父と息子
港に足を踏み入れると、そこには見違えるような光景が広がっていた。石畳は水で洗い流されて、陽光を反射して輝いていた。気持ちよさそうに網の手入れをする漁師たちの笑い声が、清々しい潮風に乗って聞こえてくる。昨日までとは、まるで別の場所のようだった。
「おお、リーナさんたち!」
声をかけてきたのは、昨日の実演に参加していた漁師の一人だった。日焼けした顔に満面の笑みを浮かべている。
「騎士団の皆さんのおかげで、こんなにきれいになっちまった。ありがたいことだよ」
「本当ですね。空気が全然違います」
リーナが答えると、漁師は大きく頷いた。
「ああ。こんなに働きやすくなるとは思わなかった。それに……」
男は少し照れたような表情を見せる。
「教えてもらった料理、家内が作ってくれたんだが、子供たちがパクパク食べてな。『お父さん、またあの魚とってきてよ』なんて言われちまった」
その言葉に、リーナの胸が温かくなった。
「それは……よかったです」
「ああ。魔物だって分かってても、あんなに美味けりゃ関係ないって言うんだ。子供は正直だからな」
周りで作業をしている他の漁師たちも、昨日とは表情が違って見える。清潔な環境で、心なしか作業にも活気があった。
その時、港の向こうから歩いてくる二つの人影が見えた。カルロスと、その父親だった。
父親は網を肩にかけ、いつものように険しい顔をしていたが、港に足を踏み入れた瞬間、ぴたりと足を止めた。
「……本当に匂いがしない」
小さく呟いた声に、驚きと困惑がにじんでいた。
カルロスが隣から声をかける。
「すごいだろ、親父? 騎士団の方々の魔法で、あの山みたいな死骸を全部きれいに処理してくれたんだ」
父親は無言で港を見回した。石畳を、空気を、そして気持ちよく作業する漁師たちの姿を。その光景が彼の脳裏に焼き付き、昨日までの汚れた港の記憶と重なっては消える。長年この時期には当たり前だった不潔さと匂いが、こんなにも簡単に変わってしまう。その事実に、彼は戸惑っていた。
目を細めたまま、しばらく沈黙が続いた。
「あれほど困ってたのに……」
「そうなんだよ。リーナさんたちの料理が町の人達の心を動かして、騎士団の皆さんがこの港をここまできれいにしてくれた。おかげで、町全体が変わり始めてる」
カルロスの声には、希望と誇らしさが込められていた。
けれど、父親は簡単には頷かなかった。
目元に深く刻まれた皺が、わずかに動く。
「……そうやって、若いもんが勢いで何かを変えようとするのはいいさ。だがな、お前たちがやろうとしてることは、この町が何世代にもわたって築き上げてきた誇りを踏みにじることになりかねん」
カルロスは、その言葉をまっすぐに受け止める。
「……親父の言う通りかもしれない。みんなの誇りを、俺たちが傷つけてしまう可能性だってある。でも、それでも──俺は前に進みたい。このままじゃ、港がダメになって……その誇りすら、守れなくなっちまう」
「ふん」
鼻を鳴らすように笑った父親の顔は、ほんの少しだけ、柔らかくなっていた。
「俺は魔物は食わん。……それは変わらん」
「うん、それでいいよ。無理に食べてほしいなんて思ってない。親父が嫌がる理由も、ちゃんと分かってるつもりだ」
「だがな」
父親の声が低くなった。
「お前たちのやってることが、町を良くするってんなら――俺はそれを見届けよう。しっかりな」
カルロスは、はっとしたように目を見開き、そしてうなずいた。
「……ありがとう」
「ただし、道を踏み外しそうになったら、その時は殴ってでも止めるぞ」
「ああ、分かってる。でも……変わったってだけで安心しちゃいけねぇよな。これからは、変わったあとの町を、ちゃんと守っていかないと」
頑固さは残るまま。だがその言葉には、父としての不器用な愛情と、町を守ろうとする強さがあった。
その頃、町長の屋敷ではホセが窓辺に立ち、港の方角を静かに見つめていた。
「町長、港の様子はいかがでしたか?」
控えていた部下の一人が声をかける。
「……驚くほど、きれいになっていたな」
窓の外では、清々しい風が木々の葉を揺らしていた。あの嫌な匂いは、もうどこにも残っていない。町長の脳裏には、この時期当たり前だった腐敗した匂いと、活気のない漁師たちの顔が焼き付いていた。それが、たった数日で塗り替えられた事実に、彼の心は激しく揺れていた。
けれど町長の表情は晴れなかった。
