第1章 (3)
「はなちゃん、今日なにして遊ぶ?」
前の席から首だけ後ろに向け、美由紀が尋ねてきた。
わたしは左手に窓の外を眺めつつ、どうでもよさそうに答える。
「んー、ドッジボールでもやる?」
「えー、また? はなちゃんドッジ強すぎだよ」
もともと得意ではあったけど、試しにあの女のやり口を真似てみたら面白いように勝てた。一度わたしひとりで全員仕留めたときは自分でも驚いたものだ。
認めたくはなくても、ひとつ勉強になったのは確かだ。正面から挑むだけが戦いじゃない。今回それ以外の手をわたしが思いつかなかったことで、最悪こそ避けたものの、誰も幸せにならなかったのだから。
「コツがあんの。……とりあえずノート取れば?」
美由紀が渋々前を向くのを待って、わたしも黒板の内容を書き写した。
それからまた校庭の様子に目を向ける。
窓の外では6年生のクラスが体育の授業をしてる。校庭を2面に分けて男女別のサッカー。村山先輩はドッジボールのとき同様、目立たないところで絶妙なパスを出し、相手エース格の動きをさりげなく邪魔して自分のチームを勝たせてた。
虎次郎兄ちゃんはボールに絡むこともほとんどなく、たまたま足元に来たボールさえチームメイトに奪われてた。
つまらなくなって外から目を離す。といって授業に集中するわけでもない。
――すごく頭良いよね高嶺くん。
ひどい嫌味だと思う。
そして気づけなかったわたしは確かにバカだ。もっと早く気づいてれば、ここから切り崩すことだって出来たはずなのに。
ほんとに教わって感謝してるのなら、お返しに自分が持ってるものを相手に教えるだろう。それをしないのは、する理由がないからだ。なにも感じてないからだ。お兄ちゃんがまだ口を利いてくれる間にこれを言えなかったのが、わたしの一番の失敗だったかもしれない。
そんなことを半分うわの空で思いながら午前の授業をすべて終え、給食をゆっくり食べた。あの時期に覚えた変な特技も、もう使う機会はないだろう。
わたしの戦いは友達に知られることなく終わり、平和な昼休みが戻ってきた。
結局外で遊ぶのは却下され(わたしは暴君じゃないのだ)、教室の角、わたしの席を中心に女子トークが始まった。好きなひとがどうの彼氏がどうのといったいつもの内容に、少し心を痛めながら適当な相槌を打つ。彼氏作らない宣言しちゃったわたしが単なる聞き手になるのもいつものこと。
興味がないわけじゃない。恋バナ、特に上手くいってる話はいずれ参考にしようと聞き耳を立ててるし、リアルな初デートのやりとり、とりわけ初キスさせるのに成功したみたいなのが出るとやっぱりどきどきわくわくしてしまう。
「てなわけで。今度部屋に呼ばれちゃうみたい」
そしてまさにいま、美由紀が彼氏とのキス話をしたところだった。
すかさず、うっそまじで? やったじゃん! 行くところまで行っちゃう?みたいな小声になってない小声が次々に響く。
どうでもいいけど美由紀の彼氏は同じクラスの大塚くんで、数ヶ月前はわたしのことが好きだったらしい。らしいっていうか、体育の後片付け中に体育倉庫でふたりきりのときにキスされそうになって、お父さん仕込みのショートアッパーからのワンツーで撃退したことは美由紀に悪いから秘密だ。
なので個人的に好感は持てないにもかかわらず、いざ上手くいった話を聞くとそれなりに気になっちゃうのは、なんだかんだわたしも女子の習性には勝てないってことなんだろうか。
「はなちゃん、どんな格好してったらいいと思う?」
「とりあえずミニスカートじゃん? その気があるならだけど」
