アードベル帰還
「よし、いい天気!」
今日で、この町ともお別れだ。
窓の外では、港へ向かう漁船の帆が早朝の光を弾いて白く光っている。
感傷に浸る時間はない。荷造りは昨夜のうちに完璧に終えている。団長への賄賂……もとい、土産の「蜂蜜カステラ」も、木箱の中で厳重に守られているはずだ。アズールの笑顔、コスタとデルマーの目を輝かせた顔――この旅で出会った人々の笑顔が、次々と浮かんでくる。
階下からは、焼き立てのパンと温かいスープの香りが漂ってきた。
食堂に顔を出すと、ルークが椅子から跳ねるように立ち上がる。
「リーナさん、おはよう! 今日はディエゴさんのスープだよ!」
その元気な声に、リーナは自然と笑顔になった。
「おはよう、ルーク。本当にいい香りだね」
「リーナも早く食え! 食わなきゃ元気が出ねえぞ!」
ガレスがパンを二つ同時に掴み、スープへ浸す。その豪快な食べっぷりを見ているだけで、こちらのお腹まで減ってくるから不思議だ。
テーブルには、スープと焼きたてのパンが並んでいる。リーナも席につき、湯気を立てるスープを一口すする。
「……ん!」
口の中に広がったのは、濃厚な魚介の旨味と、クタクタに煮込まれた玉ねぎの甘み。
ロドリックはスープを静かに一口すすり、目を細める。
「潮の香りに、玉ねぎの甘みが溶け込んでいる。この港町ならではの一品……」
「ロドリック、感動してる中悪いが、冷めるぞ」
ガレスの冷静なツッコミに、笑い声が起きる。見慣れた光景だ。
リーナはスプーンを動かしながら、この光景を目に焼き付けた。
「ごちそうさまでした! 最高に美味しかったです!」
「おう、こちらこそだ。お前さんのレシピは全部叩き込んだからな!」
潮風庵の玄関先。ディエゴとシモンに見送られ、一行は外に出た。
二人の手はごつごつとしていて、握手をすると温かい。
「お前たちのおかげで、この町は変わった。……ありがとな」
「こちらこそ。また必ず、来ますから」
港へ向かう坂道には、すでに多くの町の人が集まっていた。
漁師、市場のおばちゃん、走り回る子どもたち──誰もが笑顔で手を振っている。
「気をつけて帰るんだぞ!」
「またきてねー!」
「オオカヅラ料理、最高だった! 次来る時までにこっちもメニュー増やしとくからなー!」
その温かな声が胸を満たす。リーナは足を止めて港を見やった。
少し前までオオカヅラの腐臭が漂っていた港は、今では清々しい潮風に包まれている。積み上げられたオオカヅラの山は、今度からこの町の特産品になるのだ。
この変化は、自分たちだけの力じゃない。町の人々みんなで作り上げたものだ。
町の入り口では、マルクとアンナ、アズールの姿。コスタとデルマーは眠そうに目をこすりながらも、小さな手を懸命に振っている。
「リーナちゃん、本当にありがとう。あなたには助けてもらいっぱなしだわ」
アンナはそう言って、リーナを抱きしめた。
その温かさは、出会った時と何一つ変わらない。袖口から、昨夜の食卓の香りがふっと鼻をかすめる。あの時、不安でいっぱいだった自分を、この人たちは包み込んでくれた。
「また来てね、必ずよ!」
マルクとアズールが口を揃え、コスタが「また来てね」と小さな声を上げた。
「もちろんよ、コスタ。また絶対に会いに来るからね」
その時、人混みをかき分けてアンリが駆けてきた。
頬を紅潮させ、差し出したのは小さな巾着袋。
「これ、ペスカードの貝殻。お守りなの」
リーナは胸に抱き、「ありがとう」とだけ告げた。
昨夜、一緒にポロボロンを食べた時のこと。アンリの涙と笑顔。あの瞬間が、また思い出される。
馬車の車輪が軋み、ゆっくりと動き出す。
砂利を踏みしめる音が連なり、人々の声と波音が混じり合って耳を包む。やがて声は遠ざかり、港の人影が小さくなっていく。色とりどりの服が、風に揺れながら、見えなくなるまで手を振っていた。
