第3章 (2)
寝るの遅かったのにお兄ちゃんはいつの間に起きたのか、家族が起き出す前に食卓には3人ぶんの朝食が用意してあった。
お母さんは初め「これは自分のじゃない」と言って手をつけようとしなかったものの、お父さんになだめられて少しだけ食べた。
食事をともにする気にはなれなかったのだろう、部屋から出てこないお兄ちゃんを呼ぼうとは誰もしなかった。出かける前に一応扉をノックしてみても、返事はなかった。二度寝かもしれないと思うことにして、扉の外からわたしひとり、ごちそうさまでしたと声をかけて家を出た。
朝食の間も、多磨霊園に揃って眠る龍一兄ちゃんとお婆ちゃんのお墓参りに行ってる間も、わたしはお母さんとひと言も口を利かなかった。そのことにお母さんはなにも言わなかったし、お父さんも咎めなかった。昨日の今日で反省してるとは思えないけど、故人の前で言い争ったりすることをためらう程度には理性が働いたのかもしれない。
家に帰ると、今度は昼食が用意してあった。また3人でほとんど無言の食事をするのはいやなので、お盆に自分のぶんを載せて2階へ上がった。朝と同じように扉をノックして、返事がないのも構わずなかに入ると、お兄ちゃんはいなかった。
1階に戻って玄関の靴箱を見る。いつ履くつもりなのかと思ってたイタリア製の革靴がないことに気づく。普段使いのスニーカーが残ってるから、帰ってきたときは見落としたようだ。
昼食にまるごとラップをかけて冷蔵庫へしまい、ちょっと用事思い出したとお父さんに声をかけ、わたしは桜色のパンプスを履いた。
買い物に行っただけ、とも考えた。けど内緒で入れ違いに出るなんて、いかにも虎次郎兄ちゃんのやりそうなことだ。だとしたら行き先は決まってて、そこでまた入れ違いにならないよう、原宿のときの反省を活かして足下に気をつけながら駅へと急いだ。
多磨霊園前駅で電車を降りてからはほとんど競歩で、だだっ広い敷地の中を真っ直ぐうちのお墓へ向かった。どこを向いても同じような並木道と墓石ばかりで、いきなり来たら迷うこと間違いなしだけど、さっきも来たばかりなのだからその心配もない。
果たして思った通り、お兄ちゃんはそこにいた。
昨夜と似たようなシチュエーションになっちゃったな、とわたしは思う。
もちろん、ひとりで来たいと言ったのを邪魔するつもりなんてない。少し離れた小径で柵に腰かけ、墓石の前に佇む姿とそこに増えた花束を黙って眺めた。
時期にもかかわらず近くに他のひとはなく、帰ってきた日と同じ白いシャツに、木漏れ日の作る影がそよ風に揺られて色をきらきら映し出す。小さな頭が高い位置から墓石を見下ろし、細身の夏物スラックスのポケットに両手を入れたまま、いつまでも動かない。
わたしのところからは表情までわからず、唇が動いてるようにも見えなかったけど、なにか会話でもしてるつもりなのかもしれない。そういうロマンティックなのが似合うような、でも似合わないような、どちらとも言えず不思議な気分になる。ただその絵姿は映画のワンシーンみたいで、やっぱこのひと綺麗だな、と不謹慎ながら思った。
時間を計るのも無粋なので、どのぐらい経ったのか知らない。やがてお兄ちゃんは墓石から視線を外し、わたしに気づいて笑った。
「いつからいたの?」
こっちに向かって歩きながら、ポケットの手を出して振ってきた。わたしも柵を立って手を振り返す。
「だいぶ前。わたし日焼けしちゃうと困るんだけど」
頼まれてもないのに来て覗き見しながら悪態つくのもずいぶんな話だ。とはいえなんとなくいまは、シリアスムードじゃないほうが良い気がしたのだ。当然ながら照れ隠しもある。
「ごめんな。待たせちゃったか」
隣りに並んだお兄ちゃんとふたり、ゆっくり歩き出す。車が通るわけでもないのに自分が道の真ん中寄りになるようさりげなく立ち位置を入れ替えたのは、わたしが並木の陰に入るよう誘導したんだろうか。
「またそうやって謝る。いまの文句言うとこだよ。勝手に来たんだから」
どこまで甘いんだか。昨夜わたしの言ったこともう忘れたのかよ、と思うも、お兄ちゃんに不機嫌な様子は窺えない。どころかすっきりした表情で、ちょっと嬉しそうですらある。それ見て安心しちゃうわたしも甘いんだけど。
「怒らないよ。来るかもしれないって思ってたから」
……っと。びっくりしたぞ。もう冗談もほどほどにしろよな。これも予想の範囲内だなんて言われたらわたしが困るって察しろ。ただでさえ恥ずかしいのに。
「なにまたバカなこと言ってんの。あんた妹からどんだけ愛されてる設定で考えてんのよ」
なので視線を外した。ほんとはこんなときまでいちいちケチつける言い方したくない。でも仕方ないじゃんこんなの。
「でも来てくれた」
視界の端に相手の視線を感じて、わたしはつい逆を向いてしまう。そんな見つめられたら照れるし、とかうっかり言いそうになり、それじゃこいつと同レベルだと思い直す。
「……そうだけど」
そうなんだけど。つーか実際なんで来ちゃったんだろうな。
さっきの通り、虎次郎兄ちゃんと一緒に龍一兄ちゃんの墓参りをしたかったわけじゃない。そうしたかった気持ちもあるにせよ、本題とは思えない。
昨夜のは辛いはずのお兄ちゃんをほっとけなかった、というはっきりした理由があったけど、今日はそれも違う気がする。なんというか……すごく伝えたいことがあるのにその内容は自分も知らない、みたいなもどかしい感じ。
「ありがとな、かりん」
しまいには礼まで言い始めた。自分の行動も謎だけどお兄ちゃんも相変わらず意味不明だ。わたしには答えようがなく、つい腕組みまでして考えてると、隣で、ふ、と軽い笑いを漏らすのが聞こえた。
ますます意味わからんわ、と思ってそっちを見る。
「正確には、来て欲しいと思ってた、かな」
なんだそりゃ、変なお兄ちゃん。ひとりで来といて寂しかったのか。しょうがないひとだな、そういうかわいいとこ普段からもっと出せば、わたしだって……
「もしかりんが来てくれたら、ちゃんと言おうと思ってたんだよ」
……え?
