第1章 (1)
「ごめんなさい」
中学最後の夏休みを明後日に控え、わたしは学期末の恒例行事に捕まってた。
頭を上げると、目の前の男子が入れ違いに俯く。昔から何度やってもこの瞬間は慣れない。
いわゆるあれだ。愛の告白的な、あれ。
「あのさ、わたしあなたのことなにも知らないんだ」
ほんとは名前ぐらい知ってたけど。
5組の水野くんなる彼は、去年の暮れあたりから急に背が伸び始めてカッコよくなったとの評判をちょこちょこ耳にする。こうして実際に見ても、まぁ確かに悪くないと思う。
「だから、いまこの場ではどうとも思えないよ」
とはいえいつもながら、いきなり「好きです、ずっと見てました」とか言われても困る。別に迷惑じゃないけど困る。
「そっか……こっちこそごめん。呼び止めて」
そんな世界の終わりみたいな顔しなくてもいいのにさ、とは思っても言えない。わたしは恋とかしたことがないので、こういうときどんな気持ちになるのかわからないのだ。
「ううん、それは気にしないで。……まずは友達から、じゃ、だめかな」
これが断り文句のテンプレだとは知りつつも、ほかに言いようがない。わたしだって男子に興味がないわけじゃないし。
相手の中身なんてあとから見ればいいじゃん、とは友人のいずみの弁。
でもさ、とりあえず付き合ってみて気に食わなかったらポイ、とかそれこそ無理じゃん。中学時代の○ルヒじゃあるまいし、わたしそんな鋼鉄メンタルじゃねぇっつーの。
「……うん、わかった。そしたら、LIMEのIDとか聞いてもいいかな」
あー。そうきたか。参ったな。
「それは……普通に話して、仲良くなれたらじゃだめ?」
言うと相手の顔がこわばるのがわかった。……やっぱこれ感じ悪かったかも。
慌ててフォローする。まだ好きも嫌いもないし、可能性すら消すつもりはない。
「あ、教えるのがいやってことじゃないんだ。ただなんか、順番ていうかさ」
「……なら、今日一緒に帰ってもいい?」
おっと、踏みとどまってくれたのは助かる。傷つけたいわけじゃないし、こっちだってこの空気は気まずいのだ。
けどタイミングがね、悪いよ。
「それもごめんなさい、今日は、このあと忙しいんだよね」
軽くまた頭を下げると、目の前の具合悪そうな顔色が、さらに暗くなった。
どうしよう。明日じゃだめかな、とか言ったらこっちもまんざらじゃないニュアンスになりそうだし。期待だけ持たせるようなことになったらそれも悪いし……。
口ごもってしまったわたしを見て相手は目を伏せる。そして、
「わかった、もう気にしないで。ほんとごめんね」
とだけ言い残し、足早に去ってしまった。
あ。うん……。ですよね……。完全にばっさり、って思うよね。
はぁ。またやっちゃった。
……いやもう考えるまい。さて急ぐか。事実、今日は忙しい。
ただでさえ間に合うか怪しかったのに、いまの予定外恒例行事で完全に遅刻だ。
正門まで廻るのは時間の無駄なので、教職員用の通用口から校舎内へ。
脱いだ靴を素早く手提げ袋の上履きと入れ替え、階段を3階までダッシュ。
「ごめんなさい! 遅れました!」
部室のドアを開け、言うとともに勢いよく頭を下げた。
「いらっしゃーい。いいよ、メッセ見たし」
手を振って応えたのは部長の唯さん。他の部員の皆さんも手を振ってくれた。
わたしは真夏の全力疾走で汗ばんだ額をハンカチで拭う。
「でも遅刻したのはわたしの都合なので。ほんとに済みませんでした」
みんな優しく許してはくれても、2つも3つも年上の先輩を待たせてしまうのは、やっぱりちょっと心苦しいし緊張もする。
「気にしないでかりんちゃん。もともとこっちがお願いしてることなんだから」
「いえ、引き受けた以上はわたしの責任ですから」
もう一度小さくお辞儀して、荷物を床に下ろす。
「それじゃ早速、撮影始めちゃいましょう」