未経験どころか恋愛すらしたことないわたしに訊いてどうすんだ、と思うもこの手の話、龍一兄ちゃんの彼女とかに頼んでもないアドバイスされるせいで、耳年増になってるのは残念ながら事実。
「えー、いきなり? 早くない?」
とか言いながら美由紀はちょっと嬉しそう。まぁわたしも早いとは思うけどさ、その早いをやってた実例が身近にあるし。ついでにこれも言っとくか。
「あとゴムな。どうせ向こうは持ってないだろうし」
やだはなちゃん生々しいって! こんなとこでそんな話しちゃだめだって!とか言われてもこんなとこでそんな話始めたのあんたらじゃん。
勢い声が大きくなってきたところに教室の反対側で、出たよ女子うるせぇ、と男子の誰かが言った。そっちこそうるせぇよ。
「聞き耳立てんなスケベ」
男ってエロいことには興味しんしんなくせに、下手したら避妊具の存在すら知らないようなガキだから女がこういう話しなきゃいけないんだっつーの。
とはいえわたしにはしばらく縁がなさそうだし、そろそろ話題変えるか。
「そいや美由紀、メガネ買った?」
美由紀はかわいい。同じメガネっ子でもあの女とはずいぶん違う。素材が良いだけじゃなくいつも気の利いた格好をしてるので、ファッション好きのわたしも参考にしてる部分が多い。あまり頭は良くないし運動も得意じゃないけど、女子カーストで上位に入るにはそれに加えてある程度の明るさ、話好きがあれば充分だ。
今日かけてるのは赤のスクエアフレーム?だっけ? 四角っぽい形の大きめなやつで、そういう目立つアクセって取り扱い難しいんだけど、ポニテのシュシュと色を合わせたりして上手にまとめてる。
「あ、気づいた? 今回大きめの挑戦してみた。どう?」
「いいじゃん。ほんとに顔小っちゃく見えるよ」
いつだったか聞いたところによると、大きいフレームは顔のバランスを崩しやすいらしい。ただし似合うなら小顔効果があるとのことで、次に新調するとき試してみたい、と言ってたのを思い出した。
コンタクトって高いみたいだし、芸能人の伊達メガネとかを参考に目の悪さすらおしゃれにしてしまうポジティブさは見習いたい。わたしも買ってもらおうかな。
「それでもはなちゃんには負けるけどねー」
まぁまぁ、とわたしは愛想笑いで応えた。実際わたしはお母さん譲りの小顔で、これは遺伝に感謝してる。
うちのネガティブ星人も、一応そこは受け継いでるんだけど。頭は小さいのに頬がふっくらしてるので体型的に子供っぽくて、なのに老け顔に見えるからいろいろバランス悪い。
「ほんと読モやったらいいのにね」
一方でわたしはよくこんなことを言われる。大人っぽく見える格好が好きなのもあるけど、お婆ちゃんの家に行くため2人で電車とか乗ると、子供料金の切符をわたしだけ咎められたりする。虎次郎兄ちゃんは当然素通りだからあとで機嫌悪くなったりする。なお龍一兄ちゃんはお婆ちゃんと仲が悪いので、家族全員で顔を出すときを除いてあの家に行くことはない。
「絶対いけるって、応募しちゃえばいいのに」
「ねー、今月それ用の服買ってもらえばいいじゃん」
って、あー……。
「そ、だね……」
今度の日曜、どうしよう……。
というのは、わたしは毎月お婆ちゃんに服を買ってもらえるのだけど、そのためには虎次郎兄ちゃんと一緒に国立の家へ行かなきゃいけない。それが毎月末の――今月は次の日曜だ。
なぜかお婆ちゃんがわたしに甘いのは間違いない。虎次郎兄ちゃんには勉強させまくるし、龍一兄ちゃんの成績にぼろくそ言うくせに、ピアノ教室の月謝まで出してくれながらわたしの学力にはほとんど興味を持たない。
