【胎動の刻】 凛 榊
午前5時。
体内時計が告げる起床時間に自然に瞼が上がる。
下着姿の女はベッドに横になった体制で、自分のコンディションをチェックしていく。
昨日の疲れが、僅かに残っているのが感じ取る。
その為、肉体にスキャニングを行う。
胸元から微かな音が響いた。
(全体的に乳酸が未だ抜け切れていないわね。
後、腕と指に壊した痕が残っている。
明日からのスケジュールを鑑みて、押さえ気味に訓練を行った方が無難ね)
自分の体調を細かにチェックし、そして今日のプランを思い出す。
(昨日は少し無理をしてしまったわね。
まぁ、今日は別に義務的な訓練は開講されていない。
ならば、問題無いわ。
問題が有るとすれば、やはりチーム分けか…)
完全に眠りから覚め、思考回路が正常に機能するのを確認する。
毎朝の日課を終え、眠っている細胞を呼び起こす為にベッドの上から下り、軽く身体を動かし調子を整えていく。
そこから部屋を出る為の準備を開始していく。
ベッド横の椅子に立てかけてあった黒のシャツに、迷彩を施されたズボンを身に付ける。
その上に、これまた迷彩を模様にしたベストを羽織る。
そして箪笥を開け、そこか2丁の拳銃とコンバットナイフ、簡易応急セットを仕込み、最後に腕の長さほどある棒の束をベルトに引っ掛けるようにぶら下げる。
腰まである長めの髪を服の中に入れ、邪魔にならないようにしておく。
下準備を終え、昨日汲んでおいた水で軽く顔を洗い準備を終える。
起きてここまで、十分と僅か。
キビキビと無駄の無い動き。
この僅かの間で、彼女は戦闘に入る心構えを完成させていた。
部屋を出れば、そこは戦場。
僅かな気の緩みが死へと繋がる、殺伐とした空間。
(今日で、此処も安全区域では無くなる訳ね。
今以上に気を引き締めないと、糧にされてしまう…、か。
寝首を掛かれないようにしないといけないわね)
不敵な笑みを浮かべ、女は部屋の外へと踏み出していく。
出て直ぐに、廊下の突き当りを見ると一人の男が此方を見ていた。
女はその男に近づいていく。
「凛、おはよう御座います」
「おはよう、カイル」
軽く会釈をしてくる相手に、女はいつものように受け応えそのまま歩いていく。
その横にカイルと呼ばれた男が付き従う。
「その様子だと、何かしら収穫はあったみたいね」
男が無表情にも拘らず、凛と呼ばれた女は彼の微妙な頬の緩みと、好奇心を押し隠している雰囲気を読み取っていた。
「本件は、未だ進展はありません。
Aクラスのプロテクトで保護されていますね。
クラックして情報を引き出すには時間が必要かと」
「そう。
なら、今回は?」
「チーム分けについてです」
カイルは後3時間程で、内容が明らかになる情報を持ち出してくる。
情報は新鮮が命。
しかも、直ぐに意味を無くす情報をこの男が楽しそうに持ってくる筈が無かった。
「面白そうね、聞かせて貰える」
その反応に快く頷き、彼は説明を始める。
「恐らく意図的でしょうが、私達は同じ班に組み込まれています」
「意図的ね…。
どうしてそう結論に至ったか、他の人員も教えて貰えるかしら?」
カイルの推理がどのように導き出されたものか、その内容を知る為に話を促す。
「今回残ったのは26名。
チームは5人編制で組分けが成されています」
「1人除外されているわね。
…つまり、あの男ね」
「はい。
アベル リオネス、
あの男は第2学年を免除されていました。
まぁ、実力を鑑みれば当然なのですが」
「そう。
で、私達とチームを組む事になる不幸な人達は?」
「成績下位から順に紹介していきます。
先ず、ティア 榊。
2組に所属していた男です」
(さかき、ね。
…まさかあの女に関係が)
凛は黙考し、直ぐにその考えを振り払う。
その黙考に連動するようにカイルは黙り、視線を先に走らせる。
気配が動くのを感じ、凛もカイルの視線の先を追いかける。
ドクンッ!