そだね、と唯さんは言って衣装を用意し、男子部員はわたしの着替えとメイクが終わるまでしばしの退出。
ここ都立国立東高校は、公立校としては都内でも有数の進学校である一方、部活動も盛んで吹奏楽部や演劇部が毎年のようになにかのコンクールで入賞したりする。かといって文化系に偏ってるわけでもなく、過去には野球部が夏の甲子園に出場したこともある。
で、まだ中学3年生のわたしがなぜそこに出入りしてるかというと、うちの中学は東高とは細い通りを挟んだすぐ隣りにあり、中高一貫というわけではないけれど立地上浅からぬ交流が昔からあるのだ。
文芸部の機関誌は合同で作成してるし、軽音部は中学の機材がぼろいとかでほとんど東高の部室で活動してるらしい。はたまた運動部の才能がある子はたびたび高校の練習に参加させてもらってるとも聞く。
ただわたしの場合はちょっと事情が違って、中学に存在しない内容の部活に今年から協力してる。
「地域振興メディア部」と堅苦しい名前だけど活動はわりとゆるく、主な内容は雑誌造り。
東高内で最近話題のトピックを紹介したり、活きのいい部活の応援記事を作ったり、市内でおすすめのカフェその他デートスポット的なものを紹介してみたり。
簡単に言うと、東高生の青春応援マガジン的なものを発行してる。
たまに地元の障害者施設にボランティアに行ったりもしてるらしいけど、中学生のわたしは正式な部員ではないので、そのあたりにはノータッチ。
そんでわたしの役目はと言えば。
「目線こっち、目力意識して!」
パシャリ。
「じゃちょっとそこでターン……そう、いいよ!」
「腰に手、顎上げてみて! ……今度は後ろ手組んで、そうそう!」
パシャリパシャリ。
とまぁ、こんな具合にグラビア撮影的なものをやってたりするのだった。
もちろん高校生の部活動なので、7月下旬の真夏日とはいえ、水着とかそういうのはなし。いたって普通の私服でちょっと背伸び気味におしゃれするだけ。
「お疲れかりんちゃん、今日もばっちり」
出されたペットボトルを受け取り、えへへ、と会釈で返す。
「ありがとうございます。もう終わりですか?」
「うん、終わり。こっちこそいつもありがとね。そいや今日遅れた理由、生徒会の仕事って? かりんちゃんて生徒会長とかなの?」
遅刻の理由はもうひとつあるけど、そっちは考えたくないので触れない。
「いえ、頼まれてたまに手伝うことがあるだけです。去年、推薦はされたんですけど……その頃は違うことで頭がいっぱいだったんで、断っちゃいました」
「なんだー、かりんちゃんが会長だったらおれも生徒会やるよ、絶対」
男子部員のひとりが言い、すかさず唯さんがたしなめる。
「はいはいセクハラ禁止! 来てくれなくなったらどうすんのよ?」
いやでもかりんちゃんだよ? わかったわかった気持ちはわかるけどアウトね、なんて先輩たちの軽口にわたしも愛想笑いを浮かべる。
そこに唯さんもにやりと怪しい笑顔を向けてきた。
「まー困るよね、かりんちゃん効果で前回配布分は完パケ、今回から部数倍増したのに。このまま行けば来年は予算も倍! なんて期待してるから、頼んだよ!」
「ええ? そんな!」
そんなじゃないでしょー、ちゃんと自覚しなさいよ、と唯さんがわたしの背中を叩く。
わたしは所在なくペットボトルを傾ける。うーん。自覚、ないわけじゃない。
なんというか、手前味噌で恐縮ながら、つまり。
わたしはかわいい。らしい。世間的に。
確かに中学入ってからこれまで振った男子の人数は23……いや24人か、おかげで撃墜王なんて不名誉なふたつ名もいただきましたけども。せめて女王とか姫とかにしろよと。
あと2年のときには当時一番人気だったサッカー部の清水先輩……だったかな?を振って、クラスの女子全員からしばらくハブられたこともありましたけども。でもあれってOKしたらしたで敵たくさん作るんじゃないのかね。
