第2章 (3)
宿題もほとんど終えて時間に余裕の出来たある日、わたしは立川駅前の大きな本屋でラノベの新刊コーナーを物色してた。
わたしのゆるオタは学校でわりと有名なので地元の本屋でも構わないと言えば構わないんだけど、おっぱい大きな露出度激高ヒロインのアニメ調イラストが表紙の本とか買ってるとこを知り合いに見られるのは、女子なのでやっぱり少し恥ずかしいのだ。
「そいやこれも出てるじゃん……」
お気に入りの能力バトルものの続きを2冊(それぞれ別の作品だ)抱えたまま、新たにもう1冊手に取る。
川村あすかの『空の鍵盤』シリーズは、ざっくり言えばわたしが普段ほとんど読まない学園ラブコメに分類される。でもボーカリストを目指してニコ動で歌い手をしてる主人公の少女が、奇人の天才ピアノ少年に振り回されながらも憧れるという筋書きにちょっと共感して試したらハマってしまったのと、女性作家らしく女のファジィな感情が細やかに描かれてるのが好きでずっと読んでるのだ。ちなみに惹かれるじゃなくて憧れる、ここ大事な。
他にもなんかないかな、と目を皿にして平積みの表紙たちを眺めてると、
「華麟ちゃん?」
最近聞いた覚えのある、印象深い声で名前を呼ばれた。
「あ、今日子さん、こんにちわ」
おおなんたる偶然体質の素晴らしさよ。まさかこんな場所で会えるとか超ラッキー。こんな場所ってのは悪い意味じゃなく、柔らかいクリーム色のワンピースが深窓の令嬢っぽく似合う今日子さんは明らかに純文学のイメージだからちょっと、いやかなり意外だったのだ。最近の文芸部ってラノベも扱うのかな。
「もしかしてお兄さんのお使い?」
ん? これ相手にとっても意外だった系? そっか、このひとにわたしの趣味なんて伝えてないもんな。お兄ちゃんも現在の見た目的にはラノベって柄じゃないけど、わたしとどっちかって言えばまぁ男子のほうだよね。
「いえ、わたしが読むんです。実はこういうの大好物でして……入り口は確かにお兄ちゃんの影響だったんですけど」
わたしは両手に持ってた3冊を十六夜さんに向けてトランプみたいに広げた。おっぱい系の表紙を見せるのにやや抵抗を感じたものの、このひとだってここにいる以上は免疫がないわけじゃあるまい。
「それでバトルものとか読むんだ……あ……」
この美声でバトルものって単語すげぇ違和感だな、と思ってると、今日子さんはわたしから見て一番左手にある『空の鍵盤』を指さした。
「それ、好きなの?」
「え、今日子さんも読むんですか? これ」
やっべぇ共通の趣味とか出来て超アガったし! これなら内容もだけどイラストもおっぱい推しじゃなくタッチ繊細だからこのひとが読んでもおかしくないか。
「うん……まぁ。華麟ちゃんが読んでくれてるの、なんか嬉しいな」
「はいわたしも大好きです!」
今日子さんはちょっと肩をすくめ、照れた様子ではにかんだ。いえいえこちらこそ超嬉しいですっていうかひゃっはー! ざまみろアイリこれでわたしが一歩リードだな! ……おっといけない興奮しすぎた。
「お兄さんも、読んでたりするのかな」
ありゃ。この様子だとやっぱお兄ちゃんのこと気にしてるっぽいな。まぁ最後があれだったから、気にしないほうが無理かもしれないけど。帰ったらあいつ殴る。
「どうでしょう、ちょっとわたしにもわからないです。これの1巻が出るより前にお兄ちゃん、アメリカ行っちゃいましたから……知ってたらアマゾ○で取り寄せてたりするかもしれないですね。あのひと最近帰国したばっかりなんですよ。今度訊いておきます」
「アメリカ……そうだったんだ」
「そうなんですよね。昔からわりと変人だったのが、向こうでどんな悪影響を受けたのか磨きをかけて帰ってきちゃって。この前はあのひとが済みませんでした、不肖の兄に代わって謝らせてください」
わたしは深々と頭を下げた。今日子さんのためならこんな頭いくらでも下げるしあのバカが泣くまで殴るのをやめません、なのでわたしに対する好感度を上げてください。
「え、いいよ華麟ちゃんそんな、頭上げて? わたしもう気にしてないから」
「いえ、ほんとはもっと早く謝りたかったんです。なのにアイリが今日子さんの連絡先教えてくれなくて……大好きな先輩をわたしに取られるとでも思ったんですかね。あの子変なところ嫉妬深くてたまに参っちゃいます」
恥をかかせるつもりはないので素直に頭を上げ、わたしは撮影仕様の一番いい笑顔を作った。取る気まんまんだけどな。
「もうアイリったらしょうがないな……じゃ教えるね?」
やったぜ。くくくアイリめ吠え面かかせてやる。
「ところで華麟ちゃん、このあとなにか用事あるかな。もしなにもなかったらお茶でもどう?」
そしてデートの誘いキタコレ! もしかして早くもフラグ立っちゃった?
