表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
88/126

新たな理解

燻製の煙が庭にゆらゆらと立ち上り、潮風庵全体をやわらかく包み込んでいた。木の香りは風に乗り、食堂の中まで染み込むように広がっていく。



「まずは、タタキの方をお試しください」



リーナは切り分けた一切れ一切れを丁寧に皿へ盛りつけ、参加者の前にそっと置いていく。表面の香ばしい焦げ目と、中のとろりとした赤身が、美しいコントラストを描いていた。



「どうぞ。まずは、こちらのお塩でお召し上がりください」



リーナは、小さな器に盛られた塩の結晶を、皿の端に添えていく。



「これが……オオカヅラか」



誰かが小さくつぶやく。皿の上の切り身を見つめる視線には、もはや魔物への恐れはなかった。あるのは、未知への興味と、食欲だけ。



リーナの声に促され、一人が震える指先でフォークを手に取った。刺した切り身を訝しげに持ち上げ、祈るような沈黙の中、口元へ運ぶ。その一連の動作を、他の全員が息を詰めて見守っていた。



口に入れた瞬間、予想を裏切る香ばしさが、とろけるような身の柔らかさと共に舌を包み込んだ。鼻を抜ける煙の香りが、後味に深い余韻を残す。恐怖と疑念が溶け、純粋な旨味だけが脳裏を支配する。



目を見開いたまま、参加者は恍惚とした表情で一呼吸置いて、絞り出すように呟いた。



「……まさか……うまい」



その一言が、張り詰めた場の空気を一瞬で打ち砕く。沈黙が、驚きと興奮のざわめきへと変わった。他の者たちも次々に手を伸ばし、待ちきれないようにタタキを口に運ぶ。



最初は恐る恐るだった動きが、二口目には確信に満ちたものに変わっていく。眉を上げ、頬を緩め、互いにうなずき合う――その表情は、驚きから確信へ、そして純粋な喜びへと移り変わっていった。



