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高嶺のお兄ちゃん  作者: 明智あきら
第1部
10/31

第3章 (3)

 お父さんがロスへ帰り、3人での生活へと戻った。お兄ちゃんとお母さんが和解してくれたおかげで、みんなで顔を合わせても前みたいに気まずい雰囲気になることはもうない。

 それでも数年来のわだかまりは簡単になかったことに出来ないのか、突然会話が増えたり、お兄ちゃんの口調が雑になったりもしない。


 ただ3日に一度ぐらいは一緒にご飯を食べるようになり、そのうち1回はなんとお母さんが自分から夕食の支度をしてくれた。

 わたしにとっても実にひと月ぶりで食べるお母さんのご飯だったけど、2年以上ぶりとなった母親の味は、お兄ちゃんには格別だったに違いない。食べてる途中で感極まって目が赤くなるのを、わたしは見逃さなかった。


 またお兄ちゃんが家事のほぼすべてをこなすのは相変わらずでも、それを見るわたしの目が変わった。贖罪のつもりなんてない、と言ったのはたぶん本音で、要するにこれはずっとしてこれなかった母親孝行のつもりなんだろう。そう思えば安心して任せておける。

 わかってたとはいえ、やっぱり傍から見るのとは違うんだよね。




「――てなことがね、あったわけよ。長話聞いてくれてありがと。お疲れ」

 夏休みも残り1週間を切った水曜日、母親の実家から戻って来たアイリをボイトレ(ボイストレーニングの略な)帰りに呼び出して、これまでの話を聞かせた。


 万事めでたく解決して、長年の重荷から家族みんな解放されたのだ。誰かに聞いてもらいたくもなる。ただ内容が内容なので誰にでもというわけにいかず、親友に来てもらった。もともといずれ言うつもりだったことだし、相手も知りたそうなところあったし。ようやく話せてすっきりした。


 今日わたしたちがいるのはスタバじゃなく、以前にも来たことがあるアイリ御用達の小さいカフェ。素人が趣味でやってるような店だけど、簡素ながら飾り付けの小物や色使い、あえて不揃いにしてるだろう家具や食器が上手く調和してわたしも好き。お茶も美味しいし。


「それは、まぁ……大変だったね。かりんもお疲れさま」

 アイリは感心したような、呆れたような難しい表情をしてる。そりゃリアクションにも困っちゃうよな。死者まで出した親子3代にわたる確執を最後は父と息子の殴り合いで決着、ってあまりの少年マンガ展開にわたしだって喋りながらちょっと笑ったもん。


「わたしはなーんもしてないけどね。ぜんぶお兄ちゃんが片付けちゃったよ」

 でも少しだけふてくされた気分にもなる。もともとはわたしが頑張ってお兄ちゃんを助けるつもりだったのに、実際はこっちが助けられてばかりで、挙げ句の果てにお母さんまで華麗に救っちゃって。


 もちろん重要なピースを握ってたのはお兄ちゃんだし、お父さんの協力もあった。とはいえわたしが何年もかけて解決の糸口すら見つけられなかったものを、あのひとはたったひと月で終わらせてしまったのだ。


「……そうでもないんじゃないかな」

 話になにか思うことがあるのか、考えごとをするようによそ見しながらアイリは言う。わたしもなんとなくよそ見する。

「だって。そうじゃん」


 ハッピーエンドを迎えたにしても、こんな暗い話聞かせといて悪いんだけど。天才のくせに頼りなかった虎次郎兄ちゃんの昔といまを思い比べれば、わたしがまるで成長出来てなかったみたいで悔しいやら寂しいやら。

「ずるいよあれ」


 こういう思考をしちゃいけないのは重々承知してる。それでも、わたしなんて所詮ちょっと恵まれた程度の凡人なんだな、と昔のように思ってしまうのは贅沢なんだろうか。

「そうだね、ずるいかもね。かりんの気持ちもわからなくはないよ」

 アイリはよそ見をやめ、ポットサービスの紅茶の3杯目をカップに注ぐ。


「でも、そっか。そう思っちゃうか。相変わらず虎次郎さんて報われないね」

 相変わらずってなによ、お兄ちゃん報われたじゃん。なんかわたし見逃してんのかな。自分で話したのに、アイリだけ察したことがあるなんて気に食わないけど。しかも流れ的にそれ、わたしに関することっぽいし。


「ぜんぶ丸く収まったってば。わかってるよ、こんなのわがままでしかないって。それでもね、わたしだってなにかしたかったの。ただそんだけ。お兄ちゃんも妹の前でカッコつけられたんだから満足でしょ」

 ほんとはよくわからないのを早口でごまかしてから、長話で喉が渇いたわたしも紅茶の2杯目を注いだ。だいぶ渋くなっちゃってるだろうからミルク多めで。


 するとアイリは口に近づけたカップを下ろし、少し機嫌を損ねた声を出す。

「……かりん? たまにはちゃんと考えてあげたら?」

 って。いや考えてるよ。そんなのたまにどころかめっちゃ考えてるっつーの。

「は? 考えてるに決まってんじゃん。こんな言い方するとまた変な誤解しそうでやだけど、わたしこの夏お兄ちゃんのことばっかり考えてたよ。すっごい心配だったから」


 帰ってきた姿にびっくりして、一緒にご飯食べて、久々にお喋りして。服買いに行ったり、そのあと友達に誤解されたり、アイリも交えてプール行ったり、お墓参り行ったり、お母さんとのことがあったり。あとわたしに作ってくれてる曲とか。

 あれ思い出してみると心配ばかりでもなかったかな、って気もしてきたけど、まぁいまさらいいか。それよりアイリ、どうしてわたしがなにも考えてないみたいに言うの。そんな冷たい妹に見られてるとしたらちょっと傷つくよ。


「だから、そうじゃなくて……かりんが考えてたのって基本的に、自分が虎次郎さんになにを出来るかってことでしょ」

「そうだよ。ほかになにがあんの?」

 心配だったって言ってんじゃん。なんかわたし間違ってる? それとも外から見てるほうが良くわかること、ってのもあるのかな。

「じゃ逆に虎次郎さんが、かりんにどうしたかったのかって考えたことは?」

 軽くお説教モード入ってるけどなんでそうなるし。


 それにどうって、守るとか助けるとかいろいろ言われたし。実際助かってるし。

「いや、だってそれ考えるまでもなくね? 本人が言ってるもん」

 と言ったところで、どうしてそこまでわたしを心配するのか不思議でもある。龍一兄ちゃんの遺言とはいえ、それだけであんないきなり好感度MAXになっちゃうんだろうか。……って、アイリが言ってるのそこか。やっと意味わかった。