あ。だったら……。
「はい、今日子さんの誘いなら喜んで! でもその前に、ひとつお願いが……」
と言ってわたしはちょっともじもじして見せる。演技ではあるけど、実際これは照れるから嘘というわけじゃない。
「うん、なに?」
「……わたしの名前、ひらがなで、かりんって呼んでもらってもいいですか?」
意味伝わるかな。伝わるといいな。でもアイリにわかるんだから、このひともきっとわかると思うんだよね。だっていまちょっと瞳の深いところで笑ったし。
「そっか、そういうのわかるんだね。……かりんちゃん。これでいいかな?」
ほら伝わった! もうわたしあなたのために死ねます!
「こっちのほうにはよく来るんですか?」
とりあえず冷静に、こないだ若葉たちと来たカフェに今日子さんを案内した。立川駅周辺はわたしのホームみたいなものだし、土地勘のあるこっちがエスコートしないとね。
「そうだね、前は買い物っていうと吉祥寺が多かったけど、最近は立川にも慣れてきたかな。わたし大きい本屋が好きだから、つい立川まで来ちゃうんだよね」
それもわかる。しかもその大きい本屋が駅ビルのなかを含めいくつも密集してるので、最初に行った店に目当ての本がなくても探すのが楽なのだ。
でも吉祥寺にも大きい本屋あるのに、わざわざここまで来るのってなんだろ。立川が舞台の作品とか最近多いからかな……けっこうミーハーなとこあったりして。まいっか。
「本屋の空気っていいですよね、なんていうか平和で。一般文学はそれほど読まないわたしが言うのもどうかと思うんですけど」
今日子さんは目を細め、柔らかい笑顔を見せる。
「そっか、じゃあとでおすすめ教えるね? 活字読むのが苦手じゃないなら、いろいろ読んだほうが面白いよ、きっと。でもさっきはびっくりしちゃった。かりんちゃんがラノベコーナー真剣に見てるの、そうとう目立ってたよ?」
「あはは。よく言われます。けど今日子さんだってひとのこと言えないですよ」
「わたしの場合は……だって、わたしかりんちゃんみたいに美人じゃないから」
もうなにを仰いますやら、あなたこそ美人のなかの美人じゃないですか。ひょっとして自分で気づいてないとか? いや絶対言われるでしょ、こんなひと周りがほっとくわけないし。
「この前だって気圧されそうだったもん、正直なところ言うと。アイリのことは知ってても、かりんちゃんとふたり並ぶとそこだけ別世界みたいだった」
「いやまぁ、あのときはちょっと本気出しすぎちゃったんで。それにお兄ちゃんもいましたから」
お兄ちゃんという単語を出すと、今日子さんは少し遠い目をした。
「お兄さん、すごく……大人っぽかったね」
見た目だけなら確かに。わたしも言われるとはいえ初対面があんなだったし、このひとにはもうそんなふうに思ってもらえまい。妹になる予定だから別に構わないんだけどさ。
「あれでも16なんですよ、ほんと老けてますよね。そういえば今日子さんは?」
中学でアイリの先輩だったんだから1つか2つ違いだよね。
「わたしもお兄さんと一緒だよ。今年で16の高1。お兄さん、あれでわたしと同い年なんて信じられないな」
そう言いながら、今日子さんはあまり驚いてないようにも見える。
「かりんちゃんも大人っぽいし、綺麗で羨ましいよ。まだ中学生とは思えない」
「そう言ってもらえるのは嬉しいですけど……出来ればもっと、ちゃんと大人に振舞いたいんですよね。前回も、ちょっと騒がしいところ見せちゃいましたし」
「ふふ。でも面白かったよ? アイリがあんなに慌ててるところなんてなかなか見れないし、ちょっと得しちゃった気分。こちらこそ、あのときはいきなり帰ってごめんなさい。印象悪くしたらどうしようかと思ってました」
