*2* 初恋はもぎ取るもの。
「コール……これで私の五十戦五十勝ですわ、リーベルト様」
心なしか勝敗を告げるエーデルの声は弱々しい。あれからも手を変え品を変え色々と勝負を持ち込んでいるというのに、最早八方塞がりに思えるほどリーベルトという男は勝負事に向いていなかった。
前日はこれならばと腕相撲を申し出たのに、リーベルトは彼女に手を握られた瞬間、耳殻まで真っ赤にしてあっさりと負けてしまったのだ。騎士が娼婦に腕っぷしで負けたことは、流石に墓の下まで持っていこうとエーデルは思った。
毎日通ってくるのだから、エーデルの関心を買いたいのは間違いないだろう。そもそも顔を合わせるだけでも相当な金額を積んでいるはずなのだから、あわよくば愛されたいと思っているかもしれない。
そしてそれはむしろエーデルにとっては願ってもないことだった。彼女としてはすぐにもリーベルトのものになりたいのだ。
――……それなのに。
「あ、ああ。今夜も見事な腕前だった、エーデル嬢。それに比べて俺は不甲斐ないな……はは……完敗だ」
エーデルが切なく(端から見ると妖艶に)見つめているのに、リーベルトはそんな風に苦笑して早くも席を立つ準備を始めようとする。勝負運のなさもそうだが、女心もまったく分かっていない男だった。
ここまでくるともう意地でもことに及びたくなってきたエーデルである。第一今のままでは手すら握ってもらえずに、リーベルトの有り金を吸い上げて彼を破滅させてしまう。それはいけない。それだけは絶対にいけない。
もうこうなったら自分から押し倒して閨を共にするしかないのだが、それではこれまで断った他の客達が許さないだろう。結果としてエーデルは己で科したルールに縛られてしまったのだ。策士策に溺れるというやつである。
肩を落として帰っていく愛しい男を見送った彼女は、その足で部屋には戻らず、店の最奥にある館主の部屋へと向かった。
「ねぇ、私の借金ってあとどれくらい残っているの?」
突然部屋にやってくるなり不躾な彼女の言葉に、一日の集計をしていた初老の主人は帳面から顔を上げ、意外そうにエーデルを見つめてから「どうした、急に」と口を開いた。
「別に。少し気になったの。それでどれくらい残っているの?」
客の前より幾分砕けた口調の彼女に涼やかな声で歌うようにそう問われ、主人は訝かしみながらも、エーデルの名前が書かれた封筒から借金の残高が書かれた書類を取り出し、溜息をついて「今の調子だとあと六年くらいだな」と言った。
「今の調子だと、ね。分かったわ」
「何が分かったと言うんだ?」
「このまま選り好みしている状態での返済が、六年かかることがよ」
「ほう、それでは多少は客を選ばない気になってくれたのかい?」
「ええ。外に欲しいものが出来たから。六年より早く出たいわ。だから明日からのリーベルト様のお誘いは全部断って」
「それは構わないが……リーベルト様は上客だろうに。お前も彼を気に入っていただろう。彼の誘いを断ってまで何が欲しいんだ?」
「秘密。お金をきちんと稼ぐ限り詮索しないのがここの流儀でしょう? それからその書類の写しを私の見ている前で書いて頂戴。部屋に貼ってやる気を上げるのに使うから。両方に偽造防止のための血判も捺すわ」
最後の言葉に眉根を寄せた主人に対し、彼女は「念のためよ」と付け加えた。実際用心しておいて損はない。ここはいくら王都一美しい店と言っても苦界。地獄の中の天国でしかないのだから。
「その分、しっかり働くわ。勿論私のやり方で。お店にお金が入ればそれで良いのでしょう?」
「お前だけ勝手を許せば他の娘達から不満が出る」
「だったら他の娘達も頑張れば良いことだわ。私と同じやり方が通用するように」
小首を傾げて事も無げにそう言い放った彼女に、娼館の主は返す言葉もなかった。エーデルは元々このルミリューズで生まれた娼婦の娘だった。というよりも、母親は商品になる前にエーデルを身籠って売られて来て、商品になる前に儚くなった、元はどこかの没落貴族の娘だった。
だから彼女の細い肩には、彼女の分だけでなく、彼女の母親の分の借金までもがのしかかっていた。
要するに彼女は彼女の守るものが何もない現し世に、枷だけかけられて生まれた存在であり、母親の元値が高い分、普通に売られてきた娘達よりも遥かに借金が多いということだ。
けれど当の本人はあまり生きることに熱心なタイプでも、自由に憧れるタイプでもなかったために、今日まで己の生まれを悲観したことはなかった。何よりも彼女は幼い頃からずば抜けて他の見習い達よりも出来が良かった。
館主夫婦は厳しい稽古にも音を上げず、ただ黙々と与えられたノルマをこなして成長していく彼女を見て、時折〝この子が真っ当な貴族の生まれだったら〟と思ったほどには彼女の能力をかっていた。
むしろ王都一の娼館と呼ばれる今のルミリューズがあるのは、彼女の功績が非常に大きかったのだ。それであるのに今までほとんど我儘を言ったり、恋愛ごとで手を焼かせたことのなかった功労者が、ここにきていきなりこのやる気である。
それに実のところ彼女の功績はそれだけではなかった。本人にその自覚が希薄なため敢えて調子付かせないように伏せているが、ルミリューズには彼女のおかげで無駄飯喰らい呼ばわりされる娼婦はいない。娼館としてはかなり珍しいことだ。
主人は迷った。それに彼女の欲しいものとやらに興味もあった。だから彼は渋々ではあるもののそれ以上は何も言わずに書類を複製し、自らのものと彼女の血判を捺す。
長年自由を奪っている紙切れの写しを受け取り「ありがとう。明日から忙しくなるわね」と。艶やかに軽やかに笑いながら自室に戻っていくエーデルを、彼は何とも言えぬ表情で見送った。