お別れ会(後編)
ジョッキの縁に唇を当てながら、ジュードは少し離れた席の仲間たちの声に耳を傾けていた。
「リーナってば、本当にお人よしなんだから」
アデラインの声が、酒場の喧騒に混じって届く。肩をすくめる仕草が、ランプの灯りに揺れて見えた。
「それが良いところなんですけどね……」
ルークが真剣な面持ちで頷く。
「いつか騙されそうで、ちょっと心配になります」
「だな。人を疑うってことを知らなそうだ」
ガレスが腕を組み、低い声で言った。ジュードは思わず、リーナへ視線を向けた。
アンリと笑い合うその横顔は、穏やかで屈託がない。町の人々が次々と声をかけてくる――誰に対しても、あの笑顔を向けている。
(ああ、そうだ。リーナは、誰にでもあんな風に笑うんだ)
それが、彼女の魅力だ。そして同時に――ジュードの胸を、嫉妬が締め付ける。
自分だけに向けられた笑顔が欲しい。そう思ってしまう自分が、酷く身勝手に思えた。
「リーナさんの対人スキルは非常に興味深いですね」
「まあ、それも含めてリーナの魅力なんだよなぁ」
ガレスの言葉に、ジュードの指がジョッキの縁を強く握った。
そうだ、そうなんだ。みんな、リーナの魅力に気づいている。
(俺だけじゃない。みんな、リーナを見ている)
この想いを、口にしていいのだろうか。
アンナさんとマルクさんから託された――いや、そうじゃなくても、リーナは大切な存在だ。守りたい人。
その時、樽を転がす音が近づいた。
「よし、みんな! 本格的に飲もうじゃねーか!」
ディエゴの声に、香ばしい酒の匂いが一気に広がる。会場の熱気がぐっと高まった。
「おお、それじゃあ遠慮なく!」
カルロスが真っ先にジョッキを手に取り、豪快に飲み干す。
数杯目を終えたころ――頬を赤らめたカルロスが、リーナの前へと歩いていく。
ジュードの背筋が、ぴんと張った。
「リーナさん!」
大きな声に、リーナが振り返る。
カルロスは真剣な顔で――言い放った。
「俺さ、毎日リーナさんの料理が食べたいんだ! 一緒に暮らして……俺の獲ってきた魚を食べてくれ!」
直球すぎる口説き文句に、場がどっと沸いた。
ジュードの手の中で、ジョッキが軋む。
(――ちょっと待て)
思考が、一瞬で空白に塗りつぶされた。
一緒に暮らす? 毎日料理を?
(それは――俺が、ずっと夢見ていたことじゃないか)
「待った!」
自分の意志より早く、大声が出ていた。
ガタッ! と椅子を蹴倒して立ち上がる。
酒場の視線が一斉に突き刺さるが、もう止まれない。ジュードは大股で二人の間へ割って入った。
「おい、カルロス! それはダメだ!」
「ああん? なんだよジュード。お前に関係ないだろ?」
カルロスがニヤリと笑い、わざとらしく小首をかしげる。
「大いに関係ある!」
「へぇ、それはなんで?」
「それは……!」
勢いよく言い返そうとして――ジュードは絶句した。
(なんで、だ……? 理由なんて、決まってるじゃないか。リーナは俺の――いや、違う。まだ「俺の」じゃない)
「ほらほら、なんでだよ?」
「そ、それは……その……」
カルロスが楽しそうに顔を覗き込んでくる。
言葉に詰まるたびに、顔が熱くなるのがわかった。耳まで真っ赤になっている自覚がある。
「す、素直になれよ騎士様!」
「言っちゃえ言っちゃえ!」
野次馬たちも面白がって囃し立てる。
視線の先で、リーナも顔を赤くして、困ったように――けれど、どこか期待するような瞳でこちらを見つめている。
覚悟を決めて、息を吸い込んだ――その時だった。
「はーい、ストーップ!」
明るい声と共に、小さな影が飛び込んできた。
「え?」
間の抜けた声を漏らすジュードの目の前で、アンリがリーナの腕をがっしりと抱え込む。
「リーナは今夜、女子会なの! 男たちのむさ苦しい話には付き合ってられませーん!」
「あ、アンリ……?」
「ほらリーナ、行こ!」
言うが早いか、アンリはリーナをずるずると引きずって、女性たちのテーブルへ強引に連行していく。
呆然とするジュードと、取り残されたカルロス。
その背中に向かって、アンリがくるりと振り返り――
ぺろり、と舌を出した。
まるで「あんたにリーナはあげません、バーカ」とでも言うように。
「あ……」
伸ばしかけた手は、虚しく空を掴むだけ。
完全にタイミングを失ったジュードは、彫像のように固まるしかなかった。
「……くくっ」
横で、カルロスが肩を震わせていた。
「残念だったな、ジュード」
愉快そうに肩を叩いてくる。ジュードはカルロスの手を払い、顔を背けた。
「……うるさい」
***
一方、別の席ではガレスとディエゴが腕の筋肉を見せ合って盛り上がっていた。
「さすが騎士だな!」
「いや、ディエゴさんも負けてませんよ!」
二人は袖をまくり、今にも腕相撲を始めそうな勢いだ。
その隣では、ルークが年配の漁師たちに囲まれ、完全に逃げ場を失っていた。
「ルーク君、この魚を食べてみなさい。ペスカードで一番美味い魚だよ」
「ありがとうございます。本当に美味しいですね」
「そうだろう。ところで、ルーク君はまだ独身かい?」
「え、はい、そうですが……」
