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ゴジラの正体は、サッカーボールを壁に蹴り続けている高宮瞬だった。
四時間前に見た、あの氷の目が頭をよぎる。
気付いたら、普段出さない大声で話しかけていた。
「おい、何、やってんだよ。」
高宮がボールを蹴ったままの体勢で一瞬固まった。そしてすぐに顔を上げ、その目が屋上の俺を捕らえた。
壁で跳ね返ったサッカーボールが隣を転がる。 そのまま、無言の時間が流れた。
傾いた太陽が日陰を広げる。
それでも、高宮の周りだけは光っていた。自分が太陽であることを誇示するかのように、日の届かない場所に光を分け与えていた。
まっすぐ、こちらを射抜く視線が痛い。
先に口を開いたのは高宮だった。何事もなかったかのように、サッカーボールを蹴り始めながら言う。
「何って、サッカーだけど。」
それがさっき俺が聞いたことの答えだというのに気付くまで少し時間が要った。その間に、また高宮はサッカーにのめり込んでしまう。よく見ると、ボールが跳ね返る壁が凹んで変形していた。
「なあ、そんなにサッカー好きならサッカー部入ればよかっただろ。」
再び声をかけると、うるさそうに睨まれた。今日はなんとなくいつもの高宮と様子が違う。
「別に。サッカーが好きって訳じゃない。」
「じゃあ何でそんなに練習してるんだよ。」
「そんなにやってない。さっき始めたばっかりだし。」
高宮の蹴るボールの速度が上がる。
「さっき始めたばっかりで壁の形は変わらないだろ。少なくとも丸一日は蹴り続けないと。」
「・・・・・・。」
高宮の足が何もない空間を蹴った。ボールがその横を通り過ぎ、後ろへ流れる。
「何でアリジゴクに通い詰めてまで、練習してるんだ?」
「・・・そこにボールがあったから。」
頑固者め。
「そんなところにサッカーボールはない。」
「・・・・・・。」
高宮は、空振りしたボールを取りに行こうとはしなかった。その場に突っ立って、壁の凹みを眺めている。
そして、唐突にこっちを仰ぎ見た。
「君、切磋琢磨君だよね。いくら近付いても僕に話しかけてこないから、変わった人だとは思ってたけど、ここまで追い詰められるなんて思ってなかった。」
そう言うと、クルッと音がしそうな程に体を回転させ、後ろのボールの所まで歩き、さらに二歩下がって・・・・・・なんとボールを空高く蹴り上げたのだ。
それは美しい放物線を描きながら、高い校舎をものともせず、屋上にいる俺の腕に飛び込んできた。
「そんなに知りたいなら教えてあげようか。僕は、来週の体育のために、ここで練習してるんだ。次はサッカーをやるって言ってただろ。ちなみに、あそこにある小さい凹みはバスケットボール。凹んでないけど、あっちの丸い跡はピンポン球で作ったんだ。」
テニスに、バスケに、卓球。全部体育の種目じゃないか。
「もしかして・・・体育の授業のための練習、とか?」
「そうだよ。たとえ体育の授業でも、万全のコンディションでプレイしたいからな。」
「・・・それって、他のことでもやってんのか。テストとか、調理実習とか。」
「当たり前だろ。前日に、翌日のクラスでの話の種を二十個は考えておくくらいだ。八割は作り話だけど。」
二十個!?の八割で十六個の作り話!?それだけ考えられれば今すぐ就ける職業が結構ありそうだ。いや、その話、暗記するのがすごくないか。
でも。
「・・・そういうの、疲れねぇ?」
「え?」
「だから、そんなふうに一生懸命完璧な自分繕って、周りから変な期待されて、もっと完璧になろうとして、頑張っても頑張っても、高宮瞬ならそのくらいできて当然だって、一言で片付けられる。でも、頑張らないわけにはいかない。期待に応えなきゃいけない。なんか、あんた、いろんなものに追い詰められてる感じがする。もう全部嫌になったりしないのか?」
サッカーボールを投げ返す。白黒模様が地面に落ちていった。
高宮はそれを片足で受け止め、首を傾げた。
「君の言っていることが分からない。頑張って何が悪いんだ。期待されるんだから、応えるのはいいことじゃないか。僕にはそんなこと、苦労でも何でもないし、何でもできるのが当然だと思われればそれは僕にとって嬉しいことで、別に追い詰められてるわけじゃ」
「じゃあ!」
高宮の声を遮るようにして思わず出た大声は、周りの壁で反響しながら地面に落ちた。
「じゃあ、あの目は何なんだ!今日の体育で五十メートルのベストタイムを出した時の、人を見下すような目は。お前は嬉しいときにあんな目をすんのかよ!」
