第3章 (1)
お父さんの帰国する日がやってきた。
おれひとりでいいのにと繰り返すお兄ちゃんを無視して、わたしも迎えの電車に乗ってる。一刻も早くお父さんに会いたいというわけじゃない。家族揃って顔を合わせるだろう今夜を、ただ座して待つのがいたたまれなかったのだ。
「親父もアホだよな。何度も帰ってきてんだから、帰省ラッシュの時期に羽田とか無謀だっていい加減学習すりゃいいのに」
お兄ちゃんの口調はいつになくチャラい、というか年相応だ。家で話すときも、お父さんの話題になるとこういうときがあった。きっとお父さんとは普通の関係を築けたってことなんだろうな、と、わたしは安心すると同時に少し悔しい。
「成田も大して変わんないんじゃないの?」
この時期の羽田、及びそこから品川まで、ときに山手線で新宿までの混雑っぷりはわたしもよく知ってる。とはいえ成田だって混んでるだろうし遠いんだし、所要時間を考えれば羽田のほうがマシな気もする。
「成田だったらエクスプレスで新宿まで楽だろ」
「あ、そっか」
実際こないだお兄ちゃんを迎えに行ったときもそうしたのだった。ここで言うエクスプレスとは成田エクスプレスという名の、成田空港駅から出てる特急列車のことで、全席指定の上にスーツケースを置くスペースまであって(用途を考えれば当然か)とても快適。
ただあのときは、このバカの変貌っぷりにわたしが混乱してそれどころじゃなかったから、楽だったというふうには記憶してなかった。
「そう思うなら言ってあげればいいじゃん」
「何度も言ってる。なのに毎回ロスに戻ってくるたび『まったく潰れるかと思った、でもまぁ日本は仕方ねぇよな』って反省しないんだよ」
アホだよな、と口悪く繰り返すお兄ちゃんを見ながら、いつもこれでいいのに、と思う。気取った喋り方もいまは似合うけど、もともとわたしが会いたかった虎次郎兄ちゃんはこっち。そんでこないだの納豆みたいなのがあったり、軽い憎まれ口を叩き合うぐらいの兄妹をやり直すつもりだったのに。あれ楽しかったな。
「かりん、そんな見つめられたら照れるよ」
腹を殴った。電車の中だから手加減したけど硬ぇよ鍛えすぎなんだよ。
「だからそういうバカ人前で言うなっつーの。殴られるのわかって言ってるよね、まさかこれご褒美なの? 目覚めちゃったの?」
「目覚めてないけど。いいよ、せっかく頑丈になったことだし。兄貴なんて妹になめられてるぐらいでちょうどいいと思わない?」
そんなのぜんぜん思わない。ちゃんと尊敬させろ。
「……それでよくわたしのこと助けるとか言えたもんだよね」
だからこれは買い言葉。でもお兄ちゃんに売り言葉の自覚はないんだよな。
このひとがなんでこんなに妹を甘やかしたいのか、いまもってさっぱりだ。
家事にしたって自分が一番ヒマだからと前に言ってたけど、宿題を終えたいまならわたしも時間はあるのに手伝わせてくれない。
料理はお兄ちゃんのほうがだいぶ上手なので、もう少し頼っちゃおうかなと思うものの、掃除なんかはわたしのほうが手際よくても「ここで甘えたらおれの腕が上がらないだろ?」と譲らず、アドバイスまでしかさせてくれないのだ。
「助けるよ。でもおれが勝手にやることだから。かりんが気にすることじゃない」
ほらね。わたしにお兄ちゃんの気持ちはわからないけど、お兄ちゃんもわたしの気持ちわかってないの知ってた。昔もよくこういうの言われたから。でもさ。
「お兄ちゃん」
改めてその顔を見る。先月買ったパンプスのおかげで、目線の高さはそんなに変わらない。お気に入りだってのもあるけど、ふたりで出かけるときにこれを履くのはこのためだ。それもきっとわからないんだろうな。
「そういうの、傷つくよ」
わたしは今日、普段よりナイーブになってるらしい。
「そっか。ごめんな」
そうやってすぐ謝るけど、どうせこのひとはなにもわかってない。
羽田に着いてしばらく待ったのち、大きなスーツケースを引いてお父さんがやってきた。
自慢だけどうちのお父さんは半分ちょいワル、半分ダンディみたいな伊達男で、子供の頃はうちに呼んだ友達からよく羨ましがられたものだ。
もう40代なのに、今日も輪郭をシャープに見せるよう絶妙にトリムされたあご髭に加え、白のパナマハットを少し角度つけて被り、シルクのシャツにサマーベストなんて格好が普通に似合う。若い頃はさぞモテたに違いない。お母さんよくこれと結婚出来たな。
「よっ。華麟、ただいま。また綺麗になったな」
そう言って頭をなでてくるけど、ちょっとお父さんに弱いわたしは手を払わずになすがまま。でもお兄ちゃんの手前、一応文句は言う。
「もう子供じゃないんだから。いつまでそういう扱いなのよ」
「なに言ってんだ、いくらでかくなっても嫁に行くまでは子供だ」
お父さんはお兄ちゃんほどには背が高くない。わたしより5、6センチ高いぐらいなので、いまはヒールのせいで、若干わたしの目線が上になってる。
「そういや彼氏は出来たか? いるなら紹介しろよ、殴るから」
頭の手を下ろし、満面の笑顔で言われた。目尻が少し下がってしわが寄る。
こういうのを見ると、やっぱお兄ちゃんも若いな、なんて思ったりもする。冗談をちゃんと冗談として、表情や空気で伝える術は歳の功というやつだろうか。なおこれは毎度お馴染みのやりとりなのだけれど、スルーも出来ないのでわたしは口をとがらせる。
「娘にセクハラしないでよ。それにいたとしても会わせないから。殴るとかお父さんが言うとシャレにならないし」
腕の太さはお兄ちゃんと同じぐらい。歳のくせに相変わらず筋肉質で、なんというか年期の入ったいかつさだ。学生の頃はボクシングをやってて、大会とかでもそれなりにいいとこまで行ったらしい。シャレにならないとはそういう意味。
「遠慮すんな。娘を奪いにきた若造を叩きのめすのは父親のロマンだからな」
むしろあんたが遠慮しろ。男のひとってどうしてそういうのが好きなんだ。男兄妹で育ったバトルもの好きのわたしは理解のないほうじゃなくても、やっぱり男のロマンというやつはしばしば意味不明で悩まされる。脳の構造が違うんだろうか。
「そういうこと言ってるうちは絶対に連れてこないから。悪いけど」
右手薬指にはめたピンクゴールドのリングがお父さんにも見えるよう、わたしはわざとらしく髪をかき上げた。残念なことに自分で買ったものだけど、これを見越して仕込んできたのだ。娘だからっていつまでもおもちゃにされてると思ったら大間違いなんだからね。
「……え、ちょっと待て。まさかほんとにいるのか? おい虎次郎どうなんだ」
ふふふやっぱ目敏く見つけたか。まったくもうお父さんてばうろたえちゃってかわいいな。お兄ちゃん邪魔したらこのリングで鼻殴る。
「知らね。そんな気になんなら探偵でも雇えよ」
よしナイスアシスト。わたしの意図が伝わったのか、平然とお兄ちゃんはとぼけて見せた。しかしわかってたけどあんた芝居上手ぇな。
「な、いるのか華麟。怒らないから正直に言ってくれ」
お父さんはほとんど拝み倒す勢いで、わたしの両肩を掴む。笑いがこぼれそうになってきたのがばれないよう、わたしはその手を外して背を向けた。
「ほら、いいからもう行くよ、お母さんだって待ってるんだから」
「そうだな、おれも晩飯の用意あるし。親父、ショックなのはわかるけど諦めろ。こんないい女にいつまでも彼氏いないとかそっちのほうがおかしいだろうが」
「お前な、華麟に彼氏だぞ? なんでそんな落ち着いてられんだよ」
「いるならいるでしょうがねぇだろ。連れてきたら叩きのめすけど」
「あんたらほんと親子だな!」
結局そんなどうしようもないやりとりは、家へ着くまで続いた。
お兄ちゃんは晩ご飯の支度を始め、お父さんは部屋で仕事してるお母さんに挨拶したあと、リビングに降りてきてわたしと一緒にお茶を飲んでる。
お母さんもこんな日まで忙しくすることないのに、と思ったものの、このあとのイベントについて感じてるだろう重圧はきっとわたしの比じゃないので、ぎりぎりまで降りてこないのも仕方ないと考えることにした。
「そういや華麟、あれ慣れたか?」
と言ってお父さんはダイニングのほうへ首を振った。あれって?……あれか。
「まぁね。最初はびっくりしたけど」
「だろうな。虎次郎があんないい男になるなんておれだって思わなかった。顔だけは最初からおれに似てたけどな」
自画自賛かよ。わたしもそう思ってたけどさ。
「先に言ってくれてたらよかったのに……でも見た目はもう慣れた。それよりあれ昔からあんなシスコンだったっけ? あいつロスにいるときもずっとああいう感じだったの?」
お父さんは興味深そうに微笑む。
「うん? ……そうだな、ある意味ではそうだったんじゃないか? あいつ華麟にずっと劣等感持ってたみたいだからな」
なんじゃそりゃ。外見のことはあったにしても、それだけでそんなんいつまでも持たれたらこっちはたまったもんじゃないっつーの。ほんとひとの気持ちわかんない奴だな。
「あとは罪悪感だろうな」
え?