まぁそれはともかくとして。
校門前で待ち伏せされて、それが男のひとだったらまたかよめんどくせぇなとか思ったかもしれない。でもけっこうクール系、かつ色気あるベリーショートの唯さんみたいな女のひとに声をかけられたら、話ぐらいは聞くよね。
そして「ミタ高のアイリに太刀打ち出来るのはあなたしかいないの! お願いわたしたちの力になって!」と拝み倒されたのが今年の5月。
「早く正式に部員になってくれないかなー」
「あはは。受験頑張ります」
正式な部員になるかどうかはわからないけど、東高は事実わたしの志望校だ。ただ先の通りけっこうな進学校で、偏差値は70を越えてたりする。
「塾行ってないんだよね。でも成績良いんでしょ? 期末どうだった?」
「あー、それが……ちょっと残念な結果でして」
うう。思い出したらまた悔しくなってきた。
――今朝の2時限目。
「惜しかったな」
とだけ言って、担任でもある英語教師のうっちーは苦笑いした。
「え? 惜しかったって」
なにがよ。2度も見直したし絶対間違えてねぇっつーの。
答案を引ったくって確認すると、右上には確かに98と書かれてる。ショックを受けながら視線を下に動かし、赤ペンで申し訳なさそうに付けられた小さなチェックを2つ見つける。
は? なんで? 合ってんじゃん……あ。
umbrellaとあるべきものを「umbrlla」、trainingを「trianing」と綴ってしまった、バカみたいなスペルミス。
「うそ……えー……」
こんなの見落とすなよわたし。前回の中間じゃこういうミスなかったから油断してたのか。つーかこれ明らかにわかってるのにうっかり1文字抜けたり入れ替わっちゃっただけって普通気づくだろ、うっちー細けぇよむしろあんたが見落とせよ。
「そんな顔するなよ、間違えたのお前だろ。でも満点みたいなもんだから。ネイティブだってスペルミスぐらいするしな。日本人が漢字間違えるのと一緒だ」
「なら減点しないでください」
「国語だって漢字間違えたら減点だろ。じゃ次……」
そうだけどさ。はぁ。
思わずため息が出た。わたしは中学入学以来、定期テストで数学以外90点を下回ったことがないのだけど、今回はちょっと特別落ち込む。この英語が満点なら、主要5教科オール満点の偉業(と言っていいと思う)を初めて成し遂げるところだったからだ。
肩を落とすわたしを尻目に、一部男子が色めき立つ。
「よっしゃ1000円!」
「おれも! これで今月の新刊買えるわー」
「うわーまじかよ……」
「高嶺さん、信じてたのに……」
……ひとの点数で金賭けてんじゃねぇよ……。
なお落ち込んだのはそれが初になるはずだったからだけでなく、もし達成できたら自分へのご褒美として、こないだ見つけてしまった超かわいい夏物の靴を買おうと決めてたせい。
服アクセその他込みで月に3つまで! とわたしは自分にルールを課してるのだけど、今月ぶんはもう買ってしまったところにうっかり一目惚れ。どうしても欲しいと思いつつやっぱりそんなあっさり誘惑に負けちゃだめ!と、妥協案で自分へのハードルだった。のに。
はぁ。悔しい。桜色のパンプス欲しかったな。
「全員行き渡ったな。じゃ答え合わせするから、もう落ち着け。高嶺、あんまりため息ばっかつくと幸せになれないぞ」
うっちーうるせぇ黙れ。
「まぁおれは幸せなんだけどな。お前のケアレスミスを信じたおかげでタダ酒が飲める」
あんたも賭けてたのかよ! しかも間違えるほうに!
「――てなことがありまして」
……あ、みんなびっくりしてる。そりゃそうだよな。
「まじであのバカ教師最悪なんですよ。いつか教育委員会に訴えてやろうかと」
「いやそっちじゃなくて」
何人かの先輩たちが慌てたように両手を振る。ん? どっち?
