【胎動の刻】 ティア 榊
【胎動の刻】
存在するのは、網膜を埋め尽くす一面の紅。
建物と言う建物を火が飲み込み、街は火の海に沈んでいた。
逃げ惑う人々。
だが、それは阻む異形なる巨影により、消し炭と変えられていく。
巨影は数を増やし、街を廃墟へと変貌させていく。
巨影は虚空より生まれ出でていた。
何もない空間から突如現われ、そして街を埋め尽くしていくのみ。
(…また、あの悪夢か)
俺はその光景を眺めながら、それが夢であると認識していた。
何故なら、それが過去に実際起こった事実であり、現場に自分が居合わせていたからだ。
視点は瓦礫の前で、必死に物を払いのけていた。
その作業を行う掌は皮が剥げ、視点の人物はその事に意に介さず、瓦礫の撤去作業に没頭していた。
「も、…いい…よ、…にげて、ティ…ア…」
瓦礫の下に少女がいた。
弱弱しい声で、視点の主に避難を促す言葉を投げかける。
「バカをいうな!
お前をおいて逃げられる訳がないだろうが!」
視点の主は叫び、上に乗っていた瓦礫を一つ除けた。
視点の主は知っている。
この行為が無駄である事を。
これまで退けた瓦礫の重さ、量を考えるに、その下敷きになってしまった体が無事であるはずが無い。
絶望を肯定するように、少女の倒れている地面を赤い液体が広がっていく。
「た…すか…、ら…ないよ…」
今一番聞きたくない台詞が鼓膜を震わす。
「まだだ、まだあきらめるな!」
視点の主は絶叫し、瓦礫と戦い続けた。
だが、頭の中で冷静な自分が、少女の死を確信していた。
それが腹立たしくて、気が狂ったように作業を繰り返し続けた。
「あな…たは…、おとこのこだ…もん。
きっと、う…まくい……くよ」
「ダメだ!
それはお前が、お前がやらなければいけないことだろう!
勝手な事をぬかすな!」
視点の主は、少女を繋ぎ止めようと、彼女の言葉を全て否定した。
埒が明かない。
そう考え、下から押し上げるための棒を探し、視点が少女から180度、移動した。
その直後、背後に熱が膨れ上がる。
振り返る視点は、全身の毛を逆立てうなり声を上げる大きな獣を捉えた。
全長4メートルはあろう獣は全身の毛を逆立て、少女の埋まっている瓦礫の上へ進行してくる。
(やめろぉぉぉぉ!!!)
換えられぬ過去に俺は絶叫した。
そして、視点の少年も絶叫していた。
「ティアアアアアアアア!!!」
これが最初で最後、俺が彼女の名前を呼んだ瞬間だった。
グシャ!
何もかもがスローモーションだった。
少女が押しつぶされる様も、そして獣が発する熱が瓦礫ごと少女を燃やし尽くしていく様も。
「ガガガガアアアアアアアアァァァ!!!」
少年は吼え、瓦礫の一つを持ち上げた。
それは大きな木材。
それを振り被り、少女を踏み潰した足に向かって叩きつけていた。
「その足をどけろぉぉぉぉ!!!」
だが、木材は獣の逆立った毛に触れると、粉々に吹き飛び粉砕されてしまう。
そして獣の前足が、視点の真下、少年の胸に突き刺さった。
※
瞼が開く。
厭な汗が全身濡らしていた。
一陣の風が流れ、頬の汗を乾かしていく。
(そうか、眠っていたのか)
少しの休憩のつもりが、軽く眠っていたらしい。
まだ月が支配する時間。
未だ、白んでもいない世界。
幸いにも夜明け前といった感じだった。
その事に胸を撫で下ろす。
「…野外で寝るのは止そう。
無防備が過ぎる」
口に出し、現実をかみ締める。
腕に嵌めてある腕時計で、時刻を確かめる。
午前4時36分。
「もう直ぐ、世界が眼を覚ますか」
未だ、眠りに落ちている世界で、その始まりを否定するように独語する。
後一刻もすれば、東の空を染める太陽が顔を現すだろう。
それが棺桶へと脚を一歩踏み入れたと宣告されている気がして、朝は好きにならないでいた。
※
丘の上で男は上半身を起こし、伸びをする。
切れ長い目元に細めの眉。
その上女顔といって良い程の整った顔立ち。
まだ育ちきっていない線の細い身体付きが、中性的な雰囲気を帯びさせていた。
だが、細い身体付とは裏腹に、Tシャツの下には贅肉の欠片すら窺えない、鍛え抜かれた肉体があった。
(今日はチーム分けのみだったな…。
なら、無理をしてもかまわないか)
男は立ち上がり、全身を解し始める。
悪夢で強張った筋肉を伸ばし、その緊張を解いていく。
ストレッチを念入りにし、じっくりと頭と身体の覚醒を促していく。
ほんのりと身体が温まった処で、自分の立っている丘から広大に広がる敷地を見渡す。
眼前に広がる森林地帯に身を屈め、男は一気に駆け出す。
傾斜を利用して加速し、駆け下りながら木々の密集地帯に飛び込んでいく。
撓る、滑らかな足取りで加速は増していく。
左右の動きをサイドステップに絞込み、最小限の動きで木々を躱していく。
一つ間違えば、大木へ衝突し生死に関わる怪我を負う局面だが、少しも速さを緩めることは無い。
それどころか、加速は次第に高まっていく。
一陣の疾風が、森林を駆け抜けていく。
丘から宿舎まであった、20キロに及ぶ距離を僅か30分で駆け下り、男は軽く流すようにして止まる。
乱れていた息は、最後の方に流すように走っただけで、通常に近い状態まで戻っていた。
何と言う体力だろうか。
その頃には昭光が辺りを照らし、東の空を染め始める。
全身を濡らす汗は、悪夢で流れた冷たいものから、身体を動かした暖かいものにすり替わっていた。
コンクリートで建設された薄汚れた宿舎に入り、音を殺して自分の部屋に戻ろうとする。
中は暗く、渡り廊下の隅々にどす黒い斑点がこびりついていた。
斑点が何を意味するか、それを伝える異臭が鼻を掠め、胃を萎縮させる。
男は自分の部屋の前に立つと、ノブと扉を観察する。
部屋を出た頃と寸分の変化もない。
撒いておいた埃も不自然な変化は見られず、扉が開かれた形跡も無い。
安堵を浮かべながら扉を開け、中に入る。
ランニングへ出かける前に用意していたバックを手にし、男は部屋を後にする。
勿論、又埃を撒き、警戒を怠らないようにする。
宿舎は出、隣に備え付けられているシャワールームへ足を伸ばす。
(こんなランニング程度で、成績を縮められるのだろうか)
暗澹たる思考を頭を振って追い出し、更衣室で服を脱いでいく。
細いながらも引き締まった肉体が露になる。
その胸には、大砲の弾でも受けたような弾痕のような痕があり、そこを中心に酷い火傷の跡があった。
(今ほど力があれば、お前を救えたのか…)
火傷を見る度に、男の脳裏にあの日のことが思い出される。
軽く傷に触れる。
時間を物語る、硬く固まってしまっている傷痕が、戻れない刻と失った者を強く意識させるのだった。