「……まぁ、おれと母さんのせいだ。お前のせいじゃない」
急に声が沈んだ。それって……。
「さてと。茶も飲んだし」
お父さんはソファから立ち上がり、リビングの隅にある仏壇の前に座る。
遺影はふたつ。厳めしい表情の年老いた女性のと、もうひとつはわたしと同年代ぐらいの、ちょっと不良っぽい、でも甘い顔の少年が笑ってるもの。
「お袋と龍一に線香あげなきゃな」
そろそろ、長い思い出話をするときが来たようだ。
3年前の冬まで、わたしたちは3人兄妹だった。
龍一兄ちゃんはわたしより3つ年上で、虎次郎兄ちゃんと違って最初からカッコよかった。
スポーツ万能で木登りなんかも上手く、小さい頃は3人で遊んでてもひとりでさっさと高いところへ昇って見下ろしながら笑ってたりした。でも女子に優しくて、そんなときはわたしの手を引き上げて同じところに連れてってくれて、足下のおぼつかないまま取り残された虎次郎兄ちゃんがよく半べそかいてた。
工具の扱いが得意で、お父さんと一緒にのこぎりやドライバーなどをいろいろ駆使して日曜大工で椅子や棚を作ったりした。自転車のパンク修理もお父さんがやってたのを見てるうちに自力で出来るようになってしまったので、わたしも虎次郎兄ちゃんもお父さんがいないときはよく直してもらってた。
運動会のリレーでは毎年アンカー、昼休みにクラスメイトとサッカーとかやってたりしても大活躍だった。それでいて気の利いた冗談もすぐ思いついて、ひとを笑わせるのも上手かった。勉強はぜんぜん出来なかったけど、友達も多くていつもクラスの中心だったらしい。
当然女にもモテて、小5のときにはもう彼女がいた。それどころか6年生のときにはうちでエッチしてるのがばれて、相手方の両親を交えた家族会議になったことすらある。余談だけどこのときお父さんが激怒して龍一兄ちゃんを殴ったのは半分演技で、あとでこっそり避妊具を渡してたというのを聞いたときは呆れた。
そんでそういうタイプの例に漏れず、中学に入るとだんだん悪い遊びを覚えた。なお国立に住むようになったのはわたしが中学に入る年からだ。住人の名誉のために地名は伏せるけど、それまでは東京でもだいぶ西のほうの、あまり柄のよろしくない土地に住んでた。
そういうところではいまでも普通にヤンキーという人種が存在して、龍一兄ちゃんは盗んだバイクで走り出したり校舎の窓ガラス割ったりコンビニでたむろしてたりした。2、3ヶ月に一度は警察署から「お宅のお子さんを保護してます」と電話がかかってきて、その頃住んでた団地には友達が集まって騒ぎ、見かねて注意したお母さんを蹴り飛ばしてあとからお父さんにぼこぼこにされたりもした。
相変わらずモテて、気が多かったのかしょっちゅう替わる彼女をよくうちに連れてきてた。わたしは小学生当時から目立つほうで、しかもわりと龍一兄ちゃんに似てたこともあり、彼女さんたちはたいていわたしのことをかわいがってくれた。
綺麗なお姉さんたちに褒められるのは悪い気しなかった一方で、当時はチビデブのキモじゃなくてもオタの虎次郎兄ちゃんが「弟くんぜんぜん似てないよね、なんか暗いけど大丈夫?」とか言われたりすると悲しかった。
そんなときいつも龍一兄ちゃんは「あいつはおれと違って頭良いから大丈夫」と言うのだけど、それ女にとってはなんのフォローにもなってないよな、と小学生ながらませたことを考えたりしたものだ。
虎次郎兄ちゃんはその逆だった。運動はさっぱりで、リレーどころか徒競走でもいつもビリだし、泳げるようになるのも年下のわたしより遅かったぐらいだ。友達がまったくいないわけじゃなくても、休み時間に野球やサッカーをやるようなときはいわゆるみそっかすだったのが外から見ててもわかった。
でも最初から暗くはなかった。いたずら好きで、トイレットペーパーの向きを逆さにセットしたり、誰かの持ち物を予想外の場所に隠したりした。
ただひとを笑わせるのは下手だったと思う。予告も説明もなしにそういうことをするので、わたしや龍一兄ちゃんも困って腹を立てることがあったぐらいだから、友達にとっては単に迷惑なだけだったかもしれない。
もちろんモテなさそうだった。バレンタインのチョコだって義理すらわたし以外から一度ももらえなかったみたいだし。
その反面ゲームはやたら上手くて、龍一兄ちゃんもわたしもぜんぜん敵わなかった。手先の技術以上にシステムの分析をしたり戦略を考えるのが得意で、ごくたまに友達を呼んで対戦や多人数型プレイをするときだけはヒーローだったのをわたしは得意げに見てた。そんな虎次郎兄ちゃんがオタになったのは自然のなりゆきだったのだろう。
知っての通り、勉強は過剰なほどに得意だった。小学校に上がる頃にはかけ算九九どころか分数の計算まで出来たし、絵本を読むようにお父さんの本棚にある小説を読んでたりしたので漢字が読めないこともなかった。
辞書を引くとか調べものをすることが苦にならない性格だったせいか、大人でもあまり知らない雑学知識を10歳にならないうちからさんざん溜め込んで、頼んでないのにそれを聞かされたりした。
と同時に芸事にも達者で、歌やピアノはおろか書き初めで金賞をもらったり美術の時間に書いた絵が教科書に採用されたこともある。宿題をサボりたかった龍一兄ちゃんがまだ小5の虎次郎兄ちゃんに書かせた作文が、市の読書感想文コンクールの中学部門で入選したときのお母さんの顔は娘の目から見てもひどかった。
何度もコツを訊いたけど、「本質はだいたいみんな一緒なんだよ」と言われてもさっぱり意味がわからなかった。もちろんいまでもあまりよくわかってない。
まるで正反対のふたりだったけど、部屋で一緒にゲームしたりテレビやマンガの話で笑ってたりして兄弟仲は良かった。龍一兄ちゃんは基本的に面倒見よく頼りがいがあったし、虎次郎兄ちゃんもそれを慕ってた。
わたしもそこに交ざってはいたものの、どうしても女子の感性ではついていけない部分があって寂しい思いもした。
それが表面上の話。
故人のことである以上これが真相だとは言い切れないけど、龍一兄ちゃんの死について語るためには、まずお婆ちゃんの話から始めなきゃならない。
お婆ちゃんというのはお父さんのお母さんのことで、虎次郎兄ちゃんはその血を濃く引いたのか、ものすごく勉強の得意なひとだったらしい。
家があまり裕福ではなかったので、せっかくの学力を活かそうと奨学金でレベルの高い有名なお嬢様学校に進学することにした。
ところが法的な身分制度はなくなったとはいえ戦後さほど経たない時代、貧相な身なりをしたお婆ちゃんは壮絶ないじめに遭ったという。スクールカーストなんて言うけど、お婆ちゃんが目の当たりにしたのは本物の、社会に半ば許容されたカーストだ。どんなことがあったかは想像がつく。あるいは想像以上か。
そこで挫折しなかったことだけは褒めたいと思う。ただトラウマを刻まれると同時に、貧乏でも勉強が出来れば上流階級に肩を並べられるという歪つなプライドをこじらせてしまったお婆ちゃんは、結婚後も財テクを学んで株や不動産などでお金を溜めた。
そして生まれたひとり息子、つまりお父さんにも同じ人生を歩ませようとした。