唯さんも目を少し丸くしてる。なんだろ。
「かりんちゃん……まじで? 5教科で498点?」
今回はそうとう頑張ったんですけど、とわたしはまたため息。
ほんとに頑張ったのに。積んだマンガもラノベも録り溜めたアニメも我慢して、毎日4~5時間ペースで勉強したのに。まぁニコ動だけはチェックしてたけど。
「そうなんです。中学卒業までに一度はパーフェクトやりたいと思ってて。……あ、先輩たち東高だし、そのぐらいやってたりするんじゃないですか?」
「アホか! ……いや逆か、天才か!」
あ、あれ? そんな剣幕で文句言わなくても。
「ないからそんなの! もう飛び級狙いで海外留学とか目指したほうがいい!」
ないわ、いろんな意味でないわ、と先輩たち。
「うわあ……すごいねこの顔で……いるんだこういう人類。なんつーか、ちょっと引いた」
「いやいや! なんでですか!」
あぁ、うーん……。このレベルのひとたちでもそう、なのか。
でもな。
昔わたしに教えてくれてた、超優秀な家庭教師の言葉を思い出す。
――定期テストは理解度を測る物差しでしかないから、満点は狙って取れるよ。
中身の少なくなったペットボトルに口をつけながら、少し居心地の悪さを感じて窓の外へと目を向ける。窓は北向きで、遠く東の空は見えない。
海外留学で飛び級、か。
……答案の名前が「虎次郎」なら、スペルミスなんてないんだろうな。はぁ。
でも結局、靴は買った。だって満点みたいなもんだってうっちーも言ってたし、内容は理解してるんだからバチは当たらないはず。……はい言い訳です。我慢出来ませんでした。
「うわ、はなちゃんカッコいいね、嫌味なぐらい」
「それ以上足長く見せてどうすんのよ……」
メディア部の撮影後、立川に出て一緒に買い物したクラスメイトのいずみと若葉がわたしを見上げながら言う。早速履いてみたオープンバックのパンプスはヒールが9㎝なので、身長が168㎝あるわたしの場合、女子どころか男のひとの多くより目線が高くなったりする。
ちなみに『はな』は昔からのわたしのあだ名だ。
「でもやっぱはなだわ。似合い方がぜんぜん違う」
「へへ。ありがと」
褒められてわたしは上機嫌。こういうのは何度言われても悪い気しない。
いまも道行く男のひとたちが何人かちらちら振り返った。ナンパはお断りでも見られるのは嫌いじゃないから、伸ばした髪をサービス代わりに優雅な仕草でかき上げてみたり。
なのだけど。
「真面目にやればいいのに。まじもったいない。意味わかんない」
若葉の恨めしそうな視線に気づき、とたんに肩身の狭い気持ちになった。
「だからちゃんとやってるってば。もうそれ言わないでよ」
「しょうがないよ若葉。はなちゃんバカだもん」
実のところふたりは、わたしのやってることにあまり良い印象を持ってない。妬まれるようなことをしてるわたしを悪者にしたい気持ちがわからないわけじゃないけど、友達なんだから応援してくれたっていいのにと思う。
「バカとか1教科でもわたしに勝ってから言えな」
でもその話を始めてしまうと、わたしが冷静でいられなくなるのではぐらかす。
「いずみ何点だったの。英語」
「テストの点数で頭の良し悪し計るとか最低だよね、ひととして」
そんなの言われなくても知ってるっつーの。いいから答えてみやがれ。
「それにはなちゃんと違ってtrainingぐらい書けるよ、そんな練習って書こうとしてれしゅうんって書いちゃうみたいな間違い方しないもん。はなちゃん雰囲気って言える? ふいんきじゃないよ?」
うぐっ。……ふいんきってほんとにパソコンに打ち込んで変換出来なくて困ったことあるよ。あんた成績は国語も大したことないのに口は達者だよな。
「うっさいなもう、そんなの忘れろ。言語なんだから通じればいいの」
「でもはな、前アメリカ行ったときも半分ぐらいしか英語通じなかったって言ってたじゃん」
ええいふたりしてああ言えばこう言う。ちくしょうっつーかわたしこそ成績良いのになんで口ゲンカ弱いんだろうな。地頭が悪いのか。
「それより、そろそろどっかでお茶しようよ。大事な話があんだから」
今度はそれかよ……はぁ。わたしにはぜんぜん大事じゃないんだけどな。むしろ忘れたい。
でもお茶はしたいし、とりあえず休むのは賛成。新しいヒールでいきなり長時間歩くのって足痛くなるんだよね。
「あ、向こうの携帯ショップの裏に新しいカフェオープンしてたよ」
「いいね、行こっか。じゃ負けたはなちゃんのおごりね」
「やだ。勝ち負けって言うなら点数で負けたあんたらがおごれ」
そうしてくだらないやりとりを続けながら入った先の店。
ハート模様のラテアートにしょんぼり目を落とすわたしを、ふたりが苦い眼差しで見つめる。
わたしが忘れたくても、いわゆる恋バナは女子の習性なので逃げようもない。
「……さてと。それでは」
切れ長の目でそんな睨むと怖いから若葉。せっかくの和風美人が台無しだよ?
