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*4* 初恋は実らないはずが。


 エーデルがリーベルト断ちをして、八ヶ月が経った。


 驚くべきことにこの八ヶ月もの間、彼女を訪ねて来る客足が衰えることは一日もなく。彼女も月に四日の休息日だけで回していたので、その身にかかる借金は大幅に目減りしていた。


 客の一部も彼女の本気を見て取り、高嶺の花を応援する上客からの脅威のリピート率が、エーデルの初恋を後押ししている。


「今月だけでこれほどか……。この分だと完済まではあと半年くらいだな。店主の言い分としてはおかしいが、最初からこれくらいやる気を出していれば、お前ならすぐに出られただろうに」


「別にこれまでは外に興味がなかったから、出られないなら出られないでも良かったのよ。どうせお客を取れなくなったら外へ出してくれるのだし」


 部屋に今月の売上を尋ねに来たエーデルにそう問うた主人は、本当に興味がなさそうにあっけらかんと答える彼女に「それはまぁ、そうだが」と歯切れ悪く返した。事実ここは娼館だ。


 他の店と同様に、この店でも病気や年齢を理由に借金を返せなくなった場合は、少しの金銭を持たせて店の外に出す。その後の生活の面倒は見ない。自分で自分を買い取って出ていく女達は、放っておいたところで人生を逞しく歩んでいく。冷たい話ではあるものの、仕方のないことでもある。


「でも……ふふ、もう少しで自分で自分が買えるのね。待ち遠しいわ」


 そう手入れを怠っていない髪を指先に巻きつけるエーデルは、今まで主人が見たことがない表情をしていた。この職業に就いていても、恋する女は後を絶たない。それは救いでもあり、呪いでもある。


 大抵は悲しみに暮れた笑みなのに対し、エーデルの笑みはとても勝ち気で。これまで客に対して向けていた嫣然とした微笑みは、この娘の生来持った本質ではなかったのかもしれないと、主人は思った。


 店にいる他の女達から彼女の欲しいものを聞いていた主人は、エーデルが遠ざけてからもひっそりと通ってきていたあの騎士には、少し勿体ないのではと感じていたが、ここへきてその考えを改める。


 常でさえただそこにいるだけで美しかった彼女が、まだこれほど美しい笑みを浮かべるとは知らなかったからだ。しかしだからこそ気になることがある。連日来ていたあの騎士はこの一月半ほど顔を出していない。


 店に客として訪れる商人達からの話では、友好国である隣国の国境防衛戦に駆り出されたのではないかとのことだ。確かにあの騎士は王都でも一、二を争う剣の腕前だと聞いたことがある。


 まさかここまできてエーデルに飽きることはないだろうが、戦死の可能性がないとは言い切れない。店の者達全員の心の中に一抹の不安はあった。そして口にはしないものの、エーデルにもその不安は巣食っている。


(大丈夫よ、きっとあの人なら帰って来てくれるわ。今はそれまでに自分のことを買うお金を貯めるのよ。そうしたら今度こそ……)


 今度こそ自分から好きだと言えるのだ。客と娼婦の立場ではない、ただの娘としての本当の言葉で。


 だが――そう彼女が意気込んでいたというのに、隣国の国境防衛戦は当初の見立てよりもかなり長引き、友軍として数々の戦功を立てたリーベルトが戻ったのは、エーデルが自分の身を買う金額に、あと少しで手が届くところまで迫った五ヶ月後のこと。


 彼女が他の男によろめくようなことは微塵もなかったが、華々しい活躍をした結果隣国の王に気に入られ、第三王女との婚約まで求められたリーベルトが、再びエーデルに会うためにルミリューズに訪れることは、誰の目から見ても望み薄なように思えた。


 そして悲しいかな、当のエーデルでさえそう思っていた。リーベルトが英雄として王都に戻る。その凱旋パレードが開かれる当日、彼女はぼんやりと自室の窓から飾り立てられた表通りを眺めていた。


 店にいる他の娼婦達は、昼の間に馴染みの客達と一緒にパレードに行くという。当然エーデルを誘う者もいた。客も娼婦達も、この恋が成就すれば良いと思っていたが、最早それが難しいことも知っている。


 英雄と娼婦が結ばれるなんて、夢物語の中だけだ。けれど彼女のこれまでの努力を見ていた娼館の主人は、エーデルが借金を完済した後に住む家まで用立ててくれていた。一人でも、二人でも、そのどちらでも住めるような家を。


 大通りから少し離れた方角から花火と歓声が上がる。盛大な音楽も、家々の窓から撒かれる色とりどりの花弁も。近付いてくるほどにエーデルの心を鈍色に染めていく。表通りの賑わいは最高潮に達し、部屋の窓が震えるほどだ。


 もしも隣国の第三王女と仲睦まじく並ぶ姿が見えたのなら、この初恋を諦めよう。そうして初恋が叶わないのならもう借金の完済は辞めて、ルミリューズで花の終わるまで勤め上げよう。


「リーベルト様……そろそろこの通りの前を通る頃かしら。ここからも無事なお姿が見えると良いのだけれど」


 自然と潤み始めた外の世界を眺めながら、どこか夢見る声音でぽつりとエーデルが呟いたその時、部屋のドアがノックされた。店の誰かが彼と王女が並んでいるのを見たと教えにきたのかもしれない。気乗りはしないが、ドアを開けて礼を述べたら今日は一日休むと伝えよう。