「これ、本当にあの魔物かよ?」



「まるで別物だ。臭みなんて微塵もない」



「こんなに美味しいものが、この町にあったなんて……」



感嘆の声が、堰を切ったように食堂に満ちていく。



ロドリックが、にこやかに醤の入った小皿を皆の前に並べる。



「次は、醤を少しだけつけてみてください。皮の香ばしさが引き立ちます」



小皿に注がれた醤が、焼き目にゆっくりと染みていく。その香りが立ち上がった瞬間、食堂の空気が再びぴんと張り詰めた。



恐る恐る口に運んだ一人が、目を見開く。



「……ああ、これは……」



言葉にならない感嘆の声が漏れた。



塩で食べたときとは違う、深い旨味が口いっぱいに広がる。醤の芳醇な香りと塩気が、香ばしい皮の風味を一層引き立て、中のとろりとした身の甘みを際立たせていた。



「すごい……味が何重にも重なってる」



「塩だけでも美味かったが、これはまた違う美味さだ」



感嘆の声が、今度は深い納得へと変わっていった。



「表面と中で、まったく違う味がしますね」



ロドリックが目を細めながら言った。



「まるで、焰と海が織りなす、二重奏のようです」



カルロスとミゲルの顔に、ほっとしたような色が浮かぶ。ただ美味しいというだけではない。魔物への見方が、確実に変わりつつあった。



「燻製の方も、まもなく完成します」



リーナが庭の様子を確認する。立ちのぼる煙の色が落ち着き、木の香りがぐっと深くなっていた。



***



「いい匂い……」



燻製にかけることおよそ一時間。なまり節は、琥珀色の艶をまとい、静かに仕上がりを告げていた。



「できました」



リーナとロドリックが振り返ると、窓辺に立つ参加者たちがそろって息を呑んでいた。すでにタタキで心を動かされた彼らの目には、新たな期待が宿っている。



「これらが、オオカヅラの調理法の一部です」



並べられたタタキとなまり節。どちらも、もはや魔物とは思えぬほどに美しく、香り高い仕上がりだった。


リーナはなまり節を薄く削り、皿に盛りつけていく。湯気のように立ちのぼる燻香が、食堂をさらに包み込んでいった。



「まずは、そのままでお召し上がりください」



口に含んだ瞬間、燻香が鼻に抜け、じわっと旨味が舌に広がる。噛むほどに風味が強まり、最後には深いコクが静かに残った。



「これは……」



「うまいな、これは」



感嘆の声が再び漏れ出す。



リーナは次に、やや厚めに切ったなまり節を小皿に盛り、生姜と醤を添えた。



「今度は、生姜と醤でどうぞ」



参加者たちは促されるままにフォークを手に取り、薬味を添えて口に運ぶ。


今度は、ぴりっとした生姜の辛みが舌に広がり、醤の塩気が燻製の甘みを引き締めた。さっきとはまったく違う表情が浮かぶ。



「……これは、酒が欲しくなるな」



「うちの子もきっと気に入る」



続けて、リーナは小皿にオリーブオイルと醤を混ぜた即席のドレッシングを用意する。



「こちらも、相性がいいんです」



オリーブオイルのまろやかさが燻香を包み、醤が後味に輪郭を与える。思いがけない組み合わせに、驚きと新鮮な感動が広がっていった。



「こんな食べ方もあるのか……」



「これなら、いろんな料理に使えそうだな」



参加者たちの目が輝き始める。



「なまり節は、サラダに混ぜても良いうま味になりますし、煮物に加えても深みが出ます」



「揚げ物にもいけるのか?」



一人の漁師が前のめりになった。



「はい。驚かれるかもしれませんが、パンにはさんだり、パスタの具材にもなりますよ」



「パンの具材に? まさか、本当に……?」



呆然と呟く声に、リーナはにこやかに頷く。



「はい。薄く切って、野菜と一緒に挟めば、それだけで立派な一品になります」



「こいつは……とんでもねぇ商売になるぞ!」



一人の声が、食堂全体に響いた。リーナはさらに続けた。



「さらに燻製して乾燥させれば、荒節という保存食になります。これを削れば、出汁も取れるんです」



「出汁?ウミクサとは違うのか?」



「ウミクサは上品でやさしい味ですが、オオカヅラは力強く、濃厚です。用途に応じて使い分けられます」



ざわめきが広がる。出汁文化が広まりつつある今、新たな選択肢が生まれることへの期待がふくらんでいった。



「これで、港の匂いも変わるかもしれませんね」



シモンが穏やかに笑う。



「ええ。きっと変わります」



リーナは窓の外の潮風を感じながら答えた。



「でも、一番うれしかったのは……」



リーナは感極まったように振り返り、一人一人の顔に、感謝と喜びの視線をゆっくりと送った。



「皆さんが、オオカヅラを新しい目で見てくださったことです」



「最初は疑ってたんだ。でも、これなら安心して子どもにも食べさせられる」



「いろんな料理に使えるし、何より美味い。……港町の救世主だったのかもしれん」



カルロスが立ち上がる。



「皆さん、本当にありがとうございます。これで町の皆にも、自信を持って伝えられます」



「今日のこと、ちゃんと伝えるわ」



「ぜひ、お願いします」



リーナが深く頭を下げると、参加者たちも次々に立ち上がった。



「また教えてください」



「今度は家族を連れてきます」



アズールがリーナの肩に手を置いた。


「ありがとう。本当に、ありがとう」



その声には、未来への確かな希望が込められていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
更新お疲れ様です。 まずは静かな、でもとてつもなく大切な一歩を踏み出せたみたいで良かったです。 「変革というのは一朝一夕で完了する訳じゃない、着実に積み重ねて漸く日が当たって行くんだよ。正しい変革な…
 うちでは疲れた時に、鰹節を厚めに削って熱々の濃煎茶を注ぎ、醤油をお好みで入れて飲みます(笑)
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