オオカヅラの真実
海鳥亭を出た一行は、石造りの街並みを縫うようにアズールの家を目指していた。昨日マルクから教わった道順を頼りに、入り組んだ路地を進んでいく。
「それにしても、迷路みたいな町だな」
ガレスが物珍しそうに周囲を見回す。
「港町というのは、どこもこんな感じなのか?」
「海からの風を遮るためじゃないかしら」
アデラインが入り組んだ路地に向けた視線を、隙間なく寄り添う家々の石壁へと移す。
「これだけ密接に建てていれば、強い海風や潮を防ぐ防壁になるんじゃない? 合理的な造りだわ」
「なるほど、理にかなってるな」
ロドリックが、建物の石組みの堅牢さを見定めるように頷く。リーナは昨日歩いた道を思い出しながら案内していたが、やはり少し不安になってきた。
「あれ? この角だったっけ?」
「昨日一人で来た時も迷ったっぽいな」
ジュードが、その困り顔をからかうように覗き込む。リーナは指先で頬をかき、視線を彷徨わせた。
「あはは」リーナは乾いた笑いを漏らす。
「どうだったかな。ちょっとあっちを見てみますね」
そう言いかけたところへ、向こうから見覚えのある赤い髪の女性が歩いてきた。
「あ、リーナ!」
アズールが片手を大きく振る。袖口を乱暴にまくった薄手の上衣、腰に巻いた細いロープ、ぶら下がる小さな鉤。陽の光を受けた笑顔が眩しい。
「アズールさん、おはようございます」
「おはよ! また道に迷ったんでしょ?」
リーナは気まずそうに目を伏せ、小さな声で認めた。
「はい、少しだけ」
「気にしないで。慣れない人はみんな迷うんだから」
アズールは騎士たちを見まわして、にこりと笑った。
「この方たちが、昨日話してた騎士団のみんな?」
「はい。こちらがジュードさん、ロドリックさん、ガレスさん、アデラインさん、シリルさん、ルークさんです」
リーナが一人ずつ紹介するとアズールは「よろしくね」と笑い、手首だけで軽く振った。
「こちらこそ。相談があるとうかがいましたが」
ジュードが本題を切り出すと、アズールの表情がわずかに引き締まった。
「うん」アズールは一度言葉を切り、路地の石畳に視線を落とした。
「それなんだけどさ。ここで話すのはちょっとね。シモンにもちゃんと聞いてもらいたいから」
「シモンさんは今日はお休みなんですか?」
リーナが尋ねるとアズールは視線を正面に据え、ゆっくり顎を下げた。
「相談があるって言ったら、潮風庵の店主も『大事な話なら』って快く休ませてくれたのよ」
一行はアズールに案内されて、昨日リーナが訪れた石造りの家へ向かった。
***
「ただいま」
アズールが扉を開けると、中から穏やかな男性の声が聞こえてきた。
「おかえり、アズール。その方たちか?」
奥から現れたのは、短く刈り込んだ茶髪に日焼けした健康的な肌、細身で穏やかな雰囲気を持った男性だった。優しげな茶色の瞳が、リーナたちをまっすぐ見つめる。
「シモン、昨日話した騎士団の方々よ」
「あぁ、そうでしたか。来てくださって、ありがとうございます」
シモンが丁寧に頭を下げる。妻のアズールに向ける視線が特に優しく、夫婦の仲の良さが伝わってくる。
「リーナと申します。昨日はアズールさんにお世話になりました」
「シモンです。アズールの夫で、マルクの息子になります。普段は潮風庵という宿で料理人をしています」
自己紹介を済ませると、アズールが居間へ案内してくれた。
「コスタとデルマーは今、父さんと母さんのところに行ってるよ。朝から『おじいちゃんと遊ぶ』って張り切っててね」
「三歳と一歳でしたっけ? 元気盛りで大変でしょう」
アデラインが楽しそうに声をかけると、シモンが苦笑した。
「特にコスタは走り回るのが大好きで。アズールが帰ってくると『お母さん!』って飛びついてくるんですよ」
「まあ、可愛いじゃない!」
アデラインが身を乗り出す。彼女の紫の瞳が、まだ見ぬ子供たちの姿を思い浮かべて楽しげに細められた。アズールは肩をすくめて笑った。
「可愛いけど、体力持ってかれるのよ、あの子たちには」
家族の話をしている時のアズールの表情は、漁師としての凛々しさとはまた違う、優しい母親の顔だった。
「で、相談ってのは?」
ガレスが単刀直入に切り出す。それまで和やかだった居間の空気が張り詰め、アズールとシモンの間から笑顔が消えた。
「オオカヅラのことなの」
アズールの声から楽しげな響きが消えた。今年は異常だという。網を入れても普通の魚が獲れず、オオカヅラばかりが引っかかる。何百という群れで押し寄せ、時には網を破っていく魔物。
リーナは昨日の調査で騎士団からも名前を聞いていたが、深刻さは想像以上だった。
アズールの声が、徐々に怒気と焦りを帯びていく。