なにか心に当たって揺れた。たったいま笑ってたはずなのに、お兄ちゃんの眼差しはいつの間にか昨日の食卓みたいに大真面目だ。
つられてわたしも真顔になってしまい、緊張して足が止まった。
なんのつもり、これ。
心当たりのあるような、何度やっても慣れないような。
「言うって、なに」
お兄ちゃんも足を止める。わたしは足どころか心臓まで止まりそうだ。腕組みを解いた両手を足の前で浅く組み直し、続きを待つ。
ヒールのせいで近い目線の高さが、なぜかいまは邪魔に思う。つい下を向くと、お墓掃除のために汚れても構わないよう着てた安物のTシャツとジーンズが目に入った。靴はともかく、アクセもないしメイクだってほとんどしてない。正直ちょっと微妙。
「かりんの聞きたがってたこと」
いや聞きたがってたことって、やめてよなに勝手に決めつけてんだと。自信過剰なとこまでお父さんに似ちゃったのか……でもお兄ちゃん、言うなら言うで、もっと綺麗な格好のときにしてくれたらいいのに……
……ん?
……ちょっと待て! わたしなに考えてんだアホか!
「いやいい、やっぱ言わなくていい、それだめだから」
素早く後ろへ下がって距離を開け、胸の前で両手を全力で振った。やべぇ雰囲気に騙されるとこだった。こいつ怖ぇな。気をつけよう。
「だめって、もともと昨日それが本題だったんじゃないの?」
違ぇよ勘違いすんなあんな夜中に部屋入ったからってわたしは妹だっつーのバカふざけんな心配しただけって言っただろ。
「本題ってあんたね、わたしたち兄妹でしょうが」
「兄妹だから、やっぱり言ったほうがいいなと思ったんだけど」
悪びれることなく言い返され、わたしはあまりのむちゃくちゃに口をぱくぱくさせながら、やっぱ天才とあれって紙一重なの? そんでロスでお父さんに殴られすぎて脳がだめなほうに転んじゃったの?なんて益体もない思考がよぎる。
そこにお兄ちゃんは続けた。
「兄貴の遺言。それともかりんは聞きたくなかった?」
ってそっちかよ! あ、焦った……。
そりゃ聞きますとも。
少し長くなるかもしれないからとお兄ちゃんは言い、わたしたちは大きな桜の下で日差しをやりすごすことにした。
ヒールで立ち話ってちょっとしんどいんだけどな、と思うも、それも自分で選んだことかと諦める。あとでシャワー浴びながら足マッサージしよう、なんて考えてしまうのは、この期に及んでまだ逃げたい部分も少しあるからかもしれない。
「昨日、かりんに言われて反省したんだよ」
と切り出された。暑さのせいじゃない汗が出そうだけど、望んだ以上はお兄ちゃんの決意と事実を受け止めなきゃいけない。黙って耳を傾けることにした。
「おれも兄貴もわかってなかったんだ、かりんも当事者なんだって。妹だけはこんなくだらないことから逃がさなきゃいけないって思ってた。でも本人に逃げるつもりがないなら、逆にそんなの傷つけるだけだよな。悪かった」
わたしは無言で頷く。
「昨日ああいう形で話を始めたのはさ、そりゃおれはあんなこと言われたわけで、それについてきちんと謝罪して欲しい気持ちもあったよ。でもそれだけじゃない。まだ母さんが自分の非を認められないなら、おれ宛ての遺言なんて伝えたらもっとひどいことになった」
あれ以上ひどいことなんてあるだろうか、と一瞬考えて、充分あり得ると思い直した。昔はそれが日常的に起こってたのだ。
「だからこれは、おれから聞いたということ自体、内緒にしといて欲しい。やっぱり聞きたくないなら、ここでやめてもいい」
今度は首を横に振った。だからの意味はまだわからないけど、そうする必要がお兄ちゃんにはきっとあったんだろう。
「聞きたい。続けて」
覚悟を確かめるようにお兄ちゃんはわたしの目を見る。足が震えそうなのを押して、わたしもそうする。お兄ちゃんは頷き、わかった、と小声でこぼした。
「兄貴の小さい頃について、どの程度までかりんが知ってるかおれはわからない。とりあえず一通り知ってるって前提で話すよ。わからなかったらその都度訊いて」
そうして語られた、虎次郎兄ちゃんが事前に聞いてた龍一兄ちゃんの真意、それから遺言の内容とをまとめて要約すると以下のようになる。
言うまでもなく、龍一兄ちゃんはお婆ちゃんのことを憎んでた。でもいくら恨んだところで問題が解決するわけじゃないのだから、それはそれとして諦め自分の人生を好きなように生きたいと、もともとは思ってたらしい。
ただそれを邪魔するひとがいた。その気になればお婆ちゃんとは口を利かなくて済むけど、家にいてお母さんと顔を合わせないわけにはいかない。
当時わたしも気になってた通り、勉強なんか出来なくていい、と言う一方で高校には行って欲しいと頼むお母さんの矛盾が龍一兄ちゃんを苦しめた。
義務教育の教室にいるだけでも拷問のようだった龍一兄ちゃんにとって、わざわざ受験勉強までして進学するなんてことは人生の数年間をドブに捨てるのと大して変わらなかった。
「だいたい行ったとして、卒業なんておれには無理に決まってるだろ」との弁も、言われてみれば否定しづらい。
それでも一度は虎次郎兄ちゃんに教わった理由はふたつ。ひとつは、出来ることなら親孝行したいという気持ちがまだ残ってたこと、もうひとつは、自分の勉強に弟が役立てば、母親の冷淡な扱いも変わるかもしれないと思ったこと。兄弟想いの強いひとだったのだ。
それをやめた理由もふたつ。ひとつはお母さんの態度がまったく変わらなかったこと、もうひとつは、これも思った通り、虎次郎兄ちゃんの頭が良すぎたこと。
ただその意図するところはわたしの想像と一部違った。というのは、もちろん弟に嫉妬し、恨む気持ちもあったのだけど、それ以上に感嘆し、尊敬するほうが大きかったのだ。つまりわたしと一緒だ。
「あとはお前に任せるよ」と、ふたりで最後に勉強した秋の入り口、すでに虎次郎兄ちゃんは告げられてたという。
このときもう兄貴は死ぬつもりだったのかとあとで思った、と苦々しげに呟きながら表情を変えない虎次郎兄ちゃんが痛ましくて、わたしのほうで涙が出た。
