お別れ会(前編)
アンリは仕入れ用の大きな籠を抱え直し、雑踏を縫うように歩いていた。宿で出すパンを受け取り、お父さんに頼まれた野菜を買い足す。日課の買い出しだ。
「おう、そこの恩人の嬢ちゃん!」
ダミ声が響いた。
顔を上げると、煤けた顔の魚屋の店主が、破顔している。
その視線の先に――リーナがいた。アンリの足が、意思に反して止まる。
「店主さん、いい色になってますね」
リーナの声に、店主の顔がさらに崩れた。
「おうよ! あんたに教わった通りにしたら、これがバカ売れでな。魚嫌いのうちの孫まで『もっと食いたい』って言いやがる」
照れくさそうに頭を掻く店主。
その横から、隣の露店の女性が身を乗り出した。
「リーナちゃん、うちの亭主がね、あんたの作った料理の話ばっかりでさ」
「また来てくれよな」
通りすがりの男までが、親しげに手を振っている。
まるで、そこだけ特別な力でもあるみたいに、人が吸い寄せられていく。
温かい笑顔。感謝の言葉。屈託のない声。
アンリの指が、籠の縁に食い込む。
(なんで……あの女が? あの女が何したって言うのよ)
あんなに簡単に。
リーナは誰に対しても、あの春の日差しのような笑みを向けている。薄汚れた店主にも、酔っ払いだろうが、老婆にすら。等しく。
――私だって、お客さんに笑顔で接してるわ。
瞬間、あの騎士の声が脳裏を掠める。
『ジュード以外のお客さんが何か頼んでも、ずっとジュードばっかり見てたでしょ?』
籠が、傾く。
山積みのパンがこぼれ落ちそうになり、慌てて抱え直す。
***
逃げるように朝市を抜け、浜辺へと足を向けていた。
買い出しはまだ終わっていない。けれど、雑踏の熱気が今は息苦しい。
港には漁師たちが集まっていた。その中心に、またあの黒髪が揺れている。
リーナが、赤茶けた不気味な海藻を手に取っていた。
「よせ! そんなゴミ触るんじゃねえ!」
漁師の荒れた手が、リーナの手首へ伸びる。
――瞬間。大きな背中が、視界を遮った。
「――彼女に触るな」
低く、鋭い声。その背中は壁のようにリーナを守り、漁師を威圧している。
「い、いや、俺たちゃ嬢ちゃんが心配で……」
「分かっている」
短く切り、ジュードが振り返る。その表情の変化に、アンリは息を飲んだ。
「リーナ。それは何?」
さっきまでの鋭さは嘘のように消え、とろけるような甘い色が浮かんでいる。
それは、ただの信頼なんてものじゃない。
大切な宝物を前にしたような、熱を帯びた瞳。
(なんで、あんな、顔……)
アンリの心臓が早鐘を打つ。
あんな無防備で、愛おしそうな顔。私は一度だって向けられたことがない。
あれは――恋をしている男の顔だ。
けれど、リーナは気づいていない。
「え、えっとね、『テングサ』っていう海藻でね。寒い時期に加工すれば、素晴らしい食材になるのよ。ただ……手間はかかっちゃうけど」
ジュードの熱っぽい視線になど気づきもせず、手にした海藻を掲げ、目を輝かせて説明を始めている。
そんな鈍感なリーナを、ジュードはさらに眩しそうに見つめ、深く頷いた。
「リーナが『食材』って言ったんだ。なら、これは美味いものに変わるんだよ。今まで彼女の料理が外れたことはない。これからも……な」
その声には、微塵の迷いもなかった。
アンリの膝から、力が抜けた。
(……ああ)
これだ。これが、本物だ。
自分がやっていたのは、全部――可愛い子の、マネごとだった。
鏡の前で練習した笑顔。計算された首の角度。媚びを含んだ上目遣い。そうすれば、みんな優しくしてくれた。 ジュードにも同じことをすれば、リーナのように騎士たちにちやほやされると思ってた。
でも、目の前のリーナは、何もしていない。
可愛く笑ってもいない。媚びてもいない。上目遣いなんて、一度もしていない。ただ、泥だらけの手で海藻を持って、子供のように夢中で話しているだけだ。
それなのに――
