お別れ会の準備
翌朝、潮風庵の食堂には爽やかな海風が吹き込んでいた。
窓辺の席で、リーナは小さな布袋を指先でなぞっていた。アードベルを出るときに使った、あの旅支度の袋だ。明後日には、またこれに荷物を詰めて戻ることになる。
「もうすぐ帰るのかぁ」
ジュードがコトンと椅子に腰を下ろし、ぽつりと呟いた。彼の視線は、遠くの海をぼんやりと捉えている。
「ねえ!リーナ、ほんとに明後日には帰っちゃうの?」
扉が勢いよく開き、アズールが風のように駆け寄ってきた。頬がほんのり紅潮している。
「せっかくだし、明日の夜はお別れ会しない?美味しいもの持ち寄ってさ」
リーナが頷いた瞬間、椅子を引いたロドリックが静かに立ち上がった。
「それは素晴らしい考えだ。この町の恵みを皆で味わうことで、旅の記憶がより深く心に刻まれるだろう」
「お別れ会!楽しそう~。じゃあ食材買いに行かなくちゃね!」
アデラインもぱっと手を挙げ、にっこりと笑った。
***
朝市は、いつものように活気に満ちていた。魚を売る声、野菜を並べる音、そして人々の笑い声が港町の朝を彩っている。
リーナたちは、ゆっくりと露店を巡っていく。
「オオカヅラのなまり節、いかがですか!」
呼び止めたのは、実演に参加していた魚屋の主人だった。炙った香りを残す琥珀色のなまり節が、風に乗って香ばしい匂いを漂わせる。
「上手にできていますね」
リーナが目を細めると、主人は破顔した。
「リーナさんの教え方が良かったんだよ。おかげで評判も上々でね!」
その言葉に、笑みがこぼれるのを抑えきれなかった
さらに進むと、ふっと甘い香りが鼻先をくすぐった。目を向けると、色とりどりの小瓶がずらりと並ぶ小さな露店があった。
「蜂蜜……?」
琥珀や黄金、淡いオレンジ。瓶の中の蜜はどれもほんの少しずつ色が違い、光を受けてとろんと揺れていた。
「いらっしゃい。どれも自慢の品ですよ」
店主の老紳士がにこやかに声をかける。手には野花のラベルが貼られた瓶。
「これは野の花から採れた蜜。まろやかで香りも優しくてね」
蓋を開けた瞬間、ふわりと広がったのは、花畑を思わせるほのかな甘い香り。思わず、リーナは目を細めた。
「甘いもの好きのあの方にいいかもな」
ジュードが、どこか楽しげに呟く。
「……ふふっ、団長、きっと喜んでくださるでしょうね」
その瞬間、リーナの中で何かがひらめいた。
「カステラが作れるかも!」
「カステラ?」
アズールが首をかしげる。
「ふわふわで、しっとりしていて……卵と小麦粉、砂糖、蜂蜜で作る、黄色くて甘い焼き菓子なんです」
「えっ、ふわふわでしっとり?」
アデラインが目を丸くする。
「明日のお別れ会用に……みんなで作りませんか?」
リーナの声に、アズールもアデラインも一斉に笑顔になった。
「いいわね!絶対楽しい!」
「食べたい!」
買い物を終えた一行は、笑いながら港のほうへと足を向けた。
***
港の空気は、前よりもずっと澄んでいた。陽を浴びた石畳がきらきらと光り、漁師たちの笑い声が、どこか軽やかに響いている。
「きれいになった港を、もう一度見ておきたかったんです」
リーナの言葉に、ジュードもゆっくりと頷いた。
「俺も。この景色、忘れたくないな」
歩いていると、ひとりの漁師が網を引っ張っているのが目に入った。網の先には、赤くて細い海藻のようなものが絡まっている。
「また引っかかってるのか?」
「そうなんだよ。こいつが毎回、面倒でなあ」
漁師たちが苦笑いしながら引きはがしていたその赤い海藻に、リーナはふと足を止めた。
「……見てもいいですか?」
リーナが目を凝らすと、文字が浮かび上がった。
『テングサ』
『品質:中級』
『分類:海草類(紅藻)』
『特性:煮ると溶け出し、冷やすと固まる』
『用途:お菓子や料理を固めるのに適している』
「……テングサ……!」
呟いたリーナの声に、アズールが首を傾げる。
「なにそれ?食べられるの?」
「これは……とても貴重な海草なんです」
漁師が驚いたように声を上げた。
「貴重?あの厄介なやつが?」
