【国を背負いし者達】 月光の逸脱者
小高い丘の上。
凛は瞳を閉じて、刻を待つ。
微弱な振動が足元から伝わってくる。
(来たわね。
カイル、流石ね)
眼を見開き、トセイ山の方角に視線を走らせる。
…そして失敗に気がついた。
(…増水し過ぎでしょう、それは)
大洪水を想わす水の猛りは、想像を遥かに超えていた。
この丘に立っていれば難を逃れられるものだと思惟していたのだが、明らかにこれは此処を巻き込んで、メリュッテンスを襲う。
湖の水が川と合流していない地点でこの結果。
呆然と成り行きを傍観していると、あっという間に津波に巻き込まれ、どざえもんになってしまう。
(はあ…、計算通りにことは運ばないか。
ま、これも世の常なり)
凛は丘を蹴り、メリュッテンスに疾走を開始する。
区間はおよそ5キロ。
凛が次の避難場所にしたのは、目標のメリュッテンス。
門構えからして、かなり頑強な造りをしている。
最初は有酸素運動から初め、スピードを上げながら次第に無酸素運動に切り替えていく。
だが、どんなに早く走っても、背後から迫る大洪水はジリジリと凛との距離を付けていく。
メリュッテンスまで2キロまで詰めた地点で、死の轟音が真後ろに感じた。
飛沫が髪を僅かに濡らした。
(限界か)
凛は身体を歪みが生じ、細胞が活性化されていく。
大洪水を置き去りにし、凛は加速していった。
身体加速。
使用時のフィードバックを受けた様子もなく、凛の躰はブーストされていく。
情報管理送還装置無し凛は門を開口していた。
それは日頃から修練の賜物と言えた。
情報管理送還装置を常に肉体にかけ、それにより肉体がどの行動を起こすと、抵抗値や変化がどう起こるかを覚えていったのだ。
つまり凛は情報管理送還装置無しでも、自分の肉体情報を熟知するほどに昇華させていたのだ。
カイルがティアに課した訓練の集大成が、情報管理送還装置無しの門の行使だった。
躰の隅々まで、凛の命令をしっかりと受信して、予想通りの変動を返してくる。
ここまで至る為、どれ程自分を観察してきたことだろう。
凛は第1学年の地点で、これを完成させていた。
情報管理送還装置を使用しなければ門を行使出来ない。
そんな固定概念を染まってしまった者たちには及ばない発想。
凛の思考は逸脱を基本に、組み立てられる。
普通の者が予定外とされる思案から立て、そこから常識を肉組みにして思惟が完成させるのだ。
賭けに近いこの作戦を適応させようとしたのは、凛自身が認識しているからだ。
自分が一般と呼ばれる思考回路を持つ者とは逸脱してしまった見解の持ち主だと。
だから、分かるのだ。
この世界に適合している血塗られた鉾には自分の計画が読めないと。
もしバレる様なことがあるならば、情報が漏れたか、同じように狂った同類が命令系統に属しているかだ。
凛は肉体の悲鳴を脳内麻薬で分泌させ、打ち消して負債とする。
津波を引き離し、城壁50メートルから2段目の加速に入る。
弾丸と化した凛は壁に到達すると、そのままの勢いで垂直な城壁を駆け上り出す。
先程までの指向力が残っている為に壁に押し付けられ、それを重力代わりにして壁を平地みたいに駆けていく。
城壁の上まで走り終えると、そこに見張りの者が津波に気をとられ、必死に警笛を鳴らしていた。
だが、前方に差し迫った津波の轟音に掻き消されていく。
凛は素早く周囲をチェックし、光の灯っている城の最上階に一室を見つける。
(あそこか)
警備兵が凛に気が付くことはなかった。
動転しているのもあっただろうが、凛が城壁の上に滞在していたのは、1秒にも満たない刹那だった。
それから2秒もすると轟音に衝突音混じる。
そして警備兵は水の脅威に呑み込まれ、宴の繰り広げられている中庭に大洪水と共に雪崩れていく。
中庭で騒いでいた進軍部隊は、狂気ごと洗い流されていった。
悲鳴は濁流に消え、宴は幕を下ろすのだった。
※
腹の底から響くような振動、そして轟音。
次に訪れたのは立つことを許さない強震だった。
プシヌは何事が起こっているのか分からずに、己の身を転がらないように、固定されている玉座にしがみ付く。
ミッション決行まで1時間を切ったので、自室に戻り、はちきれそうな感情を沈めていた。
血塗られた鉾から派遣された2名の護衛以外は席を外させ、暗い部屋の中で瞑想に耽っていた時だった。
大地が怒りくるっているような振動が、城を襲った。
そんな中でも、2本の両足で床を踏みしめ立つ2つの影。
吸盤でもついているのかと疑いたくなる程しっかりとした状態で、護衛達は突然襲ってきた強震に耐えていた。
次第に揺れが収まっていく。
全く状況が掴めない。
そこへ、新たな混乱させることが起こる。
ガシャーン!