話に戻ろう。家に帰らなくなった理由もまたふたつで、ひとつは親に会いたくなかったこと。それは母親の期待を裏切ったことへの後ろめたさと、次男をいたぶる妻を一生懸命に庇う父親への失望から来たようだ。その件でお父さんに殴りかかったことすらあったとも。
そして両親が、祖母同様に自分を見捨てることを望んだのだという。
――おれのことはもう忘れて。
もうひとつは、残り少ない時間を自分の人生のピークにするため、全力で遊び倒そうとしたこと。自暴自棄とは少し違ったらしい。
「おれは人生でやりたいことなんて見つからないから、いまやりたい遊びを好きにやったよ」とのことだ。その内容は良くも悪くも徹底的で、友達の傾向を思えば仕方ないこととはいえ、ここで言えないような犯罪も多く含まれてた。聞いてて正直わたしは気分が悪くなり、虎次郎兄ちゃんのある種の融通の利かなさは知ってても、そこはお茶を濁してくれてよかったのに、と思ったりもした。
死を選んだ理由はひとつ。もとを正せば祖母のせいであっても、自分がいる限り母親は弟を憎み続ける。そのせいで輝かしい未来のあるべき弟が、自分より先に同じ答えを出してしまうのを恐れたこと。
「そんなことになったらおれは弟を不幸にするために生まれてきたみたいだ」と。
さらに同じ災いは、やはり自分より出来の良い妹(わたし自身はそんなふうに思ったことがなくても、龍一兄ちゃんにとってはそうだったということか)にも降りかかるかもしれない、それじゃ誰も救われない、と考えたのだ。
結論を急いでしまったのは明らかだけど、いまさらそれを責めるのは詮ないことだろう。
「――『こんな形でしか助けられなくてごめん。お前は頭が良いから、もっとマシなやり方でかりんを助けてやれると信じてる。おれやお前みたいにならないよう、母さんから妹を守ってやってくれ。でも出来れば母さんを許してやれ。お前は悪くない。あとを頼んだ』そんなふうに結んであったよ」
話を終え、お兄ちゃんは息をついて木に寄りかかった。白シャツなのに汚れちゃうじゃん、と思っても、憔悴した様子を見ると言えなかった。
「お母さんに読ませてやれば良かったのに。そしたら反省したかもよ」
代わりにそう答え、わたしも同じように背中を預ける。足も疲れてるし、この場は汚れてもいい格好で来たことに助けられた。
するとお兄ちゃんが冗談めかして笑う。
「男の約束だったからな。誰にも言うな、って」
ほんっとくだらねぇなそれ。『男の』って付ければなんでも通るとか思うなよ。そんなもんのためにこっちはずっと悩んできたのに。わたしの2年半を返せ。
「バカだね」
足下に目を落としながら言った。笑い返したかったのにお兄ちゃんの顔が上手に見れない。わたしも男に生まれれば良かった。
「そうかな」
そうだよ。ひとりでそれ抱え続けてたとかどうしようもないバカ。
「ほんとバカ」
そんでいまになって、龍一兄ちゃんの遺言を果たすために帰ってきたなんて。
わたしのこと助けるとか言って、それが出来るぐらい一足飛びに大人になって、お母さんにさえ気を遣って余計に傷つけないようにして。
一度止まった涙が、また頬を流れてお気に入りのパンプスに落ちる。男だったらきっと、こんな気持ちにならなくて済んだのに。
「ごめんな」
お兄ちゃんはハンカチをわたしに差し出し、優しく頭をなでる。わたしは嗚咽を堪えながら、渡されたそれで目元を覆い、乗せられた手を払う気にはなれない。
それから数日、家では微妙な小康状態が続いた。当然のように謝罪を口にしないお母さんと話すのはまだいやだったものの、わたしとまでこじれたらお兄ちゃんに悪いと思い、我慢して普段通りに振る舞った。お兄ちゃんもこれまで通り普通に挨拶ぐらいしたせいか、お母さんも追及してくることはなかった。
ただ食事の時間はわたしとお兄ちゃん、それから両親と完全に分け、そのうち何度かはお母さんがお父さんとふたりぶんを作った。お父さんはお兄ちゃんとたまに話してるみたいだったけれど、解決に至る道はやっぱり見えないのか、せっかく家族が揃ったのにこんなんじゃ寂しいな、とわたしにこぼしたりもした。
もちろんわたしだって寂しいと思う。ただその理由はひどく入り組んでる上に、発端となったお婆ちゃんと龍一兄ちゃんはもういない。遺書は焼かれちゃったし、こないだの様子を思えば虎次郎兄ちゃんの言葉をお母さんが素直に信じてくれるかも疑問だ。
お兄ちゃんは部屋にこもって作業してるので、わたしも邪魔しないよう自分の部屋でばかり過ごした。気晴らしに誰かと遊びたくても、アイリはスコットランドへ行ってしまい、若葉もいずみも家族と旅行中だ。夏期講習も休みになるこの時期はそんなもんだろう。
今日子さんに会いたいな、と思ったけど、この気分で会ったら余計なことまで口走りそうな気がして、他愛ないメールをやりとりするに留めた。読書しようにもすぐ集中力が切れるので、好きな音楽を聴きながら考える時間が長くなった。
そしてなにも進展はないまま、お父さんのロスに戻る日がきてしまった。
夜の便で帰るのを、行きと同じくわたしとお兄ちゃんとで見送ることになった。お母さんはお盆の間に溜まった仕事を始めたいと言って部屋にこもろうとしたけど、今日ぐらいは4人で過ごしたいとお父さんが頼み込み、昼ご飯のあとリビングに集まってお茶を飲んだ。
ぎこちない会話がぽつぽつあっても、お母さんのところですぐ止まってしまう。少しぐらい歩み寄る姿勢を見せて欲しいと思っても、藪蛇を恐れてこっちもデリケートな話題に踏み込めないのだから、傍から見ればお互い様かもしれない。
飲み干したお茶のお代わりを淹れるかどうか迷ってると、お父さんが言った。
「そうだ華麟、あんま静かなのもなんだし、ピアノ弾いてくれるか」
あんた自分で場を用意しときながら最初に音を上げんのかよ、と呆れてると、お兄ちゃんもそれに乗ってきた。……まぁそうなるんじゃないかって気はしたよ。
