【閑話】 小さな恋と千古の想い
翠空。
晴天たる空はその大いなる顔を翠にし、爽やかな陽光を降らせていた。
春風が吹き、咲き誇る春の花を空に舞わせる。
「お花見日和ですね、レイさん!」
「そうですね」
風に乗って様々な匂いが鼻腔を擽る。
生命力溢れる緑の匂い。
きつめだが、朗らかな感情にさせる菜の花の香り。
そして―
ぐぅぅ~!
これらの香りに混じったある匂いはお腹を反応させ、聞かせたくない相手へと響かせていた。
(あぁ…、どうしてこんな時にガマンが足りないの、ワタシのお腹はっ!)
生態機能に文句を言い、その無遠慮なお腹を少女は押さえ込む。
「いい匂いでしょう。
ちょっと腕によりをかけてみましたから」
男はそう言いつつ、風呂敷に包んでいた重箱を広げていく。
いったいあの短い時間でどうやって、これだけ豪勢なものを用意したのだろうと、少女は困惑する。
1段目には軽食としてサンドイッチを中心に組まれていた。
1つ1つの具材が違い、挟まれた新鮮な野菜が瑞々しさを放っていた。
野菜の水分をパンが吸い込まない用に軽くバターなどを内に塗ってある。
サイドにはフライドチキンやポテトとオーソドックスに添えられていた。
2段目は主食となるご飯もの。
外で食べやすいようにオニギリにされており、やはり中身の具はオニギリの数だけ違っていた。
中でもチキンライスで包まれた牛蒡の和洋折衷オニギリは格別な味がした。
後は色とりどりのサラダに、エビフライからから揚げと揚げ物が敷き詰められていた。
3段目はデザート。
ゼリーや果物。
油ものの、胸をつく気分を戻してくれる、口直しに最適なものが色々と詰められていた。
水分の多い果物は纏めて、薄いシロップと杏仁豆腐を加えてフルーツポンチに仕立てられていた。
これが色んな果物の汁が混じり合い絶妙な味を出していた。
「ティーナは紅茶派でしたね。
ちょっとしたハーブで香りをつけてみました。
どうぞ」
と、水筒から熱々の紅茶が注がれる。
手渡され、ティーナはそれに口付けてみる。
甘さ控えめにアールグレイの味が構内に広がる。
癖があるアールグレイを軽いミント系の味が和らげ、実に飲みやすく仕上がっていた。
これなら何杯でも飲めると、喫茶店内では人気の代物だった。
「おいしいです」
淡白で考える前に声に出していた。
下手なお世辞より嬉しそうに。
「気に入って貰えて光栄です」
と、男、レイは満面の笑みをティーナに送る。
それを正面から受け、ティーナは赤面してしまう。
「さて、沢山食べてくださいね。
ティーナは少し痩せ気味ですから、健康的に太ってくださいね」
「あの~、女の子に言う台詞じゃないですよ」
太れと言われ、ティーナは批難する。
が、それを無視され、重箱を差し出される。
「お腹も欲求してますし、お納めください」
「う~」
呻きながらも、その食欲を促進させる匂いでフラフラと手が重箱に引き寄せられていく。
(あぁ、脅威の誘惑だぁ!)
観念し、渋々とその味を堪能する。
はっきり言って絶賛物の数々。
「どうしました?」
「いっ、いえ、なんでもありません!」
目が泳いでしまう。
理由は玲瓏な瞳を絶やさずに送ってくる、異性の存在。
意識してしまったら尚のこと、離れられない。
そんな眼差しを受けながら平然と食せるほど、ティーナという少女は、異性に対して免疫がなかった。
硬直していく身体。
舌が麻痺していき、味を認識しなくなっていく。
「あ、あの~、レイさんは食べないんですか?」
「造りながらつまんでいたら、お腹が膨れまして。
僕のことは遠慮せずに召し上げってください」
そう告げながらも視線が外れない。
「そ、そうですか」
「意識してしまいましたか?」
「へっ!」
「いえ、似合ってるな~と思いましてね。
少し見とれていたんですよ」
「え、え、え」
思考が停止し、聞こえた言葉が脳裏を反芻する。
「レイラさんのお手製ですか、そのワンピース」
「あ、はいっ!