「いやあれは完全にうちの兄が悪いんで。いろいろとバカなこと言って場を引っ掻き回すのが趣味みたいな生き物だから、実はわたしも困ってるんですよ」
「でもそんなこと言って、ほんとはお兄さんのことが大好きなんでしょ?」
「いやいやなに言ってるんですか、あんなの……」
と、そこで今日子さんの表情に、妙な真剣さが隠れてることに気づいた。
「……今日子さん?」
わたしはその目を覗き返す。
「え。わたし顔になにか付いてるかな」
訝しげに頬へ手をやりながら、今日子さんは答えた……というより、とぼけたように見えた。なんだろこれ。わたし変なこと言ってないと思うんだけど。
「あんな外見で、言うことすごかったもんね。でもいいかも。わたしも妹だったら一度ぐらいああやって扱われてみたい、なんて思っちゃった」
わたしの戸惑いをよそに、今日子さんは何事もなくお兄ちゃんの話に戻った。
あ、そういうことか。こないだのあれを見てそういうふうに思われたか……あのバカ思い返すも腹立たしい……。
「あの済みません、念のため言わせてください。あいつが救いようのないシスコンなだけで、わたしはぜんぜんそういうのじゃないですから」
もういちいちこれ言わなきゃなんないの疲れるよ。
「アイリにも似たようなこと言われましたけど、実際に妹の立場としてはひたすら恥ずかしいですよあれ」
「へぇ……」
そのへぇに思わせぶりなものが聞こえたのも、もはや例によって例のごとくと言えばいいんだろうか。このひとにまでそんな誤解されたらちょっとショック。
なんか軽くへこんできたよ……と思ってると、
「……そうなのかも。傍から見てるのとは、きっと違うんだろうね」
しみじみと言われた。
「あ……」
そんで、いまのは刺さった。
今日子さんの仕業じゃない。わたしが自分で刺した。不意打ちで。
そうだよ。
微妙に落ち込んでたところに思いがけない角度で入ってきたそれは、このところずっと心の背中に隠れてた、いや隠してた後ろ暗さを簡単に暴いてしまった。
やばい。なんでそんなこと忘れちゃってたんだろう。虎次郎兄ちゃんが簡単に本心をさらけ出さないことぐらい、とっくに知ってたはずなのに。
――かりんは気にすんな。
情けない。なにやってんだわたし。
自分で最初に思ったじゃん、あんなのどうせなにかのカムフラージュだって。
目の前に今日子さんがいるのをわかっていながら、俯いて目を閉じてしまった。
涙が出そうなわけじゃなかった。ただ胸が苦しくなってうまく喋れそうにない。どうしようこれじゃまるですごく痛い子みたいだよ。
「かりんちゃん? わたし、なにか悪いこと言っちゃったかな」
今日子さんの表情は見えない。わたしは無言で首を横に振った。
「ごめんね」
違うんですそうじゃないです今日子さんは悪くないです突然こんなふうになってこっちこそごめんなさい。悪いのはわたし。
「……お手洗い、行ってきます」
かろうじてそれだけ絞り出し、わたしは席を外した。
トイレのボックスへ駆け込んで、便座のふたの上にそのまま座った。思考が間違ったほうへ行かないよういったん頭の中をフリーズさせ、それからゆっくり深呼吸する。よしOK、冷静になれわたし。自分でも病的だと思うけど実際これはある意味で病気だ。
要するにわたしは、浮かれてた。今日子さんのことじゃなくて。
家のなかは一応落ち着いてるし、お兄ちゃんはあんなだし、なんだかんだ楽しくやってるせいで、わたしは昔のことを意識の外へ追いやろうとしてたらしい。そんなのは不可能なんだけど、だからこその逃避だ。いまのはその反動かもしれない。
――なら、帰ってきて良かったんだ。