「あーあ。ほんとかわいそ。やっぱりわたしがあのひとの妹になっちゃおうかな、下手したらそっちのほうが早そうだし。もう代わってよかりん」

 ただ質問の意図を理解したところで答えが見つかるわけじゃない。どころかそれは言われずとも考えてたのに、ずっとわからなかった部分だ。だからアイリ答えわかるんなら教えてよ。でもそっちのほうが早そうは意味わかってもスルーな。

「いやそれだめだけど。とりあえずわたしにもわかるように説明よろしく」


 はぁ、とアイリは脱力する。へぇへぇ鈍感で済みませんね。

「ねぇ、そもそも虎次郎さんがどうして戻ってきたのか考えてみた? かりんは両親と仲悪くなくて、虎次郎さんは向こうでなにも困ってなかったんでしょ?」

 お母さんに対して思うことはあったけど、仲悪かったというのは違う。ロスのお兄ちゃんも、聞いた限りは特に困ってなさそうだった。


「うん。そうみたい。たぶん」

 けど帰ってきた理由なんて、やっぱお母さんとのことっていうか、龍一兄ちゃんの……あれちょっと変だな。例のなんちゃらの約束で、それ内緒にしておくはずだったのに。


 帰ってきた以上は言わないわけにいかない、っていうのは順番がおかしい。お母さんと波風立てずにやってたのもお父さんから聞いてただろうし、お婆ちゃんは亡くなったし。ほんとになんで帰ってきちゃったんだろ。だってあれ自分で言ってた理由なんてさ。


 あんなの理由になってないじゃん、と思ってると、アイリは両手でテーブルに頬杖をついてわたしを恨めしそうに見上げる。

「それでも帰ってきたのなんて、かりんのために決まってるじゃない」

 あ、うん。それ。最初に言われたやつ。


 ――かりんに会いたかったからだよ。

 ――でもやっぱり、かりんのことが忘れられなかったから。

 ――おれが謝りたかったのは母さんじゃなくてかりん。

「だからその」

 意味がわかんないんだってば、と言おうとするわたしを制してアイリは続けた。


「家のいろいろ解決したのも、半分ぐらいは自分のせいで妹が心配しないようにやったんだと思うよ。なにもしてないなんて言ってたけど、虎次郎さんにしてみれば、あなたになにかしてもらいたいんじゃなくて、かりんのいることが理由だったんだよ。なのにこのツンデレ妹は……いくら無償の愛って言っても、気づいてさえもらえないんじゃね」

「待てぇい!」


 あ、愛って、あのなぁ!

「なに言ってんだあんた、わたしと虎次郎兄ちゃんは2年も会ってなかったの、その前だってぜんぜん喋れなかったのに、龍一兄ちゃんの遺言だけでどうして帰ってきてそこまでするのかわからんて話だっつーの! まずわたしたちは実の兄妹だし。愛とかまじ意味わかんないし。あとツンデレじゃないし」

 ツンどころかお兄ちゃんに甘くてデレデレじゃん。言わないけど。


「なに焦ってるのよ、別に変な意味じゃないってば。プールの帰りに今日子先輩と会ったときにも言ってたでしょ、『かりん、愛してる』って。兄妹愛の範疇だとは思うけど、シスコンもあそこまでいくと逆に清々しいよね」

 いや清々しくねぇよ痛ぇよ人前であれ言われるのどんな気分だと思ってんだよここ日本だよ。今日子さんもだけどそんなの他人事だから面白がってられんだよ。


「思い出させんな。やりすぎだからあれ。辛いから。それよりアイリ、なんでよ。その言い方だと、お兄ちゃんがどうしてああなのかわかるみたいじゃん」

 さっきからそれをこそ説明して欲しいと思ってるのに。あんたその鋭さをわたしに対しても発揮してくれお願いだから。


「やっぱり、わからないんだ……でもしょうがないか、自分のことだからこそわからないってこともあるもんね」

「もういいからもったいぶんないでよ、それ実際わたし困ってんだから」

 照れでも嘘でもなく、ほんとに困ってる。わたしお兄ちゃんのなんなんだろ。大事な妹ってだけであんなふうになっちゃうのもどうかと思うし、それにあの頃お兄ちゃんはあの女に……いやいまはそれ考えるのよそう。はいアイリどうぞ。


「かりん、昔から虎次郎さんの味方してあげてたんでしょ」

「うん。まぁね」

 でも結局は力になれなかったし、途中で挫折しちゃったけど。

「で、その優しい妹を置いてアメリカ行ったら、2年の間でこんな美人に成長しちゃったわけじゃない。その上、学校の勉強もしっかりしながら夢のためにモデルやって健気に頑張ってるって。それ虎次郎さんもお父さんから聞いてたんだよね」


「だいたいはそうみたい。でも夢の話はお父さんにもしてないから知らない」

 お母さんにも話してないし。わたしの夢については、聞くひとによってすごく失礼な話にも聞こえちゃうから、ほとんど話したことがないのだ。


 アイリだって初めて話したときは怒ってケンカになったじゃん。それにこんな美人てあんたに言われてもあんま嬉しくならないぞ。いまだって店員さんもお客さんもみんなとろけそうな目で見てたし。わたしはボイトレ帰りだから、今日も手抜きとまでいかないけどあんま綺麗な格好してないし。まぁいいや続き続き。


「だとしても、自分をほったらかしにして遺言の約束も守れず逃げちゃったお兄ちゃんに文句言うどころか、誰にも泣き言ひとつ言わずに毎日家の手伝いまでしてるって、そんな話、当のお兄ちゃんが聞いたらきっと打ちのめされちゃうよ。男心に詳しいわけじゃないけど、あんなシスコンになってもぜんぜん不思議とは思わないな。わたしが虎次郎さんの立場でも、たぶん妹に罪滅ぼししたくて帰ってきちゃうと思う」