ただそれ以上の不思議は、口では褒めちぎりながら、ほっといても出来る虎次郎兄ちゃんをわざわざ勉強部屋に閉じ込めることだった。
ところが去年聞いたところによると、虎次郎兄ちゃんが毎月国立まで行って勉強するのは、小金持ちなお婆ちゃんのご機嫌取ってお金を貰うためだという。
うちはあまり裕福なほうじゃないし、平均を下回るお小遣いでいつもゲームとかどうやって買ってるんだろう、という謎はそれで解けた。かわいい孫が遊びに来たら普通ただでお小遣いぐらいあげね?というツッコミに対しては、それがうちのお婆ちゃんなのだとしか言えない。
まぁゲームは余談で、わたしにとって問題はそこじゃない。
困ったことに「自分だけじゃ悪いから」と言って、まるでバイトのように必要もない勉強をすることで、わたしの洋服代も出してくれる約束なのだ。つまりわたしがおしゃれ出来るのは虎次郎兄ちゃんのおかげだったりする……んだけれど。
「んー、今月はいいかな。いま特別欲しい服ないし」
考えたくなかった件を突きつけられて、わたしは嘘をついた。
「あれ、こないだジャケット欲しいって言ってなかった?」
ジャケットっていうか金ボタンの紺ブレザーな。龍一兄ちゃんの彼女が前に着せてくれて、似合うと褒められたせいで欲しくなっちゃったやつ。2年待てば制服で着れると知ってても、毎月買ってもらえると思うとなかなか我慢が効かない。
「気が変わった。しばらくは持ってる服の組み合わせで楽しもうかなって」
それでもいま頼っちゃうのは、だめな気がする。
あれから半月ほど経ち、まだ虎次郎兄ちゃんは口を利いてくれない。
アニメやラノベの話を振っても、ゲームするのを後ろで見てても、勉強教えてと言っても、ピアノ(練習用のキーボードだけど)弾いてと頼んでもだめだった。手を取って頭を下げても無視して、わたしがいないみたいに振る舞った。
食卓で話しかけても態度を変えず、何回もお父さんに怒られてた。見かねた龍一兄ちゃんが首根っこ引きずってわたしの部屋に連れてきたりもした。それでも虎次郎兄ちゃんは譲らず、殴って説教しようとする龍一兄ちゃんを例のごとくわたしがなだめたりした。
村山先輩とお兄ちゃんがその後どうなったのかは知らない。
あの日以降も何度か図書室を覗いてみたけど、ふたりの姿を見かけることはなかったので、あれはそれなりに上手くいったんだと思う。もし知らないところ、見えない形でいじめが継続してたなら、お兄ちゃんのほうからわたしが言ったことの意味を察して謝るなりなんなりしてくれるはずだ。
なおいまのところ、先輩がわたしに仕返しをする様子はない。
学校では何食わぬ顔で過ごすようにしてたけど、しばらくの間は内心けっこうびびってた。思いっきりやっつけたし、ハッタリも効かせたとはいえ、上級生にケンカを売るのはやっぱりけっこうなプレッシャーがあったのだ。
おそらく解決しただろうことにほっとした反面、罪悪感もある。もちろん先輩にじゃなく、お兄ちゃんに対してだ。
いまでもわたしは味方のつもりだし、似たようなことがまたあれば、そのときも同じように助けるだろう。だけどお兄ちゃんにしてみれば、妹が初恋に横槍入れてぶち壊しにしたのだ。許してくれないのも仕方ないと思う。
ぜんぶ正直に話そうかと思ったこともあるけど、未遂で終わらせたことによって証拠はなにも残ってない。覚悟してたとはいえ、ただでさえ相手してくれないのにそんなこと言っても、いまは逆効果にしかならないだろう。