もちろんわたしはそう思ってる。でもお兄ちゃんにとってほんとに良かったのかは、肝心な話を聞くまでわからない。
もうすぐお盆で、お父さんも一時帰国する。お兄ちゃんがそのことについて考えてないはずはない。わたしの前であえて触れようとしないだけで、それは避けられないのだから。
「今日子さん、お待たせしました」
「かりんちゃん……大丈夫? ほんとにわたし、なにか余計なこと言ってない?」
席に戻ったわたしを、今日子さんは不安そうに見る。余計な心配をかけたのはこっちなのに申し訳ないけど、理由を正直に言うわけにもいかない。
「大丈夫です。ごめんなさい、ちょっと急に思い出したことがあって」
なのでまた撮影用の笑顔を作った。
「あ、そうだ今日子さん、連絡先交換しましょう。忘れないうちに」
無理やり話を変えたことには気づかれてるかもしれない。でも今日子さんはそれ以上なにも言わずに付き合ってくれて、わからないなりになにか察したのか、そのあと一切お兄ちゃんに絡む話題は出さなかった。
そうしてるうちにわたしの気分も少しずつ落ち着き、やがていい時間になってきたところで帰ることにした。
駅で上りの中央線を待つわたしたちの間に、もうほとんど会話はない。でもそれが気まずい沈黙にならないのは、今日子さんの人徳だったり身にまとう雰囲気だったりするのだろう。
ホームに差し込む西日を受けた黒髪がところどころで色を変え、眩しそうに少し細めた目に長い睫毛の影が落ちる。触れるのを憚られるほど華奢なのに不健康な印象はなく、佇まいにはくっきりとした存在感。
「あんまりじっと見つめないで。かりんちゃんからそんなふうに見られたら、ちょっと変な気起こしちゃいそう」
視線に気づいたらしい。やだあなたったら、こっちこそ変な気になりそうです。
「えへへ、ごめんなさい。いや、絵になるなぁと思いまして」
「それはこっちのセリフだよ?」
意味はわかりますけど絵になるの種類が違うんです、と言おうとしてやめた。こういうのはあまり説明しすぎると陳腐になってしまう。
言葉の代わりに微笑で返すと、今日子さんも同じように返してくれた。そこに電車の到着を告げるアナウンスが響く。あ、特快だ……ここまでか。
「今日子さん、いろいろお話出来て楽しかったです。ありがとうございました。今度はわたしが吉祥寺あたりまで出ますから、またお茶してください。それまでにお勧めしてもらった本、少しでも読んでおきますね」
途中の変な一時退席には触れなかった。触れて欲しくないし、おそらくは今日子さんもそう考えてくれてると思う。
「どういたしまして。こちらこそぜひ」
特別快速、略して特快は国立駅に停まらないので、わたしは次の電車を待たなきゃならない。今日子さんはアイリと同じ三鷹かその近辺だろうから、これに乗って帰るはずだ。
大きな音を立てて電車が停まり、ドアが開いてひとが降りる。入れ替わりにホームに並んだひとたちが乗り込んでいき、ドアが閉まり、走り出す。
「……乗らなくてよかったんですか? わたし国立だから次の快速ですけど」
今日子さんはわたしの隣を動かず、特快をそのまま見送った。どこか途中に寄るところでもあるんだろうか。国立は隣りの駅なので、たった一駅のためにわざわざ同じ電車に付き合ってくれるとも思えないし。
すると今日子さんも驚いたようにわたしを見る。
「え、だってわたしも……そっか、三鷹のほうだと思ってたんだ。そういえば言ってなかったよね。確かアイリにも言ってないから、それであのとき、こんなところなんて言われちゃったのかな。実家は吉祥寺なんだけど、1学期の途中からひとり暮らししてるの。国立で」
まじすか!?