「おれからもお願い。結局あれから一度も見てないし」
そりゃ見られないようにしてたからな。実はほぼ毎晩こっそり練習してたけど。
「もう。しょうがないなぁ」
ミスタッチとかあってもツッコまないでよね、と前置きして、エレピの電源を入れる。うちにあるのはエレクトリックグランドピアノという、エレピにしては大きめのものだ。見た目はあまりエレガントじゃないけど音は良いし、キーの心地もいわゆる普通のピアノと大差ない。ちなみにお値段はけっこうなもので、安い中古車なら買えるぐらいらしい。
昔住んでたところにはこんなの置くスペースなかったんだけど、こっちに越してきたときに中学の入学祝いとしてお婆ちゃんが買ってくれた。高い買い物をさせといて結局やめちゃったことに申し訳ない気持ちもあったものの、気に入ってはいるのだ。ピアノを弾くことが嫌いになったわけじゃないしね。
さて、と呟いて鍵盤の前に座り、軽く指をストレッチする。父親のロマンとやらのために、お父さんが戻ってるときに弾くことがあるからそれはいい。ちょっと緊張するのはお兄ちゃんのせい。あいつ妹に聴かせるための曲なんてよく臆面もなく書けるな、と考えるも、そいや最初は恥ずかしがってたな、と思い返す。
仏壇の龍一兄ちゃんとお婆ちゃんを合わせれば観客は5人。背中に視線を感じながら両手をポジションに置き、深呼吸をひとつ。集中力を高めて左手の和音をメゾピアノで叩き、続けて右手を滑らせる。いったん始まってしまえばあとは音楽の邪魔をしないようにするだけ、もう緊張もない。それにこれはクラシックじゃないし、言ってみれば間違いもなにもない。
作曲ころたね、編曲高嶺華麟。『innocent concealment』――善意の不告知と名付けられたこの曲は、こないだの件以来ますます好きになってしまい、この数日だけで50回は聴いた。わたしが弾くのは、空いた時間を使ってそれをピアノソロ用にアレンジしたもの。拙い部分もあるけど構わない。自分のためにやってることで、誰かに伝えるなんておこがましい。
それでも勘違いしてしまうことはある。せっかく目の前で弾くのだから、せめてお兄ちゃんたちにだけは、なにかひとつでも伝わってくれないかな、と。
まるでわたしたちのために書かれたみたいな曲だから、と。
歌メロを右手でなぞりながら、頭に歌詞を浮かべる。
――最後の言葉 思い出す 夢
――許し合えた未来 もう一度会えるかな
――なにも言えなかったのはただ 優しいふりして 逃げ込んだ弱さで
――待っていて 君を傷つけるもの なにもかもが檻 そう見えてしまうよね
――信じてやれなかったのは お互いわかってるふりして鏡を見てたから そうだろう?
――あのとき僕ら子供で 疑い方も知らず 誰かのせいにすることばかりに必死だった
――強くなれないのは言い訳 少しでも早く なにも告げず君を守れるぐらいに
まぁ告げられちゃったんだけどね、と思いつつ左手の和音をビル・エヴァンスふうに崩してフィニッシュ。リズムがちょっと怪しかったけどそこはご愛敬。
全編通して弾くにはアレンジも練習も時間が足りなかったから、1コーラス目を二度繰り返すだけで終わらせた。わたしのリサイタルを聴かせるために家族で集まったんじゃないんだし、こんなもんでしょ。
「その曲なんつーんだ? 前にも弾いてくれたっけ、おれ聴いたことあるよな」
お父さんは大げさに拍手して喜んでる。あんたも適当だな。
「あるわけないでしょ、わたししか知らない音楽だもん」
アレンジ込みで言うならこれはほんとだ。参考にする、と言ってたお兄ちゃんは気づいてるだろうか。
ソファに戻って様子を窺おうとするわたしより先に、お父さんが声をかける。
「じゃ似たような曲と勘違いしたか。虎次郎いまのどうなんだ?」
そりゃね、探せば似た曲のひとつやふたつあるだろうよ。歌もないピアノインストだし、わたしにとって他に替えのない曲でもひとにそう聞こえるのは仕方ない。
「知ってる曲ではあるよ。でもこれは初めて聴いたな」
隣りに座るお兄ちゃんはどことなく面白そうにしてる。む。いまので気づいたならほんとに参考にしてるのかもしれないけど、わたしが聞きたいのは感想なのに。テンポ落としたのとかどうだったかな、と思ってるとこっち向いた。バカにされてないと信じたいな……。
「良かったよ、かりん。やっぱりちゃんと教育受けてると出てくるフレーズも違うんだなって思った。いまの感じならテンポもこのぐらいが合ってる。すごいな」
お。やりぃ。お兄ちゃん偉い。ちょっと自信ついたぞ。ご褒美に、ぜんぶ完成したら特別にもう一度だけ聞かせてやるか。
わたしは上機嫌でお茶のお代わりを全員ぶん淹れてあげた。そこからはさっきより和やかなムードで、ロスでお兄ちゃんとお父さんがどうだったとか、わたしの学校や仕事の話なんかでそこそこ盛り上がった。お母さんも今度はところどころ参加してくれて、少しだけ安心した。音楽の力っていいよね。
そのあと会話がもういくつかの段落を数えたところで、お父さんが突然、思い出したように壁の掛け時計を見上げた。
「おお、そろそろいい時間だな。じゃ行くか、虎次郎」
わたしも見るとまだ4時。あれ早くね? 夜10時の便だから、余裕を見たとしても出るの6時で大丈夫なはずなのに。
「だな。持ってくるから待ってろ親父。言い訳考えとけよ」
お兄ちゃんもなに言ってんの。持ってくるって、スーツケースはとっくに荷物詰めて玄関に置いてあるじゃん。それに言い訳ってなんのさ。
「そりゃお前がもう言い訳考えてあるって意味か? しょうがねぇガキだな」
言ってろ、と吐き捨ててお兄ちゃんは2階へ上がる。お父さんはソファを立ち、身体を伸ばしてなぜか準備運動みたいのを始めた。
わたしとお母さんが顔を見合わせて首を傾げてると、お兄ちゃんが手にボクシンググローブを2セット持って降りてきた。
……行くか、ってそれかよ。バカなの?