ガラスが砕ける音がし、暗闇に覆われた部屋に影が侵入してくる。
疾風だった。
部屋に鮮血がばら撒かれる。
侵入者の窓に近かった護衛の者の上半身と下半身が物凄い勢いで泣き別れにし、上半身は壁に激突して、含まれている液体で壁一面に大きな斑点を描いた。
上半身は原型が解からなくなるほどにグシャグシャに叩きつけられていた。
血の紅を背景に、肉の絵が飾られた。
上半身の有様から、躯を2つに別けた威力が半端ではないことを物語っている。
思い出したように下半身からも血飛沫が上がり、侵入者を濡らしていく。
群雲を抜けた月明かりが、影だった侵入者を照らし出した。
槍のような長い獲物を携え、一人の女が血の雨の中佇んでいた。
獣のように大口を開け、空気を貪りながら。
※
片割れの亡骸を傍観しながら、侵入者を推し量る。
(身体加速か。
刺客は血塗られた鉾の裏切り者か)
冷静に分析する。
異常なまでの身体能力。
そして行動を終えた後の全身痙攣。
紫色に変色している唇はチアノーゼ状態を示している。
門は代謝。
相棒の死はそれらの情報を引き出した。
よくやったと褒めてやるべきだろう。
完全な不意打ちは、誰にも対応できなかっただろう。
窓辺に居なかったのが自分は幸運だったのだ。
そして1人を葬った時点で、敵の活動限界がきていた。
別に相棒の死には感慨はない。
偶々組まされただけの、赤の他人。
死のうが生きようが興味はない。
寧ろ取り分が増えると思惟するならば、この状況の方が好ましい。
刺客は、最早まともな行動することすら危ういだろう。
だが、油断はできない。
刺客が1人とは限らないし、窮鼠猫を噛むとも言う。
それにあの瞳だ。
この状況下でもこちら睥睨しているのだ。
(慎重に事を運ぶべきだな)
俺はホルスターから銃を抜き、威嚇射撃をする。
血塗られた鉾の者なら、この距離なら簡単に躱せる。
だが侵入者は、千鳥足で斜角から逃げるのがやっとだった。
5発程放った。
全てが避けられたが、その行動だけで呼吸が酷くなる。
その様から敵が限界だと計れた。
背に背負っている剣を抜き放つ。
馬鹿でかい剣だった。
刃渡り2メートルもあり、重量は50キロもする。
特注で作らせた一品だ。
無骨なデザインだが、圧縮加工により頑丈さと斬れ味は折り紙つき。
30センチの太さの鉄板でも真っ二つにできる代物だった。
油断も、驕りも持たない。
それが生き延びる為に必要な要素だからだ。
相手は仮にも血塗られた鉾の人材。
キーンッ。
情報管理送還装置を起動させ、肉体を包み込む。
細胞が活性化されていくのを感じ、一気に片を付ける為に、愛剣ガルバードが侵入者を2つに分けるべく振るわれる。
身体加速の乗ったガルバードは城門すら破壊する威力がある。
確実に確実を重ねた選択。
油断も、驕りもない。
1パーセントの確率を零にしたと。
刺客の女は振り下ろされる大剣を見ながら、笑った。
笑うなんて事すら許されない一瞬。
錯覚だと思った。
この刹那の刻の中でそんなことができるのは、同じ速度で動ける者のみ。
だが、刺客は限界値まで酷使し、躯と化した躰。
身体加速が発動すれば、肉体が崩壊するしかない。
それに情報管理送還装置の発動音が聞こえなかった。
それにも関わらず、女はこっちと同等の時間を動いていた。
槍状の武器を頭の上に翳し、俺の一撃を受け止めようとしていた。
(笑止!)
ちんけな棒で受けきれるほど、この一撃は安いものではない。
武器ごと肉体を半分に分けるなど訳ない。
床までの全てを切断すべく、膂力の限りに振り下ろす。
(なっ!)
