お別れ会(前編)
「リーナ、カステラの香りがたまらないわぁ」
アデラインがうっとりとした表情で、頬を緩める。
昨日焼き上げて一晩寝かせたカステラからは、蜂蜜の甘い香りがふわりと立ち上っていた。
「ええ。今日はきっと大活躍してくれますね」
リーナは大きな木箱にカステラを詰めながら、穏やかに答える。指先に伝わるしっとりとした感触に、自然と笑みがこぼれた。
「おーい、ロドリックさんが気合い入れて作ったタタキも、ばっちり仕上がってるぞ!」
厨房の奥からジュードが顔を出し、大皿を掲げた。藁で炙られた表面と赤身の鮮やかな断面が、見事なコントラストを描いている。
「血合いのそぼろも完璧だな。シモンさん、さすがだな」
ガレスが真顔で頷きながら、もうひと皿を覗き込んでいた。
「みんな、準備はどうだ?」
ディエゴが厨房に現れた。いつもの陽気な笑顔の裏に、ほんの少し名残惜しさのような気配が滲む。
「おかげさまで順調です。集会場のほうはいかがですか?」
「完璧だ。テーブルも椅子も並べ終わった。町の連中も朝から張り切って手伝ってくれてな」
その言葉に、リーナの胸が温かくなった。
あれほど反対されていたオオカヅラ料理が、今では町全体を動かす原動力になっている。みんなが、旅立つ自分たちのために動いてくれている。それだけで、胸がいっぱいになった。
「じゃあ、そろそろ運び出しましょうか」
シリルが眼鏡を押し上げて言う。
「魔物研究の観点から言えば、オオカヅラは学術的にも非常に貴重な事例になりましたね」
「……シリルらしい感想だなー」
ルークが笑いながら、大皿をそっと持ち上げた。
「でもほんと、こんなに町が変わるなんてすごいや」
潮風庵を出た一行は、料理を抱えながら集会場へと向かう。
港から吹く風は、かつてのような生臭さを含んでいない。騎士団の働きが、確かな成果を残していた。
道すがら、町の人たちが次々と声をかけてくる。
「リーナちゃん、ありがとな!」
「うちの子たち、今日の料理楽しみにしてるよ」
「オオカヅラ料理も、すっかり板についてきたよ」
どの声も明るく、屈託がなかった。
その一言一言が、リーナの心に優しく染み込んでいく。
集会場に着くと、既に多くの町民が準備を進めていた。
テーブルには、色とりどりの料理が並び始めている。オオカヅラ料理だけでなく、魚のスープ、新鮮な野菜のサラダ、焼きたてのパンまで──町の人々が持ち寄った品々が、会場を温かな香りで満たしていた。
「おお、主役のご登場だな!」
カルロスが手を振りながら近づいてきた。隣のミゲルと視線を交わし、互いに笑い合うその顔には、もう出会ったころの険しさはなかった。
「リーナ!」
今度はアズールが勢いよく駆け寄ってくる。親しみのある笑顔はいつも通りだけれど、今日はどこか特別な輝きを帯びている。
「コスタとデルマーがね、ずっとカステラを楽しみにしてたんだ」
「それは嬉しいですね。みんなで食べましょう」
リーナが笑顔で応じると、アズールの表情がふっと曇った。
「……でもさ、明日にはもう、お別れなんだよね。なんか……寂しくなっちゃうな」
その一言で、周囲の空気が一瞬静まり返る。
けれど、ディエゴがパンと手を叩いて、空気を切り替えた。
「よし、寂しいのはあとだ!まずは乾杯からいこうじゃねえか!」
集会場には次々と町民たちが集まってくる。
かつての対立や不安は、どこにも見当たらない。代わりにあるのは、温かな笑顔と料理の香りだけだ。
その隅で、ホセ町長が腕を組みながら静かに見守っていた。
口数は少ないが、その視線は穏やかで、かすかに浮かぶ笑みには、確かに感謝の色が宿っている。
「皆さん、今日は本当にありがとうございます」
ジュードが前に立つと、自然と場のざわめきが収まった。
「私たちがペスカードに来てから、皆さんの温かさに触れ、たくさんのことを学びました。本当に、ありがとうございます」
「こっちが感謝しなきゃならねえよ!お前さんたちのおかげで、この港の未来に光が差したんだ!」
誰かの声に、会場から拍手が起きた。
「それじゃ、ペスカードの豊かな海の恵みに──乾杯!」
ディエゴが掲げたジョッキに、次々とジョッキが重なる。
「乾杯!」
その掛け声と共に、お別れ会が本格的に始まった。
テーブルにはあっという間に人だかりができ、オオカヅラのタタキには相変わらず長い列が伸び、なまり節のピザは次々と皿から消えていく。
血合いのそぼろは特に子供たちに人気で、気づけば空っぽになっていた。
だが、一番の人気をさらったのは──やはりカステラだった。
「うわあ、甘くておいしい!」