フェンスがきしんで音を立てた。俺は初めて自分が相当危ない体勢でいることに気付き、乗り出していた体を元に戻した。
高宮がゆっくりと口を開く。
「・・・頭がおかしくなりそうなんだ。」
その声は呟き程になっていたが、平静を取り戻した俺の耳にははっきりと聞こえてきた。
「誰かを見下してないと、やってらんないんだ。」
高宮の視線は屋上よりもっと上、空に浮かんだ一つの雲に注がれていた。
「小学生の時、テストで五十点以上を取ったことなんてなかったんだ。そりゃそうだよな、勉強しなかったんだから。
でも、三年の時、担任の先生が僕に言ったんだ。『次のテスト、一回本気でやってみなさい』って。
その先生は口で言っただけじゃなくて、ちゃんと僕の勉強を見てくれた。もちろん、授業以外でもね。 そのテストで、生まれて初めて百点を取ったんだ。先生には『あなたはやればできる子なのよ』って言われた。確かにそうだった。試しにいろんなことをやってみたら、勉強もスポーツも何もかも、練習すればした分だけどんどん上手くなっていくんだ。
気付いたらクラスで一番になって、学年で一番になって、学校で一番になってた。そのうち、自分が一番じゃないと気が済まなくなってきた。誰かに負けたら必死に練習した。これが不思議なことにやればいくらでも伸びるんだ。
そうしたら、もう僕に勝てる人が一人もいなくなった。だから、今度はみんなとの差を広げるために頑張った。少しでもくっきりした一番が欲しくなってきたんだ。
そんな時、周りからトップレベルの私立中学を受験するように勧められた。断ったら負けみたいな気がしたから受験を決めて勉強したんだ。
君も知ってるだろ、この噂。でも、入学しなかったのは両親の都合なんかじゃないんだ。
僕は受験者の中でも高得点で合格した方だった。だけど、主席じゃなかった。上には何人もの人がいて、そのことにショックを受けたんだ。僕は一番に慣れすぎた。この学校じゃやっていけない。そう思ったから入学を辞退したんだ。
でも、その時僕の中で何かが変わった。いくら頑張っても、上がいくらでもいるっていうことが、全てで一番にはなれないっていうことが分かったからだと思う。
それからは、人を見下すことでしか一番を確かめられなくなった。いや、見下すことで自分が井の中の蛙だってことに気付かないフリをしてるのかもしれない。
君はすごい人だと思うよ。僕の本心を見破ったんだから。今の人気を維持するために、表面に笑顔を貼り付けてるし、言動にもいちいち気をつけてるから、ほとんどの人は騙されるんだ。なかなかできることじゃない。僕はあんまり人を心から褒めたりしないんだけど、本当にそう思う。」
高宮が再びサッカーボールを蹴り始めた。もう俺のことなんか見もしないで、目の前のボールに意識を集中させている。
アリジゴクという狭い空間でサッカーボールを追う高宮。それを上から眺める俺。
おもしろい。あんたは俺の想像を超えた唯一の人間だ。そこまでの負けず嫌いだなんて、思いもしなかった。
興味がわいてくる。好奇心が膨れあがる。止まらない。
もっと知りたい。
あんたは、何を、どう捉え、考えているんだ。 その氷の目には何が映っているんだ。
アリジゴクでちょこまかと動き回る高宮が、箱に入れられたモルモットにしか見えなくなっていた。
これから、学校が楽しくなりそうだ。さて、何から実験しようか。試したいことがたくさんある。あれも、これも。
そうだ。一つ聞き忘れていたことがあった。
「なあ、高宮。」
高宮の動きが止まり、目線が上がった。
「どうやってそこに入ったんだ?アリジゴクには窓もドアもつながってないだろ。」
すると、高宮の唇の端がキュッと上がって、幼稚園の悪ガキみたいな笑みが浮かんだ。高宮のこんな顔は見たことがなかった。
「知ってるかな、アリジゴクの秘密。ここ、本当は配水管を通すための場所になるはずだったんだ。設計のミスで上手くいかなかったみたいだけど。でも、配水管がつながる先の段階は出来上がってるんだ。つまり、水漏れの時のために、作業員用の出入り口がついてるってわけ。一階の女子トイレの一番奥の個室、後ろの壁に扉みたいなのがついてるんだ。そこを開けたら、ここに出てくる。」
え、でも、それって・・・・・・
「あんた、もしかして、女子トイレに入ったのか?」
静けさの後、高宮がぼそっと呟いた。
「・・・そこには触れないでもらいたかった。」