
シルーセルは必死に駆け下りているのだが、話にならないほど簡単に追いつかれていた。
シルーセルに残された手段は少ない。
凛の説明では、ハンターに危害を加えてはならないという項目は無かった。
手段とは、つまり反撃。
だが、反撃を企てると言うことは、それだけ撃たれる可能性が高くなることも意味していた。
覚悟を決め、シルーセルは突然立ち止まり奇襲を掛ける。
背中越しに、ビィーナに足払いをかけにいく。
だが、ビィーナの実力は、シルーセルの奇襲等どこ吹く風と言わんばかりに看破していた。
足払いを難なく跳んで躱した上に、その勢いを利用してシルーセルの顔面に膝を打ち込んでいた。
シルーセルはその一部始終を脳裡に投影させながら、無様に坂道を転がり落ちるしかなかった。
咄嗟に地に手を押しやり、転げ落ちる身体を立て直す。
(ダメだ!
動きが見えても対処できねぇ!)
圧倒的な身体能力、技術の差。
シルーセルは顔面に膝を受け、涙で目が開けられない状況の中、事象戦略盤が映し出す世界で、自分に銃口を突きつけるビィーナの姿を見るのだった。
※
他の3人が既に狩られてしまったとは知らないティアは、僅か35分という短時間でゴール前に辿り着いていた。
脅威の体力と速力。
そんな男は丘からプレハブを監察していた。
(何事も無くここまで来たが、参ったな…)
ティアはゴールを目の前にして、逡巡していた。
(もし俺なら、ここで待ち構えておく)
単純に考えれば、絶対に通る場所が2箇所ある。
折り返し地点とゴール。
この2箇所に罠を仕掛けておくのが常套手段となるだろう。
(あるよな、罠が)
ゴールは目の前なのに、ティアは踏み込めないでいた。
(このままだとジリ貧か。
…全力で駆け抜ければ何とかなるかな)
安易な考えが脳裏に浮上する。
距離は僅か。
全力で走れば一分も必要としない。
(やるか!)
虎穴に飛び込むつもりで、ティアは草むらから身を出し、そのまま坂道を駆け下りていく。
しなやかな脚が地を削り、一気に最高速度まで引き上げていく。
凛がこの現場を目撃していたなら、戦慄していたことだろう。
それ程に異様な加速を見せ、ティアはプレハブ目掛けて駆けていく。
下り坂で膨れ上がる引力をものにし、それでいて足腰はその引力を柔軟に受け止めている為、方向転換を自在としていた。
後ろから襲撃をかけたとしても、ティアに追い縋れる者はいない。
そんな脅威の速度をものにして、ティアはこの最後の距離へ勝負に出た。
そう、彼を止められるものがあるとすれば…。
「っうわあああぁぁ!」
足下に違和感を覚え、何かが足に絡みつくと視界が転倒した。
「…これであたしの勝ち」
ティアの足に絡まったものはロープだった。
奇麗に罠に引っ掛かり、逆さにぶら下がっているティア。
そのティアに向かって、銃口を突きつけているビィーナの姿があった。
そして、装填された残りのペイント弾がティア目掛けて撃ち放たれるのだった。
※
「みんな、赤い仲間になったね~」
ビィーナは自分の戦績に、満足そうな言葉を送る。
それは厭味以外のなにものでもなかった。
「黙ってろ、ボケ娘」
体全身が疲労感に苛まれたシルーセルは、力の無い声で返す。
全員酷い有様だが、ティアに比べればとシルーセルは思い直す。
その本人は五体が赤く染まっており、居た堪れない状態になっていた。
カイルは背中、凛は左脇腹、シルーセルは胸元を赤いペイントが付着していた。
よく見れば、銃弾の中った部分は的確に急所を撃ち抜いており、それが実力の差を物語っていた。
(…ここまで差があるのね、今は)
噂だけでなく、体感して分かるビィーナの実力に、凛、カイル、シルーセル、ティアの4人は怖気を覚える。
そしてその差に…。
「皆、シャワーを浴びて20分後に食堂に集合。
それまでは、個人での行動は控えておきなさい」
(…確かに、このままは辛いな)
赤い人となってしまったティアは、自分の惨状にため息が漏れる。
(…残り全弾撃ち込みやがって)
四肢を撃ち抜き無力化し、次に心臓、脳と死へと直結する箇所への射撃。
残りの弾は、確実に殺す為に、避け難い腹部へと撃ち込まれていた。
結果、ティアは全身を赤く染める事となった訳だ。
「…早く着替えようぜ。
今のオマエの姿は笑えるほど、酷いぞ」
シルーセルの率直な意見に、ティアは嘆息をついてしまう。
傍からもそう見える状態らしい。
シルーセル、カイルの後に続いて、愛しのシャワールームを目指して歩きだすのだった。