「魔物だからって、捨てることしか出来なくて港は臭くなる。あれのせいで生活の糧になる魚は獲れない! このままじゃ!」
握りしめられたアズールの拳が、かすかに震えていた。
「それは、食べられないものなのですか?」
リーナが尋ねると、シモンは重い口調で答えた。
「魔物を食べる、という発想が我々にはないのです。魔物は危険なもの、ただ倒すべきもの、というのがここの常識でして」
アズールが腕を組んで、重い溜息をついた。
「このまま放っといたら港町が潰れちゃうからさ、若い連中で試してみたのよ」
「アズール」
シモンが心配そうに声をかけたが、アズールは手をひらりと振った。
「もう、シモンは心配性なんだから! やらなきゃどうしようもないでしょ」
「で、食べてみた結果は?」
ガレスが前のめりに聞いた。アズールは心の底から悔しそうに顔を歪めた。
「不味かったのよ! 硬いし臭いし、泣きたくなったわ」
「調理法の問題かもしれませんね」
リーナの静かな声に、うつむいていたアズールがはっと顔を上げた。
「調理法?」アズールは、その言葉の意味を掴みかねるように、リーナの顔をまじまじと見つめ返した。
「はい。差し支えなければ、実物を見せていただけますか? その、オオカヅラを」
「もちろん。今朝獲れたのがあるの」
アズールが立ち上がり、家の裏手へ案内する。そこには大きな木桶があり、海水の中で銀青色に光る魚が数匹、窮屈そうに泳いでいた。
リーナは桶の中の魚から目が離せなくなった。
細長い流線型の体。太陽の光を反射する、青みがかった銀色の背中。七十センチは優に超えていそうな立派な魚だ。
(カツオだ!)
間違いない。前世で慣れ親しみ、惣菜屋の厨房でどれほどお世話になったか分からない、あの魚だ。リーナの手のひらに汗が滲む。
(炙り、刺身、タタキ……いや、それだけじゃないわ。燻製にして、乾かして、カツオ節が作れたら?)
興奮で高鳴る鼓動を抑え、リーナは息をのんだ。これは、とんでもない宝物だ。
「なんて、美しい魚」
リーナは、オオカヅラから目を離すことなく吐息のような声で呟いた。
「美しい? これが? 魔物なのに?」
アズールは戸惑ったように眉を寄せた。
「魔物だからといって、必ずしも食べられないわけではありません。鑑定してみますね」
リーナが目を凝らすと、文字が浮かび上がった。
『オオカヅラ』
『品質:上級』
『分類:海洋系魔物(寄生虫耐性あり)』
『特性:赤身の引き締まった魚肉、血合いが強い』
『用途:生食(新鮮なもののみ)、煮付け、焼き魚、揚げ物、燻製に適する』
リーナの表情が、確信と共に明るくなった。
「やっぱり! これは、すごい食材ですよ!」
「え?」
アズールとシモンが同時に声を上げた。
「上級品質の食材です。寄生虫の心配もほとんどない。新鮮なら生でも食べられます。なんて素晴らしいの!」
「生で? 魔物を?」
ジュードもウソだろ?と言わんばかりの声を上げる。
「はい。ただし、血合いが強いのできちんと処理しないと臭みが出ます。たぶん、アズールさんたちが食べた時に感じた臭みは、血合いをそのままにしていたからだと思います」
「血合い?」
「赤黒い部分です。ここに独特の匂いがあるんですよ。鮮度が良ければ細かく刻んで薬味や調味料と混ぜると美味しく食べることが出来ます。ただ、鮮度が落ちたら生では絶対におすすめしません!」
「ほぉ!」
ガレスが目を丸くする。
「せっかく立派な魚なんだもの。捨てるなんてもったいないです」
リーナは、まるで宝物を見るような目で桶の中の魚を見つめた。
「表面を炙るのもいいですし、刺身も絶対美味しいです。燻製にすれば保存も……」
そこで、リーナの言葉が熱を帯びる。
「いえ、燻製にして、さらに乾かして固めれば! 削って出汁を取る材料になります」
そこまで口にした瞬間、リーナは自分の立っている世界の料理が根底から変わるかもしれない、という途方もない可能性に、背筋が粟立つのを感じた。
「も、もちろん、煮物や揚げ物にしても美味しいと思います」
「削る?」
シモンが首をかしげた。
「はい。風味が強くなって、いろいろな料理の味をぐっと奥深くしてくれるはずです」
アズールはゆっくり息を吐いた。
「本当に町を救えるかもしれないってことだね」
「まずは少しずつ試してみましょう」
リーナが穏やかに微笑むと、アズールが手を叩いた。
「よっし! 決まり! リーナ、手伝わせて! このまま町がダメになるのは絶対イヤだからね!」
「私も興味あるわ!」
アデラインが「面白そう!」と身を乗り出した。ガレスも「上等だ」とばかりに口の端を吊り上げる。
港町を悩ませてきた問題に、ようやく希望の光が見え始めた瞬間だった。