あー、育ち良さそうとは思ってたけど。高校生でひとり暮らしなんて、箱入りのアイリとはまた違う意味でリアルにお嬢様なんだこのひと。
「そうだったんですね。でもどうして……あ、高校が」
それで唯さんと友達、っていうか後輩か。なかなかする相手のいないラノベトークばかりに花を咲かせちゃったから、そこツッコんでなかった。
「うん、そう。東高。実家からでも普通に通えるんだけど、いろいろ思うところあって、親にわがまま言ってさせてもらってる」
じゃ簡単に地元で会えるじゃん! ……って。国立東高校つったら。
「お兄ちゃん2学期から同級生かもしれないですよ。編入したので」
「えっ!?」
うわすげぇびっくりしてる。なんか瞳孔開いてないですか?
「ほ、ほんとに!? 嘘じゃないの?」
「ほ、ほんとです」
わたしに詰め寄る今日子さんの表情というか形相がすごいことになってて引いた。こないだの帰り際みたいに赤くはなってないにしても、テンパり具合はたぶん同等。つーか顔近いですちょっと若葉みたいですよ?
「でも同じクラスになる確率のほうが低いと思いますし、これ以上迷惑かけないようちゃんと言い聞かせておきますから、そんなに意識しなくても」
それで我に返ったのか、今日子さんは咳払いをひとつ。
「こほん。そうだね……ごめん、ちょっと取り乱しちゃったみたい」
えーとこれってやっぱあれかな。あのときの唯さんの言葉からして彼氏いないみたいだし、さすがに一目惚れってこたないだろうけどそっち系の話だよね。
でもこのひとにお姉ちゃんになって欲しいというのはそういうことじゃなくて、あくまでもわたしがこのひとの妹になりたいんだよな。わかるかなこの微妙なニュアンス。
「絶対に手を出すなって、お兄ちゃんによく言っておきますね。だめです、わたしの今日子さんがあんな変態の毒牙にかかるなんて許されません」
と自分で言って、妙な既視感を覚えた。これ、どこかで……あれ?
「かりんちゃん……いまの……」
呼ばれて考えるのを中断し、見ると今日子さんの顔が青くなってる。え、あ。
「違います、違いますよ? わたしのっていうのは変な意味じゃなくて」
「あ、うん、それはいいんだけど」
「え? いいんですか?」
わたし百合じゃないですよ? 今日子さんのこと大好きでも無理ですよそれ。
「やっぱりよくないけど!」
そんな全力で否定しなくても。つーかお兄ちゃんのときは真っ赤だったのにわたしのときは真っ青ってちょっとへこむな。真っ赤になられても困るんだけどさ。
「大丈夫です、冗談ですから」
そう言って笑って見せると、安堵したのか大げさなため息で応えてくる。
そこへ次の電車のアナウンスが鳴った。
国立に着くのはあっという間だ。ふたりで駅を降りる。今日子さんの住んでるところは北口だというので、南口のわたしは今度こそここでお別れ。
「それじゃ今日子さん、お疲れさまでした……あの、もし迷惑でなかったら、次は家にお邪魔しても構いませんか?」
重ね重ね言うけど変な意味じゃないぞ。
「うん、ぜんぜん構わないよ。アイリと一緒においで」
わたしはひとりで行きたいのにな。……け、警戒されてるわけじゃないよね?