「寒天という食べ物が作れるんです」
リーナが寒天について説明しだすと、周りにいた漁師たちも集まってきた。
「これが?」
「ただ……」
リーナは少し困ったような表情を見せた。
「本格的に作るには、とても時間がかかります。煮出して、乾燥させて……冬の寒さも利用するので、数週間は必要ですね」
「なるほど、冬の仕事ってわけか」
漁師が腕を組んで唸る。
「もし興味があれば、冬に試してみませんか?」
「おう!それは面白そうだな。うまくいったら……アードベルに送るぜ!」
「ええ、楽しみにしてます」
小さな発見が、またひとつ、この町との縁を繋いでくれたような気がした。
***
潮風庵に戻ると、さっそくリーナは厨房に顔を出した。
「シモンさん、あの……明日のお別れ会で、甘いお菓子を振る舞いたくて。厨房、お借りしてもいいでしょうか?」
「ああ、もちろん!」
シモンは快く頷いたあと、興味津々な顔になる。
「どんなお菓子なんです?」
「カステラといいます。卵と小麦粉、砂糖、それから蜂蜜を使って焼く、ふわふわのお菓子です。ほんのり黄色くて、しっとりしていて」
「じゃあ、私も手伝いますよ!」
「ありがとうございます!」
そうしてリーナたちは、早速明日の準備に取りかかった。
厨房には、卵を割る音と、泡立て器のリズムが心地よく響いていた。
「まず、卵に砂糖を加えて、湯煎しながら泡立てます」
リーナがそう説明すると、アデラインが手をぐるぐる回し始める。
「任せて!こういうのは得意よ」
泡立て器の動きに合わせて、透明だった卵が徐々に乳白色に変わり、やがてふんわりとしたクリームのようになっていく。
「しゅごい」
いつの間にか見に来ていたデルマーが、目を丸くした。
「甘い匂いだね」
コスタがくんくんと鼻を鳴らす。
リーナは蜂蜜をそっと瓶からすくい、生地に加えた。とろりと混ざり合う黄金色の液体に、厨房中が甘やかな香りに包まれていく。
「まるでお菓子の魔法ね……」
アズールがうっとりと呟く。
「次に、小麦粉をふるいながら加えて……泡を潰さないよう、底から持ち上げるように混ぜてください」
動きは静かで慎重。泡がしゅわ、と音を立てて潰れてしまわぬように――生地はやさしく仕上げられていく。
「できたら型に流し入れて、こうして軽く落とします」
リーナがトン、と型を落とすと、中の空気が抜けて生地が整う。
「へぇー!知らなかった!」
「あとは窯で、じっくりと焼きますね」
ふわりと広がった甘く香ばしい匂いに、皆がうっとりとした。
「これだけで満足しそう……」
アデラインが思わず笑う。
焼き上がるまでの間に、明日の献立の相談が始まった。
「やっぱり、オオカヅラのタタキは外せないわよね」
「なまり節も、魚の塩焼きも並べたいな」
「何かスープでも作れたら……」
話は次から次へと広がって、気づけば皆が前のめりになっていた。
ディエゴが顔を出した。
「おお、随分と賑やかじゃないか。何か相談か?」
「明後日にリーナ達が帰っちゃうからさ、お別れ会でも開こうって話よ」
アズールが答えると、ディエゴの表情が少し寂しそうになった。
「お別れ会か……リーナたちがいなくなるのは寂しいが、せっかくなら盛大にやろうじゃないか」
「盛大に?」
「ああ。この食堂じゃ狭いだろ?町の集会場を借りられないか、町長に聞いてみようか」
「でも、そんなに大げさにしなくても……」
「何言ってるんだ。リーナたちのおかげで、この町がどれだけ変わったと思ってるんだ。みんなで感謝を込めて送り出したいんだよ」
ディエゴの提案に、アズールも目を輝かせた。
「それいいわね!きっとみんな喜ぶわよ」
やがて、香ばしさが濃くなった頃――リーナがそっと窯から取り出す。
「……焼けました」
取り出した瞬間、ふっくらと膨らんだ黄金色のカステラが現れる。
「わぁぁ……!」
「これが……カステラ?」
「ふわっふわ……!」
デルマーが思わず指先を伸ばしかけ、コスタに引き留められて笑い合う。
「明日が楽しみです」
リーナがそう言うと、みんなが嬉しそうに頷いた。