「はな。いや撃墜王。話聞かせてもらおうか」
すとんと真っ直ぐに落ちる黒髪も貴重で好きなんだけど、ちょっと卑屈というか被害妄想っぽい部分があってわたしからはなかなか言わせてもらえないのが残念。そういうとこ直せば絶対モテると思うのに。
「えー、だってさ……つーかその名前で呼ぶなし」
「じゃラスボス。だってじゃない。ほんとなにが気に食わないの」
……あえて言うならそういうあだ名を思いつく男子のセンスが気に食わない。
「わたしだって好きこのんで振ってるわけじゃないっつーの」
「せめてLIMEぐらい教えてあげればいいのに」
「んなこと言ったって。あんたも知ってんでしょ」
以前、2年の冬休み前に告ってきた男子に教えたら毎日1~20件ペースでメッセが来た。しかも内容が「コンビニなう」「友達とカラオケ中」「今日の晩飯(写真つき)」みたいな絡みづらいのばかりで、面倒で既読スルーを続けてたら「ぜんぜん友達になってねぇじゃん、期待させんな!」と逆ギレされたことがあったのだ。もちろんそいつはブロックしたし、それ以来男子にIDもメールアドレスも教えてない。
「それだってはなのほうからトーク振れば良かったんじゃん。だいたい仲良くなりたいなら、なんであんた自分で話しかけようとかほとんどしないの」
「だってさぁ」
「はなちゃん見かけによらず純情だもんね」
と割って入ったいずみはぱっと見おっとりふわふわした小動物系な雰囲気のわりに、言葉には容赦がない。そのせいか苦手とするひとが男女ともに多い一方で、一部男子に熱烈な人気があったりする。
「でもスペックがこれだから、たまに話しかけてもらえた男子にはそれレアイベントだし、そのせいで勘違いしたのが告って玉砕しちゃうんだよね。かわいそー」
かわいそーじゃねぇし。ほんといずみ極悪だよな。こういうのを喜ぶ男子の業とかまじ意味わかんねぇよ。つーか今日の水野くんとかリアルに一度も口利いたことねぇし。
「純情とかじゃなくて。でもいまいずみが言ったようなのがあるじゃん? そういうの重なると余計にこっちから気軽に話しかけづらいわけよ。悪循環なわけよ」
「自意識過剰。じゃ誰が来ればいいの。満足なの。結局あんた理想高すぎ」
「そういうんじゃないんだって……」
「あんたみたいな完璧超人がそうそういてたまるか。現実見ろ」
「はなちゃんナルだから鏡ばっか見るのは仕方ないけど」
「聞けよひとの話を。面食いじゃないつってんじゃん。あと完璧超人とか言うな。そんなのわたしだって違うっつーの」
つい身を乗り出したわたしを、は?と若葉が押し返してくる。
「だったらもっと普段からひとに頼れば? あんたなんでもかんでも自分でやろうとするし、ストイックすぎてたまに気持ち悪いんだけど。今日だって、生徒会のパソコントラブルなんて関係ないんだからほっときゃいいのに」
だんだんと口調がケンカ腰になってきてるようでも、これはこの3人でいると日常だ。誰も本気で腹を立ててるわけじゃない。若葉の言い分にしたって、責めてるだけじゃなく逆に思いやってくれてる部分もあるんだろう。傍から見れば言う通りかもしれない。
でも自分のことは自分でやらなきゃいけない、頼られて出来ることなら応えなきゃいけない個人的な理由があるからそうしてるのだ。
ひとりちょっと重たい気分になってきて、ぬるくなり始めたラテに口をつける。
「しょうがないじゃん。わたしは頭の中身が凡人だから、ストイックにやってないとぜんぜん追いつけないんだもん……今日返ってきた英語もさ」
「2点減点ぐらいで落ち込まれたら逆にうざいよ?」
「だって」
今度こそ、少しは差が縮まったかと思ったのに。
「凡人、て。あんた学年トップでしょうが……誰に追いつくっつーのよ」