 聞きながら、わたしはつい腕組みしてしまう。

 うーん……そういうもんか。そう見えちゃうのか。話の筋は通ってても、なんだかずいぶん美化されてる気がしてちょっとこそばゆい。実態はもっと泥臭いよ。


「そう言われても、そんなふうに思ったことないし……ただ助けたかったんだよ」

 罪悪感、ってお父さんも言ってたな。でも罪滅ぼしをしたかったのはこっちだ。結局それもさせてくれなかったし、いまとなっては罪そのものがなくなっちゃったけど。


 そもそも頑張ってきた理由なんて。

「わたしも虎次郎兄ちゃんみたいになって、あのひとが悪いんじゃない、って証明したかっただけ」

 なのに追いつくどころか、ますます差をつけられちゃった。


 自分にがっかりだよ、と落ち込みそうになるわたしに向け、アイリは美しい顔をバカにしたように歪め、べー、と舌を出す。

「ばかちん。じゃそう言ってあげたら? 虎次郎さんがなにも教えてくれない、ってかりんは言うけどさ、向こうだって一緒だよきっと。神様じゃないんだから」


 ばかちんて。……でもその言うことには一理ある。っていうか知ってた。虎次郎兄ちゃんは神様でも超人でもなく、ただの人間だ。普通とは言えなくても、なんでも出来るわけじゃない。ときに拗ねるし、打たれれば傷つくし、ぼろぼろになって隠れちゃうこともある。そこはわたしやお母さんと同じ。


「そっか。そうだよね」

 アイリに見抜かれちゃってるのは複雑だけど、どうやらわたしはまた昔と同じことをしてたらしい。そんな頭良いならひとの気持ちぐらい気づいてよ、って。それはただの甘えだってわかってたのに。

「ちゃんと言わなきゃね」


「そうだよ」

 今度はわたしまでとろけそうな微笑をアイリは見せる。

「言ってあげなよ。わたしも愛してるわ、って」

 ……前言撤回。ぜんぜんとろけねぇし。


「言うかバカ!」

 冗談だってば、と口元を隠しながら声を漏らして笑うアイリを、わたしはジト目で見ながら口をへの字に曲げる。それをちらちら見てアイリはさらに笑う。

 わたし素敵な友達に恵まれて幸せだよ、って言おうとしてたのに。やっぱ言ってやんない。




 家に帰るとちょうど晩ご飯が出来るところだった。メールでだいたいの帰宅時間を知らせてあったとはいえ、それで見事に合わせてくるあたりやっぱこいつすげぇっつーか変。

「おかえりかりん。すぐ食べる? それとも少し落ち着いてからにする?」

 気も利くし。ほんと出来た嫁だよ。

「ん、すぐ食べる。温め直してもらうの悪いし」


 今回はお母さん抜きのふたりだけ。メニューは鯖のみそ煮にほうれん草のおひたし、冷や奴に長ネギのみそ汁と完全和食モード。イタリアンとかもいいけど、なんだかんだ和食って落ち着くよな。いつも済まないねぇ。


 食卓についていただきますを言うとすぐ、お兄ちゃんが話しかけてきた。

「そういえばかりん、毎週水曜の夕方って出かけるよね。いつもラフな格好だし、デートじゃなさそうだけど。なんか習いごと?」

 あんたも鋭いな。そんでよく見てんな。


「ぶー。今日はアイリとデートでした。まぁそんだけじゃないけど、それは別に」

 いいじゃん、と言いかけていったん止める。だからこういうの言わないからだめなんだよ、ってさっき話したばっかじゃん。

「……うん、習いごと。ボイトレ通ってんだよね。将来やりたいことがあるから」


 そっか、と言ってお兄ちゃんは箸を取り、そのまま食事を始める。

「そっかって。訊かないの? なんのために、とか」

「ああごめん、詮索したいわけじゃないよ。言ってみただけ。カウンセラーじゃあるまいし、言うつもりのないことまで聞き出そうと思わないから安心して」

 これで安心させてるつもりなんだから参っちゃうよな。


「また謝る」

「もうこれ癖なんだよ。許して」

 せっかく言おうと思ったのにさ。苦笑いするお兄ちゃんを見ると続けづらくなってしまい、わたしも食事に手をつける。


「そいやお兄ちゃん、アイリと連絡とか取ってんの?」

 なんとなく気になったので訊いてみた。話題を変えたかったのも正直あるけど、さっき会ったときもこれといってなにも言われなかったし、どうなってんだろ。こないだといい今日といい、向こうが愛想尽かしたって感じでもないみたいだし。


「何度かメールのやりとりしたよ、ロスの雰囲気訊かれたりとか。アメリカはまだ行ったことないらしくて興味あるみたい。おれとしてはデートの誘いを待ってるんだけどね」

「自分で誘えばいいじゃん、そんなの」

 わたしもなんでこんなこと言っちゃうんだろうな。いや協力しようとは思わないにしても、やっぱ親友なわけだし、アイリいい子だし。わたしが男だったら今日子さんだけど。


「男としてはそうしたい気持ちもあるよ。でも帰ってきたばかりで、おれから妹の友達に手を出すのもどうかと思うしさ。それに上手くいかなかったらかりんが気まずいだろ」

 自分でもアイリにそれ言った覚えあるけど。上手くいっちゃってもさ。

「付き合うことになっても気まずいし。……だって考えてみてよ、例えばわたしが自分の友達といちゃいちゃしてるの見てあんた嬉しい? 微妙じゃね?」


 するとお兄ちゃんは箸を止め、少し考えてから口元を歪める。

「どうだろ。それは考えたことなかったな。ほら、おれこっちに友達いないし」

 あ、やべ。地雷踏んじった。

「ごめん。そういうつもりじゃなかった」

 わたしは小さくなって謝る。虎次郎兄ちゃんは前に家族で住んでたとこではいじめられてた様子だし、国立に越してきてからは一度も学校に行ってない。


「謝ることないよ。向こうではちゃんといたから大丈夫」

 そっか……そうだよね、バンドやってたって言ってたし、パーティとかあったとも。お酒はだめだけど、ちゃんと楽しくやれてたんじゃん。

「うん、ならいい。こっちの高校でも上手くいくといいね」


 女友達はすぐ出来そうだけどな。それもたくさん。でも男子的にはどうだろ。アメリカならともかく日本でこれやばくね? 甘めの仮面○イダー俳優みたいなルックスで英語ぺらぺらの帰国子女とか超妬まれるコースじゃね? まぁでかいし腕力のほうも強くなっちゃったから、もう簡単にいじめられたりしないと思うけどさ。


 やっぱ帰ってこないほうが良かったんじゃないのかな、と申し訳ない気持ちになる。だってアイリの推理が当たってるとしたらわたしお荷物みたいじゃん。

 ごめんね、ともう一度心の中で言いつつお兄ちゃんを見ると、箸を動かしながらも上の空でなにやら考えてるふうだ。


「どしたの? やっぱ心配?」

「ん? ああいや心配っていうか、さっきのちょっと考えてた。かりんがおれの友達と、って。例えばChris……Sean……まぁ1回デートするぐらいなら許してやっても……」

 なんだわたしの心配かよ。ふむ。外人の彼氏……悪くないかも……。


 とかついミーハーなこと考えてる(だってそういうのちょっと憧れるし)と、お兄ちゃんは箸を置き、だんだん険しい顔になる。

「かりんと……あんなことこんなこと……」

 ……ねぇ。あんなことってなに? なんか変なこと考えてない?