あるいは仕返しのないことが、先輩の仕返しだったのかもしれない。
「お兄ちゃん、ほんとにわたしがいていいの?」
おかげで日曜、こうしてふたりで電車に乗ってるのはかなり居心地が悪い。
3度目の同じ質問にも、お兄ちゃんは景色の流れる窓に目をやったまま、なにも答えない。今度も会話を諦め、わたしも隣で同じように窓を見た。
ほんとに来るつもりじゃなかったのだ。いつになるかはわからなくても、仲直り出来るまでなにも恵んでもらっちゃいけないと思ってた。
なのに今朝、雑念を振り払うようにヘッドフォンをかけてピアノを弾いてると、お父さんが「もう虎次郎は準備出来てるぞ」と呼びにきてしまった。
玄関先に荷物を置いて座り込む虎次郎兄ちゃんに「今日はひとりで行って」と伝えて部屋に戻ったんだけど、30分ぐらいして再び部屋を出たら、そのままの姿でまだ待ってた。
一度こうなると虎次郎兄ちゃんは頑固だ。龍一兄ちゃんに相談したくても前日から泊まりで遊びに行ってたし、お母さんは論外、お父さんはいつもわたしの新しい服を喜ぶのでこっちが折れるしかない。
急いで準備を済ませ、わたしと一緒でもいいの?と訊いても、目も合わせてくれなかった。ただ無言でドアを開け、わたしが靴を履くのを待ってくれた。
どうして?と尋ねたくても、これは訊けない。
実は洋服代の件、わたしは知らないことになってる。今回ほどじゃなくても長めのケンカで落ち込んでたとき、龍一兄ちゃんがこっそり教えてくれたのだ。
正直あれは泣いた。普段だめだめでも、虎次郎兄ちゃんがわたしのお兄ちゃんで良かったと心から思った。
「ごめんなさい」
そのときの気持ちを思い出して、いまも少し泣きそうだ。
俯いて思わず呟いた謝罪に、お兄ちゃんが一瞬こっちを向いた気がした。わたしは振り向く気になれなかった。そのあとはお互いに口を開くことなく、ただ電車に揺られ続けた。
国立駅を降りて20分ほど歩き、お婆ちゃんの家に着く。
「いらっしゃい、ふたりとも」
にこにこ出迎えてくれる姿に、相変わらずだなぁ、と思う。
「華麟はまた綺麗になったわね。将来が楽しみ」
お母さんに似たんだけどね、とはあえて言わない。
失礼ながらお婆ちゃんはあまり器量に恵まれてなくて、お父さんに言わせると、お母さんに嫉妬してるらしい。なお愛妻家のひいき目だけでなく、昔の写真を見たら確かに美人だった。苦労性で表情も硬いせいか、普段そういう印象ないけど。
かたやお婆ちゃんは若い頃の写真でも微妙だった。太ってるし、身内から見てもイケメンなお父さんを産んだとは思えない。一方で虎次郎兄ちゃんにはこれが遺伝しちゃったのかな、と残念な気持ちになる。
「ありがと」
隣のお兄ちゃんを見ずに、わたしは愛想笑いで応えた。
頼んでくれたお寿司を食べてる間もお兄ちゃんはわたしとひと言も喋らず、ただお婆ちゃんの言葉にだけ応えてた。とはいえここで仲悪い姿は見せたくないので、わたしから話しかけることもない。
「この間の宿題はやってきた?」
「やったよ」
「わからなかったところは?」
「ない」
このやりとり、もう何度目だろうな。虎次郎兄ちゃんが勉強でつまづくところなんて一度も見たことないのに。
ちなみにその宿題とやらは中学2年の問題集。わたしが物心ついた頃から虎次郎兄ちゃんは2~3こ上の勉強をしてて、事実上の飛び級状態だ。
「そう。やっぱり虎次郎は出来る子ね」
上機嫌なお婆ちゃんの次のセリフも、だいたい予想がつく。
「晴香に似なくて良かったわ。龍一は可哀想にね」
ほら出た。
