第1章 (1)
100人ぐらい友達がいた。
派閥争いには関わらないようにしてたけど、目立ってたせいだろうか、どの女子グループもわたしと仲良くなろうと近づいてきた。
お兄ちゃんたちのおかげで共通の話題もそこそこあって、喋るのにも慣れてたから、男子と仲良くなるのも簡単だった。とはいえすぐ好きになられちゃうのは困りもので、めんどくさくなって「中学入るまで彼氏作らない」宣言とかした。
それを知らない先輩から何度か告られたりもした。虎次郎兄ちゃんの同級生ならまだしも、なかには龍一兄ちゃんの友達(つまり中学生)までいたのはちょっとどうかと思う。もちろんぜんぶ「お友達で」の決まり文句で断った。
ほかに龍一兄ちゃんの彼女や元カノも、妹分というより友達扱いしてくれるひとが多くて、ぜんぶ合わせればやっぱり100人かそこらはいたと思う。
これはそんな環境を当たり前のように思ってた、端的に言って調子に乗ってた、小学5年生女子の話。
「はなちゃん、今日なにして遊ぶ?」
前の席から首だけ後ろに向け、美由紀が尋ねてきた。
わたしは左手に窓の外を眺めつつ、どうでもよさそうに答える。
「んー、好きにすればいいんじゃん?」
だってどうでもいいし。なんでわたしがひとのやること決めなきゃならんのだ。わたしにはわたしのやることがある。
窓際一番後ろはわたしの指定席で、席替えしても譲ってもらえる。要求したわけじゃなく、一昨年あたりからそういう不文律が勝手に出来てた。
そんでその目の前の席に、クラス内カースト上位の女子が持ち回りで座ることになってる。言われて捨て犬みたいな目を見せる美由紀も、そういう立場の子だ。
「えー、また昼休みどっか行っちゃうの?」
「まぁね」
「……じゃ、今日は一緒に行っていい?」
「だめ」
「どこ行くかぐらい教えてくれたっていいのに」
「やだ。それよりノート取れば?」
美由紀はつまらなそうに口をとがらせたのち、大人しく前を向いた。
いまは授業中だ。わたしは先生の話なんて聞かなくても困らないぐらいの成績を取れるし、もし困っても虎次郎兄ちゃんがいるから関係ない。
はずなんだけど、そこにちょっと危機的状況が発生してる。
1ヶ月ぐらい前から、虎次郎兄ちゃんが妙に距離を置いてくるのだ。
そりゃたまには口ゲンカぐらいするけど、言いすぎないよう気を遣ってるし、少しだけなら向こうも楽しんでる節がある。
気づかないうちにひどいこと言っちゃってたのかも、と探りを入れたりもした。けど理由は教えてもらえず、お約束の言葉が返ってくるだけだった。
――かりんは気にすんな。
そんなこと言われたって気になるに決まってんじゃん。
お兄ちゃんの落ち込む理由、それ自体には心当たりがある。
虎次郎兄ちゃんはもともとあまり友達が多くない上に、龍一兄ちゃんの、中学に入ってから出来たヤンキー友達からは評判がよろしくない。
「え、弟? ギャグでしょ? 橋の下で拾ってきたの?」と言ったひとはその場でキレられて黙ったけど、かといって好意的に扱われることもなく、付き合ってるひとを始め女性陣からは存在自体ほとんど無視されてる。
一方わたしに会いたがるひとは多く、お兄ちゃんたちはふたり部屋なのに虎次郎兄ちゃんが追い出されて、代わりにわたしが呼ばれることも珍しくない。
周りはともかくお兄ちゃんたちの仲は悪くないのだから、その状況を居心地悪く感じるのは当然かもしれない。
そして、それ以上に問題なのがお母さんだ。
学校が終わってから夕食どき近くまで騒ぐ龍一兄ちゃんの友達は、正直わたしも迷惑だなとしょっちゅう思う。うちは団地で防音も甘いし、同じ棟のおばさま方に頭を下げる姿には同情したい気持ちも沸いてくる。
加えて去年辺りから呆け始めたお婆ちゃんの電話、あれは自分のことじゃなくてもきつい。わざわざ悪口言うために電話してくる意味がわからない。ほっといて、と言っても『いいのよ華麟は、器量も頭も良いんだから』と噛み合わず、「時間もったいないからメールにして」と言ったら『晴香(お母さんの名前だ)は出来が悪いから、直接言わないとわからないのよ』と謎理論が返ってくる。頭悪いと思うならなおさら、箇条書きの文章にでもしたほうがよっぽど通じると思うのに。