「いやだめ。それやっぱだめだわ。無理無理絶対許さない、たぶん部屋に乗り込んで裸のまま叩き出す」

 おいこら! 裸ってどういうことだよ!?

「ちょっと待て! 妹のなに想像してんだてめぇ!」

「え? だって付き合うってことは、って待って、醤油は落ちないからやめて」


 ごめん嘘、もう想像しない、とお兄ちゃんは必死に手を合わせて謝る。

 やれやれプールのときといい、所詮いくらカッコつけたところで虎次郎兄ちゃんも思春期の男子ってことか。にしても妹のとかどんだけ節操ねぇんだよこのエロ野郎最悪だな。

 これじゃアイリが心配だし、やっぱ協力なんてしないほうがいいよね。うん仕方ない。



 夏休み中にもう一度服を買ってくれる約束で許してあげた。おねだりしたわけじゃなくて、言い出したのはお兄ちゃん。ただちゃんと言わなきゃ距離も縮まらない、とせっかく思ってたとこなんだから、どこかに落としどころを作らなきゃ話も出来ないし。ばかちんが。


「コーヒーお待たせ。ミルク少々砂糖1個だよね」

「そだよ。ありがと」

 そんでリビングに移動し、コーヒーも淹れてもらった。さっきお茶飲んだばかりで違うものが良かったのに加えて、わたしよりお兄ちゃんのほうが上手だからだ。もう夜の9時近いのにカフェインは睡眠と美容の敵かもしれないけど、たまには夜更かしになってもいいでしょ。


「さっきの話だけどさ」

 カップに口を近づけながら切り出した。やっぱ良い香りでほっとするな。これもそのうち教えてもらおう。

「それもう許してくれるって言わなかったっけ?」

「そっちの話じゃねぇし」

 ちょっと怯えた様子のお兄ちゃんを睨む。コーヒーぶっかけたりしねぇし。


「……だから、ボイトレ」

「ああ。将来やりたいこと、だよね」

 気を取り直したのか、正面のソファに座るお兄ちゃんはわたしに向け前屈みになって真摯な顔を見せる。

「ちゃんと聞くよ。おれが聞いちゃっていい話なら」

「うん。大丈夫」

 こっちも真面目モードのスイッチを入れる。


「アイリとも話したんだけどさ、うちがあんな面倒なことになったのって、結局みんな本音をちゃんと相手に言わなかったからだと思うんだよね。龍一兄ちゃんの遺言も含めて」

「……そうかもな」


「善意の不告知なんて言えばカッコいいけど、そのせいで余計にこじれちゃったら世話ないよ。だからね、もっと家族のこと信じて話そうよ、って」

 この言い方もカッコつけてるな、と思うけど。……そんな驚いた顔すんなし。こっちだって照れ臭いんだから。


「その通りなんだろうな。ほんとに、あの頃のおれなんかよりかりんのほうがずっと大人だ」

 目を丸くしたままお兄ちゃんは頬を掻く。どんだけわたしのこと子供扱いしてやがったんだこいつ。いっそ超高いドレスとか買わせてやろうか、って脱線してる場合じゃなくて。


「で……まぁお兄ちゃんはたぶん興味ないと思うし、もしかしたら迷惑かもしれないけど……わたしには大事な話をしたくて。そのほうがお兄ちゃんも、わたしにいろいろ話しやすくなるんじゃないかって思うから。変かな」

「変じゃないよ。聞きたい。続けて」

 お。真面目な顔に戻った。よしよし、そうじゃないとこっちも言いづらくて困るんだよな。さて本題に入りますか……


「あのね」

 ……と、その前に深呼吸。ピアノのときより緊張するよ。ふう。それから仏壇を見る。


 龍一兄ちゃんも聞いてね。遺言通りに守ってくれるって言う虎次郎兄ちゃんが、大切な夢のことも守ってくれるよう見張ってて。いくら信じてたって、それでも不安なんだよ。

 それからわたしは虎次郎兄ちゃんのほうに向き直る。よし。じゃ言う。

「わたしね、夢があるんだ。バカにしないでね」


「するわけないだろ。かりんの夢なんだから」

 そう言うだろうと思った。思ったけどさ……話す前から涙出ちゃいそうだよ。

 だって最初からバカにしなかったひと、誰もいなかったんだよ。ほんとに、ほんとうに大切にしてる思いなのに。

 喉が渇いてるわけでもないのに、声がかすれそう。


「声優に、なりたいの。モデルは、そのための下積み」

 親しいひとに夢を語るだけで、どうしてこんな胸が苦しいんだろう。好きなひとに愛の告白なんて出来るひと超尊敬するよ。わたしには無理。最後までちゃんと言えるかな。


「いいんじゃないかな。かりんの声好きだよ」

 やっぱり優しいね。わたしもお兄ちゃんの声好きだよ。でも自分の声は、嫌いじゃなくてもすごく気に入ってるってほどじゃない。まだまだぜんぜん足りない。

「ありがと。嬉しい」


 モデルの仕事を軽んじてはいない。気を遣わなきゃいけないことも多いけど、おしゃれするの好きだし、工夫ひとつでいろいろ変わるの難しくても面白いし、堂に入ってる先輩たちの姿見るとすごく素敵だなって思う。だから一生懸命やってる。下積みといっても腰かけのつもりなんてない。そうじゃなきゃ下積みにもならないから、って言うより先にアイリには怒られたけどね。真剣じゃないならやめてよ、って。


