再会の時
アズールの家は、ペスカードの漁師街らしく石造りのしっかりした二階建てだった。一階の居間に通されたリーナは、素朴だが清潔感のある調度品に囲まれ、張り詰めていた心がほぐれるのを感じた。
「急に押しかけちゃって、ごめんなさい」
恐縮するリーナに、アズールは「何言ってるの?」と肩を軽く叩き、からりと笑いかける。その屈託のない笑顔に、リーナは道中のこわばりがほどけていくのを感じた。
「全然いいって! いっつもリーナの話してるんだから。今日だって朝市行く時、『リーナちゃん元気にしてるかな?』って義母さんと話してたくらいだよ」
予想外の歓迎の言葉に、嬉しさが込み上げてくる。
「お二人ともお元気そうで、本当に良かったです」
「うん、まあね!」
アズールは明るく笑い、赤毛の一房を耳に払ってから息をひとつ整えた。
「シモンは今、友達のやってる『潮風庵』って小さな宿屋兼食堂で働いてるの。私が漁に出られない時は、シモンの稼ぎが家計の柱だからさ。ほんと助かってるよ」
少し言葉を切り、アズールは窓の外の青空に視線を向ける。
「本当は私も陸で働いた方がいいんだろうけどさ。やっぱり海に出ないと落ち着かなくてね。漁師の血ってやつ? けど、子ども置いては出られないし」
アズールはそう言って視線を落とし、口元だけをかすかに歪めた。
「結局、義父さんと義母さんに甘えてばかりだよ」
その横顔には、母として、漁師としての葛藤が見てとれる。膝の上で握りしめられた拳が白くきしむのを見て、リーナはその拳に自分の手をそっと重ねた。指先のこわばりをほぐすように、ゆっくりと。
「……きっとマルクさんとアンナさんなら、お孫さんたちのお世話を心から楽しんでいらっしゃると思います」
「もう、めちゃくちゃ可愛がってるよ!」
アズールはそれまでの影が嘘のようにぱっと顔を上げ、声の調子が一気に高くなった。
「義母さんなんて、コスタが生まれた時から『私の天使』って呼んでるんだ。デルマーが生まれたら『天使が二人!』だってさ。市場を歩くたび知り合い捕まえて『うちの天使たち』って自慢してるよ」
リーナはその様子を想像して、思わず笑みがこぼれた。アンナの優しい笑顔と、子どもを慈しむように抱きしめる姿が目に浮かぶようだった。
「もうすぐお昼だし、そろそろ義父さんたちも戻ってくる頃かな。今日は朝市に野菜見に行くって言ってたし」
アズールがそう言い終わらないうちに、玄関の方から賑やかな声が聞こえてきた。
「ただいま、アズール!」
「ママ、ただいまー!」
マルクの力強い声に続いて、子どもたちの弾むような声が響く。
「あら、お客さんがいるの?」
アンナの柔らかな声が近づいてくる。アズールはぱっとリーナに顔を向け、悪戯っぽく声を潜めた。
「よし、びっくりさせちゃおう!」
リーナも笑いをこらえ、立ち上がった。居間の入り口に、マルクとアンナの姿が現れる。アンナは買い物籠を下げ、マルクは小さなデルマーを抱き上げている。三歳のコスタが、二人の後ろからそっと顔を覗かせていた。
二人がリーナに気づいた瞬間、時間が止まったかのように目を丸くした。
「リーナ……ちゃん?」
アンナの声は驚きと嬉しさでかすかに震えている。持っていた買い物籠が、そっと床に置かれた。
「どうしてここにおるんじゃ?」
マルクも、抱き上げたデルマーごと固まっている。リーナは込み上げる喜びをそのままに、弾む声で応えた。
「アンナさん! マルクさん! お久しぶりです!」
「まぁ! 本当にリーナちゃんよ!」
アンナが駆け寄り、リーナの両手をその温かい手でぎゅっと握りしめる。
「元気そうで良かったわ!」
「はい、皆さんのおかげで、元気にやっています!今回は騎士団の皆さんの巡回任務に同行させてもらって、海産物の仕入れと調査に来たんです!」
「ほぉ」 マルクは深く頷き、感心そうに唸った。
「騎士団と一緒とはのう! リーナちゃん、どのくらいおるんじゃ?」
「一週間くらいの予定です。騎士団の皆さんと海鳥亭に泊まっています」
「海鳥亭か! ブルーノのところじゃのう。あそこは騎士団御用達じゃから、ブルーノもさぞ喜んでおるじゃろう」
デルマーがマルクの腕の中で身を乗り出し、リーナに小さな手を伸ばした。
「あら、デルマーったら」
アンナの目元にやわらかな皺が寄り、声色がやわらぐ。リーナがそっと手を差し出すと、デルマーの柔らかな手が彼女の指をぎゅっと掴んだ。
「人懐っこい子ですね」
「そうなんじゃ。この子は誰にでもにこにこしてのう。コスタは最初ちぃと人見知りするが、デルマーは平気なんじゃ」
コスタもリーナの近くに寄ってきて、恥ずかしそうに母の服の裾を引きながら、小さな声で呟いた。
「リーナちゃん?」
「うん、リーナっていうの。よろしくね」
リーナがコスタの頭を撫でると、コスタはぱっと顔を上げ、はにかんだ笑顔を見せた。
「この子たちがいるから、毎日が本当に楽しいよ。にぎやかすぎるくらいだけどね」
アズールが肩をすくめて笑う。