誰ってそりゃ……。つーかなんでこんな話になったし。
胸の奥に、不定形の黒い塊が落ちてくる。それを避ける代わりにふたりから目を逸らす。
「……まぁ、目標がいんのよ……どうせ勝てないけど」
「え。はなちゃんでも目標にするひととかいるんだ」
「あんたが勝てないって、それ人間?」
ごめん若葉、悪気ないのはわかるけどいまのは傷つく。
わかってもらえないのもわかってるけど。きっとあのひともこんなふうに、どころじゃなく、何度も何度もすっごく傷ついてた。そりゃ最後にはあんなふうになっちゃうよ。
わたし自身、それに荷担してたひとりでもある。……直接会って、謝りたい。
そのままきっぱり黙って、この話題を打ち切った。やがて気まずい雰囲気を振り払うようにふたりは関係ない話を始め、わたしもそれに適当に答えたり相槌を打ったりした。
勝手に暗くなってごめんね。たまにこうなっちゃうの自分でもいやだよ。
わたしはこれで、あまり人付き合いが得意じゃない。人気的なものはあっても友達は少ないのだ。
昔はかなり社交的なほうだったと思うけど、ある出来事のせいで他人……とりわけ男子との距離を縮めるのが、すっかり下手になってしまった。
自分では凡人だと思っても、頑張って頑張って手に入れたこのスペックがそこに追加されたおかげで、親しみやすさがないのは自覚してる。おかげでろくなあだ名がつかない。
本名由来の『高嶺のはなちゃん』に加え、完璧超人、撃墜王にラスボス、俺TUEEEだの攻略不能ヒロインだの。
いずみと若葉はそんなわたしに遠慮なく口を利いてくれる数少ない友達、でも言いたくないことはある。壁を作ってるのはわたし。
そのあとずっと、カフェを出て電車に乗り、国立駅を降りてふたりと別れてからも、頭の中では同じ内容がぐるぐる回ってた。
虎次郎兄ちゃん、いま頃どうしてるんだろ。
そんなことを考えてたせいとは思わないけど、家に帰るとお母さんが、ロサンゼルスにいるお父さんとスマホでスカイプしてた。
「……いまさら言われたって仕方ないでしょ、あのときは私も必死だったの! あなただってそんなの知ってるじゃない……」
うわ出た。帰ってきていきなりこれかよ……はぁ。
相手がお父さんだとわかるのは、小型犬が自衛のため威嚇するみたいな口調のせい。そんでお兄ちゃんの話題だ。
普段からこうなわけじゃない。この夫婦はいい歳して甘々で、特にお父さんは子供の前でも平気で好きだの愛してるだの言うしほっぺにちゅーとか普通にする。
お母さんもまんざらじゃないようで、電話口で「わたしも愛してるから」とか言って通話を切ったあとで照れてるのをたびたび目にする。
のだけれど、この件になると話は別だ。
いろんなボランティアだのNPOだの参加しておばさん仲間に頼りにされても、この母親がほんとに大事な場面で取り返しのつかないことをするのをわたしはよく知ってる。
とはいえ嫌ってるわけでも、仲が悪いわけでもない。こっちに残った娘のことを大事にしてくれてるのはわかってるし、育ててくれた恩を忘れてもいない。ときには一緒に服買いに行ったり外でお茶したりもする。
ただ申し訳ないけど、尊敬は出来ないのだ。
「え? ちょっとどういうこと? でもそれは……待って、考える時間ぐらいくれたっていいでしょう? もう決めたって……おかしいじゃないそんな急に言われても! なんであの子はそうやっていつもいつも……ねぇどうして……」
いつもいつもじゃねぇよ……あんたこそいつもいつも。っつーか無視無視。
このモードに入ったお母さんの相手なんかしたって気分悪くなるだけだ。どうせわたしには話の中身なんてまともに教えてくれないし。
いったん2階に上がって部屋着に着替え、ダイニングに戻ってくる。お母さんたちの電話はまだ終わる気配がない。