でもお父さんは勉強こそ苦手でなかったものの、過激な教育ママとなった母親と折り合いがあまり良くなかった。現在に通じる遊び人気質がもともとあって、単に人間としてそりが合わなかっただけかもしれない。
反発心からか、お父さんは高校を卒業したらすぐ就職して社会に出ようとしてたのだけど、車でもなんでも買ってあげるから、との誘惑に負けて大学まで行った。
問題はここから複雑になってく。お爺ちゃん、つまりお婆ちゃんの夫は妻のそういうところが辛くなったらしく、責任はもう果たしたとでもいうように、お父さんが大学を卒業する前に若い愛人を作り出てってしまった。
お父さんはその後も連絡を取ってたのかもしれないけど、まだ生きてるかどうかすらわたしは知らない。お婆ちゃんは自分に充分な蓄えがあるから気にしなかったのか、その後ずっとひとり暮らしだった。
あとは学歴も財もある息子が良いとこのお嬢様と結婚して家の格(しょうもないと思うけど、昔のひとにはそういう考え方があるようだ)を上げるだけ、と見合いなどいろいろ画策してたらしい。
そこにあっさりお母さんと結婚されてしまう。以前言った通り、お母さんの家はかなり貧しかった。子供の頃に父親を亡くして母子家庭で育ち、さらにそっち方のお婆ちゃんはわたしたちが生まれる前に過労で身体を壊して亡くなってる。
自分の若い頃の仇を取りたいという望みを打ち砕かれたお婆ちゃんは怒り、ふたりに何度も離婚を迫った。対してお父さんとお母さんは、当たり前だけど譲ろうとしなかった。
やがて龍一兄ちゃんが生まれる。しばらく経つと、お婆ちゃんが折れる形で一応は和解し、ほとんど駆け落ち状態で安アパートに暮らすふたりと赤ん坊を国立の家に呼んだ。
お父さんもお母さんもよくそれに応じたなと思う。でもまだ若い夫婦が子供を育てる苦労はわたしにはわからないし、初孫の成長を近くで見たい、という気持ちにほだされてしまったのかもしれない。
ところがお婆ちゃんは野心を捨てたわけじゃなかった。息子夫婦のことを諦める代わりに、孫の龍一兄ちゃんを育ててやり直すことにしたのだ。
自身の経歴を盾に、中卒のくせにうんぬんとか心ない中傷をお母さんに浴びせて子供を半ば取り上げ、2歳になる頃には机に向かわせ英才教育を始めた。
世話になってる負い目もあって学歴コンプレックスのお母さんは勉強の話をされると手も足も出ず、お父さんも経験から「そんな思い通りにいくもんじゃないってそのうちわかる」と最初の頃はほっといたという。
そして誰にとっても思い通りにならなかった。
適応障害というものがある。過度なストレスが引き金となって周囲の環境、とりわけストレスの原因に対し脳がパニックを起こす症状だ。問題を間違えるたびに罵られ、手や頭を引っぱたかれ、泣くのも構わず机の前に座り続けさせられた末に、龍一兄ちゃんは『勉強という行為』に関してそうなってしまった。
これは『頑張ればどうにかなる』といった種類のものじゃないそうで、勉強部屋に呼ばれるだけで暴れ出したり、用意してある鉛筆を片っ端から折ったり、解放されたあとには自分の服をハサミでめちゃくちゃに切り裂いたりした。
その一方で、青春時代の艱難辛苦を忘れられないお婆ちゃんは龍一兄ちゃんの態度を甘えと断じ、孫の覚えが悪い理由を息子の嫁に求めた。
「お前の汚い血が混ざったせいでこんな子が生まれたんだ」と親子ともども罵倒された話をしながら涙を流すお母さんの姿を思うと、のち起こったことについて許せなくても、面と向かって責めるのはわたしには難しい。
ここに至ってようやく、両親も子供たちをお婆ちゃんの手元から引き離すことを決める。当時龍一兄ちゃんは3歳、虎次郎兄ちゃんが1歳でわたしはまだ生まれたばかり。
不幸の連鎖も始まったばかりだ。手のかかる盛りの子供3人を抱えて新しい生活を始めた両親は、親元で家計的に楽をしてたのもあって、やりくりに苦労するようになった。
お父さんは昼の仕事に加え夜もバイトするようになり、ほとんどひとりでわたしたちの面倒を見たお母さんは長男の適応障害による学習困難もあって途方に暮れ、深刻な育児ノイローゼに陥った時期もあったという。
ほんとはお婆ちゃんに会うのもいやだったろう。でも急な出費が重なったりしてどうしても困ったときは他に親類がいない以上頼らざるを得ず、たまには孫の顔が見たいと言われれば、いつまでも断り切れなかった。
龍一兄ちゃんと逆であっという間に勉強のコツを覚えた虎次郎兄ちゃんは、お婆ちゃんの大のお気に入りだった。机の前に兄弟座らされても事情のわからない虎次郎兄ちゃんは構わず、調子に乗ったのかいやがる龍一兄ちゃんを助けようとでもしたのか、そのぶんの問題集にまで手をつけ始め、いまに続くでたらめな学力をすくすく伸ばしてった。
虎次郎兄ちゃんを溺愛するようになったお婆ちゃんは龍一兄ちゃんに勉強させるのをやめ、というよりは見捨て、またわたしに対してはその二の舞を恐れたのか、それとも自分のお金を残せれば女子にさほどの学力は必要ないと考えたのか、無理なスパルタを施さなかった。
このあたりまでくるとわたしにもおぼろげながら、家族5人でお婆ちゃんの家に行くとすぐに連れていかれる虎次郎兄ちゃんの記憶がある。両親がどんな気持ちでそれを眺めてたのかは知らないけど、いま思えば虎次郎兄ちゃんは生け贄にされたようなものだ。
龍一兄ちゃんに続いて虎次郎兄ちゃんも小学校に上がると、さっぱり授業を聞こうとしない兄に手を焼いた先生たちが、こぞって弟を褒めそやした。保護者同士の集まりなんかでもよく話題に上ったようで、お母さんが虎次郎兄ちゃんに冷たくなるのはこの頃からだ。
バカな子ほどかわいいなんて言うけど、龍一兄ちゃんのそれは明らかな人災だ。お母さんにしてみれば、なんとか疵を癒そうと手をかけてる長男より、お婆ちゃんの英才教育の結晶である次男がちやほやされるのは我慢ならなかったのだろうか。ずさんな龍一兄ちゃんと違って忘れものもしなかったし、服なんかの整理整頓も言われる前から自分でやる、手のかからない子だったというのもそれに拍車をかけたかもしれない。
でもわたしにとってお兄ちゃんたちはふたりそれぞれ自分にないものを持ってるすごいひとたちだったから、学校で先生たちに「真ん中のお兄ちゃんはすごいね、見習いな」と言われるのも、家でお母さんが「勉強だけ出来てもろくな大人になれないんだから」と言うのも釈然としなかった。
若いうちはそういうもんだと言われちゃいそうだけど、いまでも大人の物差しが信用出来ないせいで、ほんとに大切な夢とかは両親にも打ち明けたくならない。
わたしが3年生から4年生になる頃、長いひとり暮らしのせいかお婆ちゃんが呆け始める。週に何度もうちに電話をかけ、混乱した記憶でお母さんと龍一兄ちゃんをなじった。わたしがそういう電話を受けてるとお母さんは受話器を取り上げ、離れててもその向こうから聞こえる、虫酸が走るような悪口を辛抱強く聞いてた。
そのまま辛抱してくれたら良かったのに、と思うのはフェアじゃないのかもしれない。でもそういう日の夕食にはたいてい虎次郎兄ちゃんの嫌いなおかずを並べ、食べたくないとゴネる息子に「勝手にすれば、一食ぐらい抜いてもそのお腹なら大丈夫でしょ」なんて言うのは母親としてやっぱりどうかと思う。