「お世辞じゃないよ。……まずモデルの仕事で知名度を上げて、ってことだよね」

「うん。それからオーディション受けるつもり」

 お兄ちゃんの態度が変わらないのはわたしが妹だからか、それとも男のひとだからか、はたまたオタだからか。この時点で若葉にも、バカにしてんのって言われたな。なりたくてもモデルになんてなれない女がどんだけいると思ってんの、って。


「わかるよ。実力が同じぐらいなら当然、そっちのほうが有利だろうから」

 そういうこと。若い声優さんはアイドルみたいな扱いになることもあるので、見栄えを磨いとくに越したことはない。それにモデルは声こそ伝わらないけど演技だってするし。もちろん言われたように実力がなきゃ話にならないから、そのためのボイトレと発声の研究。ちなみにわたしが通ってるところは多少の演技指導もしてくれる。


「でもね、声優になること自体が夢じゃないんだ」

 ここからがほんとの本題。

「なにかこの役をやりたい、みたいのがあるのかな。プ○キュアとか」

 もう、お兄ちゃん優しい顔でいずみと同じこと言ってるよ。印象はぜんぜん違うけどさ。あいつはここで、オタク乙、だったからね。自分も昔は観てたくせに。


「違うもん。それもやってはみたいけど……そうじゃなくて。わたしの場合、声役者の仕事が一番の夢ってわけじゃないの」

「うん」

 言うよ。お願いだから最後までバカにしないでね。

「ボーカロイドになりたいの」

 それがほんとの夢。




 当然のことながらボーカロイドは(フルCGでライブやったりするとはいえ)架空の存在で、決してわたしがミクやルカになれるわけじゃない。アイリにも若葉にもいずみにも、どうしてボーカリストじゃないの、自分で歌えばいいのに、ってさんざん言われた。ピアノのおかげで音感は良いほうだし、カラオケだってまぁまぁ得意。でもそういうことじゃないのだ。


 わたしが歌いたいんじゃなくて、わたしの声をみんなに歌わせて欲しい。

 わたしの声を聴かせるよりも、歌わせてもらったわたしの声を聴きたい。

(そしていつか――)


 ロスへ行く直前、「虎次郎だけじゃ不公平だからな」とわたしにもお父さんがパソコンを買ってくれた。そして以前から興味があったニコ動をよく見るようになった。ピアノを弾く気になれなくて、練習に費やしてた時間がぽっかり空いたというのもある。


 当初の目当てはゲーム実況。虎次郎兄ちゃんがあまり構ってくれなくなってからも、上手なプレイを後ろで見てるのがわたしは好きだったのだ。

 ただニコ動もいまでこそMADとかネタ動画の類もいろいろ見るとはいえ、始めはそのノリというかマナーがよくわからず、なんでみんなこれが面白いんだろ、と思うことも多かった。ボカロのタグをクリックしてみたのも気まぐれでしかない。


 けれどそこでわたしの世界は変わった。

 ボカロ曲を聴いたことはもちろんあった。でもどこかでBGMとして流されるそれと、現場で繰り広げられてるものは同じ曲ですらまったく違った。

 誰かが作った曲に違う誰かが映像を乗せ、また違う誰かがアレンジやリミックスを施す。毎日新しい曲が生まれ、埋もれてしまうものもあれば、名曲として殿堂入りし、何十万回と再生されるものもある。


 顔も名前もわからない無数のひとたちが賛辞のコメントを書き込み、顔も名前もわからないボカロPたちがお金も名誉もないまま新しい曲で応える。最近では外野の作曲家や歌手がプロモーションに使ったりもするけど、そんなのはぜんぜん本質じゃない。夢の歌姫に託したひとの思いが可視化、可聴化され、つながってひとつの新しい世界となり、みんなそれをただ愛し、続けていこうとするだけだった。


 言うなればボーカロイドは、世界を貫く一本の柱だ。歌わせ方は作り手によって、節回しもブレスもアクセントのタイミングもまったく違う。ジャンルも質も千差万別にして玉石混淆、無限とも思える数々の曲の中で、声だけが同じであることに誰も疑問を抱かない。

 そのことに気づいた当時のわたしは、まるで信仰だ、と思った。まぁミクさんは神様というより天使なんだけど。


 興味のないひとから見れば、こんなのはひと時の流行りに熱を上げてるだけかもしれない。作曲家気取りの素人とオタの聴衆が、内輪で得意げに盛り上がってるだけなのかもしれない。

 でもお兄ちゃんをふたり立て続けに失い、脆くなった心がつながりを求めるわたしにとって、その新しい世界は宝石みたいに輝く道しるべに見えた。

 これはわたしの、開け方を知らない扉の鍵なのだ、となぜか疑わなかった。


 のめり込むのに時間はかからなかった。毎日のように新着をチェックし、コメントをつけ、気に入った曲をリストに追加した。可能な曲はダウンロードして、プレイリストを作って音楽だけでも聴くようになった。


 システム的には機械音声でしかないボーカロイドが、ほんとに素晴らしい人間のボーカルに音楽的な意味で勝るとはわたしも思ってない。でも知ってしまった以上そんなことはどうでもよかった。辛い現実から秘密の逃げ場を見つけたわたしはもう、そっちの世界の一員だった。

 もっと広く、もっと深く、どこまでもこの世界とつながれたなら。

 そしてついに、その考えに、扉の開け方に思い至ってしまう。


 この声が、わたしのものだったら。


(――どこにいても届くかもしれない)

 いつ最初にそれを思ったのかは覚えてない。でも一度考えてしまったことは、日を追うごとに膨らんで頭と心を支配した。勉強の合間に声優を目指すためのスクールやオーディションの情報を調べ、夜は文字通り夢を見ながら眠った。


 簡単じゃないのは子供にもわかることで、わたしは虎次郎兄ちゃんじゃないから特別な才能が自分にあるとも思ってなかった。

 それでも諦めようとは一欠片も考えなかった。生まれつきの才能に加えて努力を重ね、さらに運の後押しまであってようやく栄光を掴むひとたちをどうやったら最短距離で出し抜けるか、そればかりを考えるようになった。そういう発想はもしかしたら、ゲームをやるときの虎次郎兄ちゃんの影響だったかもしれない。


 そのうちわたしは、お兄ちゃんたちも持ってなかったものに気づく。小さな頃から美人と言われ続け、龍一兄ちゃんの彼女に羨ましがられたりもした。男子が授業中こっそり回してた『クラスで一番かわいい子アンケート』でも毎回1位だった。もう背もかなり高かった上に、手足も長く顔も小さいほうなのは自覚してた。