全身が心臓になったと錯覚する程の、鼓動の高まり。
カイルの視線の先にいた男を網膜の収めた途端、凛は自分が自分で無くなったような、感情の群れに流されそうになっていた。
「あれが、ティアです」
カイルは凛の耳元に口を持っていき、小声で囁く。
凛には、その声が遠くに感じられた。
凛を支配した感情は大きさを増していく。
それは感銘する程の歓喜だった。
まるで失われていた半身を見つけたかのような感涙。
「凛、どうしましたか?」
その声に反応し、凛は正気を取り戻す。
先程までの動悸は消え失せ、いつもの自分に戻っていた。
もう一度その男を見ても、感情の激流が沸き起こる事は無かった。
(さっきの感覚は、なんだったの?)
ティアは凛達を一瞥すると、そのまま宿舎から出て行く。
「カイル、なんでもないわ」
理解の範疇を超えた感覚に自分を見失うことなく、凛は思考を切り替えた。
凛の言葉が嘘である事は、顔色を見れば一目瞭然だった。
未だ少しばかり瞳が潤んでおり、乱れた感情を制御仕切れていなかった。
カイルから伺えたのは、ティアを見た直後、凛を悦を浮かべていたことのみ。
その顔は余りの感動にも関わらず、涙が出ないもどかしさを漂わせていた。
(あの男が凛の感性を揺さぶった?)
カイルの知る限り、この2人に今日まで接点はない。
質問を投げかけてみたいのは山々だが、凛がこの話を切った地点で、追求しても答えは返って来ることはない。
(心配だが、彼女はこれ以上の干渉を許してはくれまい…)
カイルはそう思惟し、軽い沈黙の後に話を戻す。
「成績は底辺で、ポイントは38」
「脱落寸前じゃない…」
ポイント制。
成績はこのポイントで計算され、授業での評価もこのポイントに還元される。
そして、このポイントこそがこの学園では命綱となる。
ポイントが意味するものは2つある。
1つ目は命のバロメーター。
ポイントがゼロになり次第、学園を退学となる。
退学と言っても、機密の多い血塗られた鉾。
生命の活動を備えたまま、表の世界に解放されることは無い。
つまり、このポイントが自分の命を測るバロメーターとなる。
勿論、後が無くなり、逃げ出そうとする者もいた。
その際は、血塗られた鉾最強部隊執行者に命を狙われる。
消去率100%を誇る執行者。
ゼロになった地点で、死は確定していると言っても過言ではない。
2つ目は交換システム。
ポイントを使い、必要な物資を手にすることが出来る。
必要最低限の配給はあるが、それ以上のものと手にするには命を削らなければならない。
強力な武器、高価な薬程ポイントが高く、それを的確に見極めて交換するのも、生き延びる為に必要な資質として考えられていた。
このポイントこそが、この学園で生き残る鍵となるのだ。
「26人中、26番目という成績です」
何か含みのある発音でカイルが告げる。
この男がこんな言い方をする時は、これまでにヒントが隠されており、そこから情報を引き出してみろと試しているのだ。
「…確か、2組に所属と言っていたわね。
成る程、あれが噂の主って事ね。
私たちが脳開発に慣れた頃、行われた身体測定で、あらゆる記録を塗り替えた身体能力の持ち主がいたと。
私の記憶が確かなら、所属は2組。
彼がそうなのね」
その答えに満足そうに微笑するカイル。
「はい。
当初は期待も高かったのですが、今は最下位を独走していますね。
ただ…」
カイルが口籠るのは珍しく、それが他人に漏れると危険な情報だと物語っていた。
声を落とし、凛との距離を縮める。
「この男、情報にBクラスのプロテクトが施されていました」
「へえ~、貴方と私以外にプロテクトが施されている人間がいたなんてね。
で、内容は」
「ウィルトの名に覚えはありますか?」
「…共同企業の名前よね。
世界有数の」
「はい。
世界の流通を一手の受け持つ、巨大企業です。
それはウィルトと呼ばれる一族が経営しています。
そこが1年前、つまり我々が入学すると同時に、血塗られた鉾との取引を活発化させたのです。
その提案を切り出したのが、現社長ディアス ウィルト。
彼には1人娘がいまして、その名もティアと」
「…あれ、男でしょ?」
中性的な印象は受ける外見。
女に見えない事も無かったが、雰囲気は男のそれだった。
「はい。
だからこそ、血塗られた鉾も判断に迷っているのでしょう。
それに記録に拠れば、3年前にティア ウィルトなる人物の死亡が確認されています。
