港を守るために
朝日がペスカードの石畳を照らす頃、カルロスとミゲルはすでに町中を駆け回っていた。年配の漁師たちの家を一軒ずつ回りながら、午後の集会への参加を呼びかけていく。昨日リーナたちと練った作戦通り、「港を守る」という名目で町の関心を集めようというわけだ。
潮風庵の食堂では、リーナたちが緊張を抱えながら朝食を囲んでいた。
「うまくいくといいんだけどな……」
「カルロスさんたちを信じましょう」
リーナの声は落ち着いているが、カップを持つ手が震えている。よそ者である自分が町の人たちに受け入れられるのか、不安が胸の奥で渦巻いていた。町長が来てくれるかどうか、という声が上がったその時、扉が勢いよく開いた。
「おい、みんな!」
ディエゴが息を切らせて飛び込んでくる。ホセ町長が許可してくれたと告げ、午後から集会場が使えるという。保守的で有名な町長が、よく許可したものだ。ディエゴは「港を守る」という言い方が効いたのだろうと苦笑したが、話を受け入れてくれるかは別だと、すぐに表情を引き締めた。
午後。ペスカードの中央にある石造りの集会場には、二十人ほどの町人たちが集まりつつあった。漁師が大半を占めているが、市場の店主や年配の女性の姿もちらほら見える。年配の男性が多く、カルロスたち若い人は明らかに少数派だ。
「忙しい中すまないな」その白髭を蓄えた顔が、ゆっくりとカルロスへ向けられる。ホセは腕を組み、壇上からその場を見渡した。
「今日は、我らの港をどう守るかについて、カルロスから話があるとのことだ。この港は我々の宝だ。慎重に、そして真剣に考えねばならん」
ホセの声が会場に響く。その一言に、厳しい視線が一斉にカルロスへと向けられた。
カルロスは町長に礼を述べると、港に異変が起きていることを切り出した。オオカヅラの大量発生と、それに伴う悪臭の問題だ。だが年配の漁師の一人が、昔からあることだと一蹴する。海に捨てておけば、そのうち潮が持っていくからだ。
「でも、匂いはどんどんひどくなってるし、漁場もさらに遠くなってきてる!」
カルロスの訴えに対し、若造が何を言うという声が飛ぶ。立ち上がったのは、カルロスによく似た顔立ちの男だった。以前、ジュードたちと話をした彼の父親だ。
「カルロス……」
父親は一度言葉を切り、苦々しげに顔を歪めた。
「お前は最近、妙な考えに染まりおって。よりにもよって魔物を食べるだと? 馬鹿げてる! 我が息子がこんな愚かなことを言うとは、恥を知れ! 昔から利口だったお前が、なぜこんな間違いを。くだらんことを言ってる暇があったら、真面目に漁に出ろ!」
会場がざわつき始める。リーナの膝の上で組んだ指先が白くなっていた。
反対の声があちこちから上がる。伝統的なやり方で今までやってこれた、若い奴らは甘い、昔の港に戻したいなんて夢物語だ、危険があることを町でやるべきじゃない——重苦しい空気が会場を覆う。
そのざわめきを切るように、ディエゴが穏やかな声で割って入った。
「みんな、俺が漁師だったことは知ってるな。昔はこんなじゃなかった。オオカヅラの大量発生も、港の異臭も、あんなに酷くなかったはずだ」
ホセが、ディエゴの名を低く呟いた。その視線はディエゴに向けられたまま、微動だにしない。お前まで若い連中に感化されたのかと問い、町の安定を第一に考えるべきだと諭す。
「町長、俺はただ港の未来を案じてるんですよ。今のままだと、本当に漁業が続けられなくなる」
すると、控えめに手を挙げた年配の漁師が口を開いた。確かに、匂いはひどい。孫が「港は臭いからヤダ!」と言っていると打ち明ける。それを皮切りに、集まった人たちの声が続いた。
嫁が洗濯物に臭いがつくと嘆いている。商売にも響いている。客が臭いがきついと言って来なくなった。食堂も観光客が港を避けて、別の店に流れている——生活に根差した切実な声が、次々と上がっていく。だからといって魔物を食べることは出来ない。会場が騒然とし始めたその時、アズールが立ち上がった。