しばらくの間、家族団らんのような温かな時間が流れた。マルクとアンナはアードベルでの暮らしを尋ね、リーナも夏至祭の話などを楽しそうに語る。子どもたちはすっかりリーナに懐き、膝の上や周りを行ったり来たりしている。
「そうそう、リーナ!」
アズールが不意に思い出したように声を上げた。
「せっかくだから、何か作ってよ! ちょっと小さすぎたり傷がついたりして、市場に出せない小魚がいっぱいあるの。捨てるのももったいないし」
アズールは台所の隅に置かれた桶を覗き込み、困ったように眉を下げた。
「それなら、唐揚げにしたら美味しいと思います」
リーナは思わず声を弾ませた。脳裏にはすでに、黄金色に揚がった小魚と、それを喜ぶ子どもたちの笑顔が浮かんでいる。
「小麦粉で衣をつけて揚げれば、カリッとして子どもたちにも食べやすいですよ」
「それって唐揚げ? 義母さんがたまに作ってくれるやつ? 魚でも出来るの?」
アズールが興味深そうに身を乗り出した。
「もちろんです! 揚げたては特に美味しいですよ」
「よし! 魚は桶に入れてあるから持ってくるね」
アズールが運んできた桶の中には、手のひらほどの小魚が、きらきら銀色の鱗を光らせながら泳いでいる。
「新鮮ですね」
リーナは礼を言って袖をまくり上げると、冷たい水に指を入れた。水がひやりと肌を刺し、小魚が驚いたように弾ける。
リーナは包丁の背を使い、小気味よいリズムで鱗を削り落としていく。銀色の細かい鱗が光を反射して飛び散り、ほのかな磯の香りが立つ。その迷いのない手つきを、子どもたちが目をまん丸にして覗き込んでいる。
次に流れるような動きで腹を開き、手早く内臓を取り除いていく。
「苦味が出やすいから、ここはしっかり取らないとね」
子どもたちにも分かるよう声をかけながらも、その動きに一切の無駄はない。
「さすがリーナちゃんじゃのう」
「リーナちゃん、お魚さばくの上手ね」
リーナは魚を水で洗い、きゅっと水を切り、清潔な布巾で丁寧に水気を拭き取った。
「お味噌汁も一緒に作りませんか?」
「ええ! ワカメもあるの! 入れたいわ」
「出汁なら常備しておるぞ!」
マルクが張り切って棚へ向かう。台所がにわかに活気づく。リーナは小魚に小麦粉をまぶしながら、アンナと一緒に味噌汁の準備を始めた。
鍋に注いだ油が、徐々に澄んだ金色になり、かすかに熱を帯びた匂いを放ち始める。リーナは小魚をひとつ、そっと滑り込ませた。
じゅわっ ぱちぱちっ
油の中で小魚が勢いよく踊り出し、弾けるような音を立てる。香ばしく甘い匂いが広がり、台所の空気を満たしていく。
「ああ、いい匂い!」
アンナがうっとりと息をのむ。
「表面がきつね色になったら出来上がりです」
リーナはトングで魚をひっくり返す。小魚の身はきれいな金色に変わり、油を切ると香ばしい香りがふわりと漂った。
「わあ、綺麗!」
コスタが歓声を上げ、小さな手を夢中で叩いた。その目は、皿の上の黄金色の魚に釘付けになっている。
リーナは揚げたての小魚を皿に並べると、小さな指先でぱらりと塩を振りかけた。細かい塩の粒が金色の衣に当たり、かすかにしゃらっと音を立てる。
やがて、カラッと揚がった小魚の唐揚げと、ワカメの味噌汁が並んだ食卓が完成した。
「はい、どうぞ!」
リーナが笑顔で皿を差し出すと、みんなが一斉に席に着く。
「いただきます!」
コスタが揚げたての小魚をハフハフしながら頬張り、瞳を大きく見開いた。
「サクサクでおいしい!」
その歓声を合図に、大人たちも皿に手を伸ばす。
マルクは揚げたての小魚を一つ吟味するように持ち上げ、一口で頬張った。
「これは!?」
驚きに目を見開いたまま二口で平らげると、「……酒のつまみにもなるのう」と満足げに唸った。
「お味噌汁も優しい味。やっぱりリーナちゃんのお味噌汁は違うわね」
アンナは目尻を細めて味噌汁をすする。吐息と一緒に言葉がこぼれた。
食事が一段落した後、アズールの表情がふと真剣なものに変わった。
「ねぇリーナ。実は港でちょっと気になることがあってさ」
アズールは急に声を潜めたが、すぐに「あー」と首を振り、「でも今日は楽しい話だけにしよ。詳しいことはまた明日、騎士団のみんなと一緒に聞いてほしいの」と言い直した。
リーナはアズールの目の奥に、ほんのわずかな不安の色を見たが、今はこのあたたかなひと時を大切にしたかった。
「わかりました。明日、みんなと一緒に来ますね」
「助かるわ! ありがと!」
アズールがホッとしたように笑った。リーナが立ち上がると、コスタが名残惜しそうに裾を掴む。
「また明日も来る? また美味しいもの作ってくれる?」
「もちろん! また明日来るからね」
リーナがコスタの頭を撫でると、コスタは嬉しそうに笑った。
「リーナちゃん、本当に嬉しかったわ」
アンナが玄関まで見送りながら、再びリーナの手を握る。
「私も嬉しかったです。また明日!」
「気をつけて帰るんじゃぞ」
マルクの温かい声に送られ、リーナは石畳の路地を歩き出す。
マルクさんとアンナさんが元気で、幸せそうに暮らしている。可愛い孫たちに囲まれ、笑い声が絶えない毎日を送っている。それだけで、世界が一段明るく見えた。