「あのね、お父さんこれから帰るんでしょうが。ケガしたらどうすんのよ」
あんたらにとっちゃ普通でもこっちはそんなん見たくねぇよ。バトルもの好きだけど、それはフィクションだからであってリアルの殴り合いなんて痛そうなだけじゃん。だいたいなんでわざわざ今日そんなことやる必要あんの。やりたきゃ次回にしろよ誰も見てないとこで。
「お母さんも止めてよ。このバカふたり」
見れば片手で顔を押さえて頭痛そうにしてる。そりゃそうだよな。
「華麟の言う通りよ。おかしなことやめて座ってちょうだい」
「止めるな母さん、これは男の闘いだ。それにせっかく娘がいいとこ見せてくれたんだから、父親だって見せてやらないとな」
だから見たくねぇし男って付ければなんでも……
「じゃ勝手にすれば。どうせふたりとも聞かないんでしょ」
いやお母さん、そんな簡単に受け入れないでよお願いだから。
結局押し切られた。もう知らん。
「3分3ラウンド、1ラウンドで2ダウンかトータル3ダウンで負け。だよな?」
リングというほど広くない裏庭で、軽いシャドーをしながらお兄ちゃんが言う。でかい図体に似合わず、というかわたしの知ってた虎次郎兄ちゃんに似合わず動きは機敏で、帰ってきたばかりの頃にこんなん見てたらなかに違うひと入ってんじゃねぇかと疑いそうだ。
「そりゃ知ってるよ、おれが作ったルールだからな」
お父さんルールとかどうでもいいからやるならやるでさっさと始めてくんねぇかな、と思うわたしがなんでこの暑い縁側でお母さんと一緒に座って見てるかというと、ロスの家と違ってゴング(そいや向こうで見た覚えあるな。バカなの?)がないので、キッチンタイマー片手に時間を計らされるはめになったのだ。
引き受けちゃうわたしもわたしなんだけど、お母さんてなんかそういうの冷静に出来なそうだし。
「じゃアップも終わったし、かりん、ゴングお願い」
だからゴングとかねぇし。
かーん、と投げやりに言ってやると、ふたりは動き出した。
当たり前かもしれないけどふたりとも様になってる。お兄ちゃんは両脇を絞って口元に両手を密着させるピーカブースタイル、対照的にお父さんは両腕にあまり力の入らない、というか構え自体を取ったり取らなかったりする、まぁアリとかレナードとかそういうのを意識してるっぽい感じ。
お父さんが昔集めたボクシングもののマンガがうちには山ほどあって、わたしも読んだからそのぐらいはわかる。女子的にそれどうなのよとは自分でも思うけど、読まないとお兄ちゃんたちの会話に参加出来なかったのだ。
お兄ちゃんはタイソン(身長的に一歩じゃないだろう)よろしく身をかがめて相手を追う。それを軽快なステップで円を描くようにあしらってくお父さんのほうが大きく強そうに見えるのは、構え方だけじゃなくキャリアのせいもあるのかもしれない。このところ頼りがいのある姿を見せてくれなくても、こういうのはやっぱりお父さんのほうが格上なのかな、という気もしてしまう。
お互い最初から倒しに行くつもりはないのか、牽制の左を差し合う以外にはたまに2、3のコンビネーションを思い出したように繰り出すぐらい。お父さんのフットワークが上手なのかインファイトにはならず、1ラウンド目は1発のクリーンヒットもないまま終わった。試合としてはともかく、わたしはそのほうが助かる。
「はぁ、は……どうよ華麟、おれも、まだまだ捨てたもんじゃないだろ」
「いいから休めば?」
歳のせいか息を切らしつつも、軽口を叩くお父さんにわたしはちょっと呆れる。
かたやお兄ちゃんは中腰の膝に両手を置き、黙って息を整えてる。めちゃくちゃガチっぽくてこれもこれで呆れる。まだ一度も勝ってないっていうから仕方ないのかな。対戦ゲームとかでも自分が勝って終わらないと気が済まないタイプだったし……まぁそっちはもともと強かったから、だいたい自然とそうなってたけど。
「あ、1分経ったよ」
インターバルが終わり、ふたりとも構え直す。2ラウンド目もさっきと同じように始まった。お兄ちゃんが低い姿勢のすり足で追い、お父さんが蝶のように、とまで言うと大げさかもしれないけど、ひらりひらりかわしてく。たまにあるジャブの打ち合い、お互い避けたりブロックしたりで、あっても浅くかする程度でまともには当たらない。
ぱっと見はお父さんのほうが華麗でスマートでも、お兄ちゃんも決して弱いというわけじゃなさそうだ。これもう趣味の域を超えてるんじゃなかろうか。つーかこういう方面まで得意になっちゃったらこいつチートスペックすぎんだろずるくね?