町の人も、ジュードも、みんな彼女に惹かれ、そばに集まってくる。
(勝てるわけ……ないじゃん)
勝負ですらなかった。自分は、最初からスタートラインにも立てていなかったのだ。
リーナが持っているものは、「可愛さ」や「愛想の良さ」などという、小手先のものではない。もっと根っこの部分で輝いている、圧倒的な熱量。
アンリには、それがない。 ずっと、空っぽだった。
籠を、ぎゅっと抱きしめる。
焼き立てだったはずのパンが、もう冷え切っている。それが、自分の「恋」の温度のように思えた。
さぁーっと吹く潮風が目に染みる。滲んだ視界の向こうで、二人の姿がひどく眩しい。アンリは、逃げるようにそっと顔を背けた。
***
「リーナ、カステラの香りがたまらないわぁ」
アデラインの声が、厨房に響く。
昨日焼き上げて一晩寝かせたカステラからは、蜂蜜の甘い香り。しっとりとした生地の重み。指先に伝わる感触に、リーナの口元が自然とゆるむ。
「ええ。今日はきっと大活躍してくれますね」
大きな木箱に、丁寧にカステラを詰めていく。
「おーい、ロドリックさんが気合い入れて作ったタタキも、ばっちり仕上がってるぞ!」
厨房の奥からジュードが顔を出した。大皿を掲げている。藁で炙られた表面と、鮮やかな赤身の断面。見事なコントラストだ。
「血合いのそぼろも完璧だな。シモンさん、さすがだな」
ガレスが腕組みをして皿を覗き込み、「うん」と一度だけ大きく頷いた。
「みんな、準備はどうだ?」
ディエゴが厨房に現れた。いつもの陽気な笑顔。だが、その奥に名残惜しさのような気配が滲んでいる。
「おかげさまで順調です。集会場のほうはいかがですか?」
「完璧だ。テーブルも椅子も並べ終わった。町の連中も朝から張り切って手伝ってくれてな」
あれほど反対されていたオオカヅラ料理が、今では町全体を動かしている。みんなが、旅立つ自分たちのために動いてくれている。
「じゃあ、そろそろ運び出しましょうか」
シリルが眼鏡を押し上げる。
「魔物研究の観点から言えば、オオカヅラは学術的にも非常に貴重な事例になりましたね」
「……シリルさんらしい感想だなー」
ルークが笑いながら、大皿をそっと持ち上げた。
「でもほんと、こんなに町が変わるなんてすごいや」
***
潮風庵を出た一行は、料理を抱えながら集会場へと向かう。
道すがら、町の人たちが次々と声をかけてくる。
「リーナちゃん、ありがとな!」
「うちの子たち、今日の料理楽しみにしてるよ」
「オオカヅラ料理も、すっかり板についてきたよ」
どの声も明るく、屈託がない。その一言一言が、リーナの背中を押してくれる。足取りが、少しだけ軽くなった気がした。
集会場に着くと、既に多くの町民が準備を進めていた。
テーブルには、色とりどりの料理が並び始めている。オオカヅラ料理だけでなく、魚のスープ、新鮮な野菜のサラダ、焼きたてのパン――町の人々が持ち寄った品々が、会場を温かな香りで満たしていた。
「おお、主役のご登場だな!」
カルロスが手を振りながら近づいてきた。隣のミゲルと視線を交わし、互いに笑い合う。その顔には、もう出会ったころの険しさはなかった。
「リーナ!」
今度はアズールが勢いよく駆け寄ってくる。興奮で顔を上気させ、その視線はカステラの入った木箱に釘付けだ。
「コスタとデルマーがね、ずっとカステラを楽しみにしてたんだ」
「それは嬉しいですね。あとでみんなで食べましょう!」
リーナが笑顔で応じると、アズールの表情がふっと曇った。
「……でもさ、明日にはもう、お別れなんだよね。なんか……寂しくなっちゃうな」
その一言で、周囲の空気が静まる。
けれど、ディエゴがパンと手を叩いて、空気を切り替えた。
「よし、寂しいのはあとだ!あと! まずは乾杯からいこうじゃねえか!」
集会場には次々と町民たちが集まってくる。