「騎士団の働きは見事だった。だが……問題はそこからだ」
「問題、ですか?」
「この流れを、どこで止めるかだよ。あるいは、止めるべきではないのか」
町長は小さく息をついた。
「長年、私は町の伝統を守ることを最優先にしてきた。それが誇りであり、拠り所でもあった。しかし、その考えが町の発展を妨げていたとしたら…」
彼は静かに椅子から立ち上がり、部下に告げた。
「小さな集まりを開こう。関係者だけでいい。漁師や市場の代表数名と、例の料理人たちも呼んでくれ」
「承知しました」
夕刻。集会場には十数名の人々が集まっていた。
ディエゴやミゲル、カルロスとその父親、アズール、数名の漁師や市場関係者。そしてリーナ達も招かれていた。
町長が立ち上がり、ゆっくりと場を見渡す。
「皆さん、お集まりいただき、感謝する。まずは騎士団の皆さんの働きに、心から礼を述べたい」
小さく頭を下げたあと、重みのある声で続けた。
「私は、これまで魔物を食べることに反対してきた。それはこの町の長く信じてきた常識だったからだ」
その言葉に、リーナたちは静かに耳を傾ける。
「だが……港の変化を見て、私は迷っている。環境は劇的に改善され、町の空気も、人々の顔も、昨日とはまるで違う」
町長の顔に、ほんのわずか苦笑が浮かぶ。
「長年信じて守ってきたものが、間違いだったとは思わない。 だが──変化を拒むことの方が、かえって町に害をもたらすかもしれん」
カルロスがごくりと唾を飲む。
「私は、魔物を食べるつもりはない。それは今でも変わらない」
声に少し力が戻った。
「だが、この町に住む者が、それぞれの考えで行動することを、町として止めるつもりもない」
会場に、安堵の気配と、ざわめきが同時に広がる。
「ただし」
その一言で空気が引き締まった。
「この新しい流れが、町の秩序や人の繋がりを乱すようなことがあれば……私は黙ってはおらん」
カルロスの父親がゆっくり立ち上がる。
「町長の言う通りだ。俺も息子のやることを見届けると決めた。だが、それは何でも認めるって意味じゃない」
頑固そうな口調の中に、わずかな迷いがあった。
「俺たちは、ずっとこの港と共に生きてきた。だからこそ、今の変化に目を背けるわけにはいかない。だが、お前たちが道を外れねえように、俺たちは目を光らせる」
それは、歓迎と警戒の入り混じった宣言だった。
アズールがゆっくり立ち上がる。
「町長、皆さん。私たちは、伝統に背を向けるつもりはありません。ただ、このままでは、町の活気がなくなってしまうかもしれない。だからこそ、新しい形で、町を支えなければならないと思うんです」
リーナもそれに続いた。
「私はこの町の者ではありませんが、料理を通して関わらせていただく中で、大切なものをたくさん教えていただきました」
リーナは一息つき、町長から漁師たちまで、一人ひとりを見渡してから続けた。
「この町の皆さんが、これからの未来を笑顔で語れるようになるなら、私たちは少しでも力になれたことを嬉しく思います。もし、これからも何かできることがあれば、いつでも声をかけてください」
町長の表情が和らいだ。
「伝統も、新しさも、どちらも正しいとは限らない。だが、互いに見合い、話し合うことはできる」
静かに場が落ち着くと、一人の漁師が手を挙げた。
「町長、もしよければですが……この新しい流れを、町全体でどう活かしていくか、話し合う機会を定期的に設けませんかね?」
町長はゆっくりと頷く。
「うむ。よい考えだ。では、来週から立ち上げよう。皆、協力してくれ」
小さな拍手が、会場にぽつぽつと広がっていく。
それは大きな変化の始まりを告げる音だった。
夜。潮風庵では、今日一日の出来事を振り返る静かな空気が流れていた。
「正直、こんなに早く町長が歩み寄るとは思わなかったよ」
ジュードが椅子にもたれながら呟く。
ディエゴがカップを置きながら頷いた。「ああ、俺もびっくりしたぜ。あの町長が考えを変えるなんてな」
「でも油断は禁物だよね」
アズールが言うと、ディエゴは苦笑いを浮かべた。
「そうだな。何かちょっとでも問題があったら、すぐに『やっぱりダメだ』って言われかねない。まあ、それはそれで仕方ないがな」
アズールが嬉しそうに微笑んだ。
「でも、一歩前に進んだし!」
リーナは窓を見つめた。風がカーテンを揺らし、遠く港の匂いが微かに漂ってくる。
「そうですね……大きな前進です」
その夜、港町には穏やかな風が吹いていた。