 そう思い、窓から離れた彼女がのろのろとドアを開けると――そこにはかっちりとした軍服に身を包み、胸に勲章を幾つもつけた無骨な男が立っていた。


「はっ、エーデル嬢……居てくれて良かった。ここに来るまで、誰かに誘われてパレードに行ってしまったかもしれないと、気が気ではなかったのだ」


「リー……ベル……ト……様」


「あ、ああ、戻って早々に貴女に名を呼んでもらえるとは、その、とても嬉しい。それでだな、エーデル嬢、あの、来て早々ですまないんだが、お、俺と、ゲームをしてはくれないだろうか?」 


 一瞬エーデルは極限状態の自分が、都合の良い夢でも見ているのではと疑った。だって相手は表のパレードの主役である。けれど落ち着きなく首の後ろを掻き、しきりに自分の顔色を気にしている男を見て、夢でも良いかと結論づける。夢でも良い。初恋の男が会いに来てくれたのだから。


「良いですわね、ゲーム。久し振りに致しましょうか」


 彼女にしては珍しく泣き笑いのような表情でそう言うと、リーベルトの腕を取り、部屋へと招き入れた。


「それで、今日は何のゲームをして遊びましょう? いつも通り私が持っているもので構いませんか?」


「いや、今日は俺がっ、新しく覚えたゲームをしよう」


「まぁ新しいゲームですか。それは楽しみですわね。ルールの説明などをお願いしてもよろしいかしら?」


 どうせ今日も自分が勝つはずだ。けれどもしかしたら、これがリーベルトと結ばれる最後のチャンスかもしれない。そんな気持ちが揺れ動くものの、エーデルは矜持を振り絞って「負けませんわよ」と、精一杯勝ち気に笑った。


 するとリーベルトは嬉しそうに破顔して、新しいゲームの名前とルールを説明し始めた。ある一つの単語を対戦者と交互にくりかえし、照れた方が負けという単純明快なその名も【愛してるゲーム】。


 正気でないネーミングセンスと、ゲームとも呼べない幼稚な内容。どう考えても王都一と謳われるルミリューズにおいて、相応しいとはいえない俗物さ。しかしエーデルはこの勝負を二つ返事で受け入れた。


 最初で最後のチャンス。どちらが勝っても負けても自分には得しかない。長らく言われ慣れている言葉だから、数回は彼の口から〝愛してる〟を引き出すことが出来るだろう。


 エーデルはそう思って「では、リーベルト様からお先にどうぞ」と余裕の笑みで先手を譲ったのだが、何を思ったのか、リーベルトはその場に跪き、一切照れずに彼女の瞳を真っ直ぐに見上げて「愛している」と。そう言った。


 その瞬間、エーデルの耳には表の賑やかな音楽は届かなくなり、代わりに自分の心音だけが身体を突き破らんばかりに鳴り響く。まだたったの一度目だ。そんな馬鹿なとエーデルが思った直後、跪いていたはずのリーベルトが勢い良く立ち上がり、困惑する彼女を胸に抱きしめた。


「やっっった!! 勝った、勝ったぞ、俺の勝ちだ!!」


「え、え、あの、待って、鏡を見せてください。まだ負けてないわ」


「ああっと、そうか、そうだな。すまない。俺に負けるなどと、信じられないのも無理はないよな」


 何故かここに至って負けず嫌いな発言をするエーデルを一旦離し、慌ただしく鏡台の前に彼女を連れて行くリーベルトは、ご褒美を目前に待てを命じられた大型犬だ。


 そうして恭しく椅子を引き、鏡に映る彼女と目線が同じになるよう跪いた彼は、後ろから緊張気味に「どうだろうか、エーデル嬢」と、さっきまでの堂々とした態度が嘘みたいに縮こまって尋ねる。


 けれど鏡に映ったエーデルの頬は、誰が見たって明らかに鮮やかに染まっていたので。そんな自分の顔を見た彼女は振り向き様に、リーベルトへ「負けました。抱いてくださいませ」と迫った。


 一度しか〝愛している〟を引き出せないのなら、ここで攻め手を緩めてはならない。彼女の勢いに「へぁ、ま、待ってくれ、まだ続きが……」とか何とか喘ぐリーベルトの唇を、エーデルの唇が強引に塞ぐ。淑女は獣になったのだ。


 即効で戦意を喪失してだらりと腕を下げた彼の軍服のポケットから、藍色の小箱が転がり落ちたことに気付くのは、これから数時間後。英雄の不在など気にもしないパレードの余韻が、夜の街を賑やかに彩るベッドの中で。


 今度こそ彼女の瞳を真っ直ぐ見つめ、愛していると囁いて。真っ赤になった彼が薬指にそれを捧げた。


 エーデルが残りの借金を返しても余りあるお金と、娼館の主人が用意してくれた家が必要ないとその口から聞かされ、大きな屋敷で奥方様と呼ばれるのは、店に居続けたさらに三日後。


 箱庭姫は恋をした。

 不器用な騎士に恋をした。


 これからずっと先の時代まで、この二人の夢のような恋物語は、色々な吟遊詩人達の手により歌い継がれた。

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