びっくりすることに、これでも悪意がないつもりらしい。いまはもうなくなったけど、昔は龍一兄ちゃんの頭をなでながら堂々と言ったりしてた。
これさえなければ、わたしはお婆ちゃんを好きだったかもしれないのに。
「じゃ虎次郎、食べ終わったなら始めるわよ」
「わかってる」
虎次郎兄ちゃんのおかげとはいえ服は買ってくれるし、家も庭も広いしソファはふかふか。それでもここには、あまり良い思い出がない。
子供たちの目の前でお母さんをバカにしたり、それにキレて出てったお母さんをお父さんが慌てて追いかけたり、一度でもテストで100点取るまでもうお年玉をあげない、と言われた龍一兄ちゃんが椅子で窓ガラスを叩き割ろうとしたり。
「お茶もお菓子も好きにしていいから、華麟は待ってなさい」
休む間もなく連れてかれる後ろ姿も、そのひとつだった。
「はーい」
キッチンで紅茶を淹れ、読みかけのバトル系ラノベをバッグから取り出す。
お兄ちゃんの勉強は、だいたい3時間ぐらい続く。なのでこっちに友達のいるわけでもないわたしは、どうにかして時間を潰す必要があるのだ。
発表会も近いし、ピアノでもあればいいんだけど。月に1度しか弾かれることがないんじゃピアノが可哀想だから、さすがにそんなおねだりは出来ない。
キリの良いところまで読んで時計を見る。不意打ちから始まった戦闘で軽くピンチを迎えた主人公が、ちょうどこのときのために用意されたような隠し能力を披露するところだった。
まだ1時間ぐらいしか経ってないけど、目が疲れたので一度本を閉じる。
そいやすっかり俺TUEEEも受け入れちゃったな。読み始めた頃は、バカにしてるとしか思えなくていちいちむかついてたのに。多少の修行シーンはあっても、そもそもの前提が桁外れだからぜんぜん努力してるように見えないし。
あり得なさまで含めてファンタジー、と言われたところで、納得出来ない話じゃ逃避にすらならなくね?という印象だったのだ。
――じゃ訊くけどお前、おれに生まれてきたら人生楽しいと思うか?
理解のきっかけは、虎次郎兄ちゃんの眼差しの痛さだ。
その言葉の意味も、すぐわかったわけじゃない。ただ少し考えてみると、わたしはどうやら最強系ラノベ主人公(が最強になる前)の多くと真逆らしい。友達は多いし昔からモテるし、成績も実技科目含めてぜんぶ良い。
言ってしまえば、引き立て役のリア充キャラみたいな感じだ。
そのことに気づいてしまうと、もう最強主人公たちのやりすぎな最強っぷりを鼻で笑えなくなってしまった。
なぜって、それはわたしと虎次郎兄ちゃんの関係そのものだから。
確かに虎次郎兄ちゃんは非リアで、本人はろくな取り柄がないと思い込んでる。その一方でわたしは――もしかしたら龍一兄ちゃんも、物語冒頭で主人公を卑屈にさせるリア充たち。
なので話に説得力がなくても、キャラ設定には共感出来るらしい。都合良い展開にあふれた逆転人生が、ちゃんとファンタジーとして成り立つらしい。
対して、わたしが楽しめるようになった仕組みはちょっと複雑だ。
まず虎次郎兄ちゃんがそれを楽しんでるということは、わたしや龍一兄ちゃんを見下したい願望があるということになる。いつも言うようにバカにされてると思って、反対にバカにしてやりたがってることになる。腹立たしいことこの上ない。
だってそれは逆だ。バカにするどころか、わたしは憧れてるのだ。キャラを自分に重ねるというのなら、運動以外なんでも天才の虎次郎兄ちゃんはもともとチート主人公なのだから。
残念ながら現実はラノベじゃないわけで、言われた通りその人生が楽しそうには見えない。だけどわたしに言わせれば、『虎次郎兄ちゃんにとってのわたし』は、とっくの昔から引き立て役だった。