泣いて悔しがる虎次郎兄ちゃんに「飯食ってるときに泣いてんじゃねぇよ」と言う龍一兄ちゃん、「お母さんがせっかく作ってくれたものを食べないなんて失礼だろ」と言うお父さん、それぞれの気持ちもわからなくはなかったけど、誰にも味方してもらえない虎次郎兄ちゃんを見てられず、一度ならずわたしも夕食をボイコットしてふたり、お小遣いで買ったお菓子をつまみながら慰めたりした。
その頃のお母さんはお婆ちゃんの電話に加え中学で不良になった龍一兄ちゃん、お母さんの態度に腹を立てたのもあって反抗期が始まったわたしと重なって心をすり減らし、心療内科に通院してたぐらいなので、お父さんは虎次郎兄ちゃんへの八つ当たりに対してあまり強く咎められなかったという。しかもその原因が自分の母親なのだから、いくらラテン気質とはいえ、お父さん自身も参ってたのだろう。
お母さんだけでなく、虎次郎兄ちゃんの様子もおかしくなり始めた。いつも爪を噛み、一度など自分で親指の爪をはがしてしまった。血まみれの手を押さえる姿を心配しても「ちょっと釘に引っかけちゃって」と言い訳してそれ以上追及させなかった。学校でも友達と遊んでる姿を見かけなくなり、代わりに図書室へこもるようになった。あの女とよく一緒にいるのを見るようになったのはこの頃だ。いつも無表情になり、いたずらも影を潜めた。
お兄ちゃんたちの部屋で一緒に遊んでるときはまだ楽しそうに見えたけど、龍一兄ちゃんが悪い友達と夜遅くまで遊んでることが多かったので、ひとりでアニメを観たりゲームをしたりする時間が長くなった。お兄ちゃんたちはふたりで一部屋だったから、龍一兄ちゃんが友達や彼女を連れてきたときは追い出されてたというのもある。
虎次郎兄ちゃんに対して、わたしがなにもしなかったわけじゃない。一緒になってアニメを観たり、読み終わったラノベを借りたり、勉強を教えてもらったりして多くの時間を過ごそうとした。
でもそれも長く続かなかった。お母さんにはわたしたちがべたべたしてるようにでも見えたのか、ある日ふたりでテレビを観てるといきなり虎次郎兄ちゃんを引っぱたき「華麟を巻き込まないで!」と言ってわたしを部屋に押し込めた。
お母さんもその頃はまだ仕事をせずいつも家にいたので、それからふたりだけで遊ぶことは難しくなった。わたしに対して虎次郎兄ちゃんは少し他人行儀になり、お母さんに隠れて話しかけても、おれの問題だから気にすんな、と取り合ってくれず、勉強を見てもらうときですらわたしの部屋でなく両親のどちらかがいる食卓に変わった。
やがて虎次郎兄ちゃんも中学へ上がり、龍一兄ちゃんは受験生になった。当然の落ちこぼれだった龍一兄ちゃんは卒業したら就職すると言ったものの、自身の苦労とお婆ちゃんに受けた仕打ちの仇討ちをしたいお母さんは、息子に土下座までして高校へ行かせたがった。病んでたとはいえ、これがお婆ちゃんのしたことと同じだとなぜ気づかなかったんだろうか。
そして塾に通わせようにも机に向かって教科書を開くだけで拒絶反応を起こす龍一兄ちゃんのために両親の打った手が、最悪の結果を招いた。
わたしに対するのと同様、虎次郎兄ちゃんがその家庭教師となった。気心知れた弟なら龍一兄ちゃんも少しはリラックスして勉強出来るかもしれないと、両親だけでなくお兄ちゃん自身も思ってた節がある。
「ほんと言えば、高校ぐらい出といたほうが楽しそうじゃん」と言って笑う顔を思い出すといまも心が痛い。
虎次郎兄ちゃんの教え方が上手いのは確かだ。最初の頃は効果があったらしく、小学2、3年生レベルの問題集から始めたのが、夏を迎える頃にはなんとか小学校の授業を終えられるぐらいには理解が進んでたようだ。
その間も平穏だったわけじゃない。よく勉強を中断して龍一兄ちゃんはトイレで吐いてた。お母さんが部屋に乗り込んで「お婆ちゃんみたいなことはやめてちょうだい!」と、スパルタなんてするはずもない虎次郎兄ちゃんに詰め寄る場面も一度や二度じゃなかった。
青い顔でトイレから出てくる龍一兄ちゃんが可哀相でお茶を入れると、かりんは優しいな、とわたしの頭をなで、大変なのは自分なのに「母さんのぶんまで虎次郎にも優しくしてやれよ」なんて言ったりした。
わたしもそうしたかったけど、お母さんと虎次郎兄ちゃん自身がさせてくれなかった。言葉に詰まって困った顔を見せると、龍一兄ちゃんはお母さんを部屋から追い出して再び机に向かった。どう見ても無理をしてたのに、お母さんは龍一兄ちゃんが勉強すること自体は喜んでたのか、なにも言わなかった。
そのうちみんな、お兄ちゃんたちも含めて勘違いしてたことがわかってくる。
龍一兄ちゃんがようやく中学レベルの問題に取りかかった頃、虎次郎兄ちゃんは中1にして都立高の入試問題ぐらいは普通に解き、難関校の過去問に取り組んでた。受験勉強を教えようとしてるのだから、虎次郎兄ちゃんにしてみればそれは善意だったろう。
けれどその頭の出来について知ってたとはいえ、学習障害の自分が文字通り血を吐く思いでなお越えられるかどうかわからない壁を、2つ年下の弟が小石でもまたぐかのように越えてく姿を龍一兄ちゃんは目の前で見せつけられてたのだ。
泣き言なんてほとんど漏らしたことのない龍一兄ちゃんが、真っ暗な顔で「虎次郎には一生勝てる気がしないな」と例によって食卓でお茶を用意するわたしに言うのを見ると、もう誰に味方していいのかわからなかった。
小さい頃から教わってるおかげでずっと成績は良かったわたしでも、虎次郎兄ちゃんを見てきた先生たちに比べられればやはり及ぶはずもなく、ときには恨みごとのひとつも言いたくなるぐらいだったのだ。このときの龍一兄ちゃんの心のうちは想像も出来ない。
秋頃になると龍一兄ちゃんは勉強するのをやめた。
費やした時間を取り返すかのように夜遊びを繰り返し、友達や彼女の家を泊まり歩き、ほとんど家に寄りつかなくなった。たまに帰ってきても、ご飯を食べてお風呂に入り、着替えを持つとまた出てってしまった。
初めはお父さんも怒ったし、お母さんは繰り返し、諦めないでと泣きながら懇願した。わたしだって心配したけど、家にいて欲しいと何度言っても「おれみたいになっちゃだめだからな」と頭をなでるばかりだった。
もはや龍一兄ちゃんは頑として高校に行かないと聞かず、とうとう親も折れた。外でお腹を空かせないように、とお母さんは余分にお小遣いを渡し、お前のやり方が悪かったせいだ、と虎次郎兄ちゃんを責めた。
虎次郎兄ちゃんに、学校でいじめられてる様子が見受けられたのもこの頃だ。たまに制服が汚れてたり、よくものを失くしたりしてた。両親のいる時間に「学校でなにかあったの?」とわざとらしく訊いても、なにもないの一点張りだった。
本人がなにもないならいいでしょ、とお母さんは言い、若い頃から腕っ節の強かったお父さんにはいじめられっ子の気持ちなど理解出来るはずもなく、やられたらやり返せばいいだろ、で片付けてしまった。
冬が来ても、なにひとつ事態は好転しなかった。相変わらず龍一兄ちゃんは外を遊び歩き、虎次郎兄ちゃんに味方はいなかった。もうわたしの心も折れてしまい、時間がいつか解決してくれると信じ、ますます無口になった虎次郎兄ちゃんと、ときどき憂鬱そうに帰ってくる龍一兄ちゃんを悲しく眺めるだけだった。