ただ実際、せっかく代わりに相手してるわたしから受話器を奪って、さんざん悪口言われてあとで泣くお母さんはバカだと思う。
せめてそのあと、虎次郎兄ちゃんに当たるのだけは勘弁して欲しいのに。それでへこんだお兄ちゃんのフォローするのは、わたしの仕事なのだから。
虎次郎兄ちゃんの良いところなんて、どうせわたしたち兄妹しかわかってない。お婆ちゃんだって結局は、勉強のことしか見てない。つまり龍一兄ちゃんを頼れないこの場合、わたしが居場所を作ってあげるしかない。
とはいえ普通に慰めようとしても「気にすんな」で終わらせちゃうお兄ちゃんの機嫌を取るために、興味もないアニメやオタ小説の話に付き合うのは大変だった。
ピンチになると唐突に秘められた能力に目覚めて無双(最近覚えた単語その1)するだけのバトルものだの、モテない設定の主人公になぜかいきなり好感度(最近覚えた単語その2)の高いヒロインたちが迫ってくるビッチ小説だのに最初は我慢出来ず「登場人物みんなキモいんだけど」とか言っちゃって、フォローのつもりが逆にケンカになったりした。
そのなかに出た「そういうあり得なさまで引っくるめてファンタジーなんだよ」って文句をヒントにようやく読み方を覚えたというか、だんだん楽しめるようにもなったけど。
もともとオタ嫌いなのに苦労した甲斐あって、わたしと一緒にいるときは虎次郎兄ちゃんも楽しそうにしてくれてる、はずだった。
だから虎次郎兄ちゃんが、わたしに冷たくなる理由はわからなかった。
のだけれど。
「やっぱり……」
わたしの眺める窓の外、校庭では6年生のクラスが体育の授業をしてる。今日は男女混合のドッジボール。4チームに分かれての総当たり戦らしく、その5試合目が行われてる。
違和感に気づいたのは、そのチームの2試合目だった。
三つ編みにして地味メガネをかけたその女は、内野にいるときはとろそうな見た目に違わず、すぐボールを当てられて外野に追いやられた。
ところが外野にいるときボールが回ってくると、けっこうな高確率で相手に命中させてる。球が速いわけじゃなく、一見するとコントロールが良いわけでもない。ただ結果的に絶妙な、避けづらく取りづらい膝下あたりにボールが行くのだ。
先読みで逃げようとするひとの、その先を読んだみたいに。
最初はたまたまだと思った。狙いが悪いせいで、却って予想外のところに飛んできたボールを避けきれないことはわたしにも覚えがある。
その女にボールが回ってくること自体少ないので、ゲーム全体のなかではさほど目立つ働きとは見えない。でも違和感を持って観察すると、もうひとつ妙なことを発見した。内野にいるときはあっさり避け損ねて当てられるのに、外野に回るとそこそこ速い男子のボールも普通にキャッチ出来てる。
そして3試合目――いま行われてる試合で、さらにおかしなことに気づいた。
どうも、運動神経の良い男子を優先的に狙ってる節があるのだ。
もちろん毎回じゃない。そもそも上手いひとはいち早くボールの行き先と距離を取るので、避けづらくても遅い球なら余裕でキャッチしてしまう。
ただ鈍い味方が邪魔で思うように動けないこともある。仕方なく至近距離からのキャッチに切り替えたように見えたその足にボールが当たり、いまも相手チームのエース格らしき男子が外野に送られた。
「あの女……」
思った通り。絶対わざとだろあれ。
「どしたのはなちゃん、ぶつぶつ言って」
びっくりしたみたいに美由紀が振り向いた。やべ口に出てたか。
「なんでもない。独り言」
最近ほんと変だよ、と小声で返す美由紀がまた前を向くのを確認してから、再び校庭に目を移す。やがてその女のチームが3連勝したことを告げる笛が鳴った。
昼休み、給食を急いで食べ終え、わたしは教室を出た。
わたしの用事には特に急ぐ必要もないけど、普段通りゆっくり食べると行き先に付いてくる子がいるのだ。でも早食い自慢の男子みたいに汚くかき込む食べ方はしたくないので、全ての動作を倍速にしつつ丁寧に食事するという、周りから見るとさぞ不気味に違いない特技が身についてしまった。
振り返って誰もいないのを確認し、わたしは特別教室の並ぶ4階へ上がる。