「うちの娘がね、とても器量が良いんだ。一度会ってみないか?」
「いえいえ、僕はまだ……」
「何を言っている。若いうちに良い相手を見つけるのが一番だ」
「そうそう、うちの姪も良い娘でね」
次々と縁談を持ちかけられ、ルークは助けを求める視線を仲間に送る。
だが、みんな自分のことで手いっぱいだった。
***
シリルは別のテーブルで、町の男性たちと熱心に話していた。
「オオカヅラの生態は本当に興味深いんです。水温の変化に敏感で、産卵期には――」
あまりに専門的な内容に、町民たちは首をかしげる。
それでも、その熱意に押されて、つい相槌を打ってしまっていた。
***
アンリがアデラインの隣に座ると、アデラインがウィンクして囁いた。
「アンリちゃん、さっきのナイス救出劇よ! ジュードの顔、真っ赤で笑えたわぁ」
「えへへ、ちょっと意地悪しちゃいました」
アンリが悪戯っぽく笑う。
「でも、リーナは私の友達だもん。簡単には渡さないんだから」
「その意気よ! 若くて可愛いんだから、これからはもっと楽しまなきゃ」
「う、うん……そうですよね」
アデラインの温かい励ましに、張り詰めていた心がふっと緩んだ。アンリの目が潤んでいく。
「私、これからは宿屋の看板娘として頑張るんだから!! が……がんばるんだもん」
「もう、泣かないの」
そう言いながら、アデラインの目も潤んでいる。
「なんで泣いてるんだ?」
筋肉談義を中断したガレスが首をかしげる。
「俺のせいか?」
ジュードが心配そうに見やる横で、リーナは微笑ましく二人を見守っていた。
そんな賑やかな中、ロドリックが立ち上がる。
「皆さん、少しお聞きください」
会場が静まった。
「この素晴らしい夜を、私なりに表現させていただきたく――」
胸に手を当て、詩を朗々と紡ぎ始める。
「酒は人の心を解き放ち、真実を浮かび上がらせる海の如し。今宵、我らの魂は潮風と共に踊る。その波間に浮かぶ、ひときわ眩い光……それは、皆の心を繋ぎ、優しき光を放つ、一輪の花」
「長い長い! 詩はもういいって、カルロス! ミゲル! お前ら歌え!」
ディエゴが笑い、ジョッキを掲げた。
「おう、任せろ!」
カルロスとミゲルが立ち上がると、漁師たちが一斉に声を合わせる。
重く響く低音と手拍子が場を包み、笑い声と酒の香りが渦を巻いた。
リーナも自然と笑みを浮かべ、輪の中で手拍子を打つ。
***
やがて夜も更け、窓の外は漆黒に染まっていた。
「そろそろお開きにしようか。明日も早いからな」
ディエゴの声に、名残惜しそうなざわめきが広がる。
「今日は本当にありがとうございました」
リーナが頭を下げると、拍手と温かい言葉が返ってきた。
「またいつでもおいで」
「今度はもっとゆっくりな」
潮風庵への帰り道、ランタンの明かりが揺れ、遠くから波音がかすかに届く。
少し酔いの残る一行は、笑い声を交えながら夜道を進んだ。
「ルークはモテてたなぁ」
「しー! やめてください! まだ縁談の話が続いてるかもしれません!」
「シリルの魔物講義も盛況だったぞ」
「興味を持ってくれる人がいると、つい熱くなってしまいます」
「アデラインさんとアンリは仲良くなれたみたいで良かった」
「当然よ。女同士、わかり合えないはずがないわ」
リーナは、仲間たちの会話を聞きながら、ふと横を歩くジュードに目を向けた。
月明かりに照らされた横顔が、いつもより少しだけ――大人びて見える。
(……ジュード)
カルロスの告白に、割って入ってくれた時のこと。
あの時、ジュードは真っ直ぐこちらを見つめていた。その瞳を思い出すだけで、胸の奥がトクトクと早鐘を打つ。
一緒にいると、安心する。もっと、そばにいたいと思ってしまう。
これは、きっと――
(――って、違う違う!何を考えているんだ、私は。きっと、お酒が入っているからだ。そうじゃなきゃ、みんなの熱気にあてられたせい。)
リーナはぶんぶんと首を振った。
(そうよ、ただの吊り橋効果的なアレよ! 変に意識したら、明日からまともに顔が見れなくなっちゃう)
ほてった頬を、夜風にさらす。
今のこの心地よい距離感を、自分から壊すなんて馬鹿げている。
「リーナ、大丈夫か?」
不意に声をかけられ、リーナは「ひゃっ」と素っ頓狂な声を上げた。
驚いて見上げると、ジュードが不思議そうに覗き込んでいる。
「あ、う、うん! 大丈夫! 全然平気!」
慌てて手を振り、不自然なほど明るく笑う。
ジュードは少しだけ眉を寄せたけれど、すぐにふっと表情を緩めた。
「疲れただろ。今日は早く休もう」
「は、はい! ありがとうございます!」
その優しさが、今はなんだか――くすぐったい。
部屋に戻ったリーナは、荷物をまとめながら今日一日の光景を思い返す。
アンリとの和解。町民との賑やかな時間。仲間たちの笑顔――。
そして、最後に見たジュードの優しい目。
「……よし」
リーナはパン、と一度だけ自分の頬を叩いた。
余計なことは考えない。
「おやすみなさい」
誰に言うともなく呟き、ランプの灯りを吹き消す。
暗闇の中、布団を頭までかぶっても、しばらくの間、胸の高鳴りは止んでくれそうになかった。