お母さんが去年の誕生日に造ってくれたんです!」
白い生地が少女の清楚さを際立たせる。
所々に白い糸で花の刺繍がしてあり、白い布に身を包んだ少女を主花として添えられる形をとっていた。
少女の特色をしっかり掴んだ者だけが造れる、愛情の一品といっても過言ではないだろう。
デザイナーの母からこの服を貰ったとき、こんな大げさな服を着る機会は無いだろうと考えていた。
カジュアルウェアはジーパンにTシャツと、動きやすさ重視のラフな格好を少女は好んで着ていた。
友達からは少女趣味な服を何度進められても試着する気もせず、このワンピースも5ヶ月と12日、衣服ケースの隅で眠っていた。
心境とは移り行くもの。
ティーナは家に帰るなり、タンスを荒らし、もてる限りの衣服を放り出した。
だが、普段ファッションのファの文字すら体得していないティーナに、そんな都合の良い服がある訳もなく途方に暮れた。
偶然にも去年の誕生日に贈って貰ったこのワンピースだけが異色を放ち、隅に飾られていた。
(お母さん、ありがとう!)
初めて袖を通す服は嘘のようにフィットし、鏡の中に見たこともない自分を投影させた。
(これが私なんだ)
自分でも幼く見える外見が、妙に大人びて見えた。
(…これならレイさんとつり合うかな)
早く大人になりたかった。
そう思うようになったのはレイと呼ばれる異邦人が、この街に滞在するようになってからだった。
一目惚れだった。
6年前、まだ8歳に満たない少女は心臓の高鳴りに怯え、そして涙した。
彼がこの街に住まい、喫茶店を開いてから僅かしかないお小遣いを握り締めて、その敷居を跨いだ。
そしてその顔を見る度に漠然とした感情が確信に変わっていく。
そして自分の年が煩わしく感じるようになってきた。
二世代も年が離れていては、相手にされないと。
(…これなら)
鏡に映る自分を自分だと認識すると、親友から貰った麦わら帽子を合わせてみる。
不思議とマッチしており、疑ってしまう。
小さいなりに、少女と女性という狭間の危うさをしっかりと女性方面に仕立て上げていた。
この帽子も叉、ティーナを良く知り、見ている者しか贈れない品物だった。
(…メイちゃん、ありがとう)
「その帽子もよく似合ってます。
それ、メイからの贈り物でしょう」
「えっ、どうして!」
冬場に贈られた誕生日プレゼント。
そして季節外れの麦わら帽子。
「お手製ですから、大事にしてあげてください」
種明かしはしませんと、レイは人差し指を唇に当てる。
そんな仕草一つが絵になる。
「食べちゃいましょう。少しは手伝いますからね」
そうして軽くつまんでいく。
それに釣られるように、ティーナも気を取り直して食事にする。
今度はちゃんと味がした。
美味しく食し、食後の紅茶を頂く。
「今日で咲き収めですね。
弥生なら、満開の桜や梅が見れたかもしれませんね」
4月初め。
大半が咲き終わり、その瞬間の鮮明さを散らせていた。
それでも、可憐なる命は瞼に焼き付いてくる。
「綺麗ですね」
「はい」
新風が幾つもの生命を舞い上げ、2人を包んでいく。
沈黙が板につく、そんな情景だった。
「今回の宴、どこまで持つものなのか…」
「なっ、なんですか?」
「いえ、少し愚かに生きてみたいと想っただけです」
「はあぁ?」
要領の得ない会話に、ティーナは曖昧な相槌を打つ。
「ティーナ、人の心とは何で構成されているんでしょうかね」
「心ですか?」
「時に波のように激しく、山のように不動に。
鋭利になり、何処までも穏やかに。
変幻自在、千変の顔を持つ。
それ故に符合無き揺れ」