ふたりの考えてることがぜんぜんわからなくて、そのせいか男子と話すのが少し苦手になった。
そして都立高の一斉試験日、龍一兄ちゃんは中学校の屋上から飛び降りた。
1、2年生はまだ授業中で、学校中パニックの様相だったという。顔色を真っ白にしてそのことを告げる担任の目に、わたしの表情はどう映っただろう。いやそれ以上に、同じ学校で授業を受けてた虎次郎兄ちゃんは。
遺体を前に泣き崩れるお母さん、痛恨の表情で涙を堪えるお父さん。わたしだってわんわん泣いた。お婆ちゃんですら初孫の死に繰り返しごめんなさいと謝り涙を流すなかにあって、虎次郎兄ちゃんだけが顔色を変えず、ひと言も喋らなかった。
その理由こそいま、わたしたちがなにより知りたいものだ。遺書が部屋に2通残されており、ひとつは家族宛て、もうひとつには『虎次郎へ』と書かれてた。家族宛てのほうはお父さんが代表してみんなの前で読み上げた。たった1行。
――おれのことはもう忘れて。あとは虎次郎に任せる。さよなら。
誰も納得出来るわけがなかった。ほんとの遺言は虎次郎兄ちゃん宛てに書かれたほうだと、みんな確信してた。なにしろ作文もろくに書かなかった龍一兄ちゃんが便せん3枚にびっしり綴ってたのだから。お母さんは自分に読ませろと迫ったけれど、名指しである以上まず虎次郎が読むべきだ、とお父さんに説得された。
みんな固唾を飲んで見守るなか、虎次郎兄ちゃんはそれをゆっくり黙読した。読み終えると小さく頷き、おもむろに便せんを畳んでキッチンへ向かい、ガスコンロの火にかけて焼いた。一連の動作が自然すぎたせいか、紙片が燃え尽きるまで誰も止められなかった。
ことの次第を全員が理解すると、お母さんは半狂乱になって泣きわめき、息子の頬を何度も叩いた。止めに入ったお父さんもそれまで見たことがないほど怒ったけど、虎次郎兄ちゃんは謝りもせず、内容を一切話さなかった。わたしは呆然としてなにも考えられなかった。
それでも母親が息子に向かって叫んだ声は、いまも鮮明に思い出せる。
「あんたが、あんたが代わりに死ねば良かったのよ!」
以後わたしは虎次郎兄ちゃんにかける言葉を失ってしまった。嫌いになったわけじゃない。でもすごくひどいことをされたと、裏切られたと思った。
いまならそのぐらい当然の仕打ちとさえ言えるけど、その頃のわたしは背景になにがあったのかほとんど知らなかったのだ。ただ最後までお兄ちゃんたちの味方でいられなかった自分の情けなさには、ひたすら打ちのめされてた。
ここからはほとんど蛇足。
呆けが進んだとはいえお婆ちゃんは、自分が弱ってることは自覚してたらしい。それでまだ自分のことが出来るうちに、家をリフォームしてうちの家族と一緒に住もうとしてた。
息子の家庭をめちゃくちゃにしておきながら老後の面倒を見てもらいたいとはいい気なもんだけど、お父さんにとってはやっぱり母親ということなのか、子供たちのことに一切口を出さないという条件付きで、お母さんの猛反対を押し切って国立へ改めて引っ越すことが決まった。
時期が時期だったので、引っ越しはわたしの小学校卒業を待ってからとなった。こういう言い方もどうかと思うけど、学校で先生や友達から可哀相な子扱いされるのにうんざりしてたこともあり、住む土地を変えるのはちょうど良かった。
虎次郎兄ちゃんは学校へ行かなくなり、1日のほとんどを外で過ごした。家ではお母さんが部屋に入って龍一兄ちゃんの遺品をずっと眺めてたりしたから、家族が寝静まるまで居場所がなかったのだろう。引っ越して自分の部屋を持つと、今度はずっと部屋に引きこもった。
見かねたお父さんがパソコンを買い与えたのも、それを助長することになったのかもしれない。たまに部屋を覗いても、電気も点けずヘッドフォンをしたまま動画サイトでアニメを見たり音楽を聴いてたりで、わたしには振り向きもしなかった。開けた扉の向こうにもうひとつ、見えない鍵がかかってるみたいだった。
食卓には両親とわたしの3人だけ。お母さんが過敏になるのでお兄ちゃんたちの話題は出せず、わたしは兄をふたりいっぺんに失ったような気持ちで新しい生活を過ごした。
夏が近くなった頃、お父さんにロスへの転勤話が舞い込む。お母さんとの関係を考えれば虎次郎兄ちゃんをこのまま家に置いておくよりマシだろうと、ふたりで海を渡った。
お父さん抜きでお母さんとお婆ちゃんをひとつ屋根の下に住まわせるのはかなりのリスクがあったようにも思うけど、お婆ちゃんはお父さんとの約束を守ってわたしと虎次郎兄ちゃんに干渉しなかったし、龍一兄ちゃんのことがあってからますます弱り、高圧的な態度を取ることもなくなった。
お母さんにとっても昔みたいな絶対者ではなくなったのか、本音はどうあれ、表面上は怯えてるように見えなかった。ただ最低限の世話をする以外に口を利くことは一度もなかったと思う。
そのお婆ちゃんも去年の春に亡くなりいまに至る。
これはお母さんの愚痴混じりな思い出話やお父さんからこまごま聞き出した断片を、わたしの記憶と想像を交えてつなぎ合わせたものだ。なにもかも知ってるわけじゃないので、ところどころ腑に落ちない部分があるのは仕方ない。お兄ちゃんが帰ってきたあの日、わたしが「肝心な話」にこだわってたのはそういう理由だ。
そして現在食卓では、2年半ぶりに4人顔を突き合わせて晩ご飯を食べてる。いつもわたしと一緒のときは機嫌の良いお兄ちゃんも今日はほとんど無言。お父さんを迎えに行く前、昼のうちから仕込んでた牛肉のトマト煮込み、あさりの白ワイン蒸し、夏野菜のバーニャカウダと手の込んだメニューはすごく美味しいはずなのに、お通夜みたいな雰囲気のせいでどうしても味に集中出来ない。
「そういや華麟も受験生だな、勉強はかどってるか?」
「大丈夫だよ、わたし学年トップだもん。難関私立行くわけじゃないし」
「そうか。まぁお前は心配いらないか」
ときおりお父さんがわたしに話しかけるぐらいで、その会話も続かない。いまの「お前は」もきっとさりげなくお兄ちゃんの話に向けたんだと思うけど、当のお兄ちゃんも、お母さんも無反応だ。
それにしてもお兄ちゃんとお母さんは、ほんとうに久しぶりの食卓で対面だというのに目も合わせない。どころか帰ってきた初日に少し話した(らしい)以外にはまともな会話があったかどうかも怪しい。わたしの知ってる限り「おはよう」「行ってらっしゃい」「行ってきます」「ただいま」「おかえり」ぐらいだ。あとはさっきの「いただきます」か。
初日にキレて恥ずかしい思いをして以来わたしも藪蛇なことは避けてるので、現在お互いについてどう思ってるのかは想像するにも材料が乏しい。
「ごちそうさま。やっぱ虎次郎の飯は美味いな。お前がいなくなってから、外食ばっかで舌が寂しがってたよ」
ひとり先にお父さんが食事を終え、くつろいだ様子で話しかける。その相手が口を開くより先に、下を向いたままお母さんが答えた。
「わたしのご飯じゃなくて良かったですね」
その人生を考えれば仕方ないのかもしれないけど、お母さんはよくこういうもの言いをする。ただでさえ暗い食卓がますます暗くなるってわからないんだろうか。