「私も漁師です。そして、子を持つ母でもあります」
ざわつく場内に、凛とした声が響いた。
「毎日船を出して海と向き合っているからこそ、このままじゃいけないって、肌で感じています。きれいで安全な港を子どもたちに残したい。それは皆さんも同じじゃないんですか?」
一瞬の静寂。そして鋭い怒声が飛んだ。女が口を出すなんて何事かと。
でもアズールは一歩も引かない。彼女は、その声の主である年配の漁師をまっすぐに見据えた。
「それでも! 私は子供たちのために諦めることは出来ない!」
アズールの言っていることも一理ある、環境のことは無視できない。新しい食材になるなら商売の幅も広がる、捨てるしかなかったものが売り物になるなら試してみてもいいんじゃないか——徐々に会場の空気が変わり始める。完全に反対する者、興味を示す者、迷っている者。それぞれの立場が見えてきた。
リーナが立ち上がる。心臓が早鐘のように打っている。それでも一歩、前に出た。
「あ、あの、すみません」
声が震えた。リーナは一度息を吸い込み、もう一度口を開く。
「私はただ、オオカヅラの調理法を知っているだけです。皆さんにとってこの町はとても大切なんですよね。私の知識が、少しでも役に立つなら」
「よそ者が口を出すな!」
集会場の隅、最も年嵩な漁師の一団からリーナの言葉を遮る鋭い怒声が飛んだ。彼女はビクッと肩を震わせ、喉が詰まって次の言葉が出ない。視線が下がり、足が竦む。
だが、カルロスが割って入るように立ち上がった。
「リーナさんになんてことを! 彼女は本当に美味しい料理を作ってくれたんだ! 未来を見せてくれたんだ!」
その声に、リーナはゆっくりと伏せていた顔を上げた。カルロスが、自分を庇って立っている。
ホセが、ゆっくりと壇上で手を上げた。それだけで、あれほど騒がしかった会場が、水を打ったように静まり返る。
「魔物を食べるなど、論外だ」
静かだが、有無を言わせぬ一言だった。
「我々には、我々のやり方がある。急激な変化は町に混乱をもたらす」
カルロスが新しい方法を試すだけでも、と食い下がる。だが、ホセは首を横に振った。伝統を守ることが港を守ることだと言い切り、この町を預かる身として、危険は冒せない。
「でも、変化を恐れていたら、港に未来はない!」
カルロスが立ち上がり、会場を見回した。
「この港を、この町を守るのが、俺たちの役目じゃないんですか!」
「カルロス! もういい加減にしろ!」
今度は、父親の怒声だった。その拳が、やり場のない怒りなのか、息子への情か、わなわなと震えている。
会場は完全に二分されていた。強く反対する年配の漁師たちと、それに食い下がる若者たち。間に立つ者たちは、困惑したまま双方を見つめていた。
ホセが、再び手を上げた。
「今日はこの辺りで終わりにしよう。それぞれ、もう一度よく考えてみてくれ。この町の未来のために」
カルロスが食い下がろうとするが、町長は「決定だ」と言い切った。改めて日を設けることを約束する。
ざわつきが尾を引く中、人々は少しずつ席を立ち始めた。言い争いの熱を引きずったまま、集会場の空気は冷めきらない。
父親は息子に目をやることもなく、黙って背を向けていく。
カルロスは拳を握りしめたまま、唇を噛んでいた。背中を向けた父の姿が、目に焼きついて離れない。その肩に、ミゲルが手を置く。カルロスは短く息を吐き、自らの言葉の足りなさを悔いるように、固く目を閉じた。
「最初はこんなもんだろ。簡単には変わらねえ」
ディエゴが苦い笑いを浮かべ、出口の方へと視線を向ける。
「目を逸らさず聞いてた連中もいるじゃねえか」
出ていく漁師たちの中に、数人立ち止まりこちらを振り返る人たちがいた。