試合に動きがあったのは、2ラウンドも残り30秒を切った頃だ。狭い庭が災いしたのか、それともフットワークのパターンを読んだのか、お兄ちゃんが塀際にお父さんを追い込んだ。懐に入って至近距離から上下左右のラッシュ。それをさばくお父さんの顔にも余裕はないのが見て取れる。隙を見てお父さんも打ち返すけど、お兄ちゃんのガードが堅くなかなかちゃんと当たらない。
どっちもまだダメージというほどのものはなくても、見てるこっちの神経がすり減りそう……と思ってると、追い込まれてたはずのお父さんのパンチがお兄ちゃんの脇腹に入った。それまで顔ばかりに打ち返されてたから、とっさに反応出来なかったのかもしれない。
動きの止まったお兄ちゃんへ、今度はお父さんが攻めに回る。歳を忘れたかのような連打にお兄ちゃんは防戦一方となり、塀から押し返されてじりじりと下がる。お父さんは相変わらず真剣な顔ながらも、どことなく余裕が戻ってる。背を向けてるお兄ちゃんの表情はわたしから見えない。またボディに1発、左を打ち返すもかわされ、カウンター気味にもう1発、2発。耐えかねたのか無意識なのか、お兄ちゃんのガードが下がり始める。
あ、それだめなやつじゃね……と思った瞬間、セットしてたタイマーが鳴った。
「ストップそこまで! 2ラウンド終了!」
わたしが大声を出して止めたとき、お父さんはまさに踏み込んで、がら空きの顔面を狙った右を出そうとしたところだった。とっさに狙いを外してお兄ちゃんの肩を軽く叩き、反対側へ離れてく。
あーひやっとした。おかげでちょっとだけ暑さ忘れたよ。
「良かったな、虎次郎、華麟の前で恥かくのは、もう少しだけあとで、済むぞ」
最後のほうは全力だったのだろう、お父さんはかなり息が上がってる。だからムダ口利いてねぇで休めよ。
「……ぬかせ、バテてんじゃねぇか」
そういうお兄ちゃんのほうもかなり疲れてる様子だ。若いといってもいまのダメージはあるだろうし、何発も本気で殴るのってけっこう体力使うらしいし。夏のど真ん中によくやるわ。大丈夫かねこれ。あと3分、大事なく終わればいいけど……あ、1分経った。
「そんじゃ最終ラウンド。かーん」
3ラウンド目も、始まり方はそれまでと似たようなものだった。お互い勝負を焦る気はないのか、それとも2ラウンドの疲れが残ってるのか、しばらくゆっくりとした探り合いが続く。少し拍子抜けしたものの、いつまたさっきみたいになるかわからないので気を抜かずに見守る。こういうのって一度見始めると最後まで観ちゃうじゃん。
そして1分過ぎた頃、さっきの残り30秒と似たような展開になった。お父さんが壁に追い込まれ、お兄ちゃんが飛び込む。目まぐるしい手数の応酬のあと、身体ごとぶつかって動きが止まり、どちらかが突き放してまたぶつかる。
そのうち手数が少なくなって、動きの止まった時間が長くなる。プロのタイトルマッチとかでも最後のほうってこうなること多いよね。まだたったの3ラウンドだけど、アマチュアだし仕方ないのかな。
もうこのまま終わっちゃえばいいのに。判定ならお父さんの勝ちっぽいけどわたしの独断で今日のところはドロー。
タイマーにちらり目をやると、残り1分とちょっと。視界をふたりに戻す。くっついたまま互いに脇腹をこつこつ叩くぐらいで、実際やってると痛いのかもしれないけど見てるぶんには大丈夫そう。早く時間過ぎろ、とまたタイマーに目をやろうとしたところで、
ばつん。
一際大きな打撃音が鳴った。
いったん突き放してからまた身体を寄せようとするお父さんのあごに、タイミングを読んで狙い澄ましたお兄ちゃんのアッパーが炸裂した。たたらを踏んで下がるお父さんにお兄ちゃんは鋭く踏み込み、今度こそとばかりに連打連打。お父さんにかわす余力はないのか、さっきのお兄ちゃんみたいに両手を顔の前にガードを固める。お兄ちゃんは手をゆるめない。
2ラウンドと逆に、顔に当たらないと判断したお兄ちゃんがお父さんの腹を殴る。お父さんもお兄ちゃんの狙いはわかってるのだろう、1発、2発とボディに刺さるパンチにもガードを下げようとしない。3発、4発。お父さんの顔はグローブに隠れたままでも、こんなの痛いに決まってる。
だからいやだったのに。お兄ちゃんの負けるとこなんて見たくないけど、息子が実の、そしてわたしの父親を殴り倒すところだって見たくない。
どうしよう、これもう止めたほうがいいよね?と思いながらもなかなか声が出ないのは、わたしがお兄ちゃんたち言うところの『男の世界』に毒されてるのか。
5発目で、とうとうお父さんの腕も下がり始める。6発。身体が苦しそうに曲がった。このままボディだけでも倒れてしまいそうだ。7発。ガードが空き、身をよじって離れようとするお父さんに、待ってましたとお兄ちゃんが――
「もうやめて! お願い許して!」
わたしより先に叫んだのは、隣でずっと沈黙してたお母さんだった。
「もういいでしょう! わたしが悪かったから! お父さんまでいじめないで!」
とどめの右ストレートをさっきのお父さんと同じようにわざとらしく外したお兄ちゃんが、そのまま腕を下ろしてこっちを向く。お父さんも、よそ見してる相手を打ち返すこともなく、足下を若干ふらつかせつつお母さんを見る。
そこでタイマーが鳴った。試合終了。
殴り合いを終えたふたりは荒い息を整えながら、ひと言も喋らず突っ立ってる。お兄ちゃんは初勝利のチャンスを邪魔されたところなのに、悔しがるどころか、こないだのお墓参りのときみたいにすっきりして見える。お父さんも「男の闘いに冷や水ぶっかけやがって」とか言うと思ったのに、目尻を下げて少し楽しそうだ。