そう思ったら、あり得ないはずの内容がとたんに現実的になってしまった。わたしにとってそれは、ちゃんと意味のある夢物語になってしまった。
もちろん主人公には共感出来ないけど、スキルにものを言わせて着々とリア充に変わってく筋書きは、虎次郎兄ちゃんに求めるわたしの願望でもあった。
ちなみにわたしが共感しやすいのは異世界召還ものによくある、最強になる前から主人公に思いを寄せるクラスのアイドル系ヒロイン。わたしはこのひとの良さを知ってる、と言いたい気持ち、いまはすごくわかる。
まぁ最強進化後ならともかく、最初のへっぽこ主人公相手にその感情が恋に発展したりとかしないと思うけど。せいぜい尊敬出来る友達止まり、いやそもそも兄妹なんだから、もし将来願望通り最強になったところで、そういう好きとかそれこそあり得ないけど。
だとしても支えたい。現実の虎次郎兄ちゃんは、ヒロインの助けなんてなくても勝てそうな主人公とは違うから、なおさらそういう誰かが近くにいてあげなきゃいけない。このままじゃ報われなさで壊れてしまいそうに見える。
なのに上手く行かない。現実がラノベじゃないのは、わたしにとってもだ。
本に戻ろうとしても集中出来ず、ソファに寝転がって目を閉じる。
ひま潰しのつもりがいつの間にか、悲しい考えごとになってしまう。
誰が、なにが悪かったんだろう。
どうしたらわたしを信じてもらえたんだろう。
お兄ちゃんが、わたしの言葉にちゃんと耳を貸してくれたら良かったのに。
恋をするなら、好きなひとを振り向かせられるひとになってくれたら、せめてそうなろうと頑張ってくれたら良かったのに。
村山先輩が、お兄ちゃんにとってほんとのヒロインだったら良かったのに。
想いに応えろなんて贅沢言わないから、せめていじめっ子じゃなくて、わたしと同じように助けてくれるひとだったら良かったのに。
自分が貰ったなら、ちゃんと返せるひとだったら良かったのに……
「……あれ?」
ちょっと待てよ。
わたしと、同じように?
まぶたがばちっと開く。とんでもない答えを思いついてしまった。
信じてもらえないのは、受け取ってくれないんじゃなくて。
「返せてない……?」
まさか。いや、でも……。
一度そう思うと、心当たりは次々に出てきた。
こないだの件、あれはわざわざ考えるまでもない。わたしは助けたつもりでも、お兄ちゃんから見れば恩を仇で返されたようなものだ。
オタ趣味に手を出したときも、最初は文句たらたらですぐケンカになった。
何年か前までは、勉強教わっときながら八つ当たりとかしてた。
――本人の前だと素直じゃないとこ。
「そっか……だからか……」
悪い意味でばかり、わたしは素直すぎたのかもしれない。
「ほんとにバカじゃん」
はっきり口にすると改めてへこむ。でもこれは認めなきゃいけない。
虎次郎兄ちゃんから見たわたしは、わたしから見た村山先輩と同じ。
そうなのだとしたら。
「はぁ……」
深いため息をついて、わたしのするべきことを考える。
いまのわたしに出来ること。出来てなかった、一番大事なこと。
やがてひとつのアイディアに納得すると、考え疲れて再び目を閉じた。
肩を叩かれて起きると、お兄ちゃんが無表情でわたしを見下ろしてる。
「あ……おはよ」
じゃなくて。勉強終わったんだ。
時計を見れば2時間どころか、もう夕食どき。うわまじ寝してた……。
「……もっと早く起こしてくれて良かったのに」