理解しがたい現象が起こっていた。
槍の棒の部分に俺の剣が触れた瞬間、刃筋が段々と横へとズレていくのだ。
コンマ何秒の世界で信じられないことを眼にした。
俺の一撃の速度に合わせて、棒の部分を少しずつ旋回させているのだ。
それだけで剣は横に逸れていき、最後には女の横に突き刺さる形で凌がれてしまう。
その間、触れていた筈の金属部分からは火花やかち合った音すらしなかった。
凌ぎ終わった槍はそのまま旋回して、降り終えたばかりの両腕が切断されていた。
「惜しいわね、その姿勢。
でも、相手は逸脱した存在。
それでも足りないわ」
最大の武器を失った俺に女はそう告げると、旋回を続けていた槍が首を通過した。
俺は悪夢でも見ているのだろうか?
そう思惟した瞬間、全てが黒く染まった。
※
悪くない。
獅子は兎を狩るのにも全力を尽くす。
驕らずに敵を最大の力で潰しに来た姿勢は良かった。
だが、それは常識に囚われた者が相対する時のみ。
相手が悪かった。
確かに身体加速を限界時間まで使用した所為で、肉体は動かすのも億劫なほどに酷使されていた。
1人目を葬った際、2人目までの距離を計算して、肉体が持たないと判断して身体加速は解いた。
そこから肉体の回復に全力を尽くした。
全身で息をする位に大量の空気を補給し、そして門を開け新陳代謝機能を微弱に高めて、肉体の経過時間を早めて疲労度を和らげて行く。
情報管理送還装置を使用していない為、この行いを悟られる事はなかった。
そして銃弾をギリギリの線で避けることにより、こっちが弱りきっていることを印象付けて、相手が止めを刺すために接近してくるように仕向ける。
いくら回復させているとはいえ、元々限界まで酷使した体では短時間しか身体加速の発露はできない。
ツギハギだらけの状態だ。
だからこそ、相手から接近させて時間を微かでも稼ぎたかった。
この作戦の功労は、情報管理送還装置無しでも自分の肉体情報を把握出来る様にしたことだろう。
敵に読ませずに読む、これが勝因となった。
※
2人の護衛が、あっという間に赤い液体を振り撒く噴水と化したのを見たプシヌは、意味が分からなかった。
唯、目の前にいる女は自分の命を奪いに来た者だとだけ、理解した。
女は返り血で染まった唇を動かした。
「同情はしないわ。
哀れだとは思うけど。
結局選んだのは貴方、そうでしょう?」
女は何もかもを見透かした物言いで、プシヌに死の宣告をした。
「選んだだと!
そんな猶予などどこにもなかったわ!」
「視野の狭い男。
だから、惨めなる道を這いずり、卑屈に生きるしか模索できなかったのよ。
柵に翻弄されて自分を見失うなんて、ホンと哀れね」
蔑んだ瞳。
それはこれまでに父が、人々が見せたものとは違っていた。
これは過程を得て切り拓いた者が敗者を見る瞳だ。
似通った境遇を経ても、未だ輝きを失わない原石。
戦いを挑み続ける者だけが持ちえる輝きだった。
プシヌは怯えた。
前しか見据えていないその瞳、自分には持ち得なかった輝きに。
「見るな!」
傍らに置いてあった軍刀を掴み、女の眼を刳り貫こうと抜刀しようとする。
だが、何故か抜けない。
先程弟を斬った際に、刃に残っていた血が鞘の中で固まり、抜刀を遮る。
「ラ、ライヌ!」
此処でプシヌは自分が弟を斬った事実を思い出す。
人形を斬ったかのように、何の感慨も浮ばなかったのに、今更になってその事実が認識させられた。
頑なに閉じられた刃は抜けることはなく、ライヌが手招きしているよう想えた。
女は抜刀の体制で固まってしまったプシヌに向かい、サッと薙刀を振るった。
首が胴体から離れ、コロコロと床を転がる。
「生まれに縛られているは私も同じね。
来世は背負わなくていい環境に生まれることを祈ってるわ」
こうして狂気に染まった王は地に落ち、その沙汰は水の底へと消えた。
一夜にして、一国が滅んだのだ。
それを成した女の胸中に達成感などなかった。
あるのは虚しさと悼みだけ。
未だ響く水のうねりが、殺伐とした鎮魂歌として流れるのだった。