コスタが目を輝かせ、小さな手でしっかりとカステラを掴んでいる。
隣のデルマーも「しゅごい……」と小声でつぶやきながら、頬をふくらませていた。
「こんなお菓子、初めて食べた!」
「ふわっふわ……蜂蜜の香りがすごいね」
子供たちに続いて、大人たちからも歓声が上がる。
評判は上々どころか、大好評だった。
「リーナちゃん、このお菓子の作り方、教えてもらえないかい?」
町の女性たちが興味津々とばかりに詰め寄ってくる。
「もちろんです。ただ……ちょっと難しいので」
「大丈夫。みんなで少しずつ覚えていくわ」
その一言に、リーナの肩から力が抜けるような安堵が広がった。
自分がいなくなっても、料理の灯はここに残る──そう思える何よりの瞬間だった。
集会場の熱気が高まる中、その入り口に小さな影がひっそりと現れた。
アンリだった。手には、小さな布包み。
視線を伏せたまま、場の空気に飲まれるように立ち尽くしている。
まばらなざわめきが、次第に周囲へ広がっていく。
アンリは、ためらうように一歩を踏み出し、ぎこちない足取りのままリーナのもとへと歩を進めた。
「あの……リーナさん」
小さく、かすれた声。それでもその瞳だけは、真っ直ぐにリーナを見据えていた。
「こ、これ……ペスカードの伝統菓子なんです。『ポロボロン』って言って、お祝いの時に食べるものなんです」
差し出された包み。
アンリの手は少し震えていたが、言葉は止めどなく続いた。
「本当に、ごめんなさい。リーナさんに……皆さんにも嫌な思いをさせてしまって」
「ごめんなさい。……本当に……」
言葉を重ねながら、目元に涙が滲む。
「宿を出ていかれたあと、町の人たちから何度も話を聞いたんです。『騎士団の人がオオカヅラの解決方法を考えてくれてる』とか、『子どもが喜んで食べてた』とか……」
ふと視線を落とし、アンリは唇を噛んだ。
「父にも言われました。自分の仕事をもっとちゃんと見ろって……。気づいたんです。私、ジュードさんのことばかり気にしてて、お客さんの顔を、全然見てなかった」
声が震え、手元が揺れる。
「リーナさんのことも……ちゃんと見ることができてなかった。嫉妬して、決めつけて、勝手に怒って……ごめん…なさい……」
静まり返った会場の中で、アンリの震える声だけが響く。
まっすぐに想いを伝えようとするその姿に、リーナの胸の奥がきゅっと締めつけられる思いがした。そして、彼女はそっと微笑んで、包みを受け取った。
「ありがとう、アンリさん。気持ち、すごく伝わったよ」
そして、そっと手を伸ばし、アンリの頬を伝う涙を拭った。
「ねえ、アンリさん。……よかったらだけど、私と友達になってもらえないかな?」
アンリが、ぱちりと目を見開いた。
「え……」
戸惑いと驚きが入り混じった表情。
「……いいの? 私なんかと……」
「私なんか、なんて言わないで。ね、これからは敬語もなしにしよう。私のことはリーナって呼んで。私もアンリって呼ぶから」
「……ほんとに?いいの? ありがとう、リーナ!」
あふれる涙と一緒に、笑顔が咲いた。はにかんだ声が、年相応の明るさを取り戻していた。
「ねぇ、このポロボロン、一緒に食べよ? ちょっと面白い言い伝えがあるの」
アンリが包みを開くと、アーモンドの香ばしい匂いが広がった。
小さく丸い焼き菓子が、ころころといくつか並んでいた。
「口に入れて崩れる前に、『ポロボロン』って三回言うとね、願いが叶うんだって」
「それは……素敵だね」
リーナが目を細めて頷くと、アンリが勢いよく一つ手に取った。
「じゃあ、せーのでいこっか」
「うん。せーの……!」
「ポロボロン、ポロボロン、ポロボロン」
二人の声が重なった。
ほろりと崩れゆく優しい甘さが、口いっぱいに広がっていく。
「リーナは、何をお願いしたの?」
アンリが嬉しそうに問う。
「みんなの幸せをお願いしたの。ペスカードの人たちも、騎士団のみんなも──ずっと笑っていられるようにって」
アンリの瞳が、そっと潤んだ。
「私はね、リーナの幸せをお願いした。こんな素敵な人が、ずっと笑っていられますようにって」
リーナは、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
少し離れた場所で、そのやりとりを見守っていたジュードが、静かに目を細めた。
(……リーナはやっぱりすごいな)
誰にでも真っすぐ向き合って、その心を溶かしてしまう。
そんな優しさに惹かれずにはいられなかった。
「ありがとう、アンリ。とっても美味しいお菓子ね」
リーナがそっと手を取ると、アンリは嬉しそうに大きく頷いた。




