営業再開
久しぶりに自分のベッドで目を覚ました。柔らかな布団が肌を包み、寝返りを打つと木枠が小さくきしむ。ペスカードの慣れていない寝台での数日間が、まるで遠い夢のようだ。
「あー……やっぱり自分の部屋が一番落ち着くなぁ」
薄いカーテン越しに差し込む朝日が、壁や机の輪郭をやわらかく染めていた。
ペスカードでの数日間は充実していたが、この小さな部屋には旅先では得られない安らぎがあった。 顔を洗い、髪を整えながら今日の予定を思い描く。
「今日からアンナの食卓の営業再開ね。まずは市場に買い出しに行かなきゃ」
涼しい朝の風が頬を撫で、通りの向こうからは市場のざわめきが聞こえてきた。
市場はすでに活気に満ちていた。
「いらっしゃい! 今朝獲れた川魚だよ!」
「野菜はいかがー!」
籠に山盛りのトマトは陽を浴びて艶やかに光り、青菜の束からはみずみずしい香りが漂う。
「あら、リーナちゃん! お帰りなさい!」
ベラが両手を広げるようにして迎えてくれた。
「ベラさん、ただいまです。お店を空けてしまって申し訳ありませんでした」
「何言ってるの、みんなリーナちゃんの帰りを心待ちにしてたんだから」
ベラの笑顔と市場の喧騒に包まれ、ペスカードで張り詰めていた肩の力が、ようやくすとんと抜けていくのを感じた。
「ありがとうございます。今日から営業再開なので、いつものお野菜をお願いします」
どの店でも「お帰りなさい」の声がかかり、そのたびに足取りが軽くなる。
「今日は何か新しいものも作ってみようかな」
ペスカードでの経験が、胸の奥に小さな火を灯していた。
買ってきた食材を台に置き、窓を開けて風を通す。 その時、とん、とんと、ドアを叩く音がした。
「リーナ、乾物の納品よ」
扉越しに聞き慣れた声が届く。 扉を開けると、外の光と一緒に干したツチタケの香りがふわりと流れ込んできた。
「ありがとう、マリア」
「おかえり、リーナ。ペスカードはどうだった?」
「とても勉強になったわ。新しい技術も覚えたし、人の役にも立てたかなって思う」
「それは良かった。なんだか頼もしくなったわね」
マリアの言葉に、リーナは少し照れながら笑い返した。以前の自分なら素直に喜べなかったかもしれない。けれど今は、その言葉をまっすぐ受け止められる自分がいることに、彼女自身が小さな驚きを感じていた。
夕方の営業に向け、仕込みを始める。
まずはアースボア肉の薄切り。刃を滑らせるたびに、赤身と脂身の鮮やかなコントラストが顔を出し、切り口からはほのかな甘みを含んだ香りが立ちのぼった。
ミニトマトと大葉を肉で巻き、熱したフライパンに並べる。じゅうっ、じゅうっと小気味よい音が弾け、肉の香ばしさにミニトマトの爽やかな酸味と大葉の香りが絡み合って食欲を誘う。仕上げに塩と醤をひと回し。
次に、ナスを焼き、皮を剥くと熱気とともに甘い香りがふわりと広がる。中身はとろりと柔らかく、冷やしてショウガと醤を添えた。
最後は新しく挑戦する一品。
「やみつききゅうり……だったっけ?」
塩で板ずりしたきゅうりは、表面がしっとりと色濃くなり、麺棒で叩けば軽くひびが入る。
手でちぎって口当たりをやわらげ、出汁、ごま油、砂糖、塩、白ゴマを加えて揉み込むと、香ばしさと清涼感が同時に立ち上った。
開店と同時に常連客が入ってくる。
「リーナちゃん、お帰り!」
真っ先に現れたのはトム一家だった。
「トムさん、イヴァさん、サミー、フィン。お待たせしました」
「ペスカードでの活躍、噂で聞いてるよ。立派だなぁ」
「ありがとうございます!あ、今日は新しいメニューも作ってみたんです。どうぞ」
トマトと大葉のアースボア肉巻き、焼きナス、そして新作のやみつききゅうりがテーブルに並ぶ。
皿の上できゅうりが瑞々しく輝き、白ゴマが小さな星のように散っていた。
トムが箸を伸ばす。
「これは……っ」
噛んだ瞬間、パリッと音がしてきゅうりの水分がほとばしる。
だしの旨みとごま油の香ばしさが広がり、後から砂糖のやわらかな甘みと塩気が舌に重なっていく。
噛むほどに香りが変わり、鼻の奥に残るごまの香りが、妙に次を欲しくさせた。
「なんだかクセになる味だな」
「どうですか?」
リーナが問いかけると、トムは満足そうに頷く。
「うん、美味い。さっぱりしてるのにコクもあって……酒が欲しくなるなぁ」
「お父さん、またそんなこと言って」
サミーが笑い、トムは照れくさそうに頭をかく。
「いやいや、本当にそう思うんだって。この味、お酒と合いそうなんだよ」
リーナは、その言葉を胸の中で転がした。
「お酒かぁ……」
「お酒、少し置いてもいいかもしれないですね」
「あら?リーナちゃんもついに大人の世界に?」
イヴァがからかうように笑う。冗談の奥に、ちょっとした期待がにじんでいた。
「確かに常連のみなさん、喜びそうですよね」
「おお、それは良いな!」
トムが身を乗り出す。
「仕事終わりにここで一杯やれたら最高だ。いつもの料理と一緒にな」
その夜、店を閉めた後も、ごま油と白ごまの香りが指先に残っていた。
「お酒に合う料理……今まで考えたことなかったけど、確かに新しい可能性かも」
ペスカードで得た自信が、新しい挑戦への意欲をさらに押し上げる。
「明日、少し調べてみようかな」
窓の外では、秋の気配を含んだ涼しい風がそっと頬を撫でた。




