新たな理解
燻製の煙が庭にゆらゆらと立ち上り、潮風庵全体をやわらかく包み込んでいた。木の香りは風に乗り、食堂の中まで染み込むように広がっていく。
「まずは、タタキの方をお試しください」
リーナは切り分けた一切れ一切れを丁寧に皿へ盛りつけ、参加者の前にそっと置いていく。表面の香ばしい焦げ目と、中のとろりとした赤身が、美しいコントラストを描いていた。
「どうぞ。まずは、こちらのお塩でお召し上がりください」
リーナは、小さな器に盛られた塩の結晶を、皿の端に添えていく。
「これが……オオカヅラか」
誰かが小さくつぶやく。皿の上の切り身を見つめる視線には、もはや魔物への恐れはなかった。あるのは、未知への興味と、食欲だけ。
リーナの声に促され、一人が震える指先でフォークを手に取った。刺した切り身を訝しげに持ち上げ、祈るような沈黙の中、口元へ運ぶ。その一連の動作を、他の全員が息を詰めて見守っていた。
口に入れた瞬間、予想を裏切る香ばしさが、とろけるような身の柔らかさと共に舌を包み込んだ。鼻を抜ける煙の香りが、後味に深い余韻を残す。恐怖と疑念が溶け、純粋な旨味だけが脳裏を支配する。
目を見開いたまま、参加者は恍惚とした表情で一呼吸置いて、絞り出すように呟いた。
「……まさか……うまい」
その一言が、張り詰めた場の空気を一瞬で打ち砕く。沈黙が、驚きと興奮のざわめきへと変わった。他の者たちも次々に手を伸ばし、待ちきれないようにタタキを口に運ぶ。
最初は恐る恐るだった動きが、二口目には確信に満ちたものに変わっていく。眉を上げ、頬を緩め、互いにうなずき合う――その表情は、驚きから確信へ、そして純粋な喜びへと移り変わっていった。
「これ、本当にあの魔物かよ?」
「まるで別物だ。臭みなんて微塵もない」
「こんなに美味しいものが、この町にあったなんて……」
感嘆の声が、堰を切ったように食堂に満ちていく。
ロドリックが、にこやかに醤の入った小皿を皆の前に並べる。
「次は、醤を少しだけつけてみてください。皮の香ばしさが引き立ちます」
小皿に注がれた醤が、焼き目にゆっくりと染みていく。その香りが立ち上がった瞬間、食堂の空気が再びぴんと張り詰めた。
恐る恐る口に運んだ一人が、目を見開く。
「……ああ、これは……」
言葉にならない感嘆の声が漏れた。
塩で食べたときとは違う、深い旨味が口いっぱいに広がる。醤の芳醇な香りと塩気が、香ばしい皮の風味を一層引き立て、中のとろりとした身の甘みを際立たせていた。
「すごい……味が何重にも重なってる」
「塩だけでも美味かったが、これはまた違う美味さだ」
感嘆の声が、今度は深い納得へと変わっていった。
「表面と中で、まったく違う味がしますね」
ロドリックが目を細めながら言った。
「まるで、焰と海が織りなす、二重奏のようです」
カルロスとミゲルの顔に、ほっとしたような色が浮かぶ。ただ美味しいというだけではない。魔物への見方が、確実に変わりつつあった。
「燻製の方も、まもなく完成します」
リーナが庭の様子を確認する。立ちのぼる煙の色が落ち着き、木の香りがぐっと深くなっていた。
***
「いい匂い……」
燻製にかけることおよそ一時間。なまり節は、琥珀色の艶をまとい、静かに仕上がりを告げていた。
「できました」
リーナとロドリックが振り返ると、窓辺に立つ参加者たちがそろって息を呑んでいた。すでにタタキで心を動かされた彼らの目には、新たな期待が宿っている。
「これらが、オオカヅラの調理法の一部です」
並べられたタタキとなまり節。どちらも、もはや魔物とは思えぬほどに美しく、香り高い仕上がりだった。
リーナはなまり節を薄く削り、皿に盛りつけていく。湯気のように立ちのぼる燻香が、食堂をさらに包み込んでいった。
「まずは、そのままでお召し上がりください」
口に含んだ瞬間、燻香が鼻に抜け、じわっと旨味が舌に広がる。噛むほどに風味が強まり、最後には深いコクが静かに残った。
「これは……」
「うまいな、これは」
感嘆の声が再び漏れ出す。
リーナは次に、やや厚めに切ったなまり節を小皿に盛り、生姜と醤を添えた。
「今度は、生姜と醤でどうぞ」
参加者たちは促されるままにフォークを手に取り、薬味を添えて口に運ぶ。
今度は、ぴりっとした生姜の辛みが舌に広がり、醤の塩気が燻製の甘みを引き締めた。さっきとはまったく違う表情が浮かぶ。
「……これは、酒が欲しくなるな」
「うちの子もきっと気に入る」
続けて、リーナは小皿にオリーブオイルと醤を混ぜた即席のドレッシングを用意する。
「こちらも、相性がいいんです」
オリーブオイルのまろやかさが燻香を包み、醤が後味に輪郭を与える。思いがけない組み合わせに、驚きと新鮮な感動が広がっていった。
「こんな食べ方もあるのか……」
「これなら、いろんな料理に使えそうだな」
参加者たちの目が輝き始める。
「なまり節は、サラダに混ぜても良いうま味になりますし、煮物に加えても深みが出ます」
「揚げ物にもいけるのか?」
一人の漁師が前のめりになった。
「はい。驚かれるかもしれませんが、パンにはさんだり、パスタの具材にもなりますよ」
「パンの具材に? まさか、本当に……?」
呆然と呟く声に、リーナはにこやかに頷く。
「はい。薄く切って、野菜と一緒に挟めば、それだけで立派な一品になります」
「こいつは……とんでもねぇ商売になるぞ!」
一人の声が、食堂全体に響いた。リーナはさらに続けた。
「さらに燻製して乾燥させれば、荒節という保存食になります。これを削れば、出汁も取れるんです」
「出汁?ウミクサとは違うのか?」
「ウミクサは上品でやさしい味ですが、オオカヅラは力強く、濃厚です。用途に応じて使い分けられます」
ざわめきが広がる。出汁文化が広まりつつある今、新たな選択肢が生まれることへの期待がふくらんでいった。
「これで、港の匂いも変わるかもしれませんね」
シモンが穏やかに笑う。
「ええ。きっと変わります」
リーナは窓の外の潮風を感じながら答えた。
「でも、一番うれしかったのは……」
リーナは感極まったように振り返り、一人一人の顔に、感謝と喜びの視線をゆっくりと送った。
「皆さんが、オオカヅラを新しい目で見てくださったことです」
「最初は疑ってたんだ。でも、これなら安心して子どもにも食べさせられる」
「いろんな料理に使えるし、何より美味い。……港町の救世主だったのかもしれん」
カルロスが立ち上がる。
「皆さん、本当にありがとうございます。これで町の皆にも、自信を持って伝えられます」
「今日のこと、ちゃんと伝えるわ」
「ぜひ、お願いします」
リーナが深く頭を下げると、参加者たちも次々に立ち上がった。
「また教えてください」
「今度は家族を連れてきます」
アズールがリーナの肩に手を置いた。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
その声には、未来への確かな希望が込められていた。




