*3* その原動力は初恋。
血判の入った借金の借用書を受け取った翌日から、エーデルはバリバリ稼ぐ気でいた。とはいえ何も簡単に身体を使おうというわけではない。それなり以上に財力と教養を持った自身の顧客を吟味して挑もうというだけである。
彼女の評判は近隣の国々のやんごとない身分の人間にも知られているため、上手くいけば新規開拓も夢ではない。今までやる気がなかっただけで、彼女自身が真面目に己の身の自由を望み、箱庭から出ていこうと思いさえすれば、もっと早くに年期が明ける手はあったのだ。
それをしてこなかったのは、偏に彼女が自身に興味を持っていなかったからに他ならない。その彼女が仕事をやる気になったという噂はあっという間に広がり、毎日引きも切らぬ繁盛ぶり。
相手がリーベルトでないだけにあまり楽しい仕事ではないが、自分で自分を買ってここを出て、煮え切らない彼の妻の座を射止めようと燃えるエーデルにとっては、ある意味では今までで一番生きている実感があった。
けれどお金を稼ぐことにだけかまけていては、美容に支障が出る。睡眠とリーベルトを想う時間だけは、他を犠牲にしても捻出したいエーデルであった。ただし会えない時間が長くなる分だけ、リーベルトを想う時間に邪念が混じるのは玉に瑕だが。
自身のことを居丈高で可愛気がないと思っている彼女ではあったが、実際のところはリーベルトが現れてからというもの、面白いくらい恋に浮かれている彼女を温かく見守る同僚は多かった。
当初の娼館の主人の心配とは真逆。これは女の集まる花園では意外すぎる展開だった――というわけではなく。
単に彼女達が長年ルミリューズに居座り続ける、エーデルという絶対強者には勝てっこないと、端から同じ土俵に立つことを放棄していたことにある。何よりも彼女達は馬鹿ではない。ここが娼館である以上、自分という商品の価値の見極めが大事だと知っていた。
貢がせるのも、愛を囁くのも、身の丈に合った相手を選んだ方が、自由への道は近い。そして皮肉なことに、それが一番難しいのがエーデルなのである。加えて障害の多い恋物語は観客として楽しむにはうってつけだった。
あとは意外なことに見習い達からの人気も高い。一流店とはいえ、時には気難しい金持ちもくる。そんな時に客の虫の居所が悪いと、見習い達はまだ習って間もない舞や歌を披露しろと虐められるのだが、他の娼婦達も自分の仕事で客と部屋にいるため、助けに行けない。
そこに現れるのが気分で、しかも客を選ぶ立場にあるエーデルなのだ。彼女は見習いに絡む客を『雛を虐めて遊んでいないで、私と遊びましょう? お客様が勝ったら私の閨に入れてあげるわ』とゲームに誘い、完膚なきまでに叩きのめして店から追い出す。
面白いのは、その客が次回から自分のプライドをへし折った彼女を指名するようになること。見習いの雛達は、そんなエーデルに信仰にも近い憧れを抱いていたので、堅物騎士と彼女の恋を激推ししている。
かくして彼女すら知らないところで、彼女の初恋は猛プッシュされ、そのため哀れなリーベルトは連日門前払いをくっていた……かと思いきや。
「あーっ! もう、何をどうやったら勝てるのよあんたは!」
「ちょっとぉ、貴方これ本当の本気でやってるのぉ?」
「はぁ……あのエーデルが苦労するのも分かるわ。こんなの何をやっても閨に誘えないじゃないの」
「ねぇどうして? どうしてここでこの駒を動かしたの?」
「さっきのカードゲームだってさ、あの数字が出たらもう一枚引く方がまずいの分からない?」
「もー、エーデルの手すら自分から握ったことないくせに、どうしてここで強気に賭けるの。ここは守るところでしょう」
「うちに最近入ってきた見習いより酷いわよ。失礼かもだけど、読み書きは出来てるのよね?」
――もうこれで何度目になるのか。
乱れ飛ぶカード。ぶん投げられた賽。真っ二つに割られた遊戯盤。砕けた各種遊戯盤の駒達。そんなものたちで溢れる店で一番の防音性を誇る仕置き部屋に、娼婦達の苛立ちと落胆の声が響く。
当然ながらここは隠れて各種ゲームを楽しむ場所ではない。本来なら借金を返さないまま客と店から逃げようとしたり、客を拒んだりした娼婦を閉じ込めて折檻する場所。だからこその防音性である。
しかし他店とは違い、折檻に使う道具は埃をかぶって部屋の隅に追いやられている。エーデルが娼婦として店に出られるようになってから、一度もここに閉じ込められた娘がいないせいだ。
そんな部屋で彼女達にかなりこってり絞られているのは、突然エーデルに『しばらくお顔を見せないでください』と言われ、捨てられた大型犬の如く、毎日しょんぼりと店の前に立っていたリーベルトである。
ちなみに一応このゲームには賭金が発生しており、ただいま全敗中の彼は彼女達に金銭を支払っているため、閨の相手をしないで金銭を受け取れる彼女達に怒られるのは、やや可哀想な話ではあった。
ただまぁゲームの相手としてはカスもカスなので、彼女達にしても楽しくはない接待相手という、無視出来ない事実はあるにしても。
「ぐっ……皆が協力してくれているのにすまない。だが恥ずかしながら、これが俺の実力なんだ」
騎士としては水準を大きく上回る彼は、己の無力さに項垂れて肩を落とす。そんな堅物でデカブツな騎士を見て頭を抱える一同。困ったことに、正直もうこの店どころか、他国の客からもらったゲームまでやりつくしてしまった。
エーデルが店で好き勝手に振る舞えるように作ったルールが、彼女が抱かれたくてしかたない男をこの世の果てまで遠ざけている。店で合法的に彼女と閨を共にする方法はもうないことになる――が。
ここで部屋にいる一人が「あのさ、屁理屈って言われたらそれまでなんだけど、これってさ極端な話、ゲームってつくなら何でも良かったりしない?」と言い出した。その言葉にふっとその場にいた全員が顔を上げる。
唯一ぴんときていないのは、またもお前かのリーベルトだけだ。しかしここルミリューズは客を楽しませ、駆け引きをする女達の城。であれば、彼女達はここで戦う歴戦の騎士だった。
「……もしかして!」
「そうか、あの手があったわね」
「うーん、だけどエーデルがあれをゲームだと認めるかしら?」
「認めるわよ。八方塞がりなんだから、認めないわけがないわ」
「あたし達は面倒な客避けとか、閨を盛り上げるのにしか使ってないけど」
「言われてみれば、確かにあれも広域で言えばゲームよね?」
「むしろこの人には、あれでしかエーデルを負かす可能性はないわ」
リーベルトのあまりの勝負弱さへの絶望感で、光を失っていた彼女達の瞳に一気に輝きが戻る。そして彼女達の会話に全くついていけず困惑する彼に、やや殺気立った顔を近付けて。
「いつかあの子に絶対言わなきゃ駄目な言葉、分かってるわよね?」
「照れたりしないで言えるように、特訓する必要があるけど」
「あんたが勝てるのはもうこれしかないから」
「堂々として言うの。目を見てね。真剣であればあるほど良いわ」
「跪いてやったら雰囲気が出るのじゃないかしら?」
「本懐を遂げた後の方が、エーデルだって頑張れるだろうし」
「〝ゲーム〟とはついてるけど、本気で言うのよ!」
そうたっぷりと勿体をつけて告げられたゲームの名に、恋愛面で恐ろしく奥手で初心なリーベルトは、早くも厳つい顔を真っ赤にして頷くのだった。