アードベル帰還
朝の潮風が窓から差し込み、リーナはゆっくりと目を覚ました。
今日で、この町ともお別れだ。
窓の外では、港に向かう漁船の帆が早朝の光を受け、白くきらめいている。リーナの胸には、この町での日々が走馬灯のように蘇る。
荷物は昨夜のうちにまとめ終えている。団長への土産、蜂蜜カステラも丁寧に紙で包み、大切に箱へしまっておいた。包みを持ち上げると、ふわりと甘い香りが漂い、この旅で出会った人々の笑顔が次々と浮かんでくる。
廊下に出ると、騎士団の面々はすでに身支度を整えていた。誰もが口元に笑みを浮かべていたが、その瞳の奥には名残惜しさが滲んでいた。彼らがこの町で成し遂げたこと、そして町の人々と築いた絆が、その表情から伝わってくるようだった。
階下からは、焼き立てのパンと温かいスープの香りが漂ってきた。
食堂に顔を出すと、ルークが椅子から跳ねるように立ち上がった。
「リーナさん、おはよう! 今日はディエゴさんのスープだよ!」
その元気な声に、リーナは自然と笑顔になる。
「おはよう、ルーク。本当にいい香りだね」
ガレスが豪快な笑い声とともにテーブルにつき、パンを手に取る。
「食い納めだ! この旅、うまいものばっかりだったから、腹が寂しくなるな!」
アデラインが髪をかきあげながら、窓から差し込む光を背に微笑む。
「ほんとよ。すっかり新鮮な海の幸に慣れちゃったわ」
ロドリックはスープを静かに一口すすり、目を細めた。
「……潮の香りに、玉ねぎの甘みが溶け込んでいる。海の恵みと大地の優しさが織りなす、この港町ならではの一品だ」
その言葉に、一同から柔らかな笑いがこぼれる。見慣れたはずの光景が、今日はひときわ鮮やかに映った。
「本当にお世話になりました」
席を立ち、リーナは深く頭を下げる。ディエゴとシモンは笑いながらも、声の端に惜別の色を含ませて答えた。
「こちらこそだ。お前たちのおかげで、この町は変わったんだからな」
「潮風庵の料理も、オオカヅラ料理も、教わった調理法でずっと美味しくできます」
食後、荷物を手に潮風庵を出る。
玄関先では、ディエゴとシモンが並び、港から吹く風が二人の髪を揺らしていた。
「いつでも戻ってきてくれよ。この町は、お前たちの第二の故郷だからな」
「はい。また必ず来ます!」
リーナはディエゴの手をぎゅっと握りしめた。その力強さに、言葉以上の想いが込められているのが伝わってきた。
港へ向かう坂道には、すでに多くの町の人が集まっていた。魚籠を抱えた漁師、パン籠を持った女性、走り回る子どもたち──誰もが笑顔で手を振っている。
「気をつけて帰るんだぞ!」
「また戻っておいで!」
「オオカヅラ料理、最高だった!」
その温かな声が胸を満たし、リーナは足を止めて港を見やった。かつて生臭さが漂っていた波止場は、今では清々しい潮風に包まれている。この変化は自分たちだけの力ではなく、町の人々みんなで作り上げたものだ──そう実感した。
町の入り口では、マルクとアンナ、アズールの姿。コスタとデルマーは眠そうに目をこすりながらも、小さな手を懸命に振っている。
「リーナちゃん、本当にありがとう」
アンナはそう言って、リーナを抱きしめた。その温かさは、アードベルへ向かう馬車の中で出会った時と何一つ変わらない。袖口から、昨夜の食卓の香りがふっと鼻をかすめる。
「必ずまた会おう」
マルクとアズールが口を揃え、コスタが「また来てね」と小さな声を上げた。
「もちろんよ、コスタ。また絶対に会いに来るからね」
その時、人混みをかき分けてアンリが駆けてきた。頬を紅潮させ、差し出したのは小さな巾着袋。
「これ、ペスカードの貝殻。お守りなの」
少し照れくさそうに笑うその瞳は、もう意地悪な色をしていない。リーナは胸に抱き、「ありがとう」とだけ告げた。布越しに触れる貝殻の丸みと潮の香りが、胸の奥にそっと染み込んでいく。
馬車の車輪が軋み、ゆっくりと動き出す。砂利を踏みしめる音が連なり、人々の声と波音が混じり合って耳を包む。やがて声は遠ざかり、港の人影が小さくなっていく。色とりどりの服が、夏の風に揺れる旗のように、最後まで揺れ続けていた。
海岸沿いの道を抜けると、波音は次第に弱まり、草原を渡る風のざわめきが耳に届く。昼過ぎ、木陰で休憩を取ると、遠くで雲の影が草原を走っていくのが見えた。馬車の外は静かで、夏の名残を告げる海鳥の声が時折響く。
「いい旅だったな」
ジュードが隣に腰を下ろし、水をひと口飲む。
「……うん」
短く答えたリーナの胸の中では、次々と光景が蘇っていた。早朝の市場で飛び交った威勢のいい声、藁焼きの炎に包まれるオオカヅラ、潮風庵で響いた笑い声。その一つひとつが、自分の中で確かな糧になっていると感じられる。
夕刻、アードベルの町並みが遠くに見え始める。夕日が石畳を朱色に染め、家々の屋根が金色に輝いている。港町の潮の香りとは違う、乾いた風に混じるパンやスープの匂いが、懐かしさを運んできた。
騎士団本部に到着すると、バルトロメオ団長が出迎えてくれる。
「無事で何よりだ」
その声はいつもより柔らかく、目元に細かな笑い皺が寄っている。
「団長、お土産です」
蜂蜜カステラの箱を差し出すと、甘い香りに団長の鼻先がわずかに動く。
「これは……楽しみだ。さっそく紅茶を入れてもらおう」
箱を受け取る手は、ほんの少し弾むように見えた。
任務報告を終え、外に出る。
ペスカードとは違う色の夕焼けが、アードベルの空を静かに包んでいた。
通りを吹き抜ける風は乾いて軽く、どこからか焼きたてのパンの香りが漂ってくる。
賑やかな市場の声や馬車の車輪音が混じり合い、懐かしい日常の息遣いを感じさせた。
リーナはその光景と匂いを胸に刻み、深く息を吸い込む。
旅の温もりを抱えたまま、新しい日々がまた始まろうとしていた。