「それって人は分かり合えないってことですか?」
「合えませんよ」
男は断言する。
「そ、そんな事ありません!」
何故かレイの断言が、つながり自体を否定しているようで叫んで、少女は拒否していた。
レイとの距離を一生懸命に縮めようとしているのに、そこに壁を貼られたような虚無感が生じた。
「共感はしますよ。
でもね、所詮は他人です。
どんなに着飾っても、同じ人間でもない限りそんな超状的なことは成し得ない。
否、環境や遭遇などでも同一人物はなせないなら、誰にも分かり合う術を持ち得ない」
玲瓏な瞳が冷淡な光を讃えていた。
春の日差しが凍りついたように、肌寒くなる。
こんなレイを見るのは、少女は初めてだった。
怖いと想った。
だけど、それよりも無性に悲しみが胸に込上げてくる。
何処かで、この瞳を見た気がして。
「でも、この景色見たら誰もがキレイだって思いますよ!」
打開策を探して、口羽っていた。
「それを共感と言うんですよ。
言ったでしょ、人の心は千変だと。
なら、それは表層に他ならない。
分かり合うとは、境地ですらない。
そんなことをすれば、人格、心を否定することになる。
洗脳でもすれば別ですけどね。
それを人と呼ぶなら。
故に争いが生じ、踏み躙られる。
でも、争い無くして人が栄えなかったのも事実。
人形は繁栄を齎しませんからね。
人が人であることが、分かり合う歯車を噛み合わせないのですよ。
好、憎、善、悪。
そういった感情を元に生きるのです。
人を憎いと想わないで生きてきた人間はいないでしょう。
それが募り、小規模なら喧嘩、国同士なら戦争。
発展が進めば進む程に取り返しのつかない過ちを踏んでいく。
何処かの国で反戦なんて運動が行われていましたよ。
血塗られた鉾なる武装集団が、跋扈する世の中ですからね。
ですが、それは平和な国の戯言です。
その日の生きる食い扶持すら望めない国、痩せこけた大地に懇願しようとも作物は実らず、沃地を求め他国を侵略することでしか生き延びられない人々を誰が責められますか。
銃を突きつけられていない者が、銃口を額に当てられている者の気持ちが分かりますか。
これだって未だましな例。
統一などと馬鹿げた思想を掲げる者が、大昔の時代に跋扈し、争いを増徴させた。
分かり合えない動物が、大それた僭越をするから、鬼哭と慟哭が溢れかえる。
大きく見ただけで、これだけのズレた感性があるのです。
個人なんて、もっと繊細で複雑ですよ。
統合すべき意見すら少ないのですから。
だからと言って閉鎖的になれば、人は鶏のように弱者を追い詰め、自分を守る殻をかぶる。
何処までも畜生に陥り、その弱者にならぬように、より弱者を追い詰め燻り殺す。
そして次の生贄が捧げられる。
これも霊長類と呼ばれる人類の姿です。
欲望が単調な分、畜生の方が的確で最小限の犠牲しか出さない。
貪欲で、節操のない。
理性と知性の名の下に残虐な行為に深ける、この世で最も性質の悪い生き物。
人は知恵の果実を食べた地点で、分かり合う術を失ったんですよ」
そこで一息入れる。
その発言の全てが垣根だった。
踏み込むなと断言されたようなものだった。
少女は自分でもバレバレな好意を示していたと思う。
真っ向から人の感情そのものと、あり方を否定された。
そしてそれが男の中で揺るぎのない言葉なのだと、理解できた。
人の存在に侮蔑を籠め、世界を睥睨している。
ティーナはその中に自分が含まれていることが苦しくて、そしてそんな噺をするレイが悲しかった。
その時、1枚の花弁が視界を通過する。