 これだ、と思った。本屋で若い子向けのファッション誌を片っ端から漁り、載ってるモデルさんの顔の傾向や扱う服の好みなどから、一番わたしに合ってそうな雑誌の読者モデル募集に応募した。それが去年の春、お婆ちゃんの亡くなる少し前。



「――採用されたのはただのラッキーだけどね。いざ意気込んでみたらアイリみたいのが周りに何人もいるわけで、自信なんてすぐ砕かれちゃった」

 やっと言えた。泣かずにちゃんと言えた。

 最後の最後、あるいは最初。ほんとに肝心なところは、まだ言えないんだけど。

 それは叶ってからじゃないと言えない。おねだりをしたいわけじゃないから。


「でも続けてる。諦めるつもりなんてないんだろ?」

 お兄ちゃんがわたしの厨二妄想みたいな夢をバカにすることはなかった。どころかちょっと……じゃない、すごく嬉しそうにしてる。わたしも嬉しいよ。

「うん。諦めない。でもそんな顔で聞いてくれたの、お兄ちゃんだけだよ」


 いまはもう、アイリは理解してくれる。いずみや若葉はそうでもないようで、そのあたりがいくら仲良くてもあのふたりを親友と呼べない理由だったりする。

 わたしにも虎次郎兄ちゃんがいたから、羨む相手がないものねだりをしてる姿に腹立つ気持ちもわかる。でもわたしの夢はわたしのものだ。誰であってもバカにはされたくない。


「当たり前だろ。素敵な夢だと思うよ」

 お兄ちゃんは嬉しそうな表情のままわたしを見つめる。ここは照れてる場合じゃないよね、とわたしも見つめ返す。


 それからお兄ちゃんは笑った。こないだお父さんと一緒にやってた、いたずらなやつで。

「おかげでおれにも、夢が出来ちゃったな」

 む。おかげでってなにさ。それと表情が気になる。虎次郎兄ちゃんの場合、たいていの夢は夢とも言えない努力目標な気もするけど。


「なによそれ。ちゃんと言ってよ、わたしだって言ったんだから」

 でもここで変なこと言ったら本気で怒るよ。一番大切な話をしたんだから。

「もちろん言うよ。もともとそういう話だったしな……正直、ずっと内緒で面白がってようと思ってたんだけど。ここまで来たら言わなきゃだめだろうな」

 だからわからんて。面白がるなよ。くすくす笑ってないで早く言えっつーの。


「まぁまぁ、とりあえずコーヒー飲んで落ち着いて。続きはおれの部屋で」

 不機嫌なふりをするわたしを適当になだめながら、お兄ちゃんはひたすら楽しそうにしてる。

 どうしてわたしがこの話をしたのか、ほんとにちゃんとわかってんのかこいつ。コーヒーの香りだってもう飛んじゃったよ。



「じゃ座ってて」

 例によって自分のクッションに腰を落ち着け、パソコンの操作をするお兄ちゃんを眺める。画面に目を移すと、いつか見たときと同じ、グラフみたいのがたくさん並んだ。お兄ちゃんはヘッドフォンをするわけでもなく、PCデスクの椅子に座ってにやにやしてる。


「もしかして、出来たの?」

 お兄ちゃんの夢はどうしたんだよ、と思ったけどあとでいいや。だってすごい。ほんとに夏の間に仕上げちゃったんだ。


 作曲ってのが1曲あたりどのぐらいの時間を要するのかは知らない。でもひとりでぜんぶのパートを考えて打ち込んで、ミックスとか音作りのことはよくわからないけどけっこう繊細な作業らしいし、簡単とは思えない。

 わたしなんてさんざん聴いた曲のピアノパートをアレンジするだけで何日もかかったのにさ。あれのフルバージョンなんて最後のほう煮詰まって超大変だったよ。披露したらまた褒めてもらえたから満足だけど。


「うん。お待たせ。動画はおれ作れないから、向こうの友達に発注してる。とりあえず今日は曲だけで我慢して」

 動画って、プロでもないのに動画サイトにPVアップすんのか……

 ……あ、曲始まった。……え?


 ――ほんとに肝心なところだけは、まだ言えない――

 ピアノのアルペジオに重なって、ささやくような日本語の歌声が。女性の。

 ミクの声が。


 わたしはかなり動揺しながらお兄ちゃんの顔を見上げる。いたずら成功、の。

 ミクの作成ソフトまで買ったのかよ。そりゃ参考にするとは言ってたけどさ。

 お兄ちゃんの曲が聴きたかっただけで、これをやって欲しいなんてまだ思ってなかったのに。超びっくりした。


 ――言っちゃったら、叶ったことにならないのに。

 うっかり言いそうになっちゃったよ……このイントロいいな。

 まったくこの妹バカは、と幸せに思いながら曲に耳を傾ける。


 歌がいったん切れると同時に、4つ打ちのキックドラムが入ってくる。王道のコード進行をピアノの左手が分数コードを使って複雑に崩す。ミクの声が戻ってきて、イントロと同じのを違う歌詞でさっきより力強く歌うAメロ。Bメロはなしで、伸びやかなサビへ直接展開した。バックコーラスは3度上を重ねるのでなく、まったく別の裏メロが絡んでくる。アコギを強調したスパニッシュ進行の少し不穏なブリッジのあと、Aメロには戻らずに短いピアノソロから再びサビへ。それから大サビ。サビの裏メロを3声コーラスで輪唱させ、またピアノと歌だけになり、やがてピアノも消え、歌を残してそのまま終わった。

 長くはないけど、その中でいろんなことが起こる優しい物語みたいな曲だった。


「どうだった?」

 どうだったじゃねぇよそんなのわたしの顔見りゃわかんだろ頬ゆるみっぱなしだよ嬉しくて泣きそうだよ超好みだよ。言うけど。

「めちゃくちゃ良かった。大好き。CD焼いてちょうだい」

 わかったありがと、とお兄ちゃんはその場で白盤のCD-Rをパソコンに挿入する。それにしてもすげぇなこいつまじ天才だな。


 いや曲も素敵だったんだけど、それ以上に。

「ねぇ、お兄ちゃん」

「ん?」

「こういうのってさ、聴くだけで再現出来ちゃうもんなの?」


 わたしが感動したのは、曲の良さだけじゃないし、加えてわたしのために作ってくれたことだけでもない。日本語詞でミクも心を見抜かれたみたいに驚いたけど、同じぐらい衝撃だったのは音そのものの質感、空気感、立体感。