言いたいことあるならなんか言えよ。やっぱわたしに男の世界わかんね。
待っててもらちが開かないし、もうわたしが言いたいこと言ってやる。だっていまのスルーしちゃだめだろ。このひと目赤くして自己完結とかほんと勝手だな。
「……あのねぇ、お母さん、いじめってあなたがどの口で」
「わかってるわよ!」
とはいえヒステリー起こされたくはないので気をつけて柔らかい口調で諭そうとしたのに、食い気味で撥ね返された。いやちゃんと最後まで言わせろ、
「そんなこと娘に言われなくたって、わたしが虎次郎をいじめてたって、龍一もわたしが追い詰めたって! わかってるわよ! でも仕方ないでしょう!」
っつーか。……わかってたのかよ。仕方ないじゃねぇよ、わかってたならちゃんとしろよ。あんたわかっててあれやってたんなら、やられる子供がどう思うかぐらい考えろよ。
お兄ちゃんのほうを見ると、呼吸は落ち着いてきたようだけど表情は変わらず。お父さんも同様だ。いい加減なんか言えよこっちにまで男ルール適用しようとすんなよな? うちの連中どいつもこいつもめんどくせぇな。
そこにお母さんが続けた。
「だって虎次郎は、わたしに一度も心を開いてくれなかったじゃない」
あ……。
わたしは返す言葉に困ってしまう。……それはまぁ、そうなんだけど。そこは正直どっちもどっちだな、って思ってた部分もあるけど。
虎次郎兄ちゃんは昔からお母さんにあまり懐いてなかった。会うたびに褒められまくってたせいか、小さい頃はお婆ちゃんっ子だった。お母さんは手のかかる龍一兄ちゃんの心配ばかりしてたので、やきもちを焼いたわたしが隙を見て膝の上を占領したりもしてた。
虎次郎兄ちゃんが甘えなかったのは、気を遣ったつもりもあったかもしれない。けど察しの良すぎる子供ってのにかわいげがないのも確かだ。
ある程度成長してからは、もうお母さんがあんなふうになっちゃったから、虎次郎兄ちゃんとしては自衛のために壁を作るしかなかっただろうし。しかもすぐ泣いてたくせに説明もしてくれないので、わたしですらどう手を差し伸べればいいかわからず呆れてほったらかしにしたこともあった。
最初から難しい関係を築いてしまったお母さんの立場にしてみれば、なおさら手に負えなかったのだと言われても無理はない。
もうわめこうとはせず、お母さんは切れ切れに呟く。
「いつも華麟ばかり頼って……子供に信用してもらえない親の気持ちが、どんなものだと……」
あれ、どういうことだろ。お兄ちゃんがわたしのことを頼ってたと自分では思えなくても、世話を焼こうと構う姿は親の目からそう見えてしまったんだろうか。
「ごめんな、母さん」
気づくと、お兄ちゃんがお母さんの前に立って見下ろしてた。表情に険はない。お母さんも顔を上げ、ふたりの目が合う。
「おれが、ちゃんと頼ろうとしなかったのがいけないんだ」
……そうなのかな。わたしと同じように、お母さんもそれが悔しかったのかな。だとしたら目の前に立たせて言ってた重箱の隅をつつくような小言も、お母さんなりに本音を引き出そうとしてたつもりだったのかも。そのやり方はどうあれ。もしかしたら、虎次郎兄ちゃんの話になるとわたしをのけ者にしてたのも……。
なんかお母さんとわたし、案外似たものどうしなのかな。お父さんとお兄ちゃんみたいに。
お兄ちゃんはその場にしゃがみ込み、今度は見上げる格好となる。
「でもこれだけは信じて欲しい。母さんにとっておれがなんだろうと、おれにとって母さんはひとりしかいない」
それからグローブをはめたままお母さんの手を取って握った。
「だからもう恨んでないよ。おれのことも許して。兄貴だって、こんなのを望んで死んだわけじゃないんだ」
そうだ。
そうだよ。龍一兄ちゃんが早すぎる死を選んだのは、家族をバラバラにするためじゃない。
――でも出来れば母さんを許してやれ。
虎次郎兄ちゃんを、わたしを、そしてお母さんを守るためだ。
顔を覗き返すお母さんの目から、だんだん暗い色が晴れてくような気がする。
「虎次郎……ほんとうに……?」
お兄ちゃんが微笑んで頷く。目尻が下がって少しお父さんみたいだ。
男の約束が、2年半越しで果たされようとしてる。
「ほんとうだよ。自分の母親のことを、そんな簡単に嫌いになれるわけないだろ」
お母さんは目を逸らす。空いたほうの手で顔を覆い、声が崩れ始める。
「っ……わたしだって……そうよ……自分の、子供だもの……」
なんだ、そういうもんなのか。だったら最初からそう言えば良かったのに。
「あなたが、許してくれるはずないと思ってたから……っ……この前も……」
「ごめんな」
口癖のように謝罪を繰り返すお兄ちゃんに、ここで文句を言おうとは思わない。母子の歴史にとって、これがすごく重要な1ページだってことぐらいわかる。
だからお母さんも早く。
「……ごめんなさい、虎次郎……お母さんが、悪かったわ」
やっと言ってくれたね。おめでとお兄ちゃん。
グローブにしわが寄ったのは、お兄ちゃんの手を握り返したのだろうか。ただでさえ大きな手にそんなのはめてるせいで、お母さんの手はすっかり隠れてしまってる。これじゃほんとにどっちが子供かわかんないし。まったく、お兄ちゃんてばいいカッコしすぎ。
「よし、じゃ戻るか」
ここまで無言だったお父さんも近くにきて、わたしにお兄ちゃんがやるみたいにお母さんの頭へ手を乗せた。わたし同様このひとも出番なかったな、と思うけど、こういうしんみりしたのが似合うひとじゃないし。ただ普段と違う笑顔は、虎次郎兄ちゃんの、いたずらが成功したときのやつに少し似てる気がした。……いやあんたなんもしてないよね?