そう言ってもやっぱり返事はなし。でもさっきまでと比べれば、もうそんなに寂しくない。寝ちゃう前に考えてたことは、しっかり覚えてる。
よし。頑張る。
顔を洗いに行って戻ると、お婆ちゃんが封筒を差し出してきた。
「はいどうぞ。かわいい寝顔だったわね」
見るまでもなく、中身はお兄ちゃんの稼いだお小遣いだ。
「また新しい服見せてね。毎月楽しみにしてるんだから」
「うん、わかった」
もう自分のは貰ったのだろう、わたしが封筒を受け取るなりお兄ちゃんは玄関に向かった。わたしも荷物をまとめてあとを追う。
また来月ね、と手を振るお婆ちゃんに頭を下げ、駅へと歩き出す。
行きと同じく会話のない中央線の電車を、一度立川で降りる。
帰りの途中、わたしの服を買うのはいつも通り。付き合わせてもいやがる虎次郎兄ちゃんを適当なベンチで待たせ、駅ビルのなかをいろいろ巡るのが普段の流れ。
でも今日は最初から買うものを決めてたし、何階のどこにどんな店があるのかも知ってる。目星をつけてた店をいくつか覗いて、さっさと買い物を済ませた。
待たせてた場所へ戻り、ベンチの隣に座る。
「はい、これ」
ふたつある買い物袋からひとつ差し出すと、お兄ちゃんは眉をひそめ、わたしと袋を交互に睨む。まったくもう、荷物持たせたいわけじゃないってば。
いまは反射で愚痴っちゃいけない場面。必要なのは笑顔だ。
「ふふっ」
余計に顔をしかめるお兄ちゃんが面白くて、思わず声まで漏れた。
さて、そんじゃ言うか。素直な気持ちを、伝わるように。
「お兄ちゃん、いつもありがとう」
「は?」
やれやれ。2週間ぶりの言葉がこれなんだから参っちゃうけど。
「あと、ごめんなさい。お礼とお詫び。受け取って」
「……意味がわかんねぇ」
とりあえず、無視はやめてくれたらしい。
「わかんなくてもいいよ。わたしがあげたいだけ」
わたしだって虎次郎兄ちゃんが、どうしてちゃんとわたしのお兄ちゃんをやってくれるのかわからない。だからお兄ちゃんもわからなくていい。
首を傾げながら、お兄ちゃんは袋の中身を取り出す。
「で? なにこれ」
「見てわかんでしょ。パジャマ」
虎次郎兄ちゃんの報われなさのひとつに、服の問題がある。毎月買ってもらえるわたしと違って、そのほとんどが龍一兄ちゃんのお下がりなのだ。
「お兄ちゃんのお気に入り、もうつんつるてんじゃん」
身体の成長が遅めとはいっても、まったく背が伸びないわけじゃない。数少ない新品だったパジャマも、そろそろ限界だ。
「だからプレゼント。着てよね」
わたしが買ったのは、シャツというよりジャケットなデザインになってる、やや大人っぽい紺色のパジャマ。似合うかと言ったら怪しいけど、人前で着るものじゃないからこのぐらいは構わないでしょ。
「……ふぅん。まぁ、悪くはないか」
しょうがねぇな、なんてため息ついたって、口元がゆるんでるのは隠せてない。ほんと素直じゃないんだから。
「でしょ。わたしも買ったんだ」
「は?」
わたしも袋から自分のを取り出す。色違いでこっちは赤だ。
「お、おま、それ」
「なに焦ってんのよ。いいじゃんパジャマぐらいペアでも。兄妹なんだし」
ほんとはちょっと恥ずかしいけど、それは内緒。
いまだけお姉ちゃん気分で、虎次郎兄ちゃんの頭をなでてみる。不満そうに手を払われても、それが逆にかわいいと思ってしまう。
わたしがそんなふうに考えてるのを、きっとお兄ちゃんはわかってない。
それでもいい。ぜんぶわからなくていい。
「とりあえずいまはさ、わたしがついてるよ」
わたしには大切なひとだってことさえ、わかってもらえればね。