「はい、わたし美味しいケーキ屋さん知ってるんで、そのとき買っていきますね」
「じゃわたしはお茶用意して待ってる。今日はありがとう。またね」
「こちらこそ。ではまた」
手を振って去る今日子さんを見送って、わたしも家路につく。いつも以上に姿勢を意識してしまうのは、モデルでもないのにずいぶん様になったあのひとの歩き姿のせい。
内緒も可哀相だし、帰ってアイリに自慢するメッセを送った。すぐ既読になったけど返信はなかなか来ない。忙しいのか、それとも悔しくて連絡してこれないのか。後者に一票。
パソコンの電源を入れてお気に入りのプレイリストを流し、ベッドに転がって買ったばかりの『空の鍵盤』を読み始める。すると音楽に混じって、ノックの音が聞こえた。
あれお兄ちゃんかな。さっきご飯の支度してる様子なかったけど。
「どしたの? ご飯まだでしょ?」
扉を開けると案の定だった。
「ああ、根詰めて作業してたら買い物忘れちゃって。食材ほとんど昨日使い切っちゃったから、ろくなもの作れないんだよ。もし遅くなっても構わないならこれから買い物行ってく――」
そこで急に言葉を切り、お兄ちゃんはわたしの肩越しにパソコンのほうを見る。
「かりんの好みって、こういう感じ?」
「こういうって。あ」
背後で流れてるのはミクの歌う『innocent concealment』という、今年に入って人気を伸ばしてる『ころたね』というボカロPの曲だ。わたしは去年から知ってるけどな。
流行に漏れずアップテンポでエッジの効いたビートながら、少ない音数を組み合わせの妙で万華鏡のように変化させるアレンジと、切ないメロディに優しい歌詞。加えてわたしの場合、音の質感が洋楽なのがツボで知って以来ずっとヘビロテ。
このPの曲はぜんぶプレイリストに入れてる中でも、一番のお気に入りだった。
「うん。すごい好きなんだよね、これ……なに変な顔してんのよ」
お兄ちゃんは呆れ笑い、を隠すような表情をしてる。隠せてねぇし。なんだよ。
「いや。ボカロとか聴くんだ、って」
……あーあ。それかよ。ちぇ。だから言いたくなかったのに。
洋楽厨とかバンドマン、及びバンギャってやたらとボカロのことバカにしたがるよね。あとオタじゃない女子中学生一般。いずみや若葉ともそれでケンカになったことあるから、これについてはあまり公言してないのだ。ほかのオタ趣味については嫌いなひとでもわりと軽い冷笑ぐらいで済むのに、どうして音楽の話になるとみんな合わないもの全否定するんだろうな。
わたしはパソコンのほうへ歩いてマウスを持ち、曲を止めた。
「いいじゃん聴いたって。わたしの勝手でしょ」
もちろんお兄ちゃんは基本的に偏見とかないひとだって信じてる。とはいえ向こうで洋楽の流行最先端に触れながら自分でも音楽やってたわけだから、オタとはいえボカロなんて島国の局地的ムーブメントのことはあまり知らないだろう。
動画サイトのコメント欄とか見ると外人のもあるし、アメリカでもミクのライブが大盛況、みたいなニュースも聞く。でもああいうのは現地の日本オタが盛り上がってるだけで、一般に市民権を得てるわけじゃないらしいし。
「否定なんてしてないよ。ただ驚いただけ。消さなくてもいいのに」
お兄ちゃんはそう言うけど、微妙に機嫌を損ねたわたしは扉のほうでなくベッドに戻って、本の続きに目を落としながら答える。
「じゃ驚いてないで自分で聴いてみれば? 食わず嫌いとか良くないし。知りもしないで否定するとかバカのやることだってあんた昔から言ってたじゃん」
実際それは、オタになり始めた頃の虎次郎兄ちゃんから口癖みたいにしょっちゅう言われたセリフだった。そんでいまはその通りだと思う。
「だから否定してないって。それにボカロはおれが日本にいた頃からあるよ? でもあの頃はかりん、興味なさそうだったから」
「そうだけどさ……」
それもその通りなんだけど。お兄ちゃんこそ昔から洋楽ばっかだったじゃん。
「とりあえず、いまの参考にするよ。期待して」
参考って?と疑問に本から目を上げると、お兄ちゃんはいたずらっぽくにやにやしてる。
