天界の悩み
朝一番の来客の帰りを見送って、釈迦は踵を返して蓮池の方に歩を進めた。問題に頭を悩ませる友の提案に協力を約束して一ヶ月がたっていた。むせぶような濃厚な香りが辺りを包む蓮池のほとり、一匹の蜘蛛が蓮の葉の上、釈迦の前に進み出た。
「お釈迦様。おはようございます」
「導き手の様子はどうですか?」
「はい。下はこのような状態でございます」
蓮の葉の間に銀の糸でつくられた蜘蛛の巣の下、釈迦の千里眼は池の底の闇を見つめた。この蓮池の遥か下は丁度地獄の底だった。その地獄の底の峻険な針の山に囲まれた血の池に、芋洗いのごとく浮き沈みする罪人達の一人に目を凝らせた。
神田太一。
薬物売買、ハッキング、振り込め詐欺、嘱託殺人。ありとあらゆる悪行を生前働いた罪人だった。釈迦は神田の生前の行いを記録したカルマの書の記録を思い出した。
神田は六本木ヒルズのエントランスに巣を作った、釈迦の使いであるこの蜘蛛さえ殺してしまおうとした。だがこの男はそこで思いとどまったのだった。悪行を働いた人間達が沈む血の池の中、神田ならこれをつかむことができるかもしれない。
釈迦は蜘蛛が紡ぎだした銀の糸を手にとり、蓮の葉の間地獄の底の血の池に向ってゆっくりと糸の先を降ろしていった。神田は無数の他の罪人の間、血の波をかぶり時折見えなくなる。血の水面が見えなくなるほどびっしり浮ぶ罪人は、針の山さえ覆い地獄の大地全てを覆いつくそうとしている。
「このままでは地獄は定員オーバーになってしまう」
そう言ってうめいた閻魔の苦悩を、釈迦も肌に感じていた。近年、釈迦が管理する極楽まで上ってくる善人の数が目に見えて減っていたのだった。
そんなある日、閻魔と出かけた神々の異種交流会で知り合ったキリストという西洋の男は、興味深い話をしていた。彼の管理する世界は極楽と地獄の間に、〝煉獄〟という場所があった。そこには極楽にいけるほど善人でもなく、地獄に落ちるほど悪人でもない人間たちが集められていた。彼らを苦罰によって清め極楽に導くとキリストは説明していた。「これだ!」と手を打った閻魔は、〝煉獄〟のような場所をつくろうと釈迦に提案した。
釈迦は閻魔の頼みを聞き入れ、蜘蛛をはじめ様々な生き物の形をした使いを現世に放ち、〝煉獄〟に上がれそうな人間を探させた。使い達が報告する現世の様子は、釈迦が想像していたより悲惨だった。
苦しみ、憎しみ、悲しみ、あらゆる負の感情が渦巻き、それに呑まれた弱い人間たちは簡単に罪を犯した。報告にただ眉間にシワを寄せるばかりだった釈迦に、蜘蛛を殺さなかった神田の行いが偶然目に留まった。
朝一番に訪ねてきた閻魔より、釈迦は神田が命を落とし血の池に堕ちたことを聞いた。生前に唯一の善行を行った神田を罪人たちの導き手にして、〝煉獄〟にたどり着かせようというのだった。
血の池に浮ぶ神田に向って、釈迦は頼りなさげな銀の糸を慎重に降ろしていった。この細く輝く銀の糸は、完全なる悪人には見ることができないものだった。
はたして神田はこの糸を見つけることができるだろうか。たとえ神田がこの糸をつかむことができても、他には誰も見つけることができないのではないか。思案する釈迦の手にかすかな手ごたえが伝わった。はるか彼方、神田が糸をつかんでこちらに向かってのぼり始めている。
「おお……」
思わず呻いた釈迦は、大きな口を開けたまま銀の糸の先を見つめた。神田の後を追って、数え切れないほどの罪人が、糸を手にして上に向っている。
この者たちも神田と同じく生前、ほんの少しの善行を行っていたのだった。釈迦はカルマの書の報告を見落としていた。
「お釈迦様……。これでは……」
蜘蛛の声に我に返った釈迦は、糸を引き上げようと手に力を入れた。その瞬間、確かに伝わっていた手ごたえがふつりと消えた。神田をはじめ他の罪人たちももんどりうって血の池に落ちていく。蜘蛛の糸は罪人たちの重みに耐えかねて、途中でプツリと途絶えてしまったのだった。
蓮の花がなおいっそう盛んに香りを飛ばす極楽の昼下がりだった。かぐわしい香りが鼻孔をくすぐり、釈迦は大きく息をついた。夕方にはこちらから閻魔を呼び出し、相談しなければならない。どうやって〝煉獄〟をつくっていけばよいのかを。