かつての対立や不安は、どこにも見当たらない。代わりにあるのは、温かな笑顔と料理の香りだけだ。
その隅で、ホセ町長が腕を組みながら静かに見守っていた。口数は少ないが、その視線は穏やかで、かすかに浮かぶ笑みには、感謝の色が見て取れる。
「皆さん、今日は本当にありがとうございます」
ジュードが前に立つと、自然と場のざわめきが収まった。
「私たちがペスカードに来てから、皆さんの温かさに触れ、たくさんのことを学ばせてもらいました。本当に、ありがとうございます」
「こっちが感謝しなきゃならねえよ! お前さんたちのおかげで、この港の未来に光が差したんだ!」
誰かの声に、会場から拍手が起きた。
「それじゃ、ペスカードの豊かな海の恵みに――乾杯!」
ディエゴが掲げたジョッキに、次々とジョッキが重なる。
「乾杯!」
その掛け声と共に、お別れ会が本格的に始まった。
テーブルにはあっという間に人だかりができた。
オオカヅラのタタキには長い列が伸び、なまり節のピザは次々と皿から消えていく。血合いのそぼろは特に子供たちに人気で、気づけば空っぽになっていた。
一方で、テーブルの端からは苦悶の声が上がっている。
「ぐ、ぬぬぬ……ッ! 噛み、きれねぇ……!」
ディエゴが鬼の形相で、何か茶色い塊と格闘していた。
「なんだこれ? 俺は干し肉でも食わされてんのか?」
「ひどいな! 『ストーンカウ』のステーキだぞ!オオカヅラがうまくいったから、他の魔物肉も試してみたんだが……」
ミゲルが、「おかしいな」と首を捻っている。
「オオカヅラがうまくいったから、他の魔物肉も試してみたんだが……」
ミゲルが、「火加減がムズいんだよ」と首を捻っている。
「あはは……。ミゲルさん、いいお肉は焼きすぎると縮んで固くなっちゃうんです」
リーナが苦笑して助け舟を出すと、周囲からドッと笑いが起きた。
「なんだよ、せっかくの良い肉が台無しじゃねえか!」
「うるせえ! 噛めば味はするんだよ、噛めば!」
そんな失敗作さえも、今は笑いの種だ。
誰もが、この愛すべき挑戦の時間を噛み締めている。
「うわあ、甘くておいしい!」
コスタが小さな手でしっかりとカステラを掴んでいる。頬を膨らませ、嬉しそうに目を細めた。
隣のデルマーも「しゅごい……」と小声でつぶやきながら、もぐもぐと噛んでいる。
「こんなお菓子、初めて食べた!」
「ふわっふわ……蜂蜜の香りがすごいね」
子供たちに続いて、大人たちからも歓声が上がる。評判は上々どころか、大好評だった。
「リーナちゃん、このお菓子の作り方、教えてもらえないかい?」
町の女性たちが、興味津々といった様子で詰め寄ってくる。
「もちろんです。ただ……泡立て加減がちょっと難しいので」
「大丈夫。意地でも覚えるよ。だって、こんな美味しいもの、二度と食べられないなんて嫌だもの」
その言葉に、周りの女性たちが「そうそう」と笑って頷く。「また食べたい」という、単純で、だからこそ嘘のない本音。
それが何より嬉しくて、リーナは「ふふ」と声を漏らした。
「わかりました。とっておきのコツ、全部置いていきますね」
笑い声と、食器が触れ合う音。
最高潮に達した賑わいの中――ふと、入り口に影が差した。
小さな影が、そこに張り付くように立っていた。
手には、小さな布包み。視線を伏せたまま、アンリが入り口に立ち尽くしている。まばらなざわめきが、次第に周囲へ広がっていく。楽しげな喧騒から切り離されたように、そこだけ温度が低い。
アンリは――動けなかった。
足が、重い。喉が、渇いている。指先が氷のように冷たかった。止めたくても、震えが止まらない
誰かの視線が、刺さる。ここは、自分のような、上っ面だけの人間が入っていい場所じゃない。
ただ、息苦しかった。
逃げたい。ここから今すぐ逃げちゃいたい。籠の中で冷え切ったパンの感触が、脳裏に焼き付いている。
(このまま逃げたら……私は、一生空っぽのままだ)
