タタキと燻製の香り
朝の海風が、潮風庵の窓をカタカタと鳴らしていた。リーナは食堂の奥で、今日使う食材を一つずつ確認していく。
今朝早くに準備したオオカヅラの切り身が、清潔な布に包まれて静かに並んでいる。魚の身はルビーのような紅色に帯び、光に透けるその断面が宝石のように鮮やかだった。
今日の調味料は塩、醤、しょうが、にんにく。今日の目的は、オオカヅラそのものの旨味を活かすこと。香りや風味を加えはするが、決して隠したり、誤魔化したりはしない。調理の力で、『魔物』の印象を塗り替え、美味しさを届ける――それが、リーナに課せられた挑戦だった。
扉が軋む音と共に、ロドリックの声が届いた。
「リーナさん、準備の方はどうだ?」
顔を出した彼の声には緊張よりも、どこか楽しげな色が混じっている。リーナは手を止めることなく、窓の外へ視線をやった。中庭には、ディエゴが昨夜のうちに用意してくれた燻製用の木材が積まれている。建物の陰には、束ねられた藁も置かれていた。漁師たちが使っていた梱包用の麦わらを集めたものだ。土と陽の匂いが、どこか懐かしい。
「材料はそろいました。あとは……参加者が来てくださるかどうか、ですね」
リーナの声に、ロドリックが窓辺まで歩み寄った。
「カルロスとミゲルが声をかけて回ったそうだ。何人か連れてくるらしい」
その言葉に、リーナの胸に小さな希望が芽生えた。昨日の集会では拒絶された。でも――『美味しい』は、人の心を動かす力を持っている。そう信じていいはずだ。
ロドリックが袖をまくりあげる。その腕には、これから始まる仕事への静かな気迫が滲んでいた。
陽が高くなると、潮風庵の食堂に人が集まり始めた。カルロスとミゲルに連れられてやってきた人たちは、年齢も性格もばらばらで、それぞれに戸惑いや疑念の表情を浮かべている。
リーナが深く頭を下げると、彼らは言葉を返さぬまま、どこか所在なさげに視線をさまよわせた。
ディエゴが食堂の奥から出てきて、手際よく椅子と机を整えた。彼の大きな手が、木の椅子を軽々と並べ直していく。
「まぁ、座りなよ。遠慮すんなって。今日はな、特別なもんが見られるからよ」
その声に、何人かが顔を上げた。アズールとシモンも顔を見せ、マルク夫妻もコスタとデルマーを連れて現れる。彼らの和やかな声が、張り詰めた空気をほぐしていく。年配の漁師が、椅子の背もたれに手をかけたまま、窓の外をちらりと見やった。その視線の先には、中庭の調理台と、積まれた藁の束。
リーナは深呼吸を一つ置いて、庭へと歩き出した。ロドリックも彼女に並んで歩を進める。手には主役となるオオカヅラの切り身。潮風庵の庭に作られた調理場で、二人の料理実演が始まろうとしていた。
風除けの板に囲まれた場所で、藁の山がカサリと乾いた音を立てる。少し離れた場所には、ディエゴが火を入れた燻製用の木箱が煙を吐いている。
参加者たちは、窓越しに庭の様子を静かに見つめていた。誰一人として声を発さない。
リーナは厚く切ったオオカヅラの切り身を持ち上げた。高い位置から振られた塩が、身の表面で溶け出す。陽に照らされて、透明な粒がきらりと光った。
「表面だけを強く焼いて、中は生のまま――臭みを消しつつ、旨味を閉じ込めます」
その間にロドリックが藁の束を調理台に置き、慎重に火を点ける準備を整えていく。彼の手が火打ち石を打ち合わせた。
カチッ、と硬い音が響き、火花が藁に落ちる。ボッ、という音と共に、赤い火が生まれた。風がそれを煽った、次の瞬間――
ゴウッ!
風を孕んだ炎が、一気に二人の背丈ほどまで噴き上がった。窓際で、誰かが「おおっ」と息を呑む。頬が熱くなるほどの火力。燃え盛る藁特有の、鼻をくすぐる香ばしい煙が辺り一面に立ち込める。
「見事な炎だ」
ロドリックの声が、炎の音に紛れて聞こえた。リーナは串に刺した切り身を持ち、炎の中へ差し入れる。
ジュウウウッ――
一気に音が立ち、切り身の表面が焼けていく。彼女はくるりと串を回し、焦げ目が均一につくように動かしていく。炎を浴びた皮が縮れ、身の色がゆっくりと変わっていく。紅色が、琥珀色へ。そして焦げ茶色へ。
十分に炙ったところで、リーナは切り身を引き上げた。熱を帯びた皮からは、ジュウウと音を立てながら脂が滲み出し、香ばしい匂いが立ちのぼる。
彼女はすぐに調理台に戻り、素早く包丁を握った。まだ湯気を立てている身に刃先を入れ、迷うことなく切り分けていく。切るたびに、藁で焼かれた香りと、魚の身の甘い香りが広がった。断面から湯気が立ち上り、中はまだ紅色のまま、生の輝きを残している。
窓の向こうで、誰かが身を乗り出した。年配の漁師が、無意識に口元を拭う。その横で、若い男の喉仏がゴクリと上下した。
『魔物』への警戒心など、もう誰の目にも残っていない。ただ、目の前の『焼きたての馳走』を見つめている
「これが、タタキです」
参加者たちは固唾を呑んで見守った。見た目は美味しそうだ。だが、これが本当にあの気味の悪いオオカヅラなのだろうか。
「……匂いが、すげぇイイ」
腹の底から絞り出すような声だった。年配の漁師が、わずかに顎を引いた。その顔には、まだ少し疑念が残っている。
目を見交わす町民たちの表情が、少しずつ変わり始めていた。硬く結ばれていた口元が、わずかにゆるむ。腕を組んでいた者が腕をほどく。張りつめていた空気が、ほんの少しだけやわらいだ。
「続いて、なまり節を」
今度はロドリックが前に出た。大鍋の湯が静かに沸いている。彼とリーナが協力して、切り身をゆっくりと湯に沈めた。表面からじわりと白くなっていく様子に、見守る人々の視線が集まる。
若い男が、窓枠に両手をついた。その指先が、わずかに震えている。
湯の中で、魚の身が静かに色を変えていく。紅色が薄れ、やがて乳白色へと変わっていった。先ほどまでの強烈な香ばしさとは違う、穏やかで優しい潮の香りが漂い始めた。
こわばっていた男たちの肩から、ふっと力が抜けていく。
年配の漁師が、小さく呟いた。
「……普通の、魚じゃねぇか」
その一言に、リーナはふと視線を上げた。湯気越しに見えた彼らの顔に、初めて――偏見を手放したような表情が浮かんでいた。
しばらくして茹で上がった切り身を二人で取り上げ、布で水気を拭き取る。まだ少し柔らかい身を網の上に乗せて――今度は、燻製だ。
茹で上がった身を燻製箱へ移す。ディエゴが調整したチップが、静かに煙を吐き出し始めた。甘く、どこか懐かしい木の香りが、魚の身を包み込み、時間をかけて旨味を閉じ込めていく。
若い男が、我慢できないというように窓を少し開けた。隙間から流れ込んだ芳醇な煙が、食堂の空気を塗り替える。
「木の精霊たちが、魚に新しい魂を宿してくれているようだ」
ロドリックの美しい表現に、参加者たちが耳を傾けた。誰一人として笑う者はいない。ただ、その言葉を――そして目の前の光景を見続けていた。