「や、そんなこと言ってないだろう。母さんの飯だって食べたいに決まってるのに、虎次郎に作らせてるのは自分じゃないか」
まったくだ。お兄ちゃんが率先してやってるとはいえ、毎日なのだから結局は同じことだ。お母さんだって料理が下手なわけじゃない。今日みたいな大げさなものは作らなくても、普通の家庭料理みたいなのは年期が入ってるぶん、まだお母さんのほうが上手だと思う。
でもただでさえ忙しくてあまり作らなくなった上にお兄ちゃんがこれだから、追い越されるのも時間の問題かもしれない。
夏が終わったらわたしも頑張んなきゃ、と思ってると。
「だって虎次郎は、わたしの作ったものなんて食べないでしょう」
……あのさ。ここでそれ言う?
さすがにこれは怒りたいけど、その前にお父さんがどうにかしてくれないかと思って様子を見る。ところがお父さんも言葉が見つからないのか、視線を宙に泳がせたまま黙ってしまった。あんたこういうときこそ頼りになるとこ見せろよ。
「作ってくれるなら食べるよ。もう好き嫌いもないから」
どうしたものかと思ってると、予想外にもお兄ちゃんが答えてびっくりした。隣を見れば、ちょうど食器を置くところだった。口調は落ち着いてたし、お母さんを見る目の色も普通。けれどわたしよりだいぶ早く食べ終えたところから察するに、こう見えてやっぱり内心穏やかじゃないのかもしれない。
「でもヒマだし、おれが作るから気にしないで。……親父も自分で作りゃいいじゃねぇかよ。レシピ置いてってやっただろ」
まばたきを繰り返すお母さんも、お兄ちゃんがそんなことを言うと思わなかったんだろう。これじゃどっちが大人かわからない。
「いや試しにやってはみたけどよ、やっぱお前みたいにはいかねぇんだよ。それでめんどくさくなっちまってな。たまには飯作りに来てくれよ」
「寝言ぬかすな。反復練習なしで上達なんてしねぇって自分で言ってただろうが」
男ふたりのやりとりを聞いてるとますますつまらない気分になってしまい、わたしはご飯の続きに戻る。お母さんもそうした。
「はいはいわかってるよ。あ、お前、こっちでもちゃんと練習してんのか?」
「してねぇ。もうちょっと落ち着いたらジム探そうかとは思ってるけど」
なんの練習だよ。つーかジムってそれ以上鍛えて誰と闘うんだよ。
「そんなんじゃいつまで経っても勝てねぇぞ? おれがよぼよぼのジジィになるまで待ってるつもりかよ、せこい野郎だなお前は」
「言いやがったな? じゃ明日グローブ買ってくるから待ってろ。泣いても許さねぇかんな」
「負けて泣いてたのはお前だろうが。それに明日は墓参り行くからだめだ」
「いや待ってよ、勝つとか負けるとかなんの話してんの?」
だんだん物騒な話になってきたのでつい口を挟んだ。それにジムとかグローブとかって……薄々想像はついてきたけど。ほんとに闘ってたのかよ。
「なんだ聞いてないのか。まぁしょうがねぇか、負けっぱなしじゃ恥ずかしくてかわいい妹に言えないもんな」
と言ってお父さんは、わたしの質問なのにお兄ちゃんへ向かって目尻を下げる。お兄ちゃんもお兄ちゃんでわたしのほうを見ない。
「うるっせぇ。最後にやったの半年前じゃねぇか。それにあんときだって『内臓が痛ぇ』とか言って2日も飯食えなかったのは親父のほうだろ」
「そりゃこっちは歳だからな……おう華麟、こいつ向こうでボクシング始めたんだよ。しかも理由が父親をぶちのめすためだってんだから笑うよな」
お母さんがぎょっとした顔で手を止める。でもお父さんがへらへらしてるせいか、そのまま無視して残り少ない食事に戻った。わたしもそれに習う。
やっぱそういう話か。龍一兄ちゃんならまだしも兄弟ゲンカすらぜんぜんしなかった虎次郎兄ちゃんがそういう方向に行くとは超意外だったけど、その動機にもお兄ちゃんなりの必然があるとしても正直どうかと思うけど、それでこんなタフガイになっちゃうとか○キかよ。
「笑ってられんのいまのうちだからな?」
お兄ちゃんは珍しく赤くなって憎まれ口を叩く。話からするとふたりは何度かやり合ってるみたいだし、殴り合いの末にこういう関係になったということなんだろう。タイマン張ったらマブダチとかどこのヤンキーものだっつーの。ほんと男ってずるいよな。
わたしもお母さんも食事を終え、本題に入る頃合いになってきた。男ふたりのしょうもない会話のおかげで、雰囲気もいくぶん和らいだように思える。あの内容でリラックス出来る男心とやらは理解不能だけど、この場は結果よしとしたい。
「お茶ジャスミンでいいよね」
と確認はしたものの、わたしはお湯を注ぎ始めたあとだ。そこにお父さんから声がかかる。
「おれビール」
「だめ」
酒に逃げんなし。子供はそういうわけにいかねぇんだよ。
もう少しお兄ちゃんの気持ちも考えてやれ、と思いながら横顔を見る。それに気づいた隣りのお兄ちゃんも、食器を洗いながらこっちを向いた。
「おれもたまにはビールがいいな」
「あんたは未成年だろうが!」
「いやそうだけど、向こうではパーティとかで……うん、お茶で」
全身全霊の冷たさで睨んでやると、お兄ちゃんは目を逸らして大人しくなった。誰のためにこんな気を揉んでると思ってんだ。あんたはもう少しわたしの気持ちを考えろ。
「さて」
みんなにお茶が行き渡ったところで気を取り直して、わたしが音頭を取った。もうここまできたら、下手に引き延ばしてまた硬直するよりも勢いが大事だろう。なんとなく大丈夫そうな雰囲気だし、なるようになれ。
「じゃお兄ちゃん、どうぞ」
お兄ちゃんが帰ってきたあの日、わたしをのけ者にふたりが話した内容のなかには当然、龍一兄ちゃんの遺言についても含まれてたという。
といっても中身を明かしたわけじゃなく、お父さんの帰りを待ってからみんなの前で言うと約束したらしい。明日は虎次郎兄ちゃんを交えた4人では初めてのお墓参りだ。だからその前にこの話をしなきゃならない。
とうとうこのときが来てしまった。
「うん」
お兄ちゃんも緊張してるのだろう、少しかしこまった。
「兄貴の遺言ね。誰にも言うなって書いてあったから、あのときはそのつもりだったんだよ。焼いたのもそのせい。でも残された家族はそれじゃ気が済まない、っていまはおれにもわかる。だから兄貴には悪いと思うけど、帰ってきた以上はこれも仕方ないね」
そこで一度言葉を切ったあと、お母さんに向き直る。わたしたちが神妙に耳を傾ける中で、その続きは、たぶん誰も予想してなかった方向へ行った。
「その前に母さん、おれになんか言うことない?」
ここでいきなり自分に振られるとは思わなかったのだろう、お母さんは固まってしまった。この期に及んでまだ引っ張るのか、と訝しんだけど、横目に見えたお兄ちゃんの真面目な表情と口調から、必要なことなんだと察した。
再会してからの母子に、わたしの見てないところでどんなやりとりがあったかは知らない。それでもなにを言わせようとしてるのか少し考え……心当たりをひとつ思いつく。
「いまはわたしじゃなくて龍一の話でしょう」
固まったまま喋るお母さんの声は、少し震えてるように聞こえた。それは単に緊張からくるものなのか、それとも自分にも心当たりがあるという意味なのか。
でもまさかそれは、いくらなんでもあり得ないと信じたい。だって大人だよ?
