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酒の仕入れ

翌朝、リーナはいつもより少し早く家を出た。



まだ市場全体が目覚めきる前の、しっとりと涼しい空気が頬を撫でる。



昨夜のトムの言葉が、胸に小さな熱を残していた。



――これには酒が欲しくなるな。



前々から「お酒も置いてほしい」という声はあったが、昨日の一言が決定打になった。



置くからには、きちんと仕入れたい。適当なものを並べては意味がない。



「バーレイさんのところに行ってみよう」



ただ、リーナには小さな不安も残っていた。



前世で惣菜店に勤めていた頃、お酒を扱った経験はない。



祖母の小料理屋にお酒が置かれていた記憶はあるが、自分が客に出したことは一度もなかった。



――そういえば、祖母の店にもお酒を飲みに来る人たちがいた。


楽しそうに話す声が、時々とても大きくなることがあって、隅の席にいた家族連れの母親が、子供の耳にそっと手を当てていたのを、なぜだか覚えている。



どちらのテーブルも、祖母の店の大切なお客さんだった。

ただ、二つの空気が混じり合う様子に、子供心に少しだけそわそわしていたのかもしれない。



もしも、この店が、自分の知らない空気で満たされたら。

みんなが大切に育んでくれた、この陽だまりのような場所が、少しでも変わってしまったら。



そんな思いが頭をよぎる。



けれど――あの人たちの笑顔がもっと見たい。



私が店主として、この挑戦に価値を与えなければ。



酒屋の前に近づくにつれ、通りの空気が変わっていく。



木樽の間をすり抜けてきたような、香ばしい麦の匂い。



その奥には、熟した果実の甘やかな香りが、ふっと鼻をくすぐった。



朝日が差し込む中、樽の金具がきらりと光る。



「いらっしゃい!」



エプロンをかけた中年の男性が、奥から声をかけてきた。



がっしりとした体つきに、笑いじわの刻まれた顔。



人懐っこい笑みを浮かべている。



「お? リーナちゃんじゃないか! 今日はどうしたんだい? まだ料理に使う酒は残ってるだろ?」



「はい、ありますけど……今日は飲むためのお酒を置こうと思いまして」



「ついに出すのか!」



バーレイは目を輝かせ、足取り軽く奥の棚へ向かう。



その快活さに、リーナは少し気後れした。



不安のせいで、その熱意が少し眩しく感じられる。



それでも、常連さんたちの期待を裏切るわけにはいかない。



並ぶ樽の間を抜け、ひときわ存在感のある二つの樽の前で立ち止まるバーレイ。



「このエールは淡い琥珀色で、香ばしい麦の香りが立つ、誰でも飲みやすい一品だ。そしてこっちは白ワイン。柑橘系の爽やかな香りが特徴で、ふくよかな味わいだ」



木の樽の表面は、長年磨かれてきた証のようにすべすべとしている。



耳を近づければ、中で液体がかすかに揺れる音がして、ふわりと芳醇な香りが立ちのぼった。



その香りを胸いっぱいに吸い込む。不安は消えていないが、その香りが、決意を後押ししてくれた。



「どのくらいあればいいかな」



「小さな樽なら、しばらく持つだろう。エールと白ワイン、一樽ずつでどうだ?」



必要な量を頭の中で計算し、リーナは頷いた。



「では、それでお願いします」



代金を支払いながら、リーナは改めて思う。



これで本当にお酒を始めることになる。



あの人たちは、どんな顔で最初の一杯を飲んでくれるだろう。トムさんは、ジュードたちは。



想像すると、自然と口元が綻んだ。



「他の配達のついでに昼過ぎに店まで運ぶが、大丈夫か?」



「はい! 本当にありがとうございます!」



「必要な時は、いつでも声をかけてくれ。定期的な納品もできるからな」



その言葉に、肩の力がふっと抜けた。



美味しいお酒が加われば、夜の空気も変わる――そんな予感が心を弾ませる。



***



昼過ぎ、約束通りバーレイが樽を運んできた。



木槌で軽く叩くたび、低く響く音が厨房の壁に返る。



置かれた瞬間、部屋の空気が変わった。



麦の香ばしさと、爽やかな果実の香りがゆるやかに広がっていく。



「さて、何を作ろうかな」



エールを小さなカップに注ぐ。



薄い琥珀色の液体が光を受けて揺れ、ふわりと麦の香りが立ち上った。



「まずは鑑定してみよう」



リーナが目を凝らすと、文字が浮かび上がる。



『エール』

『品質:中級』

『特性:麦芽の甘みと苦味のバランスが取れた軽めの酒。香ばしい香りが特徴』

『用途:そのまま飲用。揚げ物、塩味の料理との相性良好』



「なるほど、やっぱり揚げ物系なのね」



続けて白ワインの樽からも少し注いで鑑定してみる。



『白ワイン』

『品質:中級』

『特性:柑橘系の爽やかな香りを持つ辛口の酒。すっきりとした味わい』

『用途:そのまま飲用。魚料理、チーズ、さっぱりした料理との相性良好』



「白ワインは魚料理やチーズか...」



舌に広がるのを想像しながら、リーナは記憶を探る。



揚げ物や塩気のあるつまみ、香ばしい焼き物――きっとこのエールと合うはずだ。



料理人として美味しい組み合わせを見つけることなら、きっとできる。



そう自分に言い聞かせる。



扉を叩く音が響き、思考が途切れた。



「すまない、営業前だとは思うんだが……」



低く威厳のある声に、リーナは驚いて振り返る。



そこに立っていたのは、騎士団長バルトロメオ。



堂々とした佇まいだが、表情にはわずかに照れた色が混じっている。



「実は……蜂蜜カステラを」



「承知いたしました! 少々お待ちください」



食い気味に答え、厨房へ向かう。



黄金色のカステラを切り分け、ふわりと立ち上る甘い香りを逃さぬよう、そっと皿に盛る。



温かな紅茶を添え、テーブルに置くと、団長はすぐに一口。



「……ありがとう」



息をつくその顔は、緊張がほどけたように穏やかだった。



ふと視線が厨房へ移り、眉がわずかに動く。



「ほう、酒も始めるのか」



「はい。昨日のお客様の声がきっかけで」



「なるほど。部下たちが喜びそうだな」



樽を見やる目は柔らかく、そこには上司としての温かさがあった。



「アデラインあたりは特に興味を示すだろう。あれは酒にうるさい」



「アデラインさんが……?」



「意外かもしれんが、仕事を離れると気さくに飲む。酒の話になると止まらんぞ」



団長の声に、少し笑みが混じる。



「もしよろしければ、今度騎士団の皆さんにも来ていただけたら嬉しいです」



「良いな。ただ――」



カステラをもう一口。



「その時は、このカステラも用意してもらいたい」



「もちろんです!」



甘党ぶりは健在だ。



代金を払い、残りのカステラを包むと、団長は去り際に一言残す。



「良い挑戦だ。リーナの料理なら、どんな酒にも合うだろう」



その一言に、力が抜けて笑みがこぼれる。



視線を樽へ移すと、不安よりも期待が膨らんでいった。

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― 新着の感想 ―
 エールは度数が低いから余程飲みすぎなければ大丈夫だろうけど、ワインはどうかなー。酔って暴れるような人間の対策も必要だよ。ジュード、無期限で常駐してくれ。
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