海岸沿いの道を抜けると、波音は次第に弱まり、草原を渡る風のざわめきが耳に届く。
馬車の中は静かだった。
ガレスは腕を組んで目を閉じている。シリルは地図を膝の上に広げたまま、窓の外を眺めていた。ルークは時折、後ろを振り返っては、遠ざかる海を名残惜しそうに見つめている。
リーナも、窓の外を見つめていた。
草原を走る雲の影。遠くで鳴く海鳥の声。夏の名残を告げる、乾いた風。
(……ペスカード、良い町だったな)
「いい町だったな」
隣のジュードが、水筒から水をひと口飲む。リーナは、その横顔をちらりと見た。
昨夜のことが、頭をよぎる。カルロスの告白に割って入ったジュード。真っ赤な顔で、言葉に詰まっていたジュード。真っ直ぐこちらを見つめていた、あの瞳――
(いけない。思い出すな、私)
「う、うん! いい旅だったよねー」
答えた声が、少しだけ上ずった気がした。リーナは無意識に姿勢を正したが、ジュードがじっと、こちらの顔を覗き込んできた。
「リーナ?」
「な、何?」
「いや……顔、赤くないか?」
ここで「そんなことない」と俯けば、甘い空気が確定してしまう。それは非常に、心臓に悪い。だからリーナは、コンマ一秒の迷いもなく即答した。
「え!? そ、そんなことないよ! 暑いから! 暑いだけだから!」
「……そっか。なら、いいんだ」
「ひ、ひひ日差しが強いからね。むしろジュードこそ顔が赤いし。熱中症? 水飲む?」
「い、いや、俺は別に……」
ジュードがたじろぐ。今の二人に必要なのは、甘い空気ではなく換気だ。
「とにかく暑いからさ。風通しよくしよう!」
リーナは勢いよく立ち上がり、窓を力任せに全開にした。
ガッ!
「うわっ!?」
草原の乾いた強風が、ゴーッと音を立てて車内に吹き荒れる。
リーナの前髪が舞い上がり、シリルの地図がバタバタと暴れた。
「す、涼しいですねー!」
「リーナ! 窓全開はやめろって!」
前の席で爆睡していたガレスが、うるせえと唸る。
リーナは「ごめんなさい」と平謝りし、ようやく座席に深く座り直した。
隣のジュードは、風に髪をくしゃくしゃにされながら、どこかホッとしたように苦笑している。
(……これがいいんだ)
リーナは風に吹かれながら、密かに拳を握った。
***
夕刻、アードベルの町並みが遠くに見え始めた。
窓から入ってくる風の匂いが変わった。潮の香りではない。乾いた土と、パンが焼ける香ばしい匂い。そして、どこかの家で作られているスープの香り。
「……帰ってきた」
自然と声が出た。
ペスカードも楽しかった。でも、この匂いを嗅ぐと、肩の力が抜けるのがわかる。
「ただいま」
誰に言うともなく呟くと、隣でジュードも小さく頷いた。
騎士団本部に到着すると、バルトロメオ団長が出迎えてくれる。
「無事で何よりだ」
その声はいつもより柔らかく、目元に細かな笑い皺が寄っている。
「団長、ただいま帰りました。こちらお土産です」
蜂蜜カステラの箱を差し出すと、甘い香りに団長の鼻先がわずかに動いた。
「これは……っ! 楽しみだ。さっそく紅茶を入れてもらおう」
箱を受け取る手は、ほんの少し弾むように見えた。
任務の報告を終え、外に出る。ペスカードとは違う色の夕焼けが、アードベルの空を静かに包んでいた。
通りを吹き抜ける風は乾いて軽く、どこからか焼きたてのパンの香りが漂ってくる。賑やかな市場の声や馬車の蹄鉄の音が混じり合い、懐かしい日常の息遣いを感じさせた。
リーナはその光景と匂いを胸に刻み、深く息を吸い込む。
ペスカードでの日々。出会った人々。学んだこと。感じたこと。
全部、全部――自分の糧になっている。
そして、これから――
「リーナ」
ジュードの声に、振り返る。
「また明日な!」
「うん、また明日!」
リーナは、笑顔で頷いた。
旅の終わりは、日常の始まりだ。さて、今日の晩ごはんは何を作ろうか。明日の定食は何にしようか。
お腹の虫が、元気よく鳴いた。




