次なる一手
潮風庵の食堂に戻った一行は、重い空気を引きずったまま奥のテーブルに腰を下ろした。窓の外では夕陽が海を照らし、穏やかな波音が聞こえている。しかし、その平和な光景とは裏腹に、部屋の中には敗北感が漂っていた。
最初に動いたのはディエゴだった。椅子を引く音が静寂を破る。長年この町で生きてきた男は、落胆に沈む若者たちを見回し、低く言い放った。
「初回としちゃこんなもんだ」
その声は諦めではなく、現実を受け入れている年長者としての落ち着きがあった。ホセ町長の頑なな態度は予想通りだったが、何人かの漁師が身を乗り出して話を聞いていたことも彼は見逃していなかった。全てが無駄だったわけではない。
リーナは小さく息を吐いた。集会での緊張がまだ体に残っている。手のひらにはまだ、かすかな汗が滲んでいた。
ガレスが椅子の背に体重を預け、無言でテーブルの木目を指でなぞった。港の環境改善については、聞く耳を持つ者もいた。だが——
「魔物を食べる、か」
アズールが呟いたその一言に、皆が黙り込んだ。集会の空気が一変したあの瞬間を、誰もが思い出していた。長年の固定観念は言葉だけでは崩せない。それを今日の話し合いが証明してしまった。
カルロスは拳を膝に置いたまま、俯いていた。父の悲しげな背中が、まだ胸に重く残る。あの目——息子を見る目ではなく、裏切り者を見るかのような目だった。
「親父は……もう俺を見限ったんだろうな」
ぽつりと漏れた声に静寂が落ちる。カルロスは顔を上げ、悲しみが宿る瞳の奥に、強い意志の光を灯した。カルロスは顔を上げた。悲しみが宿る瞳の奥に、強い意志を宿す。膝の上の拳をぎゅっと握り、力を抜くように開いた。
「俺は自分の信じた道を進む。親父がなんて言おうとも」
父に背を向けた息子の覚悟が、言葉の一つ一つに込められている。
ミゲルがテーブルを叩いた。親友の揺るがない決意に、彼自身も勇気を取り戻したのだ。間違っていない——そう信じなければ、ここまで来た意味がない。でもこのままでは平行線だ。
「そうだな。言葉だけじゃ響かないのかもな。実際に見せるとかしか」
ふとジュードが言った言葉に、場の空気が少しだけ動いた。
「ライブキッチン、みたいな?」
リーナが口にした途端、ディエゴが眉をひそめ、ミゲルがカルロスと顔を見合わせた。ライブ? 聞き慣れない言葉の響きに、ディエゴが問い返す。
「えっと……調理の様子を、目の前で見てもらいながら、その場で食べてもらう、という意味です」
リーナが慌てて言い直すが、誰もがその『ライブ』なるものの意味が分からず首を傾げている。そこへジュードがポン、と手を叩いて笑った。
「なるほど! 調理場で実演するわけか」
カルロスの背筋が伸びた。ただ料理を出すのではなく、作る過程も見せる——それなら、オオカヅラがどう変わっていくのか、目で確かめてもらえる。
ディエゴが腕を組み、考え込むように視線を巡らせる。誰を呼ぶかが問題だ。集会で興味を示してくれた人たち——年配の漁師、魚屋、食堂の女性。シリルが一人ずつ思い出していく。
「あまり強く反対してなかった人たち。あの人たちなら、実際に食べてもらえるかもしれない!」
カルロスの力強い言葉に皆が笑顔になった。
場所は、潮風庵の食堂に決定した。集会場のような大げさな場所ではなく、もっと親しみやすい雰囲気で、調理の過程も見てもらえる。ディエゴの提案だった。実際に調理している様子を見せることで、安心してもらえるかもしれない。
潮風庵なら、リーナは緊張せずに料理に集中できる。肝心の料理についてもは、今までとは違う新しいアプローチが必要かもしれない。リーナの瞳が、遠い記憶の向こうを見つめた。
旅先の朝市、魚と潮の匂いが混ざり合う空気。ぼうっと青白い炎が一瞬で燃え上がり、皮が焦げる匂いと白い煙が立ち昇った。祖母の手を握りしめたまま、彼女は炎を見上げた。
『じっと見てなさいよ。ほんの一瞬だから』
祖母の声が耳に蘇る。藁の炎で炙られたカツオの——外は香ばしく、中は生の、あの鮮烈な味。火柱が立つほどの勢いで一気に炙られた魚の皮が、じゅっと焼ける音を立てる。あの一口の衝撃を、リーナは今でもはっきりと覚えている。
(あの強烈な藁の香り。熱で瞬時に閉じ込められたうま味と、中はひんやりとした生の赤身。あの鮮烈なコントラスト。あれをここで再現出来たら!)