扉開けっ放しのリビングから聞こえるぶつぶつを尻目に、わたしは冷蔵庫から適当に食材を見繕い、オムレツと夏野菜の蒸し煮を作って晩ご飯を食べ始める。
お母さんは忙しくて夜遅くまで帰ってこないことがよくあるので、すごく得意とは言えないけど炊事掃除洗濯と家のなかのことは一通り出来るのだ。
「なんで虎次郎はわたしに直接言わないの? え?……だからどうして……」
お母さんはぐちぐちと文句ばかり言い続けてる。別に聞きたいわけでもないのに、どうして人間の耳はひとの悪口に敏感になっちゃうんだろうな。
「……はいはいもういいです、どうせあの子はわたしがなに言っても聞く耳持たないんでしょ。ひとの気も知らないで……断る権利なんてないんだし、もう勝手にすればいいのよ!」
ちょうど食べ終わる頃、お母さんの語気が棘を増した。
せっかくわりと美味しく作れたご飯が不味くなるところだったよ。ひとの気も知らないのはあんただろ、こっちは無視したいんだからもうちょっと声落としてくれればいいのに。
もちろんお母さんだって人間だし、お兄ちゃんたちの話が絡むと冷静でいられないのは理解出来る。でもこればっかりは自業自得だ。
お父さんもお父さんで、虎次郎兄ちゃんの話題なんて出さないでくれたらこんな居心地悪い思いしなくて済むのにさ……。
と思いながら食器の片付けを始めたところで、
「華麟」
通話を終えたらしいお母さんがわたしを呼んだ。
流しのお湯を止めて振り向くと、リビングから歩いてくるお母さんの表情はずいぶん悲惨なことになってる。泣きたいのかそれとも怒りたいのか知らないけど、そういう顔されるのって毎度のことながらすげぇ不愉快。
ぶっちゃけわたしはいまのお母さんと話したいことなんてない。それがお兄ちゃんのことだというならなおさらだ。
「どしたの? お父さんわたしのことでなんか言ってた?」
なのでとぼけた。もし話題がそれならお母さんはこんな態度にならない。わたしは表面的な反抗期なんてとっくに終えた、優等生の『良い子』だからだ。
………。
なんだよその沈黙。
「なに、なんかあったの」
促してもすぐには応えず、お母さんはしばらく置いて、わざとらしいため息に続けて変な質問をしてくる。
「華麟、虎次郎がうちに帰ってきたら嬉しい?」
………。
今度の沈黙は主にわたし。なんか、聞き間違えた?
「……今年はロス行かないんじゃなかったっけ」
「行かないわよ。そうじゃなくて、あの子が帰ってきたらあなたどう思うの」
はい?
なにそれ。お母さんバカなの? 知ってたけど。
「お兄ちゃんがうちに帰ってくるわけないじゃん」
お婆ちゃんのお葬式にだって帰ってこなかったのに。なに言ってんだこのひと。
虎次郎兄ちゃんはこのまま向こうの大学に行って研究者とかに進んで歴史上の発見とかして偉人になるか、もしくはアーティストで有名なお金持ちのセレブにでもなって、あなたたちのことは綺麗さっぱり忘れて残りの人生を幸せに暮らすのだ。そうじゃなきゃいけないし、あのひとはそうすべきだ。
そもそも誰のせいで帰ってこないと思ってんの?と口から出かかった。
「いいから答えて。あなたは帰ってきて欲しいの? どうなの」
言わなかったのは、どうやらお母さんの表情と口調から察するに、冗談を言ってるわけじゃないみたいだから。どんな交渉やらなんやらがあったか知らないし、電話の口ぶりからするとろくな話し合いじゃなさそうな気がする。
「どうって、言われても……そんな、いきなり」
それでも、お父さんの転勤にくっついてロスへ行ってしまったお兄ちゃんが、わたしたちのところへ2年ぶりに帰ってくる可能性がある。そういうことらしい。
まじで?