 もちろんアメリカ帰りのお兄ちゃんの作る音が洋楽寄りになることは予想通りだし、期待もしてた。でもこの曲のそれはわたしの大好きなボカロP、ころたね氏の音にすごく近かった。そっくりと言ってもいい。


「わたしよく知ってるわけじゃないけど、こういう音自体の雰囲気っていうか作りって、ひとそれぞれ癖があるんだと思ってた。簡単に真似とか出来ちゃうもんなのかな」

 思い返せばミクの歌わせ方(調教というらしい)も似てた気がする。


「ああ、それはあるよ。同じ人間でも経験を積んだり趣味が変われば癖も変わるけど、やれば似せることだって出来るよ。でも本物にはならないな。たぶんひとによって聞こえる周波数に微妙な違いがあるせいだと思う」

 わたしの耳にはほぼ変わらないように聞こえたし、細かいことはわからない。


「ありがとな、ちゃんと気づいてくれたんだ」

 お兄ちゃんはどうやら、わたしの疑問を理解してくれたらしい。そっか、やっぱ狙ってやったのか……だとすると複雑な気分。いや嬉しいよ。すっごく。感動したけどさ。


「こっちこそありがと。でもさ、それはもういいよ。次は自分の音で聴かせて」

 そりゃ他人の作品を参考にしたっていいし、誰の影響も受けずにいることなんてきっと出来ないと思う。ときにはパクリのつもりがなくても似たものを作っちゃうかもしれない。

 でもわたしは、ほかの誰でもない、虎次郎兄ちゃんだけの本物を聴きたかった。ここまでしてもらってきついこと言いたくないけど、偽物じゃちょっと寂しい。


「はい、CD焼けたよ」

 お兄ちゃんはわたしの言葉に応えず、ビニールのケースに入れたCD-Rを手渡してくる。それからなにか探るように目を覗き込むと、またにやにやし始めた。な、なんだよ。

「そこまで気づいてるのにな。かわいいよかりん」


 かっ……もう、なんでこの流れでそんなこと言うか! 意味わかんねぇし。

「だから言いたいことあるならちゃんと言えって言ったでしょ? バカにすんな」

「違うよ、バカにしてない。面白がってるのは認めるけど」

 お兄ちゃんは眉をハの字にしてため息なんてつく。せっかく良い曲だったのにさ。それどう違うんだよ。ごまかすなよ。結局わかってないじゃん。


「だっていまのでもう充分、言うまでもなく気づいてくれたと思ったから。逆に驚いちゃって。ごめんな、怒らないで。……じゃもう1曲」

 怒るっつーの。こっちは真面目に言ってんのに。もらったCD投げつけてやろうか、って……もう1曲って。そんなぽんぽん新しいの作れちゃうのかよ。


 ならもっと早くさっきの聴かせてくれてもよかったじゃん、と勝手なことを思うわたしから顔を背けて、お兄ちゃんはパソコンを操作する。モニターからいったん作業画面が消え、また同じようなのが現れた。


「おまけのつもりだったんだけど、こっちが本命になっちゃったかもな」

 最後にマウスを1クリックしてから、椅子を立ってわたしの前に腰を下ろす。

 そしてスピーカーから流れてきた最初の1音を聴いたわたしの驚愕を、いったいどんな言葉にすればいいのか。世界がひっくり返り、怒ったのなんて一撃で忘れてしまった。


 さっきのもそっくりだった。そんなふうに出来ちゃうお兄ちゃんの才能には心底驚かされた。でもこれは、この音は、同じだ。

 わたしの耳はお兄ちゃんほどに訓練されてないかもしれないけど、絶対に勘違いじゃない。この音を何度聴いたかなんて、もう自分だって数え切れない。この夏だけでも余裕で100回以上リピートしてる。間違えるわけがない。

 長めのイントロが終わり、ミクが歌い出す。



 ――最後の言葉 思い出す 夢


 世界で一番の名曲、なんて言わない。でもわたしの、世界で一番大切な曲。


 ――なにも言えなかったのはただ 優しいふりして 逃げ込んだ弱さで


 『innocent concealment』

 そのテンポを落とし、ピアノパートをわたしのアレンジにしたものだった。


 こんなの。こんなことって。だってそうなら。もしほんとうにそうなら。

 偶然なんてもんじゃない。


 ――あのとき僕ら子供で 疑い方も知らず 誰かのせいにすることばかりに必死だった


 さっき堪えた涙がいまになってあふれ出す。それを止めることも拭うことも、指一本動かすことさえ出来ずにわたしは音楽の前で固まる。気づいてしまう。

 高嶺、虎次郎。Kojiro Takane。間を抜いて、Ko ro Ta ne。

 こんなのもう、運命だよ。


 ――強くなれないのは言い訳 少しでも早くすべて許して君をさらえるぐらいに



「ひどいよ……」

 アウトロのピアノが消え、曲は終わった。途中からわたしはずっと下を向いてしまってる。鏡なんて見なくても顔はぐちゃぐちゃで、目元はきっとパンダみたいになってる。

「ごめんな」

 すぐそうやって謝る。もっと謝れ。でもいくら謝っても許してやんない。


「なんで……お兄ちゃんなの……」

 なんでロスまで行ってボカロPなんてやってんだよ。あんた歌だって超上手かったじゃねぇかよ。わたしが言うのもおかしいけど自分で歌えばいいじゃねぇかよ。


「内緒にしてて悪かったよ。……かりんがこれ好きだって言うの聞いて、ほんとにびっくりした。すぐ教えたほうが良かったかもしれないけど、ちょっと面白くなっちゃって。かりんのことも驚かせてやろう、って思ったんだ」