「タタキ、という調理法があるんです」
リーナが口を開いた瞬間、ディエゴの視線が鋭くなった。オオカヅラの表面だけを、藁の炎でさっと炙って、中は生のまま食べる。皮目の臭みが抑えられて、香りも良くなる——その説明に、長年この海で魚を扱ってきた男の直感が反応している。
「表面を焼くと、生臭さが抑えられるのか?」
皮のあたりに強い臭みがあるため、そこだけを熱で変化させる。中の部分には火を通さず、うま味をそのまま活かすことが出来るのだ。
その言葉にアデラインが目を大きく開け、息をのむようにリーナを見た。「まったく、あんたって子は」と言いたげな驚きが浮かんでいる。
「それなら、生魚が苦手な人でも食べやすいかもしれないわ」
さらに、リーナは別の調理法も口にした。なまり節という一度茹でてから軽く燻製にしたものだ。身はしっとりとして、燻製の香りが魚の臭みを抑えることが出来る。
「燻製か!」
カルロスの声が思わず大きくなった。両手がテーブルを掴み、身を乗り出す勢いに椅子が軋む。
なまり節はそのまま食べても美味しいし、煮物や和え物にも使える。さらに乾燥させれば荒節というものになり、削って出汁にも使える。保存も可能になる。リーナの説明が続くにつれて、場の空気が変わっていく。
アズールがウミクサとの違いが分からず首をかしげた。
「魚から取る出汁です。ウミクサとはまた違った、力強いうま味が出て最高なんです!」
リーナは目を細め、うっとりと両手を胸の前で組む。リーナの恍惚とした表情に、周囲も思わず苦笑した。単なる食べ物としてだけでなく、調味料や保存食としての実用性もあるなんて。漁師にとって、それは大きな魅力だった。香りが変わると、食べ物の印象もガラッと変わる。
「実際にやってみよう。私にも是非手伝わせてほしい。新しい味、調理法に出会えるチャンスを見過ごしたくない」
ロドリックはテーブルの上で両手を組み、指先に力を込めた。目の奥に、抑えきれない好奇心が光っている。
カルロスが立ち上がり、ミゲルと視線を交わした。二人は集会で見かけた、あの年配の漁師の顔を思い出していた。説得可能そうな人々に、個別に声をかける役割を二人は引き受けた。
「木屑は俺が何とかするぞ」
ディエゴが椅子を引く音が響いた。
陽が西に傾き、食堂の雰囲気も少しずつ落ち着いてきた。リーナは窓の外の海を眺めながら、明日のことだけを考えていた。タタキもなまり節も、美味しく作れる自信はある。問題は、町の人たちがどこまで心を開いてくれるかだ。
よそ者である自分が、この町の伝統や価値観に挑戦しようとしている重みを感じる。しかし、カルロスたちの真剣な思いを見ていると、自分にできることはすべてやり遂げたいという気持ちが強くなる。
ジュードがリーナの横に立ち、一緒に海を見つめた。無言だが、その存在が心強かった。