「……ほんとに帰ってくんの?」
だからあえて質問で返したら、お母さんは口を真一文字に結んで黙ってる。
ひとに答えろって言うなら自分がまず答えろよな。ちゃんと応えたいから確認してんのに。なんであんたいっつもそんな口数少ないんだ。
でもまぁ、いい。ここで問題なのはお母さんじゃない。
仕方ないからいまは文脈を読んで補うとしよう。
「帰って、くるんだ……」
そっか……そうなんだ。
まじでか。
どんな心境の変化があったんだろ。わたしが虎次郎兄ちゃんの立場だったら、そんなの絶対考えらんないけどな。びっくりだよ。これ、ほんとに信じちゃっていいものか。
だってさ。帰ってきてくれるっていうなら、やっと会える。もう謝れる。
叶える順番が逆になっちゃうな、と思うけど、それならそれでいい。
そんであのときの真相を、お兄ちゃん自身から聞ける。
とはお母さんに言えなかったので、
「いきなり言われても、わかんない」
ちょっと困った顔をしてみせた。演技はまだ上手いほうじゃないとはいえ、苦手でもない。ただ釘を刺すのは忘れなかった。
「けど少なくともわたしは、いやじゃないよ」
ほっとした顔でなにか言おうとするお母さんに、そう付け加えた。その顔が少し引きつったのは見逃してない。
「……そう。やっぱりね」
やっぱりってなんだよ当たり前だっつーのそんなの。自分と一緒にすんな、と心の中で文句を言って目を逸らす。
それにしても、いつ帰ってくるんだろうな。このタイミングでその話してきたってことは、もしかして夏の間に戻ってくるつもりなのか。一度も連絡してこなかったってのに。
まぁしょうがないんだけど……それなら、それまでにいろいろ考えなきゃ。きっと家にいる時間が長いだろうから、少しでも居心地良くしてあげるために。
それと一番大事なのは、わたしの心の準備。
と、今後の展望についてあれこれ考え始めたところにお母さんの声が続く。
「じゃ明後日あなた終業式でしょう? そのあと成田まで迎えに行ってあげて」
……思考が固まった。ん?
迎えに行け、って……。
「あ さっ て ?」
あのさ、明後日って日本語で2日後だよね。わたしが自覚ないうちにアホの子になったのでなければそれで間違いない。つーか終業式は明後日で合ってる。
「そう言ったでしょ」
お母さんの顔が、なんとなく疲れて見えた。
てことは。
なるほど、ふぅん。あと2日でお兄ちゃん帰ってくるんだ。へぇ…………。
「……なんですとぇ?」
声が半分裏返った。
「あ、明後日って! なにそれ早いよ!」
慌てて冷静さを失ってるのわかってるけどこんなの慌てるに決まってんだろ。
明後日……ああ、うーん……。じゃ、とっくに決めちゃってたのか。
「あれは最初からそういう子なの。あなただって知ってるでしょ? ほんとうに、なんであんな……」
わたしに向けて喋ってたはずのお母さんは、そのままぶつぶつ独り言を言い始めてしまう。めんどくせぇなと思いつつ、もうわたしも聞いてない。
とりあえずわかった、と言い残して2階へ上がる。
自分の部屋でなく、その向かいの扉を開けた。
電気は点けず、暗がりに目が慣れるのを待つ。あの頃と同じように。
やがて、ビニールカバーの掛かったベッド、空っぽの本棚、それからなにも載ってないPCデスクが視界に入る。無意識のうちに、虎次郎兄ちゃんのシルエットをそこに重ねる。
椅子の上で膝を抱える、小さくて丸っこい背中。耳にはいつもヘッドフォン。前屈みに肩を縮め、白いパーカのフードまで被った姿は不格好な雪だるまみたいだ。
わたしの声は、今度こそ届くだろうか。