「虎次郎、あとじゃだめなのか」
お父さんが心配そうに言う。なんとなく、同じ不安を感じてるような気がする。お母さんを大好きなお父さんがそうだというなら、ほんとにそうなんだろうか。
そんなの初日にあって当然のことだったのに。
相手には条件なんて言わせて、自分はなにもせず済まそうとしてたのか。わたしの耳にすら焼き付いてるのに、言われた本人がもう忘れてるとでも思ったのか。
「黙ってろ親父。大事なことだ」
お兄ちゃんの表情は泣きそうなほど深刻で、わたしたちの心配がおそらく杞憂でないことを物語ってる。であればわたしに口を挟む筋合いなんてない。
ただ、最悪だ、とは思う。家族みんなが前に進みたいと願うなか、お母さんだけ変わろうとせず、あの頃と同じように足を引っ張ろうとする。
いったん和らいだはずの空気は、一瞬で夏を見失うほど凍り付いてしまった。
「母さん。2年半も経てば時効だと思った? おれは忘れてないよ」
ああ、やっぱり。
身を乗り出して両手を合わせるお父さんの顔も、こわばりきって真っ青だ。
「虎次郎。頼む。おれが悪かった。だからいまはやめてくれ」
「だめだね。ひとに頼みごとをするならそれなりの誠意を見せてもらわないと」
――あんたが代わりに死ねば良かったのよ――
お母さん、まだ謝ってなかったのか。
「お兄ちゃん……」
思わず口が出てしまった。
「かりん、繰り返させないでくれ。大事なことなんだ」
違う。わたしにお兄ちゃんを責める気なんてあるわけがない。
あれだけの目に遭って、実の母親からあんなこと言われて、それでも帰ってきてくれて、その母親に代わって家事一切まで引き受けてくれてる。お兄ちゃんの立場からすればこんなの仕返しどころか譲歩だ。
なのにその息子に対して、お母さんは黙ったまま俯いてしまう。
「お母さん!」
気づくとわたしは立ち上がってた。お兄ちゃんがすかさずわたしの腕を掴んで座らせようと引っ張るけどうっさい邪魔すんな。
「なんで……なんで謝んないの、お兄ちゃんも被害者でしょ? なんでそれがわかんないの? なんで自分だけ傷ついたみたいにしてんの? 虎次郎兄ちゃんだって人間だよ、お母さんの産んだ子供でしょ? ねぇ、どうしてわかんないの?」
大概にしろよどこまで弱いんだあんた。なにがボランティアだNPOだふざけんじゃねぇよ奉仕する相手が間違ってんだろ。
もうこっちが泣きそうだ。さっきまで大丈夫かもなんて甘い期待してたのがバカみたいだ。
「あなたになにがわかるのよ!」
下を向いてたお母さんも立ち上がって叫んだ。今度はお父さんがその腕を取り、わたしがお兄ちゃんにしたのと同じように振り払われた。
「あの子が、龍一が……あのひとのせいでどんな目に会ったか! どんな思いでわたしが見てきたと思ってるの! それをこの子は、虎次郎は……ずっとあんなふうにバカにして!」
「ふざけないでよ! 虎次郎兄ちゃんはバカになんてしてない!」
「いまもこうやって、華麟を味方に付けてわたしをバカにして面白がって! 龍一が死んだのだってそのせいなんでしょう! 違うの虎次郎!」
なに言ってんのこのひと? ここでそんな言い方したら話はこじれるばかりだってほんとにどうしてわかんないの? そもそも誰と話してんだよ?