…もし、彼が本当にウィルトの者ならば、Aクラスのプロテクトが施されていてもおかしくないでしょう」
「その様子だと血塗られた鉾は、ウィルトを揺さぶっているわね」
餌をちらつかせ上手く交渉すれば、此方の望む額で良質な物資が購入できる。
ウィルトとの取引は、世界を接見するに等しいと言えた。
「恐らく」
カイルの返事に軽く思考を走らせ、凛は結論を出す。
「反応は無かった…。
ただ、急成長を遂げている血塗られた鉾に恩を売る為か。
それにしては時期が合致し過ぎね。
血塗られた鉾が睨むように、ティアのバックにウィルトの影があるのか。
掴めば、面白い札が手に入るわね」
ティアの情報がリークする間に、2人は宿舎から外へ出ていた。
そのまま宿舎の東にある食堂を目指す。
歩きながら、カイルが情報のリークを続ける。
「次にシルーセル トルセ。
元は3組で、ポイントは83。
現在、24番目の成績を誇っています」
「…碌な者がいないわね」
凛にぼやきが入り、それに対してカイルは苦笑してしまう。
「経歴は、カリオストの孤児院で育てられたと成っています。
入学動機は、至って単純なものと想われます」
「…あそこは、有名な崩壊の兆しが存在する地だったわね。
なら、そんなところでしょう」
「不審な点は見当たりませんでした」
「…カイルが意図だと思った理由が見えてきたわ」
「やはり、危険視されていましたか。
…貴女は兎も角、私は素性を偽装するには無理がありますからね」
「それに関しては折込済みなのよ、私は。
詰まらない事を口にしないで」
(そういう事にして置きますよ、凛)
実際そうなのかもしれないが、カイルは自分の生い立ちが重く感じる日が来るとは思っていなかった。
「無愛想な面構えしている癖に、繊細なんだからカイルは」
凛がからかいながら、カイルに笑みを送る。
(現金なものだ、私は)
カイルの僅かに沈んだ心情が、この笑みにより浮上していた。
そんなやり取りを行っている内に、円形の白い建物が見えてくる。
半径20キロメートルはある巨大な大きさ。
初めて見る人は、これが食堂だと想像しないだろう。
500人は収容できるスペースに、シェルターを彷彿とさせる頑強な造り。
元々は核シェルターのつもりで建造されたものらしいが、必要性を見出せない事を理由に、内装は食堂へと作りかえられていた。
外見の白さは、放射能を弾く色の名残だった。
中に入ると、香ばしい匂いが空腹のお腹に響いてくる。
本日は、ご飯と味噌汁をメインとした大和食らしい。
厨房では2メートル越す大男が、鍋を振り回していていた。
キレニム セント。
この厨房を預かる長。
彼に逆らえば、学園内で飯にありつけなくなる。
その為、職員や生徒内で学園最強の称号を手にしている人物だった。
メニューは気分次第。
東西南北、どこの国のマイナー料理が飛び出すかも分からない。
恐ろしいまでのレパートリーの多さに、慣れない料理が出る度に苦悩する人が絶えない。
(…大和とは、随分マイナーよね)
凛は懐かしい自国の料理に感傷的になりかけ、それを直ぐに断ち切る。
入り口のところに重ねられているトレイを手にし、食事を選別していく。
食堂はバイキング式になっており、栄養管理も自分たちで行っていかなければならない。
いつ何時でも食事が取れるよう、ここは年中無休で食堂は開いている。
(…いつも新鮮な料理が並んでいるけど、この人いつ眠っているのかしら?)
学園の七不思議が頭を掠める中、自分に必要な栄養素を考察する。
ご飯、味噌汁、大根の煮付け、きんぴらごぼう、きゅうりの酢の物をトレイに乗せ、そして飲み物として牛乳をコップに注いで持っていく。
よく見れば、ご飯や味噌汁が入った入れ物は茶碗というより、どんぶりと称した方が正しい大きさだった。
決してお腹が張るまでの量ではなく、凛にとって適度に動ける腹六分の分量だ。
栄養のバランスも軽く見積もり、それらを選び出す。
(蛋白質が少し多めに欲しいわね)
目に付いた玉子焼きをトレイに乗せ、献立を完成させる。
食堂には先程、先行して歩いていたティアが隅で朝食をとっているだけで、他に誰もいなかった。
(あの男、毎朝この時間にいるのかしら?)
普段は5時に眼を覚ましてから軽く汗を流した後に朝食とする為、この時間に食堂に訪れたのは今日が初めてだった。
(あの衝動は何だったの?)
