海辺の新天地
オオカヅラ料理の試食も終わり、マルクたちが感激して帰った後、リーナたちはアズールの家で今後の予定を話し合っていた。
明日からは本格的に若い漁師たちに声をかけていかなくてはいけない。カルロスたちなら生活がかかっているから真剣に聞いてくれるはずだ。空気がひと息ついた頃、ジュードが思い出したように眉を寄せ、視線を泳がせる。
「……思い出した。その前に宿探し、だな。海鳥亭は、もう……」
ジュードのその一言で、アズールの家に満ちていた熱気が、すっと冷めた。リーナも、心の奥にしまい込んでいた現実を突きつけられた。そうだ。私たちは、あの場所を出たんだった。重苦しい沈黙が落ちる。
「それでしたら、私が働いている潮風庵はどうですか?」
シモンが、思いついたように顔を上げる。
友人のディエゴが経営している小さな宿屋兼食堂で、海鳥亭ほど立派ではないが、皆を歓迎してくれる。海もすぐそばだし、漁師たちもよく食事に来るから、話をするにはうってつけの場所という話だった。
漁師たちが集まる場所なら、オオカヅラの調理法を広めるにはちょうどいい。
ただし、とシモンが申し訳なさそうに付け加えた。海鳥亭と比べると設備は劣るし、何より海が近すぎて、風向きによっては廃棄されたオオカヅラの匂いが流れてくる。
「魚の香りこそ、海辺の証ってやつだな、それもまた味わい深いものだ」
ロドリックは年長の者としてそう言ったが、その隣でシリルはわずかに眉根を寄せた。彼は無言のままハンカチを取り出し口元を覆う。その行動に、シモンが「やはり、まずかったか」と表情を曇らせる。ハンカチ越しにくぐもった声で、彼は淡々と述べる。
「……いえ。問題の発生源に近い。それは、我々が取り組むべき『現場』が近いということに他なりません。好都合、とまでは言いませんが、合理的です」
アズールがディエゴに話を通しておくと言い、急いで家から出て行った。
***
リーナたちは潮風庵へと向かった。アズールの案内で石畳の路地を進んでいくと、潮の匂いが次第に濃くなる。その中に混じって、かすかに魚の腐敗臭も漂ってきた。アデラインが顔をしかめ、鼻を押さえる。アズールは住み慣れていると気にならないのだが、今年は特にひどいのだと苦笑した。オオカヅラが大量に獲れてしまうからだ。
やがて、海沿いに建つ二階建ての建物が見えてきた。白い壁に木の枠が映える素朴な佇まいで、窓際の看板には「潮風庵」と書かれていた。
「ディエゴー!」
アズールが大きな声で呼びかけると、中からがっしりとした体格の男性が現れた。日に焼けた顔には人懐っこい笑みが浮かび、左手首には古い傷跡が覗いている。
アズールが事情を説明すると、ディエゴは一瞬きょとんと目を丸くしたが、次の瞬間、腹の底から声を上げた。
「ガハハ! なんだ、そんなことか! アズール、お前、もっと大事かと思って損したぜ! 任せとけ!」
日に焼けた頬が、深い笑いジワでくしゃくしゃに潰れる。言い切った声が木の枠に反響し、窓辺のガラスがわずかに鳴った。
リーナは、思わず吹き出してしまう。その笑いに、さっきまで鼻を押さえていたアデラインが、指先をそっと離した。ジュードも、固く結んでいた口元をほどき、正面からディエゴを見る。
「七人全員で一度に座れる席があるか」と尋ねると、ディエゴは奥を親指で示した。
「心配いらねえ。でかいテーブルが一つある。団体もたまに来るしな! よーし、部屋を整えて、つまみも多めに用意しとくぜ!」
***
潮風庵に泊まることが決まり、一行は一度海鳥亭へ戻り、荷物をまとめることにした。
リーナたちが食堂で挨拶すると、ブルーノはややこわばった表情で頭を下げた。アンリはカウンターの奥からちらちらとこちらを見ていたが、結局何も言わなかった。今朝のやりとりの影響か、あからさまな敵意は感じられなかったが、態度が和らいだとも言い切れない。リーナは短く一礼し、その場を後にした。
潮風庵に戻るころには、空がゆっくりと茜色に染まり始めていた。石畳に影が長く伸びる中、リーナたちはそれぞれ荷物を運び入れる。リーナは部屋に荷物を置き終えると、静かに息を吐いた。海鳥亭よりも狭く、古びた木の床はきしんでいたが、不思議と落ち着く空気があった。窓の向こうには、夕日を受けてきらめく海が広がっている。リーナは、ようやく足場を得たのだと感じていた。