あ、こないだの約束かな。じゃ作業ってのも、打ち込みのことか。
家事をやってるときを除けば、お兄ちゃんもわたし同様だいたい自分の部屋にいる。世間話程度のことはご飯とお茶の時間にしてるし、ついさっき自覚した通り込み入った話についてはわたしのほうで避けてきた。
なのでお兄ちゃんの部屋にはめったに入らないから、このひとが普段なにしてるのかはぜんぜん知らなかったんだけど、話の流れからするとどうやらわたしの一方的な約束のためにせっせと働いてくれてるらしい。
「……まぁ心境の変化があったの。ところでご飯の話はどうしたのよ」
そう思うと機嫌損ねたのは悪い気がして、本を閉じて話題を切り替えた。
「ああそうだ、遅くなってもいいなら買い物行ってくるけど、もし腹減ってるなら弁当買ってくるか、出前取るかしようと思って」
「んー、いいよちょっとぐらい遅くなっても。本読んでるし」
自分のために作業させといてご飯の支度まで任せっぱなしとかいい身分だな、って気持ちはあっても、読み始めた本はある程度キリのいいところまで進めときたい性分なのだ。ごめんねお兄ちゃん、でもあんたわたしのこと姫扱いしてるんだからきっと本望だよね。
「わかった。じゃ待っててくれな。ところでそれ」
お兄ちゃんはわたしの持つ本を指さして言う。
「『空の鍵盤』の4巻だろ? 読み終わったら貸してよ」
「……知ってたんだ」
びっくりした。まさかほんとに読んでたとは。
「ん? ……ああ。注文して向こうでも読んでたよ。面白いよね。ちょっと光太郎のキャラがエキセントリックすぎると思うけど、まぁラノベだし」
光太郎というのは、作中で奇矯な行動と誤解を招く発言の数々をもって主人公の陽子を振り回す、そんでお約束通りクソ鈍感な天才ピアノ少年の名前だ。
しっかしよく知ってたな。荷物にそれっぽいのほとんどなかったし会話にも出てこないし、実はもう半分ぐらいオタ卒業しちゃったのかなって思ってたけど。こんなアニメ化もしてない作品までチェックしてるぐらいだからやっぱ変わらずか。
「そんなことないよ。たまにこういう奴いるって」
「そう? おれが陽子だったらあんな面倒な奴はいやだけどな」
苦笑いしながらそれだけ言って、お兄ちゃんは扉を閉めた。あんたが言うな。
……そいや光太郎と虎次郎って、微妙に名前被ってるよな。やたらと思わせぶりなところもそうだし。もしかして帰ってきてからのあれって、こいつ意識してたりして。なんだラノベの影響でキャラ変わっちゃうとか、かわいいとこあんじゃん。
少しだけ、お兄ちゃんのことがわかったような気がした。お気に入りの曲を最初から再生し直し、上機嫌のまま読書に戻る。
半分ぐらい読み進んだ頃、再び扉をノックする音が聞こえた。
お兄ちゃんのご飯はわりと洋食寄りが多いんだけど、今日は鯵の刺身に茄子の煮浸し、それから海藻のサラダに、オクラと大根の冷製みそ汁と和食寄り。実のところ女子的にあまり身体の冷えそうなメニューが続くのは好ましくなくて、わたしが夏でも温かいお茶をよく飲んでるのもそれが理由だ。
とはいえ今日も暑いし、食が細くなってバテるよりはよっぽどマシなので良しとする。美味しそうだし……ただひとつを除いて。
「なんで納豆が出てんの?」
「美味いよ? かりんも早く食べればいいのに」
箸をつけ始めたお兄ちゃんは、当然みたいな顔で納豆を混ぜる。絶対覚えててやってるよなこいつ。せっかく機嫌直してやったのになんのいやがらせだよ。
「やだ。臭いし」
わたしはそんなに好き嫌いのあるほうじゃないけど、納豆は見た目(特にひき割りがだめ)もにおいも生理的にどうしても苦手で昔から食べられないのだ。
「食べてから言いなよ。食わず嫌いはバカのやることなんだろ?」
「あんたそんなの根に持ってたのか!」
お兄ちゃんはもう半分吹き出してる。睨みつけてやったものの、実は『空の鍵盤』の3巻で給食のおかずについて光太郎が陽子に似たようなことを言う場面があって、それを思い出してしまったわたしは内心ちょっと楽しんでるところがある。おそらくはお兄ちゃんも、そこまでわかってやってるのだ。
「食べないかんね。ねばねばするし」
