広がる変化
リーナは食堂の奥で、昨日の料理実演を思い返していた。
藁焼きの香ばしさ、燻製のやわらかな香り──。鼻の奥に残る匂いとともに、驚きに目を見張った人たちの表情が蘇ってくる。
「昨日は、本当に見事だった」
隣の席で穏やかな笑みを浮かべたロドリックの手には、まだほのかに藁の香りが残っている。
だが、リーナの胸の内では別の思いが渦巻いていた。
昨日の成功は、あくまで始まりに過ぎない。これからが本当の勝負だ。町の人々の心が本当に動くかどうか──。
足音が響き、慌ただしく戸が開いた。アズールが飛び込んでくる。
「リーナ! ちょっと大変! 町中で噂になってるんだけど!」
「アズールさん? え? 噂……ですか?」
「昨日来てた人たちがさ、家族や近所の人に『オオカヅラが本当に美味しかった』って話したみたい!」
息を弾ませ、頬を紅潮させたアズールの様子に、リーナは思わず身を乗り出した。
「……すごい。そんなに早く?」
喜びを隠しきれない、弾んだ声が出た。
「だからね、今日は町を見て回らない? 絶対、何か面白いことになってるはずなのよ」
ロドリックがその提案に応じる。
「良いな。変化の兆しが、どのように町を包み込み始めているのか──この目で確かめてみよう」
***
午前の日差しが強くなり始めた頃、港に近い朝市では、いつもの活気に加えて、どこか新しい匂いが空気に混じっていた。
干物や魚介の香りに紛れて、炙られた魚のような、香ばしい匂いが漂っている。
市場の中心にある魚屋の前には、見たことのない人だかりができていた。掲げられた看板には「オオカヅラのタタキ」の文字。飛ぶように売れていく様子を、店主が信じられないという顔で見つめている。
だが、その横。
「血合いのそぼろ」と書かれた大皿の前だけは、ぽっかりと客足が途絶えていた。
「血合い? 魔物の血を食うのか?」
「いや、それはちょっと……」
通りすがりの男たちが、露骨に顔をしかめて去っていく。
店主の肩ががっくりと落ちるのを見て、リーナはロドリックの制止も待たずに駆け寄った。
「おじさん! 試食です!」
「え? あれ? 昨日の?」
「味さえ分かれば絶対に売れます。串に刺して配ってみてください!」
リーナの勢いに押され、店主はおずおずとそぼろを串に刺し、通りがかりの主婦に差し出した。
「あ、あの……一口だけ。騙されたと思って」
年配の女性が恐る恐る受け取り、口に運び──そして、はっと顔を上げた。
「これが……あのオオカヅラ? 信じられないわ」
「だ、だろ~? 臭みなんてまるでなくて、むしろクセになる味なんだよ! みんな分かっちゃくれねえのよ」
その様子を見ていた他の買い物客たちも、次々に店主に声をかけ始める。
少し離れた場所から、リーナはその光景を見つめていた。串を受け取った人たちが「うまい」「酒に合うぞ」と次々に声を上げる。驚きから喜びへと変わる表情。昨日まで港の厄介者として扱われていたオオカヅラが、今、人々の食卓に加わろうとしている。
次の角を曲がると、今度は威勢の良い声が響いていた。
「オオカヅラの唐揚げだよ! 揚げたて熱々!」
看板に惹かれて近づくと、揚げ物特有の香ばしい匂いが漂っている。だが、わずかに生臭さが混じっていた。
揚げ物の盛られた皿を覗き込むと、唐揚げは濃い茶色を通り越して、ほとんど黒に近い。揚げすぎだ。
「どうだい、一つ食べてみなよ!」
店主が勧めるのを、若い男が一つ手に取った。かじって──眉をひそめる。
「うーん……なんか、パサパサしてるな。それに、ちょっと臭みが……」
「え? でも揚げたてなのに?」
店主が首を傾げる。
リーナは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
(下処理をしていないんだわ。血合いも一緒に揚げているのかしら? それに、オオカヅラみたいな赤身の魚は、中をレアに仕上げないと……)
揚げすぎて水分が飛び、身がパサついてしまっている。血合いの臭みも、醤やしょうがに漬け込んでおけば消えたはずだ。
少し先の露店では「オオカヅラの甘煮」の文字。
「甘煮?」とリーナが興味を引かれて覗き込むと、琥珀色の照りをまとった煮物が、大きな鍋に入っている。
「甘くて美味しいよ! 子どもも食べられる!」
店主が自信満々に勧めるが、買い求めた女性が微妙な顔をしていた。
「甘いのは良いんだけど……ちょっと、蜂蜜が効きすぎてるんじゃない?」
リーナは小さく息を吐き、鍋から視線を外した。
挑戦する気持ちは素晴らしい。だが、やはり料理には加減がいる。ただ「食べられる」だけではなく、「美味しく食べる」ための工夫が必要だ。
(それでも……試行錯誤してくれてる。みんな、一生懸命なんだわ)
失敗も含めて、町全体が動き始めている。その事実が、リーナの胸を温かくした。
パン屋の前で足を止めると、店内の棚に、見慣れないピザが並んでいるのが目に入った。
『なまり節のピザ』
琥珀色のつやを帯びたなまり節を細かくほぐし、クリーミーなマヨネーズと混ぜてピザ生地に広げ、チーズで覆って焼き上げたものだ。
「美味しいわ! これなら子どもも食べられる」
若い母親がそう言って店主に微笑みかける。
怖れられていた魔物が、人々の生活の中に、さりげなく溶け込んでいく。その変化の瞬間に立ち会えることの幸せを、ひしと実感していた。
***
その頃、カルロスは町から自宅へと戻る道を歩いていた。
港に近い路地を抜けようとした時、使われていない網小屋の前に、見慣れた背中が見えた。
年配の漁師たちが、数人肩を寄せ合っている。
「魔物を食うなんて……先祖への冒涜だ。どうしてくれるんだ」
皺の深い男が、腕を組んだまま低く唸る声が聞こえてきた。
カルロスは足を止めた。
「……でも、さっき通りかかったパン屋の匂い、美味しそうだったなあ」
誰かがぽつりと漏らした言葉に、鋭い声が返る。
「何を言ってる! 町長も反対してるのに、どうして皆、そんなもんを平気で口にするんだ」
「そ、それは……孫がさ。『おじいちゃんも食べてみて』って言うから……」
言い訳のような声は、次第にか細くなっていく。
カルロスは唇を噛んだ。
町中でオオカヅラ料理が広がり、人々が喜んでいる。その変化を、彼らは頑なに拒んでいる。
(変わることが、そんなに怖いのか……?)
