町を変える一皿
潮風庵で迎えた最初の朝は、海鳥の鳴き声と波の音に包まれていた。窓から見える海は朝日を受け、波の表面が無数の光を跳ね返している。
階下からディエゴの声が響き、リーナは慌ただしく身支度を整えた。
食堂へ降りると、ディエゴとシモンが朝食の支度をしている最中だった。二人の手際の良い動きに、ジュードが感心したように目を細めている。
「おはようさん! よく眠れたか?」
ディエゴが振り返り、笑顔を向ける。
「はい。海の音が心地よくて」
「それは良かった。実はな、今日は特別なお客さんを呼んでるんだ」
ジュードが「客?」と首をかしげた、その時だった。
バタン!と、食堂の扉が勢いよく開け放たれる。
「おはよう、ディエゴ!」
元気な声とともに、背格好のよく似た若者たちが二人、飛び込んできた。ディエゴは手を振りながら、嬉しそうに出迎える。
「カルロス! ミゲル! 来てくれてありがとな!」
笑顔を浮かべたまま、ディエゴはすぐにリーナの方へと目を向けた。
「この子が、昨日話したオオカヅラ料理の専門家のリーナさんだ!」
「カルロスです! 二十五歳、独身です! よろしく!」
勢いよく名乗るが早いか、カルロスはテーブル越しに身を乗り出し、リーナの目の前まで顔を寄せてくる。その距離の近さに、リーナは思わず身をすくませた。
「ちょ、お前! 独身とかどうでもいいだろ! ってか、リーナさん困ってるじゃん! 近い、近いって!」
ミゲルが慌てて肩を掴んで引き戻す。だがカルロスは悪びれもせず、にやにやと笑いながら言葉を続けた。こんな超タイプな子は滅多にいない、顔を覚えてもらわなきゃ損だと、臆面もなく口にする。あまりに無邪気な勢いに、リーナは一瞬戸惑いながらも、毒気を抜かれたように小さく吹き出してしまう。
「へ? あ、ありがとうございます……かな? っていうか、私、専門家なんですか? オオカヅラ料理の?」
その場に漂っていた軽い空気が、ふっと引き締まる。カルロスは、それまでの笑顔を消し、リーナをまっすぐに見つめた。
「ディエゴから聞いたんだ。本当に、魔物が美味しく食べられるようになるのか?」
隣でミゲルも神妙な顔つきになる。彼らの目には、もう冗談の色はなく、生活のかかった真剣な光だけが宿っていた。リーナは二人の視線を受け止め、ゆっくりと口を開く。
「もちろんです」
その声には、迷いがなかった。
「よし! ものは試しだ。厨房で実演してみせてくれ!」
ディエゴの言葉に、リーナは思わず戸惑いの声を上げた。
「え、でも、厨房を……?」
(他人の厨房。料理人にとって、そこは城だ。初対面の流れ者が、土足で踏み込んでいい場所じゃない)
リーナがためらうのをよそに、ディエゴは「シモン!」とあっさりと声をかけた。
「ああ、ばっちりだ。アズールが港でオオカヅラを分けてくれたぞ」
二人とも、それが当然だと言わんばかりの様子だった。
美味しく食べられるとは聞いているものの、カルロスとミゲルの表情にはまだわずかな不安が残っている。
「心配しなくて大丈夫だぞ。昨日食べたけど、それはもう美味しかったからな!」
ジュードが、何の屈託もなくニカッと笑う。その裏表のない笑顔に、あれほど強張っていたカルロスとミゲルの肩から、ふっと力が抜けた。
「……騎士サマが、そこまで言うなら」
「ああ。信じてみるか」
二人は顔を見合わせると、それ以上は何も言わず、ただゴクリと喉を鳴らした。その真剣な視線は、ジュードから、今まさに厨房に立とうとするリーナへと、改めて注がれた。
厨房には、銀青色の大きなオオカヅラが並んでいた。その体が光を反射し、まるで宝石のように美しい。
「こいつは、でかいな……」
「もし食べられるなら、これを捨ててたなんて、もったいない」
カルロスが息を呑み、ため息まじりにそう付け加えた。その言葉を背に受けながら、リーナはゆっくりと歩を進め、目を細めてオオカヅラをじっと見つめる。すると、視界の中に文字が浮かび上がる。
『オオカヅラ』
『品質:上級』
『分類:海洋系魔物(寄生虫耐性あり)』
『特性:赤身の引き締まった魚肉、血合いが強い』
『用途:生食(新鮮なもののみ)、煮付け、焼き魚、揚げ物、燻製に適する』
「毒や危険性は一切ないです」
リーナの言葉に、二人が同時に、張り詰めていた息を吐き出した。カルロスは「……そっか」と、乾いた笑みを浮かべる。
リーナは包丁を手に取った。一度その構造を理解した今、彼女の刃は、一切の迷いなくオオカヅラの身を分けていく。その淀みのない動きに、カルロスとミゲルが息を呑んだ。
包丁が血合いに触れる。リーナは一瞬だけ手を止め、丁寧に、でも躊躇なくそれを削ぎ落としていった。ミゲルが「そこも取るのか」と言わんばかりに目を見開き、身を乗り出す。
取り除かれた血合いの下から現れたのは、まるでルビーのような、鮮やかな赤色の身。 カルロスは、まるで引き寄せられるように視線を魚の切り身に注いだ。
「……これは、たまらないな」
「これだけ綺麗な色ですから、味も絶対に美味しいですよ!」
リーナはきっぱりと言い切った。その横顔には、自信と誇りがにじんでいる。そして、流れるような手つきで、身を丁寧に刺身用とステーキ用に切り分けていった。
ステーキ用の切り身を、リーナはこともなげに牛乳の入ったボウルに浸した。
「「はあ!?」」
カルロスとミゲルの素っ頓狂な声が重なる。
「おい、牛乳だぞ!?」
「魚を牛乳に!?」
二人が「正気か」と言わんばかりの視線を送るが、リーナは意にも介さず、淡々と作業を続けた。
「臭み取りです。少しの間、浸けておきましょう」
「へ、へえ、そんな方法があるのか」
ミゲルはわずかに顎を引き、まじまじとそのボウルを見つめた。
牛乳から取り出した切り身の水分を丁寧に拭き取り、塩を振る。リーナはフライパンを熱し、油を引くと薄切りのニンニクを入れた。ジューッという音が鋭く弾け、立ち上る香ばしい香りにカルロスとミゲルが息を呑む。
「いい匂いだな……!」
ニンニクが色づいたところで一度取り出し、オオカヅラの切り身をフライパンに滑り込ませる。両面に美しい焼き色がついたところで、白ワインを注ぎ入れる。ジュワッという音と共に甘やかな香りが弾けた。
白ワインが煮詰まったところで、リーナは、肉を取り出したばかりのフライパンに、直接、醤を注ぎ入れた。
「おい、フライパン洗わねえのか!?」
ミゲルの慌てた声に、リーナはフライパンを揺すりながら、口の端を上げた。
「これが、一番美味しいソースになるんですよ」
取り出しておいたニンニクを戻し入れると、香ばしさはさらに濃密なものへと変わった。ミゲルは、ごくりと喉を鳴らして、その光景を見つめるしかなかった。
「とんでもねえな……ここが高級料理店だって言われても信じるぞ」
蓋をして蒸し焼きにしている間に、リーナはトマトとズッキーニを軽く焼き、付け合わせにする。
「完成です!」