付き合い悪くなった、と言ってくるのは美由紀に限った話じゃない。普通なら軽くいじめを招く状況でも、かつていじめっ子をいじめるのが趣味(龍一兄ちゃんの趣味でもある)だったわたしにそんなこと出来る子はもういない。
だから単純に興味があるだけなのはわかる。かといっていちいち追い返すのも説明するのも面倒なので、誰にも見られたくないのだ。
「さてと」
わたしは図書室の扉をそっと開け、スパイみたいな気分で足を踏み入れた。
本棚の陰から陰へ移動しながら、一番奥の机を見る。あとから付け足されたみたいな小さい本棚に隠れて、入り口や他の机からやや死角気味になってる。
そこに虎次郎兄ちゃんはひとりでいた。ほんと食うの早ぇな。
消化に悪い食べ方すると太るし背も伸びないらしいよ、とは何度か言ったのに、同じような早食いの龍一兄ちゃんがスマートに成長してしまったせいか、まったく聞き入れてくれない。「女みたいな食い方出来るかよ」とか言ってる場合じゃないだろうにさ。
その体型を好意的に見るなら、丸っこくディフォルメしたマスコットのようでもある。事実わたしにとっては、頼りがいはなくともお願いすればすごいものを出してくれる、22世紀の青い猫型ロボットに近い印象があったりする。
ただ去年あたりからだんだんと暗くなった表情に加え、
ぐふ。ぐふふ。
聞こえたわけじゃなくても、そうとしか擬音の付けようのないゆるみ切った笑いがときおりこぼれるのを横顔に見つけてしまうと、
「き、気持ち悪ぃ……」
身内のひいき目をもってなお完全にアウトだった。
絵に描いたようなやばいキモオタの姿が痛くて、わたしはその場に座り込んだ。
きつい。きついよお兄ちゃん。
浮かれるのはわかる……というかそういうもんだ、って知ってる。でもさ、もう少しなんかこう、品っていうか、カッコつけようよ。まぁ拗ねたときみたいに変なキザやるのもどうかと思うけどさ。
「はぁ……」
ひどい笑顔のわけは、その待ち人だ。いつから始まったのかはわからないけど、お兄ちゃんは毎日、昼休みにここで女と会ってる。
そしておそらくこれが、わたしに対して壁を作る理由。
12年の生涯で間違いなく初めて、わたし以外の女子とふたりきりで会うほど仲良くなった虎次郎兄ちゃんの、恋。
なんでそれが妹に冷たくなる理由なんだよ!とツッコミが入りそうだけど、長年妹やってるわたしにはわかる。ちょっとお互い様な部分はあるものの、虎次郎兄ちゃんはわたしに対して妙なライバル意識というか、「おれのほうがお兄ちゃんなんだからな!」みたいな自己主張をしばしばするのだ。
わたしが身長を追い抜いてしまってから、よりその傾向は卑屈な方向に顕著だ。最近だと、ふたりでお使いに行ったスーパーで、クラスメイトらしき女子に「高嶺じゃん、お姉ちゃんと買い物?」とからかわれたときはそのまま夕飯も食べずに夜遅くまでプチ家出してた。
もっと言うとそのとき高嶺と呼ばれたのはまだマシで、わたし同様1こ上に兄のいる友達に聞いた話では、虎次郎兄ちゃんのあだ名は『低嶺』でわたしの呼び名が『高嶺のお姉ちゃん』らしい。
そんなだからわたしに恋愛相談なんてするはずない。むしろ内緒で上手くやって「さんざんバカにしやがって、チビデブでも彼女ぐらい出来んだよ!」とか言いたがってるに違いない。話してくれたらちゃんと聞くのに。
念のため言うと、わたしはものすごく、心配してるのだ。
気づいたのはまったくの偶然だ。1週間ほど前、ひとりになりたくて訪れたこの図書室で、隣合わせて座るふたりの姿を見つけてしまった。
いつもふたりでノートを広げて、なにやら勉強してるらしい。虎次郎兄ちゃんであることを考えれば、一緒に勉強じゃなくて、きっと教えてるのだろう。
さすがにさっきのぐふふ笑いを相手に見せてはなかったけど、勝手知ったるお兄ちゃんのことだ。表情を見れば、そういうことね、と一発でわかった。
ほんとにただ勉強を教えてるだけならわたしの知ったことじゃないし、勘違いで片想いして失恋するのもお兄ちゃんの勝手だ。であればわたしに冷たいのも一時的なことでしかないし、しばらくすれば振られて落ち込む姿を見るだけだろう。
