若さゆえの過ち
翌朝、リーナは早めに起きて身支度を整えた。今日はアズールの相談を聞く大切な日だ。みんなも同じ気持ちなのか、いつもより早く一階の食堂に集まっている。
「おはよう、リーナ」
「おはよう、ジュード」
階段を降りると、騎士たちはすでに朝食を済ませていた。だが、食堂の空気がいつもと違う。張り詰めたような、どこか居心地の悪い雰囲気が漂っていた。
アンリが配膳をする手つきは荒く、皿を置く音がやけに大きい。ジュードに対してさえ、昨日までの甘い態度はすっかり影を潜め、むしろ険しい目を向けている。明らかに機嫌が悪かった。
「朝食をお持ちします」
冷たい声だった。リーナの前にパンとスープが置かれたが、その動作は必要最低限で、愛想のかけらもない。まるでリーナが何か悪いことをしたかのような態度だ。
「ありがとうございます」
リーナは普段通りに礼を言ったが、アンリは振り返りもしなかった。背中に拒絶の意思がありありと見て取れる。
「なんだか、雲行きが怪しいな」
ガレスが小声で呟き、ロドリックも眉をひそめてアンリを見やった。騎士たちも、この異様な空気に気づいていた。
朝食を終え、アズールの家へ向かおうと一行が席を立った――その時だった。
「ちょっと待ってください!」
店の出口を塞ぐように、アンリがリーナの前に立ちはだかった。
「アンリさん?」
振り返ると、アンリの目には涙が浮かんでいた。しかしそれは悲しみの涙ではなく、怒りの色を帯びている。感情を抑えきれないといった様子で、全身から怒気が立ち上っていた。
「あなたのせいです!」
「え?」
「あなたのせいよ! あなたが昨日、父さんに変なこと言ったんでしょう!」
アンリはわっと泣き出した。
「『迷惑だ』って……『特別扱いするな』って……! ひどい、私、ジュードさんのために親切にしてただけなのに!」
声はどんどん大きくなり、食堂にいた他の客たちも心配そうにこちらを見ていた。朝の静かな空気が、一気に緊張感に包まれる。
「アンリさん、落ち着いて」
リーナは穏やかな声で言ったが、アンリは聞く耳を持たない。感情が先走り、もう周りが見えていなかった。
「私は何も悪いことしてないわ! お客さんを大事にしてただけじゃない! それなのに、あなたが私に嫉妬して、父さんに大げさに言ったんでしょう?」
「私は言ってません」
否定はしたが、声を荒げることもなく、ただ静かに事実を述べる。
「嘘よ! あんたさえいなければ!」
アンリが甲高い声を上げ、リーナの肩に掴みかかろうとした瞬間、ジュードがその間に割って入った。
「やめろ。リーナは全く関係ないだろ」
「ジュードさん! 私は何も悪くないのに、この人が――」
「本気でそう思ってんのか?」
珍しく鋭い厳しさが混じった声に、アンリの動きが止まる。ジュードの表情は真剣で、いつもの柔らかさは微塵もなかった。
「お前、自分が他の客にどんな態度取ってたか分かってるか?」
アンリは言葉に詰まりかけたが、すぐに反論を試みた。認めたくないのだろう。自分は間違っていない、そう信じたかった。
「でも、ジュードさんにだけは特別に優しくしたかっただけで――」
「それが問題なのよ」
アデラインが口を開く。その声には、呆れと諭すような響きがあった。
「あなた、ジュード以外のお客さんが何か頼んでも、ずっとジュードばっかり見てたでしょ? ロドリックがパンを頼んだ時の冷たい顔、覚えてる?」
アンリの顔が赤くなった。図星を突かれたのだろう。反論しようとしたが、言葉が出てこない。自分でも、うっすらと気づいていたのかもしれなかった。
「でも、それは……私、ただ……」
消え入りそうな声で呟くアンリに、リーナが優しく呼びかける。
「アンリさん」
顔を上げると、リーナは穏やかな笑みを浮かべていた。怒ってもいなければ、責めるような目でもない。ただ、真っ直ぐにアンリを見つめている。
「宿屋って、誰にとっても安心できる場所でなくちゃいけないと思うんです」
リーナの言葉に、アンリの動きが止まる。
「私、前……に同じ失敗をしたことがあるんです」
アンリはじっとリーナを見つめた。非難されると思っていたのに、予想外の言葉に戸惑いを隠せない。
「常連さんが来ると嬉しくて、つい話し込んじゃって。他のお客様を待たせたり、素っ気ない対応になっちゃったりして……そしたらある日、その常連さんに『他のお客さんにも、ちゃんとしてあげなよ』って言われて」