「わたしのほう見て言いなさいよ! 違うに決まってんでしょそんなの!」
「わかったもういい。かりんも落ち着いて」
場に不似合いな乾いた口調だった。ちょっとコンビニ行ってくる、みたいな。
けれど良く通るお兄ちゃんの声は充分な説得力をもって響き、わたしたち母娘を沈黙させた。それから自分も立ち上がり、どこか醒めた様子で家族の顔を見回す。
「だから兄貴は死んだんだよ」
そのまま食卓を離れ、2階へと上がってった。お母さんは力なく座り直すと顔を手で覆ってすすり泣き、お父さんはそれを無言で抱き寄せた。わたしは興奮の行き場を失くしてしばらく呆然となり、あとを追うのも忘れてた。そうすべきだったと気づくより先にお兄ちゃんは再び階段を降りてきて、声をかけるより早く外へ出てしまった。
わたしも座ってお茶を飲み、それから無様に泣き続けるお母さんと沈鬱な表情のお父さんを見るのにも飽きて、自分の部屋へ戻った。部屋着に着替えてタオルケットを頭から被り、枕に顔を埋めて泣き、そのまま泣き疲れて眠りに落ちた。
昔の夢を見た。
お母さんより頭ひとつ小さい虎次郎兄ちゃんが怒られてる。わたしはすぐ近くにいるのに、なにを言ってるのかは声に霞がかかったみたいに聞き取れない。
虎次郎兄ちゃんは下を向いてただじっと耐え、お母さんが黙ると部屋に戻った。
ゴミ箱に紙くずを捨てた。
何度もクリアしたアクションゲームを始める。縛りプレイなのか、道中ドロップする武器やアイテムはぜんぶ無視。それでも見事なコントローラさばきでどんどん進む。
龍一兄ちゃんが彼女を連れて帰ってくる。丸っこい背中を彼女に突かれると、クリア寸前のゲームをやめて虎次郎兄ちゃんは部屋を出た。
ともに出ようとしたわたしだけが引き留められる。楽しそうに話しかけてくるけど、なにを言ってるのかはやっぱり聞き取れない。つまらなくなってゴミ箱から紙くずを拾う。100点の答案だった。
わたしの部屋からピアノの音が漏れ聞こえ、なかに入ってみれば虎次郎兄ちゃんがキーボードを弾いてる。もうわたしのほうが上手いな、と思う。
すると虎次郎兄ちゃんはわたしを見ていたずらっぽく笑う。それから違う曲を弾き始める。よく聞き取れなくても、お兄ちゃんのオリジナルだとなぜかわかる。
お父さんが扉を開けてなにか言う。お兄ちゃんは演奏を止めて部屋を出る。そのまま家を出る。
わたしは家族と楽しく晩ご飯を食べ、お風呂に入り、布団に潜る。
虎次郎兄ちゃんはまだ帰ってこない。
夜中の2時すぎに目が覚めた。寝直そうかとも思ったけど、メイクを落としてなかったことを思い出して洗面所のある1階に降りた。顔を洗って玄関へ向かう。外に出るわけじゃなく、靴でお兄ちゃんが帰ってるかどうかを確認した。
部屋の扉をノックする。返事はない。時間を思えば単に寝てるだけかもしれないので、本来なら大人しく自分の部屋に戻るところだ。
少しだけためらってから扉を開けた。
電気は点いてて、お兄ちゃんは扉に背を向けパソコンでなにか作業してる。ヘッドフォンをつけてるから、例の作曲だろうか。集中してるせいでわたしには気づかないようだ。
あの頃とはぜんぜん違うシルエットなのに、思い出すと心が軋んだ。
気配を殺してなかへ入る。向かって斜め後ろの位置で、自分用の赤いクッションに座った。
PCモニターの作業画面にはグラフのようなものがたくさん並び、見てもさっぱりわからず興味をすぐ失った。作業そのものも、音が聞こえないからなにをやってるのか掴めない。でもその横顔は真剣で、これってわたしのためなんだよな、と思うとなんだか嬉しくなり、自然と顔がほころぶのに気づく。
ヒマだから大丈夫、なんて嘘ついちゃってさ。変に大人ぶったりキザったらしいセリフ言うより、こっちの姿のほうがぜんぜんカッコいいのに。
そいやあれってどんなフレーズだったっけ。好きだったのに思い出せないな。
30分ほどそうしてるとお兄ちゃんは作業を止め、パソコンの電源を落とした。ヘッドフォンを外して両手を頭の上に伸ばし、それから振り向く。
「うおっ」
のけぞって驚くお兄ちゃんに、わたしは上目遣いで笑ってみせる。気づかれないよう黙って見てたのは、実はこのためもあったりする。昔まだ虎次郎兄ちゃんがいたずらっ子だった頃にこれよくやられたんだよね。
「へへ。びっくりした?」
「そりゃするよ。どした、こんな時間に」
お兄ちゃんの表情は普段と変わらず、食卓でのことなんてなかったかのように見える。もうわたしも落ち着いてるし、いまのを眺めてるうちに少し優しい気持ちになれた。だからといって、あれをほっとく気にはなれない。傷つかなかったはずがないのだ。
「大丈夫かなって。さっきお母さん、あんなだったし」
率直に言って最低だった。子供を産み育てた母親の気持ちはわからないわけで、龍一兄ちゃんのことについてはわたしよりもお母さんのほうがショックだったかもしれない。
でもあんなのはない。被害者というならみんな被害者で、同時にみんな加害者でもあったと思う。わたしも虎次郎兄ちゃんも、龍一兄ちゃんすら例外でなく。自分だけが被害者みたいな態度で、いまだ害をなしてることにも気づかないなんてほんと終わってる。
椅子を立ってお兄ちゃんも床に座り、目線をわたしに合わせた。
「気にしないで、あのぐらいは予想の範囲内だから。でも最後に余計なこと言っちゃったのは後悔してる。大人げなかった」
嘘つき。気にしてないならあんないきなり出てったりしない。それに大人げなかったのはお母さんのほう。
「でもありがとな。庇ってくれて」
手を頭に乗せようとしてきたので、素早く掴んで下ろさせた。わたしがただいやがってるとでも思ったのか、お兄ちゃんは残念そうに肩をすくめる。
違うのにな、ほんとわかってねぇなこいつ。まったく呆れるけど、簡単に諦めたりしないとわたしはとっくに決めてるのだ。
「礼なんかいいよ。わたしお兄ちゃんの味方だもん。最初に言ったでしょ」
だから何度でも言う。お兄ちゃんがわたしにすべきことは、本音を隠して心配させないことなんかじゃない。昼間にも言ったばかりなのに。
「ね、ちゃんと心配させてよ」
お兄ちゃんは目を伏せた。このひとのことはほとんどわからないけど、たまにはわかることもある。きっといま、自分は上手くやれてないと思ってる。
「ごめんな。でもほんとに、かりんは気にしなくていいんだ」
「バカ」
考えるより先に文句が出てしまった。あーあ。わたしも上手くやれてない。でもこれじゃ言いたくもなる。
「いっつもそればっかだけどさ、わたしいつまでも子供じゃないよ。お兄ちゃんが成長するのと一緒だよ。あのときのお兄ちゃんより、もう年上なんだよ。あのとき一緒に住んでて見てたんだよ。わたしだって当事者なんだよ、なにも知らないなんて思わないで。お兄ちゃん、わたしのことなんだと思ってんのよ」
出来るだけ落ち着いて言おうとしたのに、最後のほうは語気がちょっと荒くなってしまった。そこだけ反省しつつ、黙り込む相手の返事を待つ。少し驚いてるようにも見えるけど、それはわたしに失礼だろ。
やがてお兄ちゃんのほうから、立ち上がってわたしの視線を逸らした。
「ごめん。でも今日はもう勘弁してくれ。時間も遅いし、ちょっと疲れた」
あからさまにごまかされても、さっきのお母さんと、たったいまの作業を見てたわたしにはそう言われると反論のしようもない。不満を込めて軽く睨んでから、仕方なくわたしも立って扉へ向かう。
「じゃ今日はいい。おやすみ。でもいま言ったの忘れないで。あと何度も謝るな」
「わかった、忘れない。かりんもおやすみ」
ほんとかよ、と思いながらドアノブを回す。そこでひとつどうしても気になってしまって振り返る。
「明日のお墓参り、来るよね」
お兄ちゃんはもう背を向けてて、表情は見えなかった。
「行かない」
そう言うかもしれない、とは思った。でも認めるわけにいかない。さっきのあれでお母さんと顔合わせたくはないだろうけど、それとこれとは話が別だ。せっかく帰ってきたんだから、まだ一度も行ってないお墓参りぐらいはしてくれなきゃ納得出来ない。
ドアノブから手を離して詰め寄ろうとすると、お兄ちゃんが慌てて振り向いた。
「じゃなくてひとりで行きたいんだ。誤解しないで、さっきのとは関係なく……もないけど、ほんとはもとからそのつもりだったんだよ。親父にはもう言ってある。まぁ母さんには、おれが拗ねてることにでもしておいて」
もうこのひとの場合どこからどこまで演技なのかわからないので、疑っても疑いきれない。思いっきり眉をひそめて言ってやった。
「まだそんなこと言うの?」
「疑わないで。かりんにどう見えてたかはともかく、おれと兄貴はあれでけっこう仲良かったんだよ? おれしか知らない兄貴の秘密だってたくさんある。だから今年は……最初だけは、出来ればひとりがいいんだ」
そんなの知ってるっつーの。どころかお兄ちゃんたちのほうこそ、男兄弟どうし仲良くてわたしが疎外感持ってたの知らないくせに。
バカ、とまた言いたいのを飲み込んだ。
「じゃ信じる」
「ありがとな。おやすみ」
「おやすみ」
すっかり目は冴えたつもりが、自分の部屋へ戻るとまた眠くなってきた。心配は増えてしまったはずなのに、ベッドに潜るとなぜかあっさり意識が落ちた。