一歩。足を踏み出す。
もう一歩。
ぎこちない足取りのまま、リーナのもとへと近づいていく。周囲の声が、遠のいていく。自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いた。
「あ、あの……」
声が、掠れて出ない。一度咳払いをして、アンリは顔を上げた。
「リーナ、さん」
リーナが、こちらを見ていた。その瞳に、怒りも軽蔑もなかった。そこにあったのは、朝市で見た時と同じ――春の海のような、穏やかで真っ直ぐな眼差しだけだった。
「こ、これ……」
震える手で、布包みを差し出す。
「ペスカードの伝統菓子なんです。『ポロボロン』って言って、お祝いの時に食べるもので……」
言葉が、止まらなくなった。
「本当に……っ」
視界が熱く歪む。
「ご、ごめんなさい……ごめんな……さい」
堪えきれず、大粒の雫が床に落ちた。
「私……リーナさんに嫉妬して……お客さんのこと、ちゃんと見てなくて……自分のことばっかりで……」
言葉が、途切れる。次が、出てこない。ただ涙だけが、頬を伝った。
「ごめん……なさい……」
声が、震える。静まり返った会場の中で、アンリの震える声だけが響く。
どれくらい、そうしていただろうか。
ぎゅっと。温かい手が、アンリの手を包み込んだ。
「ありがとう、アンリさん。気持ち、ものすごく伝わったよ」
そして、手を伸ばし、アンリの頬を伝う涙を拭った。
「ねえ、アンリさん。あのね……よかったらだけど、よかったらだよ? 私と友達になってもらえないかな?」
アンリが、ぱちりと目を見開いた。
「え……」
戸惑いと驚きが、入り混じった表情。
「……いいの? 私なんかと……」
「私なんか、なんて言わないで。ね、これからは敬語もなしにしよう。私のことはリーナって呼んで。私もアンリって呼ぶよ」
アンリの唇がわななき、信じられないものを見るように瞬きを繰り返す。
「……ほんとに? 私な……じゃなくて、私で、いいの?」
「アンリがいいの」
即答だった。アンリの顔がくしゃくしゃに崩れる。
「ありがとう……リーナ!」
涙と一緒に、笑顔が咲いた。はにかんだ声が、年相応の明るさを取り戻していた。
「ね、ねぇ、このポロボロン、一緒に食べよ? ちょっと面白い言い伝えがあるの」
アンリが鼻をすすりながら包みを開くと、アーモンドの香ばしい匂いが広がった。一口サイズの丸い焼き菓子が、ころころと並んでいる。
「口に入れて崩れる前に、『ポロボロン』って三回言うとね、願いが叶うんだって」
「へぇ……素敵だね」
リーナが目を細めて一つ、つまみ上げ、アンリが勢いよく一つ手に取った。
「じゃあ、せーのでいこっか」
「うん。せーの……!」
「ポロボロン、ポロボロン、ポロボロン」
二人の声が重なった。
ほろりと崩れゆく優しい甘さが、口いっぱいに広がっていく。アーモンドの風味と、バターの香り。素朴だけれど、温かい味だった。
「リーナは、何をお願いしたの?」
「みんなの幸せ。ペスカードの人たちも、騎士団のみんなも――ずっと笑っていられるようにって」
迷いのない答え。それが嘘偽りない願いだと、今のアンリには分かる。だからこそ、自分の願いを口にするのに、迷いはなかった。
「私はね、リーナの幸せをお願いした」
リーナが、きょとんとして瞬きをする。
「え?」
「こんな素敵な人が、ずっと笑っていられますようにって」
アンリは濡れた瞳で、晴れやかに笑った。
それは、彼女が初めて見せた、嘘偽りのない笑顔だった。
「ありがとう、アンリ。とっても美味しいお菓子ね」
リーナが手を握り返すと、アンリは嬉しそうに大きく頷いた。
会場に、温かな拍手が広がっていく。窓から吹き込む潮風が、ランプの炎を優しく揺らした。
笑い声と、甘い菓子の香り。
ペスカードでの最後の夜は、こうして静かに――そして温かく、更けていった。