慰めるのはまたわたしの役目なのでめんどくさいところはあるものの、そのときこそ「次の恋する前に少しぐらいカッコよくなる努力したらいいじゃん」と言ってやろうと思う。
なんだかひどい言い草だけど、もちろん上手くいくならそのほうがいい。わたしの推測するお兄ちゃんの狙いには腹立たしさもあるとはいえ、ここ1年ほどの家での立ち位置を思えば、味方が増えたらわたしの負担だって減るわけで。
ただ、ねぇ。
様子を数日見て、もうひとつわかってしまった。
女どうし、遠くからでも雰囲気で察しはつく。お兄ちゃんが一方的に熱を上げてるだけで、相手にそういうつもりはない。
そして繰り返しながら、虎次郎兄ちゃんは女子にめちゃくちゃバカにされてる。
もろもろ含めると、一番ありそうな答えは『手の込んだいじめ』だ。
だって教わるだけなら教室で済む話じゃん。わざわざふたりきり、こんなふうに隠れる必要なんてない。隠れてるのはわたしもだけど。
見たところ恋愛的なニュアンスは感じられなくても、それなりに接し方は優しいというか、親しげな様子ではある。それが余計に怪しい。
本来なら簡単に騙されるようなお兄ちゃんじゃない。でも相手が女であることを考えれば、これも仕方ないかもしれない。わたし以外の女から優しくされるという非常事態に密室効果も加わって、冷静な判断力が失われてるんだろう。
「はぁ……」
再び声付きのため息をついて、わたしは膝を抱えた。
昨日までは、単純にがっかりしてた。
どうせ騙されるなら、せめてもっとかわいい子にしてくれよ、と。
なんであんなダサい地味メガネなんだよ、と。
ところが事態は、わたしの想像を超えて悪いらしかった。
わたしの興味は現在、お兄ちゃんの気持ちより相手の存在に移ってる。どんな女であるか、どのぐらいの悪意を持ってるのか。
さっきの体育を観察してたのもそのためだ。本人の意志でやってることか、それとも女子のいじめに巻き込まれてるだけ(あのキモオタ惚れさせてこい、なんなら胸とか触らせてこい、的なあれ)なのか。
残念ながらあれは前者。たぶんメールのやりとりとかぜんぶ周囲に流してるし、下手したら会話を録音してるまである。
外見からきっと後者と思ってたんだけど、あのドッジボールで考えが変わった。あんなふうに状況をコントロール出来る奴がいじめられっ子のわけがない。むしろいじめっ子を陰で操る黒幕みたいな奴と考えるべきだろう。
そんな女が直接手を出してる以上、ちょっと悪意の底が知れない。
「まじ気分悪ぃ……」
つまり危機的状況とはわたしにとってじゃなく、お兄ちゃんにとってなのだ。
気づいてしまったからには助けてあげたくても、さすがのわたしも上級生、それもおそらく中心人物を相手に強気に出るのはやや気が引ける。
だからどうにか尻尾を掴んで教えてあげよう、と思ってこんな探偵の真似事を、飽きもせず続けてるのだった。
いくら頼りなくても、あれはわたしのお兄ちゃんなのだから。
丸くなった姿勢のまま、もう一度お兄ちゃんのほうを覗いてみる。あの女はまだ来てない。このまま来なきゃいいのに。
「具合悪いの? 大丈夫?」
警戒心が薄れてたのは、かけられた声が優しかったせいかもしれない。
「あ、いや、大丈夫です。気にしないで……げ」
振り向くと、目の前にあの女がいた。
こうして近くで見るのは初めてだけど、改めてひどいと思う。サイズの合ってない色あせたハーフパンツに、首元が伸びた寝間着みたいなスウェットにはバッタもん臭い熊キャラプリント。その時点で充分ダサいのに、明らかに結び目の大きさが不揃いな三つ編みに黒縁地味メガネときた。
わざとやってんの?と言いたくなるような、ある意味完全装備だった。
「でも顔色悪いよ?」
気のせいだよ。もしそうだとしてもそれあんたのせいだよ。こんなところいねぇでさっさとお兄ちゃんのところ行けよ。いや行くなよ。どっちなんだよ。
混乱を隠して立ち上がると少しめまいがした。この展開は想定してない。
「関係ないので。どうぞほっといてください」
「ほんとに? 保健室行くなら、あっちに高嶺くんいるから呼んでこようか?」
「……え?」
今度こそわたしの顔色は青ざめたかもしれない。なんでここでその名前?