 最悪だよそんないたずらいらねぇよ。あんとき言われたって充分びっくりだよ。


「こんなのって、ないよ……」

「ごめん。泣くほど怒るなんて思わなかった。楽しんでくれると思ったんだよ」

 もう無理。こんなことされて耐えられるわけない。嘘もつけない。あんた昔からそうだよ。ひと笑わせようとして困らせてばっかりだったよ。


「かりんのアレンジ、勝手に使ったのも悪かった。いやなら削除するよ。許して」

「違う! そんなこと言ってんじゃない!」

 顔を上げられないままわたしは叫んだ。握りしめた手が震える。どうしてわかんねぇんだよ。わかるわけないのわかってるけど。わかられちゃいけないんだけど。


「じゃあ、どうすればいいかな。言ってくれなきゃおれにもわからない」

 下唇を噛んだ。そんなの知ってるよ、わたしがさっき言ったことだもん。揚げ足取って仕返しするのも昔と一緒だよ。

 それでもどうしても言えない本音だってあるんだよ。イノセント・コンシールメントだよ。こんなの言っちゃったらもう戻れないよ。わたしも困るしお兄ちゃんはもっと困るよ。


「……っ、ぐ……うう……」

 とうとう嗚咽が漏れ、どうしようもなく泣き続けるわたしの頭にそっと手が乗せられる。

「言いすぎた。……ほんとにごめんな。こんなはずじゃなかったんだ」


 わたしだってこんなはずじゃなかった。でも説明なんて出来ないしごまかす言葉もさっぱり思いつかない。

 なんでわたしこんなバカ正直なんだろう。いくら演技の練習したって肝心なとき役に立たないんじゃ、夢だってきっと逃げてっちゃう。


 お兄ちゃんは落ち着いたトーンの慰めを口にして、丁寧にわたしの髪をなでる。

「だめな兄貴だな。妹を喜ばせたくて帰ってきたのに、泣かせてばっかりだ」

 ほんとだめだよ。だめじゃないけどだめだよ。そういうところがだめなんだよ。自分が妹になにしてるかわかってないんだよ、もう我慢出来ないよ……。


 ふいにその手が止まり、離れた。

 それから、ほとんど聞こえないぐらいのため息。軽口を叩くときみたいなやつじゃなくて、小さくて重い、ほんとに切実なときのため息。


「……ロスに戻ったほうがいいのかな。あれで母さんは、もう大丈夫だろうし……おわっ」

「やだ!」

 理性が歯止めをかけるより先に、わたしはお兄ちゃんの胸に飛び込んでた。

「かりん?」


 そのままの勢いで、ついに言ってしまう。

「もう行っちゃやだ! ここにいてよ! わたしがいいって言うまで!」

 取り返しのつかないことを。


 お兄ちゃんもだめだけど、わたしはもっとだめな妹だ。大学や友達やほかにもいろんなこと犠牲にして自分のために帰ってきてくれたひとを、こんなふうに泣いて困らせて。

 でもわたしが言えば日本にいてくれることもわかってて、ほんとはロスに戻ったほうが幸せかもって思いながら引き留めて。とことんずるくて最低だよ。


「いてくれなきゃ、やだ……」

 そんでさらに困らせようとしてる。想いそのものを口にしなくたって、もうごまかしなんて利かない。これで伝わっちゃった。


「……そっか」

 抱き止めたわたしの身体を引き寄せる、暖かい腕がその証拠。

「そうだよ……」

 これって、どう解釈したらいいんだろう。

 驚いてないってことは、もしかして……受け止めてもらえたの、かな。


「かりん」

 いつ聞いても素敵。その声で、その響きで呼ばれるだけで嬉しくなっちゃう。

「なに、お兄ちゃん」

 それとも、わたしと同じ気持ちだったってことなのかな……そうだといいな。それならこのひとのどシスコンも、単にそういうことだったんだ、って話だから。

 いつもいつも、こっちは恥ずかしくて死んじゃいそうだよ。お兄ちゃんのバカ。


「いいんだ、おれがいても」

 心臓がすごい勢いで早鐘を打って呼吸は止まりそう。なのに不思議と安心する。まるで最初から、ここだけが自分の居場所だったみたいな気分。

「当たり前だよ」


 結局、アイリが心配した通りになっちゃったな。これからどうしよう。まさか歌詞みたいにさらってくれるわけじゃないだろうし。

 でもいいやもう。難しいことなんていまは考えらんない。

「ほんとに迷惑じゃないかな」

 ぼうっと痺れた頭の上から、優しい声が降ってくる、けど。


「……言ったじゃん。お兄ちゃんの家だって」

 ずっとかりんのそばにいるよ、ぐらい言うかもって期待したのに。そしたらわたしも、なんかそれっぽい言葉で応えちゃおうかな、って思ってたのに。違うんだ。ちぇ……。

「なら良かった。いやになったらちゃんと言ってくれな。また泣かせたくないし」

 ……あれ? なんか平常運転じゃね?


 もちろんわたしは、自分がなにを言ってしまったのかわかってる。誰の胸に頭を預けてるかもわかってる。ラノベ主人公みたいに鈍感な女たらしのお兄ちゃんとは違う。


 って、あ。


 ……そうか、そうだった。今度こそわかった。こいつそういう奴だ。

 この、リアル光太郎め。


「よいしょ。はい失礼もういいや」

 このアメリカかぶれにとっちゃハグなんて普通だったよなちくしょう、と思うとあっさり涙は止まった。まだ胸は苦しいけど、なんとか演技する余裕ぐらいあるはず。身体を包む両腕を押しのけ、もと座ってたクッションに戻る。


「ごめん。いろいろびっくりして混乱した。いいよさっきのあれ、わたしのアレンジのやつ。怒ってない。でもニコ動にはアップしないで。わたしのだから」

 表情キープに気を取られてちょっと早口になっちゃったかも。あんま上手くない演技だけど別にいいやこいつバカだし。


「いいけど、もう終わり? ほっぺにちゅーとかしてくれるかと思ったのに」

 手に持ってたCD-Rが至近距離からお兄ちゃんの顔面にストライク。

「だから調子に乗んなっつーの。ここは日本だっていったい何度言えばわかんのあんた。あともうそれいらない。顔洗ってくるから、その間に2曲まとめて焼き直しといて」

 よし平常心。完全にいつも通りだわ。


「……かりん、そういう暴力やめない? おれさっきみたいな甘いやつがいいよ」

「お好みなら椅子とかで殴るけど?」

 立ち上がって部屋の外へ出ようとするわたしに、背後から声がかかる。

「遠慮する。じゃやっておくよ、愛する妹のために」

 ドアノブにかけた手が一瞬止まりそうになるも、振り向かずに回す。


 愛する妹、ねぇ。いったいどんな顔でそれ言ってやがるんだか。

「よろしく」

 それだけ言って廊下に出る。まったくもう。ほんとしょうがねぇ奴だな。


 こんな顔、お兄ちゃんに見せられるわけないじゃん。

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