それに釣られ、ティーナは周りに視界を広げた。
(…あぁ、キレイだな。
そうだ、さっきレイさんも同じ言葉を自然と口にしたんだ)
そうして漠然としたものだけど、道が見えた気がした。
「共感できるんですよね。
…なら、大丈夫です。
分かり合えなくても、理解しようと努力し、同じ価値観を持つことができる生き物です。
確かに、愚かかも知れません。
でも、在るんです。
分かり合うのではなく、分かち合う心が。
だって、キレイだって言ったでしょ、この風景を。
それは今しがたワタシたちが分かち合った感性。
たとえ全ての人間がこれをキレイだと想わなくても、ワタシたち2人はそれを感じられた。
ささいでも人は分かつことができるなら、ただ滅亡だけが残されることはありませんよ。
滅びたいと願うより、生きたいと願う人の方が、この世には多いはずですから」
その言葉を肯定するかのように、一陣の風が吹き、その風流を2人の脳裡に焼き付けていく。
「もし、滅ぶことを願う人が多くなったら、さすがにあきらめますけど、それまでは希望はありますから」
少女は、厭世に呻く男に微笑んだ。
(覚えていてくれたのですね、その心を…)
男の冷淡な瞳に、仄かな悲しみと確証を得た安堵が宿る。
「僕もそう想いますよ。
寂しい反面、楽しい事もありますからね」
男はいつの間にか俺から僕へと変化する自分に、俺が癒されていくのを感じた。
緩やかな春の温度が戻ってくる、レイの微笑と共に。
ディベートを制したティーナによって。
「なっ、何ですか?」
場の緊張が解けていく。
ティーナは解けた紐を手繰り寄せるように聞いてみる。
「知らないから、人は知ろうとする。
興味、嫌悪を抱いた瞬間、人はより多く知ろうと画策しようとする。
これは自分と違う感情と経験を持つ者だからこそ起こりうる行為だと言えます」
「そうか、興味のある人の新しい面を見つけた時、こんな顔も持っているんだって嬉しくなりますもんね!」
「そうですね。
だから、見、話、見解を広げていく。
移ろう刻の中にいる者を一定の概念で塗り固めてしまうよりも、その者が日々成長し、変化を見ている方が楽しいと思いませんか?」
「分かり合えないから、知ろうとする行為、……楽しいかもしれませんね」
「ええ。
好きな人の何気ない仕草や癖を見つける等などは、特に楽しいですよ」
「あ、それなら分かります!」
実行中の事柄を出され、ティーナは想わず勢い込んで賛同してしまう。
「だから、僕は誰よりもティーナを見ているんですよ」
「…はい?
…え、えぇ、えええええええ――――――――!」
余りに突然の告白に脳が反応した瞬間、ティーナの頭部が沸騰した。
「あれ、気が付きませんでしたか?
分り易くアピールしていたつもりなんですが?」
「あ、あの、え、そのぅ……」
パニックに陥り、まともに言葉が紡げない。
6年間の想いが花咲くには唐突過ぎて、受け入れられないでいた。
(あの言葉が聞けて、僕も俺も無駄じゃなかったと確信できた。
だから、これは謝罪と感謝を込めたて、です)
混乱して、ワタワタとしているティーナの後頭部に手を沿え、引き寄せる。
そして軽く、乾いていた唇に己の唇を重ねる。
湯沸かし器と化していた頭から、湯気でも立ち上りそうな赤面ぷっり。
(この僥倖に感謝するよ、レイ)
割れ物を扱うように、その華奢な身体をした少女を胸に抱く。
硬直してしまい、焦点すら怪しいティーナは現状を理解するまもなく、その身を預けるしかできないでいた。
小さな恋と千古とも言うべき想いが微かに触れた、そんな午後の一幕だった。