衝動がなんだったのか確認するように、凛はティアを観察する。
だが、最初の時のような感覚が奔ることは無かった。
(気のせい…、にするには大きな衝動だった)
凛は一瞥だけ行い、離れた隅に陣取る。
カイルはその向かい合い席を取る。
「で、最後の一人は?」
「…ビィーナ トイアムト」
凛は思わず天井を仰いでしまった。
(試金石、いや餌ね、私達は…)
同学年、第1学年で知れ渡っている名が2つある。
歴代の最高成績を塗り替えた2人。
1人は、余りの実力に第2学年を飛び級してしまった男。
洗練された能力は、同学年どころか教師達の間まで恐れられている。
年に1度行われる闘技大会においても、前代未聞の金字塔を打ち立てた。
本来は第2学年から参戦するのが義務とされる闘技大会なのだが、実力のある第1学年は特別に参加を許されていた。
そこで第2学年や第3学年を圧倒し、優勝を手中に収めた者がいた。
第1学年にして最強の称号を手にいれし者、それがアベル リオネスだった。
そしてもう1人は、飛び抜けた実力を誇り、闘技大会2位の栄冠を第1学年で手にした女。
戦場において、死神とされる血塗られた鉾。
それに並ぶビッグネーム、傭兵団トイアムト。
その団長グラムア トイアムトの娘、ビィーナ トイアムト。
彼女の名は血塗られた鉾の中でも特に際立ったものだった。
過去、血塗られた鉾とトイアムト団が激突した戦場があった。
その頃、依頼成功率100%を誇っていた血塗られた鉾。
誰もがトイアムト傭兵団の敗北で終わると考えていた。
その戦場で最後まで立っていたのは、2人の子供だけだった。
後は肉塊となり、地を赤く染めるだけの存在と成り果てていた。
当時12歳だったビィーナ トイアムトはその1人だった。
初めて血塗られた鉾を地に付けたトイアムト傭兵団は、血塗られた鉾と並ぶ、戦場の死神として恐れられるようになっていた。
「ビィーナの説明は必要ですか?」
「詳細的なデータを私は持ってないわ。教えて」
カイルは頷くと、用意しておいた飲み物で喉を湿らせてから話し出す。
「現在はポイント1323」
「…桁外れの成績とは聞いていたけど、私の2倍以上とは思わなかったわ」
「あらゆる分野において好成績を残し、中でも暗殺術においては右に出る者いないと。
…戦場で彼女の姿を見た者は居らず、故にエネミーゼロと呼ばれています」
「存在しない敵ねぇ」
「クラスが違ったので確認はしていませんが、噂では視認すら出来ないとか…」
荒唐無稽な話に、話しているカイル自身が苦虫を噛潰したような表情をしていた。
(視認が不能?
光学迷彩か何かかしら。
道具や門を使っているなら、ここまで噂にはならない筈)
「その名、いつから囁かれているの」
「傭兵時代からだそうです」
「門の力ではないのね」
(それならば何がそれを可能としているの?
気配を殺し、視界にすら映らない。
まるで世界から…)
凛は、自分の想像に身震いしていた。
(でも、在り得ない訳ではない。
私はそれを知っている…)
「凛、どうしましたか?」
「もしかしたら、人の可能性を甘く見ているのは私かもしれないと想ってね。
…人選から見て、際どい一年間になりそうね。
覚悟は決めておいた方が身の為よ、カイル。
時間は然程残されていないわ」
「はい。
元より覚悟の上ですよ。
凛、貴女に助けられた日から」
「恩を売ったつもりは無いわよ。
只、私は貴方の才能と人柄を買っただけ。
それは互いの利益の為にね」
「そういうことにしておきましょう」
「最近、生意気になってきたわね、カイル」
「お陰様で」
(本当に生意気で、頼りになるわね。
それくらいでなければ、この先目的を果たすことは出来ない。
私もカイルも…)
「…カイル、感謝しているわ」
虚を突かれたカイルは、眼を剥いて凛の顔を見る。
僅かに口元が笑いを浮かべているのを見て、カイルの口元も微かに緩む。
(珍しい。
凛の口から礼が告げられるとは。
まぁ、それだけでも危険を冒した甲斐があるというものですね)
2人はそこで会話を切り、食事に没頭する。
今日を生き延び、明日へ繋げる糧を得るために。