「高嶺くんの妹さんでしょ? 最近ここでよく見かけるよね。でもお兄さんに話しかけてくることもないし、探してる本があるなら手伝おうかと思ったら、座り込んで『気分悪い』なんて言うから。びっくりしちゃった」
ばれてたのかよ! つーかどうしてわたしのこと知ってんだよ!
「ぜんぜん大丈夫です。もう見つけましたから」
焦って目の前にあった大きな本を手に取る。いや昆虫図鑑とか興味ねぇから、と内心自分にツッコむわたしに、いかにもな疑いの声がかかる。
「……調子は平気なの?」
「それも大丈夫です。ちょっと食べすぎただけなので」
わたしは図鑑を胸に抱えて顔を背け、すぐにでも立ち去る構えを見せた。
場合によってはいずれ対決もあり得るかもとは考えてたけど、こんなふうに先手を取られるはずじゃなかった。こっちはまだ名前すら知らないのに。
「そっか。気をつけてね。あまり早食いとかしちゃだめだよ」
余裕しゃくしゃくの落ち着いたトーンで嫌味を言われた。余計なお世話だし!
「お兄ちゃんに言ってあげればいいんじゃないですか?」
「言ったんだけどね……」
「とにかく大丈夫ですから」
それ以上言わせないよう、わたしは足早に歩き出す。読むつもりのない昆虫図鑑をそのままカウンターに返却し、図書室を出た。
その夜、家族5人の囲む食卓で、虎次郎兄ちゃんをちらちら見る。
視線に気づいてるのかいないのか、向こうはわたしをまったく見ない。龍一兄ちゃんよりも早く食事を終え、さっさと部屋に引っ込んでしまった。
はぁ、と今度は声に出さないようため息をついて、わたしは給食の仇を取るようにゆっくり晩ご飯を食べる。家族の会話に適当な合いの手を入れながら、昼休みのことを考えた。
第1ラウンドは、悔しいけどわたしの完敗だった。
ただ思い返すに、わたしの読みは正しかったようだ。
伊達に友達が100人いるわけじゃない。顔を見れば、その相手がどんな立場のひとなのかそれなりに予想がつく。
ダサすぎる格好がわざとなのか、センスがないだけなのかまでわからない。でもメガネの奥に見えた確かな知性の光、あれは底辺にいる女のものじゃない。
もちろん頭が良くてもいじめられる子はいる。でもそういう類いのひとは学校にいるとき、あるいは外でも学校の話をするときは、目に不安の影がちらちら見えるのだ。それこそ虎次郎兄ちゃんがそのタイプで、わたしにはお馴染みのものだ。
あの女にはその影がなかった。
そしてもうひとつ、女子がわたしを見るときの目にある、憧れや嫉妬や卑屈さがなかった。これまでの経験上、学年一かわいい(ということになってる)わたしに対し、そういう感情を完全に隠すのはかなり難しいはずなのだ。
3つも年上の、龍一兄ちゃんの彼女や女友達ですらそうなのに、ひとつ上だからってあんなブスが隠せるとは思えない。であればそもそもその感情がない、つまり『かわいい』が問題にならない生き方や立場を持ってるってことだろう。
女でも稀にいるのだ。去年同じクラスだった溝江って子がそれで、顔は平凡でも1年生の頃から背が高くスポーツ万能、成績もわりと良くて学級委員とかに立候補する目立ちたがり屋。ただ性格は残念で、家がそこそこ金持ちなせいか高飛車な上、男子相手でも暴力でわがままを通す面倒極まりない奴だった。
蛇足ながら去年までは女子最大派閥のボスで、男子の付けたあだ名が『女帝』。派閥争いに我関せずを貫くわたしが気に入らなかったらしく、たびたび小さな嫌がらせをされたり悪い噂を流されたりしたので最終的には鼻を殴って泣かせた。
それはいいとして、考えれば考えるほど悪い予感しかしない。
わたしも食事を終え、食器を片付けて自分の部屋に戻る。すると座って落ち着く間もなく、待ち構えてたみたいに虎次郎兄ちゃんが入ってきた。
「なぁ」
顔を向ければ、腕を深く組み、足を浅めに交差したポーズで閉めた扉にもたれかかってる。だからそういうのは似合わないんだって……。
「なに」
声も表情も暗いのはいつものことでも、名前も呼ばずに話し始めるあたり、機嫌が悪いのは間違いない。昼休みのことは、あの女から聞いてるのだろう。