リーナは小さく息を吐いた。あの時の恥ずかしさは、今でも鮮明に思い出せる。前世の総菜屋で、自分では特別扱いしているつもりはなかったのに、周りからはそう見えていた。気づかなかった自分が、ひどく情けなかった。
「すごく恥ずかしかったんです。自分では気づいてなかったから。でも言ってもらえて良かったって、今は思います」
アンリは唇を噛んだ。悔しさと、情けなさが入り混じった表情だった。自分だって、そんなつもりはなかったのに。でも、周りからはそう見えていたのだと今になって突きつけられている。認めたくないけれど、心のどこかで分かっていた。
「ジュードに優しくしたい気持ちは、悪いことじゃないと思います。でも、他のお客様も同じように、お金を払って大事な時間を過ごしに来てくれている」
リーナの声は柔らかかったが、その目はまっすぐアンリを見据えていた。責めるのではなく、ただ伝えようとしている。同じ失敗をした者として、気づいてほしいと願っている。
「お父様が怒ったのも、アンリさんに気づいてほしかったからだと思います。私がいなくても、きっといつか同じことは起きてたから……今気づけて、良かったのかもしれませんね」
アンリは何か言いかけたが、結局言葉が出てこなかった。反論しようにも、リーナの言葉が胸に突き刺さって、何も言えなくなってしまった。
奥からブルーノが現れる。重い足音が、緊張した空気をさらに張り詰めさせた。
「アンリ、お客様に何をしている」
低く抑えた声には、怒りが滲んでいた。昨夜の話し合いを経て、娘の様子を注意深く見ていたのだろう。そして今朝のこの騒ぎを、すべて見ていたに違いなかった。
「父さん、私は!」
「部屋に戻りなさい。後で話がある」
ブルーノの一言で、アンリは黙り込んだ。リーナを一瞥すると、足音を立てて奥へと消えていった。その背中は小さく震えていた。
「申し訳ございませんでした」
ブルーノが深々と頭を下げる。宿屋の主人として、そして父親として、娘の不始末を詫びる姿だった。
「いえ……」
ジュードが応えたが、その顔はどこか複雑だった。アンリの気持ちも分からないではない。だが、このままでは誰のためにもならないことも、また事実だった。
しばらくの沈黙の後、ジュードが口を開いた。
「ブルーノさん」
「はい、なんでしょうか」
「宿を変えさせていただきたい」
ブルーノの顔が一瞬、青ざめた。予想はしていたのだろうが、実際に言葉にされると、その重みが違った。
「やはり、娘の件で……」
「このままじゃ、お嬢さんにとっても、俺たちにとっても良くないと思うんです」
ジュードの声には、迷いがなかった。これ以上ここにいても、アンリの想いは募るばかりだろう。距離を置くことが、彼女のためでもある。
ブルーノは長い沈黙の後、深い息を吐いた。苦渋の決断だったが、受け入れるしかなかった。
「分かりました。確かに、その通りかもしれません」
「ご理解いただけて助かります」
「いえ、騎士団御用達の看板を汚してしまったのは、こちらの責任です」
ブルーノの誠実な対応に、騎士たちは安堵した。せめて、気まずい別れ方にならなくて良かった。
「明日までには整理して宿を出ていきます」
「分かりました」
***
海鳥亭を出た一行は、重い空気をまといながら石畳の道を歩いていた。朝の爽やかな空気とは裏腹に、胸の内にはもやもやとしたものが残っている。
「なんだか、後味が悪いな」
ガレスがぽつりと呟く。
「でも、仕方ないですよ。あのままいたって、問題はきっと解決しなかったと思いますよ」
シリルが眼鏡を直しながら言った。理屈ではそうだと分かっているが、感情がついていかない。
「リーナの対応は良かったと思うわよ。感情的にならずに、ちゃんと伝えるべきことを伝えたんだから」
アデラインがリーナを見た。あの場であれ以上のことは、誰にもできなかっただろう。
「でも、アンリさんにとっては厳しい現実だったかもしれません。好きになった人に冷たくされて、お父さんに怒られて……」
リーナが少し寂しそうに言う。アンリの気持ちを思うと、胸が痛んだ。
「必要なことだ。あのまま甘やかしてたら、もっと大きな問題になってただろう」
ロドリックが断言した。冷たく聞こえるかもしれないが、それが現実だった。
ジュードは黙ったままだったが、やがて口を開く。
「とりあえず、今日はアズールさんの相談に集中しよう。宿のことは今日一日かけて探せばいい」
「そうだね。アズールさんのところに行きましょう」
リーナも気持ちを切り替えるように言った。一行はアズールの家へと足を向け、朝の街へと歩き出した。