胸の内で渦巻く思いを抑えながら、カルロスは足早にその場を離れた。
家に着くと、父が網の手入れをしていた。
「親父、聞いてくれよ! 町のあちこちで、オオカヅラの料理が出てるんだ。どこも評判ですごいんだよ!」
興奮気味にまくしたてるが、父の手は止まらない。網目を繕う指先のリズムさえ変えず、父は背中を向けたまま言い放った。
「ふん。くだらんな。魔物なんて食って、何になるってんだ」
吐き捨てるような一言。
さっき聞いた、老人たちと同じ声だった。
「くだらなくなんてない! 今年はオオカヅラのせいで、まともに魚が獲れないじゃないか。網にかかるのはオオカヅラばかりで、それを捨てるしかなかった。でも今は、食べられるって分かって、町の人たちが喜んでる。金になるんだぞ? 厄介者だったあいつが金に……! 生活が楽になるじゃないか!」
「金か」
父の手が、ようやく止まった。
ゆっくりと振り向いたその顔には、軽蔑とも哀れみともつかない表情が浮かんでいた。深く刻まれた皺が、さらに険しさを増している。
「金のために魂を売るのか。お前は」
「売るんじゃない! 親父だって分かってるだろ。今年は本当に厳しいんだ。オオカヅラばかりで、まともな魚が獲れない。このままじゃ……!」
「だからといって、魔物に手を出していいわけがあるか。先人たちがなぜ魔物を避け、魚を獲って生きてきたか。その伝統を、目先の欲で汚すんじゃねえ!」
「伝統で飯が食えるのか!」
カルロスが叫んだ。父の顔が、強張る。沈黙が場を支配した。
網を繕う針が、父の手の中でわずかに震えている。それを見て、カルロスは自分の言葉を後悔した。
言いすぎた。だが、引くこともできなかった。
「……親父」
カルロスが口を開きかけた時、父が静かに言った。
「頭を冷やせ。お前は興奮しすぎてる」
父は再び網に向き直り、針を動かし始めた。その背中は、もう何も聞く気がないと語っていた。
カルロスは言葉を失った。
港の老人たちも、父も、同じだ。誰も変化を受け入れようとしない。
町が変わりゆく喜びと、埋まらない溝。その複雑な感情を持て余し、カルロスは静かに拳を握りしめた。
***
町長の執務室。ホセは窓の外に広がる港を見下ろしていた。
町内の数店舗でオオカヅラ料理が出回り始めている。しかも、売れ行きは好調だという。
なぜ、こんなにも急に──。
報告書を持つ手に、わずかな震えが走る。昨日までは、ほんの一部の物好きが騒いでいるだけだと思っていた。それが今日になって、町全体に広がり始めている。
魔物を食すなんて。この町は、代々、海の恵みで生きてきた。豊かな漁場、確かな技術、そして何より──先祖から受け継いできた「町のやり方」がある。
魔物はいた。昔からだ。だが、今年のような大量発生は、誰も経験したことがない。
それでも──いや、だからこそ、安易に「食う」という選択をしてはならないのだ。
先人たちは、魔物を避け、魚を獲り、それで生きてきた。その知恵と経験を、なぜ今、捨てなければならない。もし、この流れに乗って町が変わり、それが間違いだったら──。魔物を食べたことで疫病が流行ったら?
自分の代で、この町を壊してしまうことになる。
ホセは執務机の角を指でなぞった。長年使い込まれ、黒光りする古びた木材。そこに刻まれた無数の傷一つ一つに、歴代の町長たちの判断が積み重なっている。
変化を受け入れることは、彼らを否定することになるのではないか。
「私は……立場を変えるつもりはない」
声に出して言う。自分自身に、言い聞かせるように。
「魔物は、あくまで魔物だ」
だが、ホセの指先は、机の角についた古い傷跡の上で止まっていた。何度も撫でられ、滑らかになったその傷の感触だけが、執務室の静寂の中にあった。