「どういうつもりなんだよ」
「なにが?」
それでも一応、用件が確定するまではしらを切ることにした。
「とぼけんな。図書室」
「図鑑借りたの。すぐ返したけど」
「だからとぼけんな。なに毎日邪魔しに来てんだよ」
……って無理だよな。仕方ない。
「邪魔なんてしてないし」
ちゃんと隠れてたじゃん。ばれちゃったけど。
つーかあの女が油断出来ない相手なのはわかったとして、虎次郎兄ちゃんだって普段はあの程度のかくれんぼ余裕で見つけるくせに、今日まで知らなかったんならやっぱ浮かれてんじゃん。
「じゃ陰で笑ってんのか?」
「笑ってないし!」
なんですぐそういう言い方すんの? ひとの気持ちも考えないでさ。親の心子知らず、ってこういう感じなんだろうか。妹だけど。
「なら呆れてんのか。おれみたいな奴に彼女とか出来るわけないのに、って」
ごめん、それはちょっと思ってる。
「なにそれ。じゃ付き合ってんの? あの女と」
こんなこと言いたいわけじゃないのに、つい買い言葉が出てしまう。機嫌悪いのはわたしも一緒なのだ。
痛いところ突かれたと思ったのか、お兄ちゃんは目を逸らす。
「……付き合ってねぇよ」
「見込みありそうなの?」
「うるせぇな。お前ぇに関係ねぇだろ。ほっとけ」
男子に対していつも思うんだけどさ、脈のありなしぐらい察しろよな。
オタ小説読むようになって以前に増して頭痛くなるのが、ラブコメとかだと露骨に脈ありなヒロインに男がクソ鈍感なくせに、リアルだと脈なしの女に「こんなに好きなんだからきっと通じるはず!」みたいな態度取るのまじ意味不明な件。それもファンタジーなのかね。
「心配してんでしょ? どうせあとで泣くくせに」
ほんとに心配してるのに。ストレスで自傷行為とかしちゃうくせに。家でゲームしてたのにいきなり親指の爪が丸ごとはがれるわけねぇだろ。あんときも本気で焦っていろいろ調べたし引っかける釘なんてどこにも出てないの確認したんだよ。
なのにお兄ちゃんは、わたしを憎々しげに睨んで吐き捨てる。
「どっちにしろバカにしてんじゃねぇか。お前にだけは知られたくなかったよ」
「それはあの女のほうじゃん! わたしはバカにしてないから!」
味方してるはずのわたしが、どうしてこんなに怒られなきゃいけないのか。
実際泣きたいのはこっちだ。お前にだけは、なんてひどいよ。いまお兄ちゃんをほんとに助けられるのは、わたしだけなのに。
「は? 村山さんのこと知ってんのお前?」
だからそんな目で見ないでよ。あんなぽっと出の女より、虎次郎兄ちゃんのことを一番良く知ってるわたしを一番に信用してよ。
「……知らないけど。でもそうじゃん」
「いい加減にしろ。なんで知りもしねぇのにそんなこと言えんだよ。食わず嫌いはバカのやることだって何度言わせんだバカ」
「バカはお兄ちゃんのほうでしょ? なんでわかんないの!」
わかってるよ、わかんないからこうなってるんだって。個人情報はぜんぜん知らなくても、あれがどんな女なのかって話なら絶対わたしのほうが知ってる。それにわたしがなにしてるか知らずに文句言ってるのはそっちじゃん。
「じゃお前はなにをわかってんの? そんでおれがなにをわかってないの? 説明してみろよ」
わたしだって説明したいんだよ。でもまだ証拠があるわけじゃないし、女の状況判断なんて言ったらそれこそバカにされるに決まってる。だからこっちこそ、お兄ちゃんには知られたくなかったのに。
黙り込むわたしに向け、お兄ちゃんは口元を歪めた。
「とにかくもう覗くな。来んな。関わんな」
そうして乱暴に閉じられた扉を、挟んだ先にあるはずの小さくて丸っこい背中、さらにその脳裏にある姿へ向けたつもりでわたしは睨みつける。
期せずして知った名前を、忘れないよう復唱する。
「村山、ね」
絶対掴んでやる。お兄ちゃんじゃなくて、あんたの邪魔してやる。
2部をあんなところで引いてなんですが、3部1章は丸ごと過去編となります。