わたしたちはリビングに戻り、お兄ちゃんはこないだ墓地でわたしに聞かせたのと同じ話を両親に伝えた。もう内緒にする理由もないし、お父さんの帰る前ぎりぎりで間に合ったのは、まさしくケガの功名というやつだろうか。
お母さんにとって厳しい話だったと思うけど、本人の言った通りほんとはわかってたのか、不機嫌になるようなこともなく最後まで大人しく聞いてた。どちらかと言えば、ときどき深いため息をこぼしたお父さんのほうが苦しそうに見えた。男のなんちゃらが大好きなお父さんにしてみれば、龍一兄ちゃんが最後の最後で家族を守るために頼ったのが自分でなかったことが響いたのかもしれない。
「ほんとうに、済まなかったわね」
話し終えたお兄ちゃんに、お母さんが深々と頭を下げる。
「もういいよ母さん、頭上げて。おれも悪かったんだ。婆ちゃんにおだてられて調子に乗ってたのかもしれないし……ずっと黙っててごめん」
それを遮っておきながら、お兄ちゃんも頭を下げた。お父さんが割って入る。
「ふたりとも、もういいだろう。もとはと言えば、お袋に強く言えなかったおれのせいだ」
「それは間違いないな。親父はもっと反省しろ」
きつい言葉にも、悪意の色は感じられない。わたしはそれを見て、このふたりはほんとに大丈夫なんだな、と思う。早くお母さんともそうなってくれたらいいな。それから……まぁそれはさておき。
「今日はそのへんでいいんじゃん? 今度こそ、そろそろ行く時間でしょ」
時計を見ればもう6時が近い。家族揃って仏壇にお線香をあげ、溜まった仕事に取りかかるお母さん(これは言い訳じゃなかったらしい)を残してわたしたちは家を出た。
「そいやお父さん大丈夫なの? あご」
強烈なのを1発もらってたことを思い出して尋ねる。お腹はたぶん1食か2食抜くぐらいで済むだろうけど、顔はやっぱり気になるし。いやその心配の仕方もどうかと思うけど知らん。グローブはアマチュア用のスポンジ柔らかいやつだったとはいえ、ヘッドギアどころかマウスピースもなしに殴り合うとかこいつらほんとバカだよな。
「余裕だ。虎次郎ごときのパンチでやられるほどヤワじゃないからな」
お父さんは強がってるけどあれはそうとう痛そうだった。あんなふうに殴られたことなんてないから実際どんなもんかわからないけど、見た感じだとあそこで倒れなかったのがすごいんじゃないかって思う。
「嘘つけ。完全に効いてたじゃねぇか」
駅への道すがら、スーツケースを引きながら歩くお兄ちゃんが背後からツッコミを入れた。お父さんも肩越しに振り向いて返す。
「そりゃ打ち合わせしたからな。演技派だろ?」
演技にしても痛そうだったけど……いや打ち合わせってなによ。
「そうだけどよ。でも効いてたろ」
「……まぁ、ちょっとはな」
ふたりはわたしの疑問を置いてけぼりで、男どうし仲良さそうにする。だからそういうの、事情わかんないひとに失礼だって気づけよな?
「ねぇ打ち合わせってなんなのよ?」
八百長だったってこと? なんのために……あ。最後のあれか。
「おお、悪かったな華麟、黙ってて。実はな」
お父さんはさっきみたいな笑顔を見せる。わたしに顔を向けながらも視線を一瞬だけ後ろにやったので、わたしも気になって振り向く。するとお兄ちゃんも同じように、いたずら成功な顔をしてた。なんだよ、やっぱ似たもの親子じゃん……
……で、想像した通り、お母さんが止めに入るのを期待した芝居だったわけだ。わたしにピアノなんて弾かせたのも、場を盛り上げて少しでもお母さんのガードを揺さぶるため。
でもそれってけっこういい加減な計画じゃね? 上手くいったのなんてたまたまじゃん。
「それさ。結果オーライだからいいけど、もしお母さんが止めなかったらどうなってたわけ? あのままKOしてたの?」
「そのつもりだったよ。それはそれで勝ちだし」
お兄ちゃんは何事もないように言う。それって勝ちなのかよ。違くね?
「ほらな華麟、聞いたか? お前の兄貴はこういう奴だぞ。狙い通りなら母さんと和解成立、それがだめでもおれをぶっ飛ばして、どっちにしろ妹の前でいいとこ見せられたって寸法だ。ほんとせこい野郎なんだよ」
あぁつまんねぇつまんねぇ、とお父さんは嬉しそうにぼやく。
なるほど言われてみれば、確かにその王手飛車取りなやり口はゲーム得意な虎次郎兄ちゃんらしい。乗ってあげたお父さんも、父親らしく頼れるところを息子に見せたかったのだろう。不器用かもしれないけど、そういうのはわたしも嫌いじゃない。やるじゃんお父さん。
「次は実力で勝つっつーの。待ってろ」
ネタばらしされたお兄ちゃんはちょっと照れ臭そうだ。このまま勝たせっぱなしも癪だし、いい機会だからたまにはいじめてやるか。ひひ。
「そっか、お兄ちゃん、わたしにいいとこ見せたかったんだ」
振り向いて後ろ歩きに言った。お兄ちゃんは一転、いつも見せる優男っぽい微笑をわたしに向けてくる。
「そりゃね。おれはかりんの兄貴だからさ」
それを見てから、目いっぱい不機嫌な表情で返してやる。残念でした、お兄ちゃんのそんな顔、もうわたしには通用しないもんね。
「ふーん。でも父親殴るとこなんてぜんぜんいいと思わないし。つーかダサい」
もちろん不機嫌は演技で、例によってわたしには事前に教えてくれなかったことへのこれは仕返し。お兄ちゃんは所在なさげに頭を掻き、うひゃひゃひゃ、と下品にお父さんが笑う。
「言われちまったな虎次郎。ざまぁみろ」
「息子を殴る父親もだからね。どうしてもやりたきゃよそでやって」
お父さんにも釘を刺すのは忘れない。揃って肩をすくめ、目を逸らしてとぼけた顔してるバカどもを楽しく眺める。
さてと、じゃ一番言いたかったこと言うか。
「でもカッコよかったよ。ふたりとも」
殴り合う姿じゃなくて、優しいところがね。