幕間:渇望
時は遡り、アードベルの夏至祭が熱狂のうちに幕を閉じた次の日。
ブランネル王国の王都にある王宮の一室。
執務室の主、第三王子レオンは、分厚い羊皮紙の束を前に、深い溜め息をこぼした。窓の外では王都の活気ある街並みが広がっているが、彼の青色の瞳には退屈の色だけが浮かんでいる。
(……また同じような一日か。貴族の陳情、役人の報告……)
王子という立場は、彼に多くのものを与えてくれた。だが、どれだけ贅沢な食事をしても、どれだけ美しい音楽を聴いても、心のどこかでずっと探し続けているものがあった。
コン、コン、と控えめなノックが響く。
「入れ」
静かに入室したのは、影のように気配を消した側近の男だった。彼は深々と一礼すると、恭しく一つの箱をレオンの前に差し出した。それは魔石が埋め込まれた、最新鋭の保温・保冷ボックスだった。
「レオン様。ご命令の品、アードベルの夏至祭より持ち帰りました」
「……そうか。ご苦労だった」
男が静かに箱の留め金を外す。カチリ、という小さな音と共に蓋が開けられた瞬間――
ぶわっ、と温かい湯気が立ち上った。
そして、レオンの思考を停止させるほどの、むせ返るような香りが執務室に満ちる。
甘く、酸っぱく、スパイシーで、ソースが焼ける香ばしい匂い。
「なっ……!」
椅子を蹴るように立ち上がる。箱の中にあったのは、茶色いソースが艶やかに塗られた円盤状の料理と、同じくソースで炒められた麺料理だった。
「この香りは……なんだ……?」
声が震える。側近が皿に移し替える間も待てず、レオンは自らフォークを掴んだ。まずは麺料理からだ。
一口、口に運ぶ。
(……ああ、これだ)
パスタに絡みつく、濃厚なソース。野菜の甘みと肉の旨味。この国で食べたどんな料理とも違う。初めて食べるはずなのに、懐かしさで、目の奥が熱くなった。
「……うまい」
絞り出すような声で呟き、次々とフォークを進める。無我夢中だった。
続いて、円盤状の料理にフォークを入れる。表面はカリッとしていて、中は驚くほどふわふわだ。ソースが絡んだ一切れを口に運んだ、その瞬間。
レオンの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
キャベツの甘み。生地の食感。肉の旨味。
(これだ……これだったんだ!)
物心ついた頃から探し続けていた、心の最後のピースが、今、ぴたりと嵌ったような感覚。涙が止まらなかった。
側近は何も言わず、ただ静かに主の姿を見守っていた。
やがて、夢のような時間が終わり、皿は空になった。レオンはしばらく呆然としていたが、やがて顔を上げ、震える声で尋ねた。
「……これを、作ったのは誰だ?」
側近は待っていましたとばかりに、一枚の報告書を差し出した。
「アードベルの街にある『アンナの食卓』という小さな食堂です。そこの料理人――リーナという若い女性が、夏至祭の美食エリアで提供しておりました」
「リーナ……」
レオンはその名を、静かに繰り返した。
「……面白いことになってきたじゃないか」