「じゃみそ汁もオクラ抜いたほうが良かったかな。外すからお椀取って」
「取らなくていい」
伸ばしてきたお兄ちゃんの手を払ってお椀に口をつける。やっぱ美味しいし。そのまま箸を取って、わたしは黙々とご飯を食べ始めた。
これあれだ。こいつ昔けっこういたずらっ子だったんだよな。たまに目を細めて憎々しげに見てやると、向こうは逆に嬉しそうにする。昔もこういうやりとりよくあったっけ。
悪くないと思えてきて、それが顔に出ないよう拗ねたふりをする。
その後2回尋ねられた「納豆食べなくていいの?」を無視すると、ほんとは最初からそのつもりだったのか、結局わたしのぶんまで食べてくれた。
意地悪されたといっても遊びなのは承知してるので、お兄ちゃんが食器を洗ってる間にお茶を入れてあげる。今日は普段よりご飯が遅めだったからカモミールで。
「さっきさ、今日子さんに会ったよ」
ティーカップをテーブルに置くと同時にわたしは言った。
「へぇ。あのひとこのへんに住んでるの?」
お兄ちゃんは動じてない様子だ。こないだ途中まで変だったし、なんか面白いリアクション引き出せるかと思ってやり返したつもりだったのに。
くそぅ。でもまだ諦めないもんね。
「うん。北口のほうだって。そんで国立東高校の1年。2学期から同級生かもよ」
「……へぇ」
あ。動じた。ふふーん。
「なにやっぱ気にしちゃってんの? しょうがないか、今日子さん素敵だもんね」
「ああいうひとが嫌いな男はあまりいないと思うよ」
お兄ちゃんはわたしを不思議そうに眺める。残念ながら動揺はすぐ消えてしまったらしく、いつものように続けた。
「まぁ、かりんのほうが綺麗だけどな」
「はいはいそれいいから。外見で女好きになるわけじゃないでしょ」
ちくり。
あれ?
自分で言ってから、わたしなに言った?と思った。
昼間とは違うベクトルでまた刺さった。でも関係もありそうな。
「あんた面食いじゃないし」
なんだろこれ。なんかある。
そうだ、わたしはお兄ちゃんの女性の好みが外見とは別なのを知ってる。
「そりゃ顔だけってことはないけど、美人は普通に好きだよ?」
いやあんたそう言うけどさ。胸の奥がざわざわしてるからちょっと黙って。
「だって見た目で言ったら、それこそ、アイリとか……」
じゃなくて。問題なのはあのときの引っかかり。ヒントを掴んだ気がする。
「アイリも素敵な子だと思うよ。また会ってくれるかな」
お兄ちゃんの声が少しぼやけて遠くに聞こえる。うるさい、いま大事なとこなんだから……。
「いいから黙って。あんたの好みなんて……」
思考に集中しながら口だけ動かして喋る。だんだん自分の声も自分のものじゃないみたいに空々しく聞こえ始め、視界がぼんやりする。
なにか、思い出さなきゃいけないことがあるような。
「かりん、なに気にしてるの」
思い出す。記憶が重なり始める。今日子さんの第一印象。
「……あの頃だって……」
品の良い、大人しそうな文学少女。
「かりん?」
あんな近くにいて、なにも気づかなかったくせに。
「あの女……」
――あんたみたいなブスが、わたしのお兄ちゃんに手を出すな。
思い出した。あのときの既視感。
「かりん? どうしたんだよ、十六夜さんになにか言われたのか?」
合ってなかった目の焦点が戻ると、お兄ちゃんが心配そうにわたしを見てる。
「え? ううん、なにも。ただお兄ちゃんの悪口で盛り上がっただけ」
「ひどいな。まだ一度しか会ってないのに」
「自業自得でしょ」
そうだ、なに勘違いしてんだわたし。ほんと病気か。十六夜今日子さんは、あの女じゃない。あいつ、なんて言ったっけ……えっと、山む……違う、村山先輩だ。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
あの女のこと、まだ覚えてる?と言おうとして、いったん口をつぐんだ。
お茶を手に取り、カモミールの鎮静作用に身を委ねる。あの頃についてちゃんと話をすることを、まだいまは、お兄ちゃんは望んでないだろう。
「もうすぐ、お盆だね」
「そうだな」
それっきり、お茶を飲み終えるまでお互いなにも言葉にしなかった。