広がる変化
朝の海風が、潮風庵の窓をやさしく揺らしていた。リーナは食堂の奥で、昨日の調理実演を思い返していた。
藁焼きの香ばしさ、燻製のやわらかな香り──。鼻の奥に残る匂いとともに、驚きに目を見張った人たちの表情が蘇ってくる。
「昨日は、本当に見事だった」
隣の席でロドリックが言う。穏やかな笑みを浮かべた彼の手には、まだ仄かに藁の香りが残っていた。
リーナはゆっくりと頷いた。
「でも……きっと、これからが本当の勝負ですよね」
そう答えた時、足音が響いた。慌ただしく戸が開き、アズールが飛び込んでくる。
「リーナ!大変よ、町中で噂になってる!」
「噂……ですか?」
「昨日来てた人たちがさ、家に帰って、家族や近所の人に話したみたいでね。『あのオオカヅラが本当に美味しかった』って!」
息を弾ませながら目を輝かせるアズールを見て、リーナは驚きと同時に、責任の重さを感じた。
「それは……思っていたよりも、早い広がりですね」
「だからね、今日は町を見て回らない?絶対、何か面白いことになってるはず!」
ロドリックがその提案に頷く。
「素晴らしい案だ。変化の兆しが、どのように街を包み込み始めているのか──この目で確かめてみよう」
***
午前の陽射しが強くなり始めた頃、港に近い朝市では、いつもの活気に加えて、どこか新しい匂いが空気に混じっていた。
干物や魚介の香りに紛れて、炙られた魚のような、香ばしい匂いがほんのりと漂っている。
その中心にある魚屋では、見慣れない看板が掲げられていた。
『オオカヅラのタタキ』『血合いのそぼろ』
朝日を浴びて、手書きの文字が輝いている。
「本当に……食べられるの?」
年配の女性が、おそるおそる店主に声をかけた。店主は、昨日の実演に参加していた男だった。
「奥さん、騙されたと思って食べてみなって。俺も最初は疑ってたけど、こんなにうまいとは思わなかったんだ」
そう言って差し出されたのは、小皿に盛られた血合いのそぼろ。甘辛く煮詰められたそれは、食欲を誘う香りを放っていた。
女性が恐る恐る口に運び──そして目を丸くした。
「これが……魔物?信じられない」
「だろ?臭みなんてまるでなくて、むしろクセになる味なんだよ」
その様子を見ていた他の買い物客たちも、次々に手を伸ばし始めた。驚きと興味の入り混じった視線が、試食の皿に注がれる。
少し離れた場所からその様子を見ていたリーナは、思わず呟いた。
「……すごい」
ほんの昨日まで、港の厄介者として扱われていたオオカヅラ。それが今、人々の食卓に加わろうとしている。
昼時が近づく頃、小さな食堂の前を通りかかると、香ばしい匂いが路地にまで溢れていた。
軒先の黒板には、『オオカヅラのステーキ』『オオカヅラのアラ汁』の文字。
客で賑わう店内を覗くと、カウンター席の男性が湯気立つ椀を前に、満足げに頷いていた。
「この匂い、たまらないね……」
深い出汁の香りが店中に広がり、他の客たちも次々と箸を進めていた。
隣のテーブルでは、年配の夫婦がオオカヅラのステーキを切り分けている。焼き目のついた表面から、肉厚の断面がのぞき、うま味が凝縮された汁が滴る。
「身がしっかりしてて、食べ応えがあるわね」
妻がそう言えば、夫も無言で頷きながら噛みしめる。
最初は半信半疑だった面々も、口に運ぶうちに表情を変えていく。その目が見開かれ、やがて笑みに変わっていく過程が、リーナにははっきりと見えた。
パン屋の前で足を止めると、店内の棚に、見慣れないピザが並んでいるのが目に入った。
『なまり節のピザ』
琥珀色に輝くなまり節を細かくほぐし、クリーミーなマヨネーズと混ぜて、ピザ生地の上にこんもりと乗せたものだ。
「これなら、子どもも食べてくれるかも」
若い母親がそう言って店主に微笑みかける。
「試食、どうぞ」
店主が小さく切り分けたピザを差し出すと、母親は一口食べて、驚いたように目を見開いた。
「まろやかで……美味しいわ。これは新しい味ね」
その様子に他の客たちも興味をそそられ、次々と試食を求め始める。
リーナは、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
怖れられていた魔物が、人々の生活の中に、さりげなく溶け込んでいく。
その変化の瞬間に立ち会えることの幸せを、ひしと実感していた。
***
だが、すべての人がこの変化を素直に受け入れているわけではなかった。
港の片隅、使われていない小屋の前では、年配の男たちが数人、肩を寄せ合っていた。潮風に白くなった髭が揺れ、皆、険しい顔をしている。
「魔物を食うなんて……先祖に顔向けできん」
皺の深い男が、腕を組んだままぼそりと呟く。
「……でも、さっき通りかかったパン屋の匂い、美味しそうだったな」
ぽつりと別の男が、視線を伏せて呟いた。それに、最初に口を開いた男が鋭い目を向ける。
「何を言ってる!町長も反対してるのに、どうして皆、そんなもんを平気で口にするんだ」
「そ、それは……孫がさ。『おじいちゃんも食べてみて』って言うから……」
言い訳のように続いたその声は、次第にか細くなっていく。仲間内でも、迷いや温度差が生まれ始めているのが分かった。
一方その頃、町長の屋敷ではホセ町長が報告を受けていた。
「町内の数店舗で、オオカヅラ料理の売れ行きが好調です」
町長の表情に困惑が浮かぶ。
「なぜ、こんなにも急に……?」
驚きが口を突いて出る。昨日までの抵抗感は、どこへやら。事態の変化の早さに、彼の内心はざわついていた。
だが、その動揺を押し隠すように、表情を引き締めて言い放つ。
「私は……立場を変えるつもりはない。魔物は、あくまで魔物だ」
***
その頃、カルロスは家で父親と向き合っていた。
「親父、聞いたか?町のあちこちで、オオカヅラの料理が出てるんだ。どこも評判でさ、みんな美味いって言ってるよ!」
高揚した声でそう告げると、網の手入れをしていた父親が、ぴたりと手を止める。
「ふん。魔物なんて食って、何になる」
「でも、今までは捨てるしかなかったんだぞ?それが今は、ちゃんとした食材になって、町の人たちが喜んでる。それってすごいことじゃないか」
必死に説くカルロスに対し、父の声は冷たく返る。
「若い連中は、目先のことしか考えとらん。伝統ってもんを、軽く見るな」
カルロスは言葉を失った。
町が変わりゆく喜びと、埋まらない父との溝。その複雑な感情が胸に絡みつき、俯いたまま、カルロスは静かに拳を握りしめた。
「……親父にも、分かってもらいたいのに」




