営業再開
久しぶりに自分のベッドで目を覚ました。柔らかな布団が肌を包み、寝返りを打つと木枠が小さくきしむ。ペスカードの慣れていない寝台での数日間が、まるで遠い夢のようだ。
「あー……やっぱり自分の部屋が一番落ち着くなぁ」
ペスカードでの数日間は充実していたが、この小さな部屋には旅先では得られない安らぎがあった。顔を洗い、髪を整えながら今日の予定を思い描く。
「今日からアンナの食卓の営業再開ね。まずは市場に買い出しに行かなきゃ」
窓を開けると、涼しい朝の風が頬を撫で、通りの向こうからは市場のざわめきが聞こえてきた。
***
「いらっしゃい! 今朝獲れた川魚だよ!」
「野菜はいかがー!」
籠に山盛りのトマトは陽を浴びて艶やかに光り、青菜の束からは土と緑の濃い匂いが漂う。
「あら、リーナちゃん! お帰りなさい!」
ベラが両手を広げるようにして迎えてくれた。
「ベラさん、ただいまです。お店を空けてしまって申し訳ありませんでした」
「何言ってるの、みんなリーナちゃんの帰りを心待ちにしてたんだから」
ベラの笑顔と市場の喧騒に包まれ、ペスカードで張り詰めていた肩の力が、ようやくすとんと抜けていく。
「ありがとうございます。今日から営業再開なので、いつものお野菜をお願いします」
どの店でも「お帰りなさい」の声がかかる。ベラだけじゃない、みんなが待っていてくれたのだ。
「今日は何か新しいものも作ってみようかな」
買ってきた食材を台に置き、窓を開けて風を通す。その時、とん、とんと、ドアを叩く音がした。
「リーナ、乾物の納品よ」
扉越しに聞き慣れた声が届く。扉を開けると、外の光と一緒に乾物の香りが流れ込んできた。
「ありがとう、マリア」
「おかえり、リーナ。ペスカードはどうだった?」
「とても勉強になったわ。新しい料理も覚えたし、人の役にも立てたかなって思う」
「ふーん、順調だったみたいね。……で?」
マリアがニヤリと口角を上げ、探るような視線を投げてくる。
「ジュードさんとはどうだったの? だってペスカードって海の町でしょ? 青い海、白い砂浜、髪を揺らす潮風と隣にはイケメン騎士!」
「えっ」
「んで、何か進展は? あったりしなかった?」
「な……っ!?」
リーナは裏返った声を上げ、抱えていたウミクサを落としそうになって慌てて抱え直した。
「な、ない! ないわよそんなこと! 料理とか、料理とか、料理とか! とにかく忙しかったの!」
「料理ばっかね……。あら? リーナ、顔が真っ赤よ?」
「夕日のせいよ! じゃなかったら暑いからだわ!」
「今は朝よ? それに今朝は涼しいわ」
からかうように笑うマリアに、リーナは口をパクパクとさせ、結局がっくりと肩を落とす。以前の自分なら、こんな風に言い返したり、慌てたりすることはなかったかもしれない。気恥ずかしさで頬が熱くなるが、マリアの遠慮のない言葉が、どこか心地よかった。
夕方の営業に向け、仕込みを始める。
アースボア肉の薄切り。刃を滑らせるたびに、濃い赤身に脂身が鮮やかに映え、切り口からはほのかな甘みが漂う。ミニトマトと大葉を肉で巻き、熱したフライパンに並べる。じゅうっと小気味よい音が弾け、肉の脂が焦げる匂いに、ミニトマトの酸味と大葉の香りが混ざり合った。仕上げに塩と醤をひと回し。
ナスを焼き、皮を剥くと熱気とともに濃厚な湯気が顔を包み込む。中身はとろりと柔らかく、冷やしてショウガと醤を添えた。
やみつききゅうり。塩で板ずりしたきゅうりは、表面がしっとりと濃い緑色に変わり、麺棒で叩けば軽くひびが入る。手でちぎって口当たりをやわらげ、出汁、ごま油、砂糖、塩、白ゴマを加えて揉み込むと、ごまの香ばしさと瓜特有の青い匂いが立ち込めた。
開店と同時に常連客が入ってくる。
「リーナちゃん、お帰り!」
真っ先に現れたのはトム一家だった。
「トムさん、イヴァさん、サミー、フィン。お待たせしました」
「ペスカードでの活躍、噂で聞いてるよ。なんでも、あのオオカヅラをめちゃくちゃ美味しい料理にしちまったんだって?」
「ふふ、本当に美味しかったんですよ?」
「あれを美味しくねぇ……。リーナちゃんにかかれば、食えないものなんてないのかもな」
トムが呆れたように、けれど頼もしそうに笑う。
「あ、今日は新しいメニューも作ってみたんです。どうぞ」
トマトと大葉のアースボア肉巻き、焼きナス、そして新作のやみつききゅうりがテーブルに並ぶ。皿の上で、ごま油を纏ったきゅうりが店の明かりを艶やかに弾き返していた。
「これは……っ」
フォークできゅうりを口に運んだ瞬間、トムの目が見開かれた。パリッ、と小さく小気味よい音が立つ。何度も顎を動かすたびに、トムの喉がごくりと鳴った。じっくりと、舌の上で味を探るように目を細める。
「なんだかクセになる味だな」
「どうですか?」
リーナが問いかけると、トムは深く息を吐き、目尻を緩めた。
「うん、美味い。さっぱりしてるのにコクもあって……酒が欲しくなるなぁ」
「お父さん、またそんなこと言って」
サミーが笑い、トムは照れくさそうに頭をかく。
「いやいや、本当にそう思うんだって。この味、お酒と合いそうなんだよ」
リーナは、その言葉を胸の中で転がした。
「お酒かぁ……」
ペスカードの港町で、大人たちがエールを傾けながら、料理を楽しそうにつついていた光景を思い返す。あのにぎやかなのも良いのかもしれない。
「お酒、少し置いてもいいかもしれないですね」
「あら? リーナちゃんもついに大人の世界に?」
イヴァがからかうように笑う。冗談の奥に、ちょっとした期待がにじんでいた。
「確かに常連のみなさん、喜びそうですよね」
「おお、それは良いな!」
トムが身を乗り出す。
「仕事終わりにここで一杯やれたら最高だ。いつもの料理と一緒にな」
その夜、店を閉めた後も、ごま油と白ごまの香りが指先に残っていた。
「お酒に合う料理……今まで考えたことなかったけど、確かに新しい可能性かも」
ペスカードで得た自信が、新しい挑戦への意欲をさらに押し上げる。
「明日、少し